〈episode46〉彼女がついた嘘 前編
……あれは……いつの話になるだろうか。
曖昧で、不明瞭で、おぼろげな、記憶。
忘れてしまえば、きっと楽になれる、記憶。
忘れることができないから、思い出してしまう、記憶。
……そう、これは記憶。
”思い出”のような優しく輝いているものとは全く異なる”記憶”だ。
どんなに忘れようとしても、どんなに捨て去ろうとしても、
この記憶は、いつまでも私の心に蔓延ったまま。
まるで、『忘れるな』と叫んでいるみたいに。
まるで、『思い出して』とせがんでいるみたいに。
今も手に残る、白銀の剣つるぎが柔らかな皮膚を突き破る感覚は、
私に与えられた罪の1つなのかもしれない。
私は、
いつから、逃げ出すことが得意になった?
いつまで、後悔すればいい?
いつの日か、報いを受けるべきだろう?
いつもいつも、何度も何度も、
自分に言い聞かせては自分の”記憶”を掻き消そうとした。
無かったことにできれば、いいのに。
何も起きなかった世界に、変わればいいのに。
世界が変わらないから、私が変わろうとしたのに。
変わるために、嘘をついただけなのに。
あの子を守るための、
嘘をついただけだったのに。
ただ、家族3人で、陽の光を浴びながら、手を繋ぎたかった。
たった、それだけの願いさえ、
”かみさま”は、叶えてくれなかった。
何度謝ればいいのですか?
何度泣けばいいのですか?
何度血を流せばいいのですか?
私の声は、誰にも届かない。
届かなかったから、声をあげることさえも諦めた。
……あれは……いつの話になるだろうか。
*** ***
――[溶けていく心]――
刃のように切り立った岩肌を吹雪が強く叩く。
時折、蝋燭の炎は揺れて、凍てついた空気が力む私の頬を撫でると、
少しばかり涼しげに感じた。極寒の地でありながら、私は滝のように汗を流し、
激痛に耐えながらその瞬間が来るのを待っていた。
夫は優しく手を握っているが、私の握り返す力は彼の手の平を砕いてしまうのではないかと思うほどだったが、それでも彼は手を離さず、私に向けて声援を送ってくれていた。
しかし、お腹の子は居心地がいいのか、中々生まれてきてくれない。
今朝から始まった”痛み”は昼夜私を苦しめる。
何度か意識が飛んでいる間だけが休息の時間で、
意識が戻ると同時に声をあげないではいられないほどの痛みに襲われた。
私の息づかいと荒げた声に混じって、誰かの声が聞こえる。
このままだと、どちらも危ない。そんな言葉。
正直、私はこの子の為なら命が惜しいとは思わなかった。
この子がこの世に生を受けてくれれば、それでいい。
自分の命に代えてでも、この子を守りたい。どちらかの命を選べと決断を迫られるのなら……私は迷わずこの子の命を選ぶ――。
*** ***
元々、生きていくことに対して、執着なんてない。
自分が何のために生まれて、生きていくのかが分からなかった。
単に生きてもいい理由を探して、生きていただけかもしれない。
とにかく毎日、”死”を考えた。
きっかけは両親の”死”だった。
私の18歳の誕生日のお祝いでは仲睦まじく笑い合っていた両親はその次の日、
私を家の外に追い出した後、狂った叫び声をあげて殺しあった。
理由は分からない。
本当に前日まで愛し合っていたはずの2人だった。
私はずっと家の扉を叩き、やめてと泣き叫んだ。
2人の声は私の声など簡単に掻き消すくらいに大きかったが、
突然、声はしなくなった。
風が止んだみたいに。
声が聞こえなくなってから私はさらに大きな声を出し、強く扉を叩き、両親の名前を呼んだが、返ってくる返事はなく、代わりに足元を生温かい液体が触れた。
赤黒い血が扉の隙間から流れてきて、全てを悟った。
結局扉は開けられることなく、私はその場から逃げ出した。
その日から、私の中で何かが弾け飛んでしまった。
心の整理もつかないまま、雪が降り積もる世界を歩き続けた。
裸足が雪を踏みしめても、あの血液の生温かさは両足に残り、思い出すたびに足を痛めつけた。自分の血が流れ出ている時間だけ、どうしてか満たされた気分になった。きっと錯覚を起こしていたんだと思う。あの血は自分の血だ。両親は生きているんだ。と。帰ったらまた笑い合える日々に戻れるんだ。と。
血が止まり、痛みが引くと、一気に現実が私を襲い、声を枯らした。
生きていても仕方がないと自害を試みたこともあった。だが、私は死ねなかった。致命傷を体に与えても、成長と共に強くなった魔力が傷を塞いだ。
生きているのか、生かされているのか。考えるだけ無駄だと察して私は歩きだした。行くあてもなく、ただただ歩き続けた。歩きながらずっと”死”を見つめた。
生きることを考えるのは、苦痛を感じたけれど、”死”を考えると心は軽くなって歩みも進んだ。そうだ、自分は”死”に向かって歩いているんだ。
いつしか雪の世界を超えて、緑生い茂る山道に入ると、眼の前から3人の男が歩いてきた。私は気にすることなく通り過ぎたが、男の1人がすれ違いざまに私の腕を掴み、そのままのしかかってきた。
自分でも、なぜ一瞬、抵抗したのか、今でも不思議に思う。
死のう、死にたい、そんな風に考えていたのに、男にのしかかられた瞬間に、
私は――
”たすけて”
そう願ってしまっていた。
それは多分、心の底からの叫びだった。
生きていたって仕方がないのに、私はそのときだけは、”死”を恐れた。
そしたら……、願いが叶ってしまった。
私の上にのしかかっていた男の首が飛び、一緒にいた2人の体が真っ二つになった。
また、たくさんの血をみたけれど、私はその血で汚れなかった。
――もう、大丈夫だよ。
優しい声とともに、私を思い切り抱きしめて、血飛沫を浴びてくれた者がいたから。
冷たかった私の全てが本当の”温かさ”に包まれて、
息ができなくなるくらい泣き叫んだ。
彼はトレバートと名乗り、私を大きな城のある国まで連れて行ってくれた。
そこは〈クリア・セントラル〉。
この世界の中心であり、世界の均衡を保つための実力を持った魔導師が住む国だ。
*** ***
私はトレバートに抱きかかえられたまま城内に入る。
城内には、私が今まで感じてきた”寒さ”とは違う寒さを感じた。表面的な寒さや、心境を切迫するような寒さではなく、少しでも気を緩めた途端に氷漬けにされてしまいそうな……、寒気というより怖気に近い雰囲気があった。
トレバートは私を自室に運び、ベッドに寝かせると額にキスをして部屋から出て行く。私は額を手で触れたあと、体の力が抜けて意識が遠のいた。
次に目を覚ました頃には、部屋は闇を招きいれ、瞼を開けても閉じても景色が変わらず戸惑ったものの、暗闇に眼が慣れてくるとあちこち痛む体をゆっくり起こした。
私の挙動と同じタイミングで扉が開く音が聞こえて、ぼんやりとした火の灯りが近づいてくる。灯りのそばにうっすら、顔が浮かびそれがトレバートだと気づいて私は一息ついた。そして、限りなくベッドの隅に身を寄せ、体全体を毛布で包む。
寒くもないのに体はがたがたと震えだし、歯軋りしてしまう。
自分でも何に怖がっているのか分からず、近づいてくる灯りの一点だけを見つめた。
そんな私の様子にトレバートは微笑んだように見えた。
灯りの正体はどうやら蝋燭らしく、蝋燭を机の上に置いてから、ベッドに腰掛けてきた。トレバートは首だけ私の方に向けて、しばらく無言のまま見つめた。
私は眼を合わせず、視線を下にやる。
お互いの呼吸の音が誇張されて聞こえる。
心臓の音さえ、相手に伝わっていそうで私は自分を抱く両手に力を込めた。
ふっと蝋燭の火が揺れたとき、トレバートが口を開いた。
ここは安全だから、怖がる必要はない。
彼はそれだけを言うとまた部屋を出て行った。
彼がいなくなってからも私の震えは止まらない。
火の灯りが届かない部屋の隅の闇に両親の顔が浮かぶのが見えたかと思うと、
表情はぐにゃりと歪んで私を襲ってきた男達に変化した。
あまりにも醜悪すぎる笑みに、呼吸は荒くなり、息の吸い方が分からなくなってベッドに倒れこむ。
震えていた体は痺れだし、爪の先まで動かない。
痺れは痛みに変わり始め、口の中に鉄の味が広がり、
唾液はだらだらと口から溢れ落ちる。
やがて、肺に残っていた酸素を全て吐ききると、眼球そのものが飛び出しそうなくらい全身に圧がかかり、熱くなる。寒気を感じながら、大量の汗が噴き出し始め、体の内側が灼けるように熱くなって、お腹を掻き毟る。熱を追い出したくなり、爪を立てて腹を裂こうとした。
部屋は寒いのに、体の中が熱い。
熱すぎてどうにかなってしまいそうだった。
ついに行き場を失った苦しみが声帯を震わせて、自分のものとは思えない憐れな声が出ると、蝋燭の火が爆散し、部屋中に燃え広がる。
包くるまっていた毛布はあっという間に燃え盛り、私の衣服も焼けていく。
出火に気づいたのか、トレバートが駆けつけ、指をパチンと鳴らした。
その瞬間、炎は跡形もなく消え去り、
部屋は何事もなかったように静けさを取り戻した。
私は裸のまま、微かに動くこともできずに、また意識が暗闇を求めて落ちていった。
*** ***
次の日。
眼を覚ますと、ぼやけた視界にトレバートが映り、徐々に鮮明になる。
彼が私を見つめる眼は、出会った瞬間の狂気を伺わせない、どこまでも優しい眼をしていた。彼は静かに私の頭を撫でながら語りかける。
おはよう。朝だよ。
そんな何気ない挨拶がとても懐かしく思えた。
私は答えず、トレバートもそれ以上は何も言わず、右手では私の右手を握り、
左手は頭を撫で続けていた。
私に芽生えた変化といえば、体が震えなくなっていたことだろうか。
心地いいとさえ、感じてしまっていた。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。
トレバートは部屋を訪れ、同じように私の手を握り、頭を撫でた。
彼の変化のない行動は、私の心を少しずつ変化させていく。
別にこんな優しさが欲しかったわけではないのに。
別にこんな時間を求めていたわけじゃないのに。
私はなぜか、彼がそばにいることに対して安心していたんだと思う。
両親の顔も3人組の顔も頭を撫でられていると白い靄がかかったみたいに不確かになり、嫌な思い出が泡となってはじける。
記憶の泡がはじけるたびに、凍っていた心が温かくなって、溶けていく。
ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて。
2年をかけて氷が溶けきった心は、ようやく言葉を紡ぐに至った。
……おはよう……、トレバート。って。
*** ***
――[産声]――
また、私は意識を失っていたらしく過去の記憶を見ていたようだ。
当然、意識が戻るとともに激痛も戻ってくる。
部屋には蝋燭の火が灯り、隙間風に揺らめき、夫の影も揺れる。
今しがた見た記憶のように、お腹の中が灼けているみたいに熱い。
何度かお腹を掻き毟ろうとして夫に止められた。
精神的にも体力的にも限界が近い。
もし、今の私に選択する権利が与えられているなら、この子を選んで欲しい。
私は途切れ途切れの言葉で夫に伝える。
私の精一杯に夫は首を横に振って応えた。
そして、出会った頃のように優しい眼をしながら頭を撫でてくれた。
何も言わず、ほんの少しだけ眼を赤くして。
その表情は今まで1度も私にみせたことのない表情で、
一番優しい表情で、一番悲しみを抱えた表情で……。
出会ったあの日から今日まで、私たちは幾度と無く笑い合い、励まし合い、支え合い、求め合い、愛し合い、生きてきた。
今になって考えるのは、
これもきっと運命の巡り会わせだっただったのかもしれないということ。
”死”を求めて彷徨い、道を見失い、絶望に落ちる瞬間に私は……たぶん、あなたが来てくれるのを無意識に願ったんだと思う。
死んでもいい、
死にたい、
殺して。
そう思いながら歩き続けていたはずなのに。
私の願いは通じて、あなたは現れた。
あなたは私に、ちゃんとした”歩き方”を教えてくれた。
私に”笑い方”を教えてくれた。
私に”泣き方”を教えてくれた。
私に”生き方”を教えてくれた。
だから、たくさん、生きれた。
でも、この子はまだ生きることを知らない。
その意味も、意義も、生まれなければ知ることすらできない。
この子は頑張って生きようとしている。生まれようとしている。
それは、心が溶けて、温かな世界を見つけた頃の私と同じではないか?
この子は今からその世界を知り、歩き方を覚えて、
大きく息を吸って生きていくべきなんだ。
私が見つけた”幸せ”を、この子にも見つけて欲しいんだ。
たとえ……、
この手で抱けなくても。
この眼で成長を見届けられなくても。
この声で名前を呼んでやれなくても。
この足で一緒に歩けなくても。
この子が無事に生まれてきてくれれば、私は絶対に後悔しないと言い切れる。
次第に眼の前が霞んでいくと、夫の握る力が強くなったのを感じた。
もう私は力を入れていない。
いつまでも温かい夫の手の平は、いつになく震えていて、いつも以上に優しかった。
突然、私の鼓動がどくんと跳ねたのをきっかけに、激痛はひいていく。
心は安らぎ、視界は完全に真っ白になったけれど、
私の耳には確かに、
げんきいっぱいの、かわいらしい産声が聞こえた。
*** ***
――[いちばんぼしのなまえ]――
4つあると言われている季節のうち、
冬だけが居座る北の国にも、太陽は微笑む。
風が止み、雲が消え、真っ青な空が世界を見下ろした日――。
私は長い眠りから眼を覚ました。
多くの仲間達に見守られる中で、私は我が子を抱いた。
かつて、私を抱っこしてくれた父と母を思い出し、溢れた涙が娘の頬を濡らす。
生まれたばかりの小さな小さな命は、たくさんの笑顔に囲まれて、
嬉しそうに笑った。
――遠い日。
――――暖かな陽だまり。
――――――私たち家族を包む光は優しかった。
「なあ、オリオン。この子の名前は何にしようか?」
「そうね、女の子らしい名前がいいわね。この子が輝ける名前」
「それなら・・・、リゲルというのはどうだろうか」
「リゲル・・・?女の子らしくは無いけど、どうして?」
「リゲルはね、オリオン座という星座の一等星なんだ。とてもとても輝く星。君の名はオリオン。その君から産まれたリゲル。きっとこの子は僕らの一番星になってくれる」
彼のごつごつとした大きな手のひらが赤ん坊の赤い頬に触れる。
「一番星・・・。リゲル、リゲルちゃん。ママですよ」
赤ん坊は笑った。きゃっきゃっと、笑った。
その笑顔に夫婦は微笑みあった。
この幸せな時間がこれからも、いつまでもつづきますように・・・。
私は、そんなありふれた幸せを”かみさま”に願った。
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