第3話
痛い。身体のあちこちが痛い。それが部活の練習のせいか、
それとも誘拐犯から逃げ出そうと、廊下を必死に走ったせいなのか。
私は寝ていた。眠りから目をさました時、今度は『自分は誰?
ここはどこ?』と迷う事はなかった。私は、へんな男に誘拐されて、
ここにいる。でも、目をさますと、前より身体がきつく、痛かった。
「…っ、…何よ、これ?」
気がつくと、身体だけではなく、今度は足までにもきつく縄が
締められていた。さっきみたいに、走って逃げだせないようにするため
だろう。……さっきみたいに?
まって、今は何時? 今日は何日? 今自分が起きている時間と、
誘拐されてから今日で何日になるのか、わからない。この部屋に窓が
ないせいだ。ここは地下室かな?
そう言えば、廊下を走って逃げた時も、窓はひとつもなかった。
ひとつも。
『私は誰? ここはどこ?』と思わなくなったかわりに、
『今何時? 今日は何日?』と思うとは、なんて事か。
寝起きの気分が良くないので、いっそう不機嫌になった。あの男だ。
全部あの男のせいだ! あいつに文句を言ってやる! 誘拐犯のあの男に、
文句を言ってやる! 自分が不安と恐怖に支配されないように強気で
ぶつかるしかない。これまでの私の生き方が、そうであったように。
あたりを見回す。あいつを探す。だが「目標」はどこにもいない。
私一人だ。あの男はいなかった。私は、今の気分を精一杯の力を込めて、
思いっきり口から吐き出した。
「あああーっ、もうー、ふざけんじゃねーよ! ムカツク!
なんだよ、これ? 全然動ごけねーじゃねーかっ!
危害加えないって言ったわりに、危害加えてんじゃん。
まったくもう、どいつここいつも腹が立つーっ!」
大きな声で叫ぶ事は、いいことだ。自分の不愉快な気分と不満を、
一気に口から吹き出せる。ちょっとだけ開放感があふれ、少し気持ちが
落ち着いた。私をこんな目に合わせている、あの男に対しての怒りが
爆発したのは、もちろんの事。それ以外の、いままでいろいろと
たまっていた日々の不満も口から掃き出せたような気がした。
当然の事ながら、そんな感覚にひたっている余裕は、
正直あるわけないのだけれど。
落ち着いて来たので、少し部屋の様子を探ってみる。
どうやらここは、部屋と言うより、倉庫? いや、倉庫と言うより、
地下室のようだ。金属でできたおおきな「箱」が無数に積み
上げられている。何の倉庫かな? 何がはいっているんだろう?
ふと、足元の先に目をやると、自分のカバンが無造作に置かれていた。
あっ! 私のカバンじゃん! しかも、カバンの近くには、
私の携帯が落ちていた。電車の中で使っていた、私の携帯。
タケルと話していた、私の携帯。今は、この部屋や荷物の事なんか
どうでもよい。私の携帯を手に取り外に連絡を、タケルに助けを求めなくては!
縛られている足必死にをのばして、その先の携帯にさわろうとする。
だが、カバンが障害物のようにじゃまになって、うまく取れそうもない。
這いずるように身体を動かして、携帯に近づくようにする。
だが、なぜか身体自体が動かない。なぜ? と思って、
身体に縛られた縄の先を見ると、ドア付近の金属製の箱に縄がグルグルと
結び付けられている。これでは、身体自体が動くわけはない。
私はまるで、犬小屋の犬か?
再び私の怒りは頂点に達した。例によって、口からその怒りを爆発させた。
「…んんーっ! なっんだよ、これ?
とれねーじゃね~か!あああーっ! ムカツク~ッ!」
「何が、ムカツクって?」
突然私の背後で男の声がした。すぐ後ろである。
私は驚いて、思わず大きな声を出しそうになったが、
ごまかすためなるべく押さえた。
「ええっ?! えっ? …なんでもねえよっ!」
携帯を取ろうと伸ばしていた足をもどし、何事もなかったふりをする。
いつ、この部屋にもどってたんだろう? さっきドア方向を見た時、
誰もいなかった。そんなに時間がたってたかのか?
それとも、この男はニンジャかなんかなのか?
「その携帯電話を使おうと思っても、ムダだよ。すでにもう、
僕が壊してあるから。」
私の背後に立つ男が軽く笑っているのが、背中を通して感じられた。
自分がしていた事を見すかされた悔しさと、自分の持ち物を勝手に
壊された怒りが炸裂した。
あの携帯は、タケルと、タケルと話していた大切な携帯電話なのに!
縛られて動かない身体を精一杯動かし、後ろに立つ男の顔をにらんだ。
だが、男は予想もしない表情で私に答えた。
「…すまない。許してくれ。本当は僕は、僕だってこんな事は
したくはないんだ。だが、みんなのため、我々の未来のため、
今は、今は、こうするしかないんだ。…わかってくれ。」
男はすまなさそうな顔で、私のにらむ視線をはずし、頭を下げた。
なにを、何を言ってるんだ? この男? 人を誘拐して、
私をこんな状態にしておいて、何あやまっているんだ?
この男、意外と心底ダサイ奴なのかも知れない。
だとすると、なんで私はこんな奴に誘拐されているの?
私はだんだんバカバカしい気分になってきた。
男は手に持っていた袋を軽く差し出した。コンビニの袋だ。
いや? スーパーの袋かな?
でも、どっちみち私が普段使わないお店の袋だ。
この袋の店は、私の家の近くにはない。
と言う事は、ここは、この変な部屋がある建物は私の家から
相当離れたところなのか?
「…お腹がすいただろう? 食べてくれ。」
私は縛られている。きつく縄で。おまけに足までも縛られている。
どうやって食べろって言うんだ? このおまぬけな男、
そんな事も気がつかないのか?
私は、少し疲れた。私は、ものすごく疲れた。
****
高く抜けるような青空に花火の音が響きわたる。
運動会。私が大好きだった運動会。
私が走るのが好きになったのは、幼稚園の運動会での事。
何も考えず一生懸命走った、徒競走。わずか十~二十メートルの徒競走
だったが、私が一番だった。もう顔も名前もおぼえていない友だちを
どんどん抜いて一番でゴールした。私にとっては長い距離だったが、
それが楽しく思えた。
一等賞になったよ! お父さんも、お母さんもうれしそうに
迎えてくれた。とても楽しい、おべんとう。いつもの幼稚園の庭で
家族そろって食べるおべんとうは、いつもと違い、
とても明るく、温かい気がした。
お母さんの手作りのサンドウイッチを食べる。
たまごのサンドウイッチが一番おいしかった。
お父さんもうれしそうにお母さんの手作りのサンドウイッチを食べていた。
最後に残った、たまごのサンドウイッチ。
お父さんもお母さんも、やさしく私にゆずってくれた。
でも、お母さんの手作りのサンドウイッチを食べたのは、
たぶんそれが最後だと思う。
ある日突然、お父さんが家に帰ってこなくなり、それどころではなくなった。
お父さんが行方不明になって、お母さんが毎日働きに出ていた。
小学校に上がる時、入学式は私一人だった。お母さんは仕事が忙しくて、
入学式にいっしょに参加してくれなかった。
学校の校門のところまでしか、お母さんは来てくれなかった。
お母さんは私一人学校に置いて、仕事に行ってしまった。
担任の先生だったのだろうか? 校門に残された私を、校内に導いてくれた。
ひとりさびしく、見た事もない大きな学校の中を歩く。
背中には、真新しいランドセル。それがとても重く、ずっしりと重く
感じられた。毎日、重いランドセルを背負って学校にいくのはいやだった。
でも、そのランドセルは、お母さんが一生懸命働いて買ってくれた物だ。
そのうち、ランドセルの重さも気にならなくなっていた。
家に帰ると、もちろんお母さんはいない。自分で買ったコンビニのお弁当を
ひとりさみしく食べる。電子レンジもあったけれど、私はあえて冷たいまま食べた。
温かいごはんは、お母さんといっしょに食べる時に食しよう。
そう思ったが、そんな事はあまりなかった。
私がお母さんになったら、私が母になったら、子供には絶対、
毎日温かいごはんを作ってあげよう。
絶対、コンビニのお弁当を買って帰るのはやめよう。
そう誓った。
私はコンビニのお弁当が、コンビニの袋が、嫌いだ。