〈episode43〉だから彼女は立ち上がる
*** ***
「……うぅ…ん…」
静かだった部屋の中に、目覚まし時計のアラームが鳴っていて目も開けないまま、手探りでスイッチを押した。勢い余って、目覚まし時計を床に落としてしまう。
すごく…瞼が重たい。物凄く眠たい……。
昨日も遅くまで本を読んでいて、朝起きるのも一苦労だ。
できればこのまま二度寝に入りたい。とても気持ちがいいんだろうなぁ。
でも、そうもしていられない。朝御飯の準備をしなくちゃ。
なんとか目を開けてみる。見事に景色はぼやけていた。
元々、目が悪かったわけではなくて、幼い頃は何一つ曇りのない景色を裸眼で見ていた。あの頃見たひとつひとつの景色は今でもはっきりと思い出せる。
それがどうしてこうなったかというと、一冊の本との出会いがあったから。
お父さんがたまたま連れて行ってくれた小さな本屋さん。
気さくなおじいさんとほんわかな笑顔を浮かべるおばあさんが切り盛りしている
『晴れの日書店』でわたしは〈小さな勇者〉という本に一目惚れをして、買ってもらった。
お父さん曰く、わたしが物をねだった事は初めてだったから嬉しさのあまりお店にあった3冊を買い占めた。
ちなみに3冊とも内容は同じ。その日の夜は両親に止められるまで物語の世界に入り込み、どきどきやわくわくを手放したくなかった為、本を抱きしめて眠った。
わたしは〈小さな勇者〉を皮切りにたくさんの本を読んだ。
出かけるときもいつも本を持ち歩き、ご近所さんからは
「なるみや まるじろうちゃん」なんて渾名が付けられたこともある。
嫌ではなかったけれどちょっとだけ恥ずかしかった…。
毎日、お家でも幼稚園でも近所の公園でも、夕方、暗くなるまで本を読んでしまい、徐々に文字がぼやけるようになっていって、いつの間にか街灯や車のランプ、お家の電灯などあらゆる光源が花火状態に。
そして眼鏡とは切っても切れない縁が生まれ、今日に至るまで長い付き合いになった。今では眼鏡がないとまともに歩くことも難しい。
そろそろ諦めて起きようかな。
眠気眼ねむけまなこをこすると、なぜか濡れていた。
欠伸の涙?怖い夢とか見ていないと思うけど……。
なんだか胸の奥に何かがつっかえている気がする。なんだろう?
今日の朝は、体中に気だるさがあり、なかなか起きる事ができなかった。
*** ***
台所に向かうとすでにお母さんが忙しそうにお弁当の準備をしていた。
わたしが朝の準備を手伝う前はお母さんが1人で朝御飯とお弁当の用意をしてくれて
朝ものんびり起きることもしばしば。
だけども、ある日お母さんが体調を崩して一週間ほど寝込んだ時期があった。
その期間はわたしが朝の用意を任されて、慣れない早起きに悪戦苦闘しつつ、一週間を乗り切った。
そのときに感じたのが『お母さんは1週間どころか、殆ど毎日この作業をこなしている』ということ。弟達もまだ小さくて手がかかる。
お父さんも働きづめで家事のお手伝いまで手が回らないのは仕方ない。
たった1週間で根を上げてしまいそうだったわたし的に過酷な作業をお母さんは体調を崩すまで毎日欠かさず行っていたのだ。それならば……。
中学2年生の頃か。わたしの目覚まし時計の一番短い針は、1時間30分早く設定することになる。
「おはようございます」
「おはよう、磨瑠。今日はすごく眠そう」
お母さんはキャベツを千切りにしながら言った。
そう?2階にある自分の部屋から台所まで降りてくる間で随分と眠気は覚めたはず。
「まずは歯磨きして顔を洗ってらっしゃい」
手際よく千切りが終わるのを見届けてから、わたしは洗面所に向かう。
途中で、寝室の様子が気になり、襖をちょっとだけ開けて中の様子を見てみる。
一番窓に近いところにお父さんが寝ていて、隣から順番に幸太、福之、笑美、莉笑と並んで川の字スタイルで寝ている。
幸太の掛け布団が福之に奪われて幸太はお父さんにしがみついている。
笑美と莉笑はお互いに向かい合って一枚の掛け布団をかぶり、小さな寝息を立てていた。長男である幸太とわたしで年齢が8つも離れている。
また、幼い記憶が蘇ってきた。生まれてから8年間、一人っ子で育てられたわたしには小学校の同級生たちが弟や妹の話をしているのが、読書中の片耳に聞こえてきて、なぜか羨ましく思い、子供ながらに、そして無邪気に、晩御飯中に、両親に言った。
『おとうさん!まる、こんどね、ほんじゃなくて、おとうとといもうと、ほしいな』
多分、本をうっかりねだったときにお父さんが嬉々としていたことに味を占めていたんだろう。
今考えてみると当時、両親の顔が風邪でも引いちゃった?と心配してしまうくらい赤くなったのが理解できる。現に、今のわたしの顔も熱い……。
翌年に生まれたのが、幸太。両親は『弟』と同時に『妹』を欲しがった無垢で何も知らない(当時)わたしの願いを叶えたい両親は、翌年に『弟』の福之を家族に迎えた。
わたしはそれだけでもとても喜んだ。
友達が皆無だったわたしにとって弟達の存在は親友と呼べるものに近くて、いつもいつも本の読み聞かせをしたり、率先してオムツを替えてあげたり、哺乳瓶でミルクを飲ませてあげたり、帰宅後は家から出ることも少なくなった。
弟達といる時間がとにかく楽しくて大好きだったのだ。
しかし、『妹』も欲しい気持ちは相変わらずだった。小学校中学年になり、下級生がいたから。遠足や運動会など学校行事で手を繋いだりすることも多く、その度にわたしはお姉さんぶるのを快感に感じていたらしい。要は小さい子が好きなんだ。
『ねえねえ、おねえちゃん、なまえはなんてゆうのー?』
『わたしは、なるみ、まるっていう名前だよ?』
『なるみまる?つ…つよそうっ!』
名前をいじられても、ほんわかな気持ちになって許せてしまう。
そんな魅力が下級生にはあって、自分にも血の繋がった妹がいたらもう毎日が幸せだ。思いと期待は膨らむ一方で、福之が生まれた2年後にわたしの4年越しの願いは成就する。
生まれてきたのは街に待った女の子。『妹』。まさかの双子!
病院の待合室で本を読みながら出産が終わるのを待ち、お医者さんとお父さんから『双子の女の子だよ』と聞いた瞬間に、思わず本を落としてしまうほど喜んだのを憶えている。
お母さんは喜びに打ち震えるわたしの姿をみて、2人の妹に笑美、莉笑と名づけた。人を笑顔にする女の子に育って欲しいという願いを込めて。
今朝はなんだか、昔の事を思い出す。それも、幸せな記憶ばかり。
愛に囲まれて生きてきた日々のことを鮮明に思い出している。
でも、過去を思い出すのは珍しいことじゃないから、わたしは襖を閉めて、
改めて洗面所に向かった。
歯を磨いて、口をゆすぎ、眼鏡を外して顔を洗う。
蛇口をひねれば当たり前に出てくる冷たい水道水を両手で作った受け皿に溜めて、
顔を濡らす。
3回顔を洗って、顔を拭き、視線を上げて鏡を見た。
〈磨瑠〉
「…ッ!」
わたしは一歩引く。眼鏡無しの視界はぼやけているはずなのに、この一瞬だけは見える全ての物体がクリアに見えた。
鏡にはわたしではないわたしが映ったような気がした。
その姿は瞬きによって消失し、視界はいつもどおりにぼやけてしまった。
「…ゆ、ゆうれ――」
そこまで言いかけて、止めた。あの手の存在は口にするのも恐ろしい……。
早くなりすぎた鼓動を深呼吸で鎮めて、眼鏡をかけた。
鏡には見慣れた私の顔が映った。
わたしの名前を呼んでいたわたしは、なんだったんだろう。
*** ***
お母さんと一緒に朝食とお弁当の支度をして、わたしはお父さんだけを起こし、
2人で朝食を食べる。もう1度、歯磨きをしてから一足先にお家を出た。
藤咲市のバスは1本乗り遅れるだけで、車内密度が大きく変わる。
わたしはその事実に気づいてから、早起きの利点も活かし、通勤ラッシュのピークを避けられる時刻のバスに乗る。
必然的に学校に着くのも早くなるけど、わたしにはやるべきことが待っている。
高校に入学してから入った風紀委員会の仕事だ。
1年生のクラスは全部で5つあり、各クラス1名が風紀委員になる。
他にも生徒会組織は色々存在する。
美化部や体育促進部、文化祭実行委員会などなど。
入りたい生徒会傘下組織に挙手をして定員割れが起きない限り入閣できる。
殆ど定員割れなんて起きないけど。
我が校の風紀委員会は生徒会組織の傘下にあるにも拘らず、どういうわけか生徒会と対極にある。これは、歴代の生徒会長と風紀委員会会長がそれぞれ、生徒会長は男子、風紀委員会会長は女子という一種の伝統が受け継がれてきたかららしい。
近頃は女子生徒も生徒会長をやらせるべきだという声もあると耳にするけど、
当の本人達は、
『うちはうち、よそはよそ、生徒会なんて目じゃないし』
『風紀委員会が我々の傘下から抜けられることなどない!わはは』
と、むしろ盛り上がる始末だ。
クラスでの役員決めの際、特にどこかに入るか決めてなかったわたしは誰にも挙手されなかった風紀委員会に割り当てという形で所属することになる。
……美化部の定員割れジャンケンに負けたから。
初めて訪れる風紀委員会の部屋には、長机が長方四辺形で並べられていて一番奥に、会長職のみが座ることを許されている書斎があった。
黒皮張りのリクライニングチェアは見た目で高い物だと分かる。
新規委員は5人、いわずもがな全員女の子。
わたしたちは、1人1人自己紹介をした後、会長の米倉先輩から『よろしくね』と微笑を添えながら言ってもらった。
風紀委員の活動内容や活動意義を熱く語る先輩は、女の子なのに『かっこよく』見えた。副委員長の吉秀先輩との息もぴったりで、話を聞くうちに風紀委員会頑張ってみよう!という気持ちになるから不思議だ。
単に、この機会に根暗な自分を変えてみたい意志が働いたからかもしれない。
どちらにしても、風紀委員会に入ってよかったって今は思う。
*** ***
バスを降りて、校門をくぐる。
自分のクラスに辿り着き、教科書を机の引き出しに入れて時間まで読書する。
一年生の教室棟には誰もいないような気がしてとても静か。
朝の挨拶運動開始時刻までは15分程ある。
わたしは一日の時間の中でこの15分がたまらなく好きだ。
普段、生徒で賑わって静寂に包まれることはまずありえない教室で1人きりになる事の特別感が味わえる。
まるで世界にはわたししかいないみたいな、空想と現実が曖昧になる瞬間だ。
このたった15分がわたしを物語の世界に連れて行ってくれる。
本当ならどこまでも連れて行って欲しいと願うけど、楽しい時間ほどあっという間に過ぎていく。
30ページ読み進めて、吹奏楽部の早朝練習が始まる音が聞こえた。
それがわたしにとっての合図だった。
挨拶当番は好きな活動の1つ。
会話は苦手でも、挨拶はすんなり言えるし、返してもらえるのも嬉しい。
朝の生徒の表情も人それぞれで、こういう言い方は良くないけど面白い。
欠伸をしながらまだ眠たそうにしている生徒。
早朝練習に遅れたのか、すごく慌てている生徒。
友達と一緒に会話を弾ませて登校する生徒。
恋人同士なのか、男女で仲睦まじく登校する生徒。
さっきまで世界には自分ひとりきりだ!なんて思っていたのに、この時間になると世界はたくさんの人に溢れてるんだなぁって思い知る。当たり前なのに。
予鈴の時間が迫り、校門前を歩いてくる生徒もまばらになる。
そして、最後の生徒に挨拶を終えて米倉会長の合図で校門を閉めた。
校舎に向かってグラウンドを歩いているとき、ふいにわたしの足が地面に引きつけられているみたいに止まり、糸で引っ張られたみたいに校門の方へ振り返った。
「……あれ?」
誰かが足りない気がした。
まだ来ていない人がいる。そんな感じ。
寝坊して遅刻していたり、体調を崩して学校を休んでいる人も中にはいるだろう。
でもその人たちに対する”不足感”じゃない。
かといって、誰がいないのか尋ねられればわたしは「わかりません」って答える
と思う。
立ち止まったままのわたしを見かねた吉秀先輩が声を掛けてくれるまでわたしはずっと、足りない”誰か”を探していた。
*** ***
昼休み。
今朝作ったお弁当を広げて、よく噛んで食べる。
最近少しお腹周りにお肉がついてきて体重計に乗るのが怖い。
あまり運動はしないほうだから、ダイエットは食事を減らすタイプになる。
お弁当の中身も自分で決めて、栄養バランスも考えつつ量も減らした。
しかし、悲しいことにただ食べるだけじゃ満腹感が得られない……。
すぐにお腹が減ってしまって晩御飯まで我慢できずに……ってことにならない為に
考えついたのがモグモグダイエットだ。
ちなみに名前は、夕食の時にわたしがモグモグ噛む回数を増やして食べていたのを隣で見ていた笑美が言い放った、
『おねねが、もぐもぐせいじんになったぁ』に由来する。
多く噛むことで満腹中枢を刺激するのがモグモグダイエットの目的。
これを行うことで多少、満腹感を得られる。
慣れれば少ないご飯の量でも充分になる。早く体重計に乗れるようになりたい……。
たっぷり時間を掛けてお弁当を食べ終わり、わたしはいつもの場所に向かう為、
本を入れた鞄を持って、教室を後にした。
いつもの場所とは、学園前のバス停。
わたしは昼休みの残り時間をここで過ごす。そして本を読む。
この時間、学園前のバス停は快速区間になり待っていてもバスは止まらない。
人気も少なく、天気がいい日は風が心地いい。
朝の15分に次いで好きな時間と空間だ。
朝は結構いいところで時間が来てしまっていたから続きを読むのが楽しみだった。
待ちきれず校門を出た辺りで本を開いていた。
歩き読みはマナー違反だけど、わたしは物語に没頭しすぎて気がついたら、
無事にバス停のベンチに座れている。
いつ着席したか分からないくらい集中していたと思う。
誰かにぶつかるなんて事はなかった。
梅雨が明けて、これから本格的な夏が始まる今日は、6月30日。
木の葉の間からこぼれる木漏れ日が優しい風に揺らされ、コンクリートの地面には光がちらつく。キリのいい場面まで読むと、んーっと背伸びをして深く息を吸い込んだ。梅雨の季節が去年に比べて長く続いた影響でこの場所には久しぶりに訪れる。
そろそろ午後の授業が始まるなぁ。本の続きは帰りに読むとするか。
ベンチから腰を上げて、また背伸び。隣に置いた鞄を持ち上げた。
「あっ!!」
ちょっと大きな声を出してしまった。周りを見て誰にも聞かれていないのを確認し、前止めが開きっ放しだった鞄から外に飛び出した本を手に取る。
……あれ?もう一冊なんて入れてたかな?
わたしは本についた埃を払って、タイトルを見る。
〈小さな勇者〉は、わたしの大切な本。
家には読書用、観賞用、保存用、保存用の保存用、布教用がある。
お父さんから買ってもらった3冊に加えて2冊は自分のお小遣いで購入した。
なので鳴海家には〈小さな勇者〉が5冊ある。
鞄の中に入っていたのはどうやらお布施用で、今朝忍ばせた記憶はない。
第一、〈小さな勇者〉は結構重量があるし分厚い。
鞄に入れる場合は、読みたいと言ってくれた人に事前に話があった時だけ。
読み途中の本も手元にあるし、なぜ〈小さな勇者〉が鞄に入っていたのか。
さっきまで優しく吹いていた風がわたしを取り残していくように強く、
木の葉を揺らした。
*** ***
〈………………磨瑠〉
*** ***
「…うぅん……」
誰かに呼ばれた気がして、わたしは目を覚ます。
今日はアラームよりも早く起きてしまったみたい。
ベッドから体を起こして、カーテンを開ける。外はまだ薄暗い。
小鳥達は身を寄せ合って電線に止まり、新聞配達員さんは通い慣れた街の道を颯爽と駆け回る。
窓を開けて、夏の生暖かな空気を吸いこむ。
すると、どうしてか、胸がずきずき痛んだ。
痛みは、じわじわ締め付けるような苦しみに変わっていく。
なんなの、これ……。
呼吸は浅く、犬みたいな呼吸を繰り返す内に痛み、苦しみは引いていった。
苦しさのせいか、わたしの頬には涙が伝っていて慌てて、手で拭き取る。
ここ最近、文化祭の準備に追われて疲れ果て、夢すらも見ないくらいぐっすり眠っているのに、目覚めると悲しい気持ちが押し寄せる。何が悲しいのか、何が痛みの原因なのか、思い当たる節がないから一日の始まりは憂鬱。
でも、このまま学校に行っちゃだめだ。
今日は文化祭。高校に入って初めての文化祭!
楽しむぞ!
*** ***
わたしは風紀委員として文化祭を見回る係を与えられ、同じ1年生の苗木さんと一緒になる。基本的に1年生の出展は無く、2、3年生からは
『1年生はいっぱい楽しんでお祭りを盛り上げてね!』と言われた。
当日はお客さんも多くて、噂どおりの大盛況。
わたしと苗木さんが見回った区域もトラブルが無くて安心した。
正直、トラブルが起きたときの対応には不安があったから。
苗木さんは、何やらわたしに沢山渾名をつける。
なるみんとか、なるみにうむとかなんとか……。とてもマイペースな人だ。
でも肝が据わっていて羽目を外してはしゃぐ生徒にはビシバシ注意を促す。
わたしが憧れる『かっこいい』タイプの女性で、わたしも頼りきりになる。
2人で休憩ついでに茶道部主催の喫茶店に入り、携帯の着信音が鳴る。
吉秀先輩からの着信だった。
米山先輩からの引継ぎで風紀委員長になった吉秀結美先輩は、ここだけの話、
怒ると怖いけど、悩みの相談や仕事のやり方を丁寧に教えてくれる優しくてこれまた『かっこいい』先輩。
米山先輩が委員長に推薦するくらいの信頼を置かれているなんてすごいなぁ。
いつか、わたしも吉秀先輩や苗木さんみたいな女の子……女性になれるかなぁ。
『ちょっと鳴海さん、聞いてる?』
受話器から吉秀先輩の声が飛んできて慌てて、答える。
「ふえっ!あっ、はいっ!聞いてますです!」
「でた、ちゃんまるの不思議丁寧語!」
真向かいの席に座る苗木さんがわたしの言葉に指摘を入れた。
口癖だから大目に見て欲しいです。
『午後からは自由行動していいから。午前はお疲れ様、ありがと』
「いえ、とんでもないです!先輩は午後も風紀委員のお仕事ですか?」
『そうなのよ~。でも、ヨネ先輩から受け継いだ仕事だからね。頑張るわ。あっそうだ。午後、特に行くとこ決めてないなら体育館で演劇部のお芝居みるといいわよ。毎年すっごいから!』
電話越しから吉秀先輩の興奮が伝わってくる。
そんなにすごいんだ、うちの演劇部……。
先輩が言うように午後の予定は決めていなかったので、演劇を観に行くことにしよう。緊張するけど苗木さんも誘ってみる。
ぱくぱくお団子を食べている苗木さんに午後からの予定があるかどうかを聞いてみた。
誰かを何かに誘うのはかなり久しぶりの行為な気もするし、前回同じことをした記憶はあまり定かじゃない。
とにかく、苗木さんがおかわりのお茶を注文する程度には時間がかかった。
「あ~、午後の予定は決めてないんだよね。てきとーにぶらつこっかな~って思ってた感じ」
なぜか苗木さんは、わたしのお父さんが爪楊枝でするように、団子が刺さっていた串で歯の間をほじくる。な、なんてワイルドなんだ……っ。
「そ、それなら、わたしと体育館行かないですか?」
「体育館?午後からの体育館は……、あ!演劇部!?」
苗木さんの反応から察するにやっぱりうちの高校の演劇部のお芝居はかなり有名のようだ。ほじくるのをやめて、お茶を飲み干し、目はきらきらに輝き始める。
「吉秀先輩が観に行きなよって言ってたです。大絶賛してたです」
「あの人、小学3年のときに藤咲学園演劇部のお芝居みて以来、毎年見に来てるらしいよ」
「そうなんですか!?」
「好きが転じて、藤咲に入学もしてるしね」
小学3年生の女の子さえも虜にする演劇……。期待が膨らんでいく。
テレビドラマや映画は見ることはあっても、演劇は見る機会がない。苗木さんの話によれば、わざわざ演劇だけを観に遠くから訪れるお客さんも多いとか。
「まるっちも初めてみるんでしょ?」
「は、はい。お話を聞いていると、楽しみで仕方ないです!」
「まるっち、本好きだからお芝居の内容とかにうるさそ~」
「う、うるさくないですよっ!そんな偉そうに言える立場じゃないですっ!」
他愛の無い会話が弾む。いつの間にか、演劇という話題を通して苗木さんと普通に会話をしていた。
最初の緊張もなくなって自然と笑うことができて、それはなんだか、
友達、みたいだった。
わたしと苗木さんは、友達になったのかな。
だとしたら、すごく、嬉しいのに。
苗木さんは見た目も可愛いし、性格も明るいし、スタイルもいいし、ちょっとだけお話の仕方とか仕草がおじさんみたいなとこあるけど、全部ひっくるめて素敵な女の子だと思う。
まず間違いなくわたしにないものを苗木さんは持っている。
果たして、わたしみたいなのが苗木さんのような女の子の隣を歩いていいのか。
演劇部のお芝居を気軽に誘っていいのか。
「ん?まるティネス、どうしたん?」
一瞬、誰の事を読んでいるのか分からなくなったけどわたしの渾名は相変わらずころころ変わっていた。余計なこと考えているのばれちゃったかな……。
慌てて気を取り戻す。
「い、いえ、なんでもないでしゅ」
……噛んだ。
「ぶふっ!噛んだ!まる氏が噛んだ!かわいい!」
「か、噛んでないでし…です!」
「ぶふふふっ!噛みかけた!でしゅって…、もお、あんた笑わすなって~!顔真っ赤だし!」
今居る場所が喫茶店ということも忘れて涙を浮かべて笑う苗木さん。対称的に、顔を赤くし、頬を膨らませてムッとしているわたし。
端から見てわたしたち二人はどんな関係に見えるんだろう。
やっぱり、友達に見えるかな。
ひとしきり笑った苗木さんはお会計を纏めて支払ってくれた。
わたしがお財布を取り出し、自分の分を支払おうとしたら断られた。
「いいよいいよ、いっぱい笑わしてくれたから。また、噛むのを期待してるっ」
ウインクして苗木さんは言う。わたしも意を決して、聞いてみる。
「もう噛まないですけど…ま、また…一緒にお茶してくれるです?」
「ん?当たり前っしょ!うちらもう友達じゃんね!」
今度は親指でグーサインを出しながら言った。
”友達”って言葉の響きが頭の中に響き渡る。苗木さんの声で何度もリピートされた。
「と…も…だち、ですか?」
「うん。あれ?磨瑠は違った?」
「違うなんて事、ないです!」
苗木さんの両手を握り、何度も首を振る。
そのときのわたしは、生まれて初めての出来事に感動しすぎて少しだけ演劇のことは頭から離れていた。
しばらく手を握り合った後、わたしと苗木さんは本のお話や苗木さんの趣味のお話をしながら体育館に向かって歩き出した。
*** ***
〈……〉
*** ***
演劇部のお芝居はまさに圧巻の内容で、一緒に見ていた苗木さんは後半、ぼろぼろに泣いていた。その涙に釣られてわたしも我慢できずに号泣する。おいおい泣きすぎて、小さな声で『うるさいぞ』って怒られた。ごめんなさいです……。
ただ、涙を抑えられなくなってしまうくらいにいいお芝居で、初めてみた演劇が演劇部のお芝居でよかったって心から思える。役者さん1人1人のお芝居も、脚本の内容も良かったけど、装飾も凝っていて特に衣装は手作りだというから驚きだ。
「あの衣装、可愛かったなぁ~」
舞台が終わり、お客さん達も体育館からぞろぞろ出て行く。
わたしたちは余韻に浸り動き出せずにいた。苗木さんの目は泣き腫らしている。
「手作りなんですもんね。お芝居の稽古をしながら背景を作ったり、衣装を作ったりしたんですかね?」
「あの背景板は美術部で、衣装は確か……」
苗木さんは少し考え込んでから続けた。
「服飾部だ!部員が3人しかいないのに、20着発注して1週間徹夜する羽目になったって聞いたよ」
服飾部か…。うちの高校はいろんな部活があるなぁ。
「うちも、ふりふりのドレスつくってもらいてぇ~」
「に、似合わなそうですねっ」
このタイミングで初めての毒舌というか冗談を言ってみた。
「なんだと~!すぐ噛む癖に~!!」
よ、良かった…、受け流されなかった!
髪の毛をわしゃわしゃされる間、わたしの顔は緩みっぱなしだったに違いない。
その後、文化祭は大きな事故・トラブル無く無事に閉幕した。
藤咲学園に入学して、初めての文化祭。
わたしには一生忘れることの無い1日になった。
後夜祭で、キャンプファイヤーを囲んで男女ペアで踊る人たちを見ながらわたしと苗木さんは鉄人ロードで分けてもらったやきそばやたこ焼きなどの食べ物を食べながらゆったりとした時間を過ごす。
火を見ているとついぼーっとしてしまう。
炎の揺らめきは心を落ち着かせて、無にする。わたしには赤く燃える炎の温もりや、存在感が心に空いている隙間を埋めてくれる気がして、どこか懐かしい気持ちが掻きたてられる。
わたしが一言も喋らずに炎を眺めているとき、苗木さんが声を掛けてくれた。
「ねえ、まるまるん」
「……なんですか、その渾名」
「まるまるんはさ、好きな人とかいんの?」
「――ッ!」
体がびくついて、苗木さんはおやおや?と興味津々になった。
思いがけない質問だったから驚いただけなのに!
「いないですよ!!いるわけないで…す!」
噛みそうだったけど、ぎりぎりで堪える。
「うっそだ~!磨瑠って、男子の間では結構人気株あがってるよ?」
はいはい、またまた……。そんなことあるはずない。
「ありえないです!だってわたし、誰ともお話したこと無いですし」
「そりゃ、磨瑠が”話しかけんなオーラ”を体中から放ってるからっしょ~。うち、ある男子から相談されたんだよね。『鳴海さんってどんな人?』って」
「ななな、なんて答えたですか?」
「そんときはまだ、うちも磨瑠のことよく分かんなかったから、『知らん!』って答えたけどね。だがこうして話してみると、男のもんにするのは惜しいぜ……じゅるり」
猛獣のように溢れ出た涎をハンカチで拭き取ってあげる。
やっぱりおじさんみたいな人だ。
「わたし、そういうのよくわかんないです」
「えっ!?なんで?彼氏欲しいとか思ったこと無いの?」
友達すらいなかったわたしに、彼氏欲しいなんて思考が芽生えるはずが無い。
「そういうのって、まだ早い気がするですよ」
「磨瑠、あんた今いくつよ……」
「誕生日きてないので、15歳ですね」
そういえば、苗木さんの誕生日はいつなんだろ。
「年頃の女の子は恋するべきよ!磨瑠、顔もいいし、話してみると面白いし!」
「わわ、わたしなんて!!…苗木さんこそ、そう言いますが恋しているですか?」
わたしのカウンターに苗木さんは狼狽える。この反応は、好きな人がいる反応だ。
「……いねぇーし」
「嘘、だめです」
「嘘じゃねえし」
「誰です?」
「話聞けってのっ!」
頬を膨らました苗木さんは何とも女の子らしいの表情をする。
苗木さんに好きになってもらった男の子は幸せ者だ。
逆にわたしの事を気にかけてしまう男の子には申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
わたしは恋愛がどういう感情なのかイマイチ分かってない。
仮にもしのもし、いきなり『好きだ』って告白されても、どう答えればいいか悩んでしまう。
相手の方を傷つけてしまうのも嫌だし、好きっていう感情を持てずにお付き合いするのもできない。
結局のところ、自分に大きく踏み込まれるのが怖いだけなんだと思う。
傷つくのも傷つけられるのも怖くて、向き合う前から逃げ出している臆病者だ。
けれど、きっと、本当に「好きです」って言える人と出会えたのなら、それは物凄く幸せな出来事で、文字通り世界が変わって見えるかもしれない。
わたしの臆病者の心も大好きな人なら取り払ってくれる――。
そんな希望的観測は秘めておいたほうがいいな
。可能な限り想像力を働かせてみたけど、どうにもイメージが湧かず、
やがて想像すらやめた。
苗木さんの好きな人のお話は、また今度って煙に巻かれた。
好きな人……か……。
*** ***
時間はとてつもない速さで過ぎていく。
小学校の6年間は永遠に近い長さを感じて、
中学校の3年間はただ学校に通い、授業を受け、受験のシーズンには死ぬ物狂いで勉強をした。だから憶えているのは、3年生の後半くらい。気がついたら卒業式を迎えてた。それでも、小学校の頃に比べたら幾分、早く過ぎていった様に思う。
高校の3年間は、わたしにとってあまりにも劇的で、刺激的で、本当の意味で時間を忘れてしまった。
特に何かを成し遂げたわけでもなく、部活動にも入らなかったわたしは相変わらず本の虫ではあった。でも、たったひとつ大きく違うのは”友達”の存在。
苗木さんという女の子の存在はわたしの高校生活の長いはずの時間を怪盗みたいに奪っていった。
彼女といる時間はすごく、すごく楽しくて、何をするにもいつも一緒に居た。
……居てくれた。
高校の卒業式を迎えている今。
わたしは、校長先生の式辞を聞きながら頭の中では、色濃く思い出に残っている出来事を省みる。
あれは高校2年生の頃の話。
わたしは体育の授業中お腹に激痛が走って倒れた。痛すぎて涙も出なかった。
あの時、体育の授業は選択科目で分かれていて柔道かバレーボールのどちらかを選ぶ形式の授業だった。
わたしはどっちとも苦手だったけど投げ飛ばされるのは怖かったからバレーボールを選び、苗木さんは『男子の奴らを合法的に投げ飛ばしたいから』という理由で柔道を選んだ。苗木さんとは高校2年時だけ同じクラスになれた。
腹痛で蹲るわたしを、先生が保健室まで運ぶ。
わたしとしては明らかに単なる腹痛じゃないって分かっていた。
次第に強くなっていく腹痛にわたしはとうとう意識を失ってしまう。
あとから聞いた話によると、急性虫垂炎を発症していたらしい。
病院に緊急搬送されて、手術が執り行われた。
意識があやふやな空間でわたしはある光景を目にする。
それは現実にはありえない光景。わたしが真っ黒な炎を纏った化け物と戦っている。
わたしは風の力を手にして、化け物に辛くも勝利したんだ。
よく読むファンタジー小説みたいな世界観は妙にリアルで、その理由は街の風景が藤咲市にそっくりだったからかもしれない。
一種の夢の世界で、わたしと、そしてもうひとり戦う人がいた。
その人は男の人で、2人はどうやら知り合いらしかった。どういうわけか、どういう経緯があったか分からないけど、わたしはその男の子の事が好きだったみたい。
わたしは恋心を知らない。でも、彼女は恋心を抱いてた。
顔も、声も、性格も、名前も知らず、現実世界には存在しない彼に。
夢は突然終わりを告げて、わたしは意識を取り戻した。
所謂知らない天井が真っ先に見えて、すぅーっと体に血が巡っているのを感じる。
最初に温もりを思い出した左手を見るとそこには、祈るような形で両手でわたしの左手を握り締める苗木さんが居た。その後ろには家族も居た。
苗木さんは小刻みに震えて、泣いている。
わたしが意識を取り戻したことにいち早く気がついたのは両親で、大きく名前を叫ばれた。意識が完全に覚醒して、お腹が痛んだ。きりきり痛む。
両親の声を聞いて、苗木さんも顔を上げる。予想通り泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして鼻水もダダ漏れ。わたしもその表情をみて、うっかり泣きそうになる。
「ま、磨瑠ぅぅぅ~~~っ」
ダムが決壊したみたいに涙を零し、子供のように泣きじゃくる苗木さん。
「し、死んだって思って心配したよぉぉぉっ!!!」
お医者さんが言うには急性虫垂炎は処置が迅速なら命に別状はないらしい。
そんな事実を知る由も無い苗木さんは当分、泣き止みそうに無い。
「心配かけて……ごめんなさいです……」
お腹に力が入らず声もいつも以上に小さくなってしまった。
でも苗木さんはしっかり聞き取ってくれて握った手にまた力を込める。
左手が物凄くあったかい……。
苗木さんはわたしが倒れたと聞いて、柔道着のまま学校を飛び出し、病院まで走ったという。家族よりも先に病院に駆けつけたって聞いたから驚いた。弟達は事態が上手く把握できなくて静かだったのに対し、苗木さんは事態を把握しすぎていて落ち着けず手術室の前を行ったりきたりした……。
演劇を見たときから知ってはいたけど、苗木さんは実はかなり涙脆い。情に熱く、感受性豊かな人だ。
苗木さんが好きだった人に振られたと聞いたときはわたしも不思議で仕方なかった。
どうしてこんなに素敵な女の子の告白を断るのだと。
誰かの為に涙を流せるような、純粋に優しい女の子なのに。
本気で誰かの事を考えて、悩んで、苦しんで、笑ったり泣いたりできる女の子なのに。
わたしはそんな彼女を羨ましく思い、誇らしく思った。
同時に、この子と友達になれたことに大きな喜びを感じた。
痛みなんて忘れて。
他にもいろんな思い出がある。
たくさんの思い出をくれた高校生活とも、苗木さんとも今日で1度お別れ。
わたしと苗木さんは違う大学に入学する。
わたしは藤咲市から離れ、苗木さんは藤咲市内の大学に通う。
本当は同じ大学に行きたかったし、家族からも親友からも住み慣れた街からも離れて一人で暮らすのは不安も大きかった。
でも、わたしには叶えたい夢があったから。
それに、いつまでもこのままの自分ではいけないって思ったから。
わたしの決断に背中を押したのはあの日、いつまでも泣いていた苗木さんの姿。
守られたばかりの自分ではなく、守れる自分になりたい。
私の中に決意が芽生えた瞬間、わたしにもやるべきことが、存在意義が生まれたように思う。
わたしからお医者さんになるって聞かされたときの苗木さんも、
驚きの後にまた泣いた。
『磨瑠が決めたんなら、うちは全力で応援するよっ!がんばっ!』
……っ。
だめだ。泣かないって決めてても、やっぱり思い出すと押さえられないな……。
小学校・中学校の卒業式では泣かなかったのに。
ありふれた日々を思い返し、その日々ひとつひとつに思い出がある。
わたしの高校生活に苗木さんが居なかったら……。いや、多分どんな形であれ、
わたしと苗木さんは出会っていたに違いない。そんな気さえする。
いつしか、苗木さんに言ったことがある。
『わたし、苗木さんとお友達になれて本当に幸せですよ』
すると、苗木さんはグーサインを出し、こう言い返した。
『友達?違うよ、磨瑠。うちら、もう親友だぜっ』
お腹に残る傷はもう痛まない。
けれど、卒業式を終えて、わたしが街を出る日に駅まで見送りにきてくれた苗木さんの言葉は、痛みのようにわたしの心をぎゅっと締め付けた。
『磨瑠、いつでも帰ってこいよ。なんかあったら連絡しろよ。音速で行くから』
その言葉を聞いてすぐに、電車の扉は閉まり、遠くなっていく親友の姿を追えなくなった頃、わたしは声を上げて泣いた。
*** ***
〈……磨瑠……〉
*** ***
1人暮らしが始まり、戸惑いはあったものの、お家で家事をしていた経験が役に立った。両親は仕送りを送ってくれるけど、頼りきっていては新生活を始めた意味がないので、わたしは週に3日から4日、講義が終わった後にアルバイトを入れた。
本屋さんのレジ係だった。
いざ、1人で家事全般をこなすのは大変で改めて母の偉大さを痛感する。
他にも家賃や光熱費の支払いがあり、自分の知らないところで出て行くお金ってこんなにあるんだと日頃疲れ果てて帰宅していた父の肩を揉んであげたくなった。
大学生活そのものは順調で、当然ながら初めて学ぶ分野に悪戦苦闘するも自分で決めた”目標”への道は確実に開けている。少なくとも、入学してからの一年間で得た手応えに満足していた。
苗木さんとの交流も続いた。メールのやり取りは勿論、週に一度は電話で話す。
一週間分のお話は長くて2時間にも及ぶ。
その時間は、高校時代の朝の15分やお昼休みの読書時間に匹敵するほど、
夢中になれる時間だ。
大学でも数人、女の子が声を掛けてくれたり、たまに男の子から声を掛けられたりして緊張したことを苗木さんに話したら、電話越しでも苗木さんの表情がムッとしたのが分かった。ちょっぴりジェラシーを感じるそうだ。
ただ、同学年の人たちとは苗木さん並の関係性を築くまでには至らず、わたしの大学生活は、淡々と過ぎ去っていった。
たまに、ひどく孤独を感じる時間がある。
朝起きて、朝食とお弁当を準備し、大学の講義を受けて誰とも話さず、黙々と自分で作ったお弁当を食べて、大学が終わった後はアルバイトに向かい、17時から21時まで勤務する。お家に着く時間は22時を周って、お風呂に入り、晩御飯を作り、食べ終わって片づけをしていたら日付が変わっていることもしばしば。
レポートを纏めたりすれば夜中の2時は優に超える。提出期限を守らないと単位がもらえないから、徹夜をする日もあった。眠気を抑えるために栄養ドリンクやカフェインが多く含まれる、所謂エナジードリンクも飲んだ。そんな生活を送っていたら、夜に眠れなくなる。体は疲れていても、脳が疲れていなくて目が冴え、ベッドに横になってからそのまま眠れずに朝を迎える日々が何日も続いた。目の下のクマを隠すために、お化粧をするようにもなる。
朝食など朝の支度の時間はすべてお化粧の時間にシフトした。
夜は眠れないのに、昼間になると途端に睡魔が襲い掛かる。
講義終了後にノートを見て落ち込んだ。文字がミミズ化してる……。
わたしの成績は面白いくらい順調に落ちていく。
元々頭も良くないし、周りの学生さんたちは皆、偏差値の高い高校から来た人ばかり。スタートラインからしてわたしは出遅れているのに、成績面でも生活面でも大差をつけられてしまってはもうどうしようもなく、わたしは2年生の留年が早々と確定した。
両親に留年の事実を伝えたら、わたし以上に落ち込ませてしまい、今まで以上に心配をかけてしまう。余計な負担も掛けてしまうのだ。
両親は『磨瑠が納得するまで応援してる』って言ってくれた。
わたしは心の奥深い片隅の暗闇で『もう帰ってきなさい』と言われることを望んでいて、両親の心遣いを素直に受け取れない。
そんな自分に心底嫌気が差して、騙し騙し大学に通ったけど、体調が思いの他戻らず、成績も元には戻らず、何より留年している自分への視線が怖くなって、2年生の夏休みに大学を辞めた。両親にも苗木さんにも相談せずに。
会わせる顔なんてない。
だから表面上は大学に通っているふりをしてわたしは藤咲市に戻らなかった。
代わりにアルバイトの時間を増やして、こつこつお金を貯める。
書店員の仕事は本好きのわたしにはまさに天職だったと言える。
本の匂いは気持ちを落ち着かせてくれて、一緒に働くパートの方や店長さんも気さくで優しい。
レジ以外のお仕事を任されるようになってからわたしの睡眠時間は徐々に増えていく。
気負うものが無くなった反面、わたしには”目標”が消えた。
大学に居た頃と変わらず、淡々とお金を稼ぐ日々。
大学に通っていることになっているから両親からの仕送りは毎月届く。
でも、そのお金には一切手をつけずにアルバイトのお給料だけで生活を賄った。
毎日、同じ”毎日”を送る。高校卒業時に掲げた”夢”や”目標”は消滅して、わたし自身の存在意義を考える。わたしは一生このまま生きていくのかな。
何も起きない日々を過ごしていくうちに、今度は言いようのない不安や虚しさに追いかけられる。
それは夢にまで現れて、わたしを攻め立てた。
――お前は結局変わらない
――お前はやはり弱いんだ!
――何もできない!しない!やらない!グズだ!!
――苦しめ、苦しめ!!孤独のまま死んでし――
〈黙りなさい!!磨瑠は弱くない!!……磨瑠、聞いて!あなたは――〉
………………。
…………。
……。
いつも誰かがわたしを庇う声で朝を迎える。
彼女はいつも何か言いかける。その必死さにいくら耳を傾けても、夢は突然終わる。
この夢を見た後は、必ず、枕が濡れていた。
*** ***
季節はいつしか、秋を通り越して、冬になる。
最近は両親とも、苗木さんとも連絡を取らなくなっていた。来ないわけじゃない。
後ろめたい気持ちが通話ボタンを押すのを躊躇わせる。
……都合のいい言い訳だ。
12月半ば、書店は年末に向けて忙しさを増す。
というのも、忙しくなる時期にパートのおばさんが”一身上の都合”とかで来られなくなり、その分の仕事量がわたしに回ってきた。
到底4、5時間の勤務時間では終わらない仕事量でわたしは殆どフルタイム勤務に。てんてこ舞いな上に、変なお客さんに声を掛けられる。
年齢はわたしよりも多分年上で、見た目は清潔感のあるサラリーマン風の男の人。
180センチはある身長でスーツを着こなしている。
このところ、わたしがお店に居る時間が多いせいもあるが、その人を見かける機会も増えた。わたしは何とも思ってなく、よく来るお客さんだなぁ程度の認識だった。
が、今日、ついに話しかけられてしまう。
「あの~……」
「は、はひっ」
丁度、平積みを作っていて、完全に油断していたから声が裏返る。
案の定、その人は頬を掻き、苦笑いを浮かべていた。
わたしは平静を取り戻して、お客様対応マニュアルを呼び起こし接客に当たる。
「な、何かお探しですか?」
「え、ええまあ。え~っと……」
そう言ってその人は辺りをきょろきょろ見渡し、隙を見計らってわたしに一枚の紙を差し出してきた。よくみると名刺だった。
これは、どうしたら正解なんだ……?
「き、気が向いたら、電話でもメールでもしてほしい…なぁ…って…」
……なぜ!?
「も、もし嫌なら捨ててもいいからっ!!」
……!?!?
「そ、それじゃあっ!!」
……!?!?!?!?
石像並みに固まったわたしに、強引に名刺を押し付けてその人は嵐のように去っていく。しばらくその場に立ち尽くし石化していたわたしを店長が救済した。
はい、仕事するです……。
当然、電話する気もメールする気も湧かなかった。
なんとなく名前は気になったので、名刺を見てみる。
「……三原みはら、駿介しゅんすけ……さん?」
当たり前だけど知らない名前。
わたしは少し怖くなって店長に相談し、退勤時間を早めてもらい、名刺は捨てたほうがいいと言われる。でもそんなことをして、逆上されるのもさらに怖いから名刺は捨てずにお財布の中に入れた。
次の日、アルバイトは休みでその次の日。
18時を過ぎてから彼が書店に来た。
わたしは見つかる前に彼を発見し、店長の傍にさりげなく近づき、自分を見つけても店長が居るから話しかけられない雰囲気を作る。
自意識過剰かもしれないけれど、彼の仕草は本を探している仕草じゃない。
「ん?どうしたの鳴海さん。ここ担当フロアじゃ――」
「しーっ!ですっ」
わたしが目で彼の方に店長の視線を促すと、店長はグーサインを出した。
「もし、鳴海さんに気がついて話しかけにきたら注意するね」
「えっ?今、追い返してくださいですっ」
「それはできないよ。現行犯じゃないもの」
「~~~~っ」
そのとき、彼と目が合ってしまった。時間にして3秒くらい。わたしはまた石化して目を逸らせない。しかし、彼の方が店長に気づいて溜息をついた後、何も買わずに書店を出た。
「……ふう」
「鳴海さん、大変だね」
「とても他人事に聞こえるです……」
*** ***
事はその日の帰り道に起こる。
19時の退勤して、従業員用の出入り口から外にでる。
駅まで歩いている途中で肩をトントン叩かれた。
「ふえ!?なんですか……って……」
彼がいた。がたがた震えて、寒そうに唇も震えている。
「店内じゃ話しかけづらくて……いつお仕事終わるか分からないから外で待っていました……」
発した言葉も小刻みに震えて、鼻水まで垂れそうになっているのを見たわたしは急いでポケットティッシュを渡す。
「い、いいんですか?」
「構わないです。拭いて下さい」
鼻を噛み、改まって彼は言う。
「ありがとうございます。あの……」
「あの、こういうの困るです……。わたし、連絡するつもりないです……」
わたしはお財布から名刺を取り出し、つき返しながら勇気を振り絞った。
声が小さくなり、後半は聞こえたかどうか不安だけども……。
「……あのう、ここじゃあれなんで、温かいものでも飲みませんか?」
あれ?やっぱり聞こえてなかった!?
わたしの勇気は一言分しかないらしく、断れないまま駅中の喫茶店に入った。
着席しても警戒は解かない。
うう、どうしてこうなってしまったんだろう……。
「鳴海さんでしたよね?何を飲みますか?」
なんで名前知ってるですか……。
あっ…名札か……。
「じゃ、じゃあ、わたしはアイスティーで……」
「寒いのにですか!?」
しまった。喫茶店なんて滅多に来ないし、自分の身に起きている事態が整理できなくて目に留まった名前を口にしてしまった。
「ごめんなさいです。ホットミルクにします」
「はい、では注文しますね」
彼は屈託の無い笑顔をする。わたしは気まずくてどう反応していいか分からない。
「今日は」
「はい!」
しっちゃかめっちゃかな脳内を纏めるのに忙しくて突然の声掛けにいい返事をしてしまう。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「こちらこそごめんなさいです……」
「今日はお仕事、もう終わりなんですか?」
「はい」
「いつも遅い時間まで働いてますもんね」
「はい、色々物騒なので……」
色々はあなたの事です。
「でもよかったなぁ。もし、閉店まで勤務だったら僕、いまだに凍えてましたよ」
そう言って、はははと白い歯を見せて笑った。
18時に姿が見えてわたしが退勤したのが19時だから、最低でもこの人は1時間寒空の下にいたことになる。
それを思うと、申し訳なく思う。この人の勝手な行動でも。
男性……三原さんはわたしに返された名刺をテーブルの上に置いた。
「これ、捨てずに持っててくれたんですね」
「れ、連絡はしないです……」
そもそも、何がしたいのかさっぱり分からない。
わたしと連絡を取り合って何か意味があるのだろうか。
「僕はしたくなければ捨てていいって言いました。だから構いません。あなたと一度お話がしたくて、声を掛けました。しかし、いざ面と向かうと言葉は中々出てこないものですね。最終手段を最初に使ってしまいました」
最終手段が、とりあえず名刺を渡す。だったらしい。
笑顔のまま続ける。
「僕、実はあなたが働き始める前からあの書店には通っているんです。あそこ、他のお店では取り扱っていない古い本もあるから。あなたが働き始めてからも通っているの気づきませんでしたか?」
わたしは首を振る。接客業なのにお客さんを気にしてる余裕もない時期があったから。
それよりも、この人が本を、しかも古書が好きなのは意外だ。
「そうですか。僕は結構見てたんですけどね……」
「す、すみませんです」
なぜか謝るわたし。視線を名刺にだけ注ぐ。
なるべく目を合わせないように気をつけた。
「質問してもいいですか?」
駄目とも言えず、いいですとも言えず……。
いや、良くないけど…。
無反応なわたしに彼は構わず質問をぶつけてきた。
「鳴海さん、下の名前は何て仰るんですか?」
いきなりその質問ですか…。
確かに書店のネームプレートは苗字しか書いていないけれど。
「ま、まる……です」
「ままる?珍しいお名前ですね!」
「違うです。まる、です」
三原さんはぺこりと頭を下げる。
どんな字を書くのか聞かれて、磨くに瑠璃色の瑠と答えたあと、
三原さんは苗字呼びをやめた。
「磨瑠さんは、今20歳とか?」
丁寧だった話し方も砕けだす。はやくホットミルクきてください……。
「まだ19歳です」
「誕生日は?」
がつがつ来る質問に気圧され気味に。わたしの個人情報が……。
答えたくないけど、答えないと帰れそうもなく渋々答えてしまった。
「12月……27日です」
「もうすぐじゃないですか!お祝いさせてくださいよ!」
なんでそうなりますか!
20歳の誕生日を知らない男性と過ごすなんて絶対に嫌です。
って答えたいのに言葉にできない。
「その日はお仕事なので、お断りしま」
「終わってからでも!」
「困りま」
「お願いします!」
「ですから」
「僕、あなたのこと、好きなんです!」
……?
「お待たせしました~。ホットミルクとブレンドコーヒーで~す。店内ではお静かにお願い申し上げま~す」
…………!?
運ばれてきたホットミルクみたいに頭の中が真っ白になった。
初めて、男の人に、告白された。
告白の二文字にも”白”があるから、頭の中が真っ白になるのか。
なんて考えをしてしまうまでに脳内はパニックに陥る。
意味分かんない意味分かんない意味分かんない!
三原さんは三原さんで、溜め込んでいた想いを告げたことですっきりした表情を浮かべている。この人、自分の自己紹介さえしてないのに。
わたしはこの人のこと何も知らないのに。
ホットミルクもわたしの気持ちを察したのか、湯気が消え、冷めていく。
温くなったただのミルクを一気に飲み干して、わたしはその場から逃げ出した。
「あ!!磨瑠さんっ!!!」
帰宅して、玄関を閉め鍵とチェーンロックを掛け、へたり込む。
最寄の駅からも走ってしまい、体力は殆ど残ってない。
呼吸が静まり、精神的にも落ち着いてからホットミルク代の支払いを忘れたことを
思い出した。
*** ***
その後1週間、わたしはいつやってくるか分からない三原さんに警戒線を張りつつもアルバイトに励んだ。店長にも喫茶店での話を伝えて、心強い味方を得た。
わたしたち書店員の警戒心が伝播してるのか、三原さんは訪れなかった。
12月26日の勤務が終わり、帰宅。時計ばかりを気にして過ごす。
ついに12月27日がやってきて、わたしは20歳になった。
いつの日からか電源切りっぱなしの携帯電話を起動しようとして家の呼び出し音が鳴る。正直、かなりびっくりして心臓が止まりそうだった。
こんな夜中に誰!?
恐る恐る玄関に近づき、ドアスコープを覗く。
そこにいた人物に、わたしの心臓はまたしても止まりそうになった。
ゆっくり鍵を外して、扉を開けた。
「20歳の誕生日おめでとう、磨瑠」
「……苗木さん……」
2年ぶりに会う親友はいい意味で変わってなかった。
想像にもしていない親友の登場に、得意技と化した石化を発動してしまう。
「うう、寒いっ。磨瑠……入るね」
「ど、どうぞ…です」
ぎこちない動きで玄関を閉めた途端、苗木さんはわたしに勢いよく抱きつく。
「ばか磨瑠!!どうして電話にでないのよ!ってか何で電源切ってんのよ!!メールも返さないし、手紙の返事もないし!何考えてんの!!!ばかばかばかばか!!!」
「あ、あの、苗木さ……うぐ」
「心配したんだよ!?あんたの両親も突然連絡が途絶えてから一時は見守る事にしてたけど、流石におかしいって感じて、わたしに様子を見に行く様頼んだんだから!」
「うぐ……ぐぐぐ…」
「うぐじゃないよ!きちんと説明してもらうかんね!」
違うの。抱擁が苦しくて窒息しそうなの……苗木さん……。
*** ***
「なるほどね。大学、やめちったか」
熱い抱擁から解放され、部屋でこたつに入り、これまでの経緯を全て話した。
誰にも話せずにいただけに、苗木さんに話して気持ちが軽くなる。
「ずっと黙っててごめんなさいです……」
「んまぁ、うちも人のこと言えないし」
「えっ?苗木さんも辞めちゃったんですか、大学」
「うん。なんかさー、勉強、めんどくせーなって思って」
苗木さんらしいといえばらしい理由だ。
「磨瑠もさ、気に病まず、うちらに相談してくれればよかったのに」
「いえ、自業自得でしたから……」
アルバイトだけの生活になり、大学を辞めた当時を思い出すと、
辞める前に打つべき方法が他にもあったはず。今更気づいても遅いけれど。
「そういえば、お母さん達に頼まれたって言ってたですね。お母さん達は?」
「本当は鳴海家プラスうちで押しかけようって作戦だったんだけど、ちびっこちゃんたちがね…インフルエンザにかかっちゃって」
発症元は笑美で、感染はあっという間だったそうだ。
両親は付きっ切りの看病に追われていて、急遽苗木さん1人に任せたのだろう。
「電話、してくるです」
「そうしな。ちなみに、ちびっこちゃんたちの体調が良くなり次第、押しかけるって」
いつになるのやら……。
わたしは、台所で深呼吸してから半年振りにお母さんに電話する。
ワンコール目で通話が始まった。
苗木さん同様に、洗いざらい全てを打ち明け、電話越しに1時間以上お説教された。その後、お父さんに代わり、また1時間お説教される。
でも、2人とも、最後にこう言ってくれた。
「誕生日、おめでとう」と。
通話が終わったとき、すでに午前3時を回り、部屋に戻る。
苗木さんは本を読みながら待っていてくれた。
「おかえり~。磨瑠、こんなに難しい本読んでんだ。すげ」
「難しくないですよ。最高に面白いです」
「あっ!忘れるとこだった。ほい、誕プレ」
赤い包装紙でラッピングされた四角い物体を手渡される。
「わあ!ありがとうございます!開けてもいいですか?」
「もち!気に入ってくれるかなぁ」
止められたテープを丁寧に剥がし、中から分厚い本が現れた。
その本は見覚えのある表紙。
〈小さな勇者〉だった。
「磨瑠、その本好きでしょ」
「好きですよ……でも……」
嬉しくなかったわけじゃない。ただ、わたしは徐に本棚を指差し、苗木さんの視線を一番上の棚に向けさせた。
「知ってるよ。5冊も持ってるから6冊目も欲しいかなって」
「苗木さん、苗木さんは本当に優しいです」
「あれ?なんか怒ってない?なんで!?」
「怒ってないです!うれしいんです!」
ぽかぽか、苗木さんを叩きわたしなりの喜びを表現してみたけど多分伝わんないな。
6冊目……大切にするからね。
わたしたちは、夜が明けるまで語り合い、苗木さんをベッドに寝かせた後、書置きを残して仕事に向かう。
*** ***
〈そこにいちゃ駄目、磨瑠……戻ってきて……〉
*** ***
欠伸を噛み殺して、仕事に励む。苗木さんが来てくれた事が心に余裕を生み、三原さんの姿を気にせずに働けた。職場の方々からもお祝いの言葉や、好きな本をチョイスしてプレゼントしてくれた。こればかりは涙を堪えられない。
この場所で働いて良かった……。出会ったのが皆さんで良かった……。
思わぬサプライズに眠気も消えて、閉店まで勤務して一日の仕事が終わった。
苗木さんに、今から帰るねとメールを打ち、計6冊の本を鞄に入れて店を出た。
帰りはいつもの如く22時を過ぎていて、クリスマスも終わったから人の数も疎らだった。
暗い夜道を1人で歩いていたとき、あの時のようにわたしの肩に手が置かれた。
音も無く近づいてきた彼は、三原さんだ。
「あの、磨瑠さん」
「み、三原さん!?」
暗くて顔はよく見えない。わたしは咄嗟に逃げ出しそうになるが右手を掴まれる。
男性の力強さを感じ、振り解こうにも解けない。恐怖で声も出ない。
「怖がらないでください!僕は何もしません!」
じゃあ、手を離して欲しいです!痛い……。
願いは届かず、手は握られたまま話が進む。
「今日、誕生日ですよね?プレゼント買ってきました」
いらないです。いらないから、帰ってほしいです……。
三原さんが胸ポケットから取り出したのは小さな箱。器用にパカッと開いてみせる。
「僕の気持ちは一生変わりません。確かにまだ磨瑠さんとはお付き合いもしていないし友達としての交流もありません。ですが、これからあなたを知っていきたいんです。どうか、僕と、結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
月明かりを反射するダイヤモンドの指輪。
わたしにはその輝きが刃物の輝きに見えてしまう。
「答えをお聞かせください。僕はどんな答えも受け止めます」
絶対に嘘だ。まともな人ならこんなやり方絶対にしない。
声、出て!
誰か、助けて!
「何も言わないということは、この指輪を填めてくださるんですね?」
わたしは眼鏡が落ちるほど大きく、強く首を横に振る。
「必ず幸せにします。何も心配することはありません。あなたには傍に居てほしいんです」
そういうと、三原さんは無理やりわたしの左の薬指に指輪を填めた。
「……ぴったりだ。すごく似合います」
眼鏡を落としてしまって何もかもがぼやけて見える。ただでさえ暗がりで見づらいのに、見えない恐怖感はさらに煽られた。
住宅街だけど、時間帯のせいで人通りが全く無い。
声を出さないと、奇跡的に通りがかった人には、いちゃついているカップルに見えるだけだ。
そう思っていたら、三原さんがわたしの両腕を奪い、ブロック塀に押し付けた。
何をされるか、直感が働く。
現に、ぼやけたままの顔が大きくなっていく。
……キス、されてしまう。
いや。
いやだ。
いやだ!!
「力を抜いてください」
いやです。
お願い、やめて……。
いや……
いやああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
*** ***
『……鳴海』
*** ***
「はっ……」
声が、聞こえた。
あの人の声。
夢の中でわたしが恋をした、あの人の声。
〈…………〉
突然、突風が吹いたと思うと、
三原さんの体は後方に飛ばされてわたしの両腕も解放される。
何が起きたのか全然分からない。
やっと声も出るようになった。
「はあ…はあ…、やめてください。わたし、あなたとはお付き合いしたくないです」
「どうして!?僕はあなたじゃなきゃだめだ」
「わたしは、あなたを好きになれません!」
「なぜ!?も、もしかして、他に好きな人がいるのか……!?」
すきなひと……?
そのとき、わたしの胸が張り裂けそうなほど痛む。
どくん、どくん、鼓動の音が鳴り響き、頭が割れそうなくらい痛くなる。
耐え難い痛みに、わたしはその場で頭を抱えて蹲ってしまった。
「ま、磨瑠さん?」
「あああ……、うああああっ」
*** ***
夥しい量の情報が頭に流れ込む。
高校一年の梅雨明けから始まり、わたしはある人に出会った。
その人と接するうちに、わたしは特別な感情を抱くようになる。
でも、その人が見ているのは違う人。わたしではない他の人。
文化祭ではその人の部活動のお手伝いをして泊りがけで衣装を作った。
真夜中の校舎をいっしょに歩き、急に現れた猫に驚いて先輩に抱きついてしまう。
文化祭の後夜祭、わたしは先輩と先輩の幼馴染さんの姿を見て、ほっとしつつも心にヒビが入った。羨ましくて、自分が先輩の手を取れたら…って考えては押し殺した。自分の気持ちが素直になっていくのが、嫌になった。
その夜、わたしの運命が変わる出来事がおきる。
先輩が世界を守る為に戦っていたことを知った。
そして、その力がわたしにあることも。
化け物は圧倒的な力で先輩を傷だらけにしてしまう。
わたしは大火傷を負った先輩の姿を見て、決意した。
”この人を守れるなら、わたしも戦う。力になりたい”
わたしの精一杯の想いを告げたんだ。
――『鳴海』
『……これから、きっと、俺は迷惑かけるぞ』
……いいです。先輩の傍に居られるなら、いいです。
わたしにだってできることがあったんですから。
『……巻き込んでごめん』
いやです。許さないです。でも、約束してくれるなら許してあげてもいいです。
ちょっとだけ背伸びして、先輩に上から目線をしてみる。
『約束?』
先輩は首を傾げてきょとんとしていた。
交わしたのはわたしと先輩だけの約束。
――いつかわたしが書いた小説をいちばん最初に読んでほしいです。
その〈いつか〉を、守ってほしいです。
その〈いつか〉は、みんなの〈いつか〉、になるから。
『ああ』
先輩は約束してくれた。
*** ***
唐突に激しくフラッシュバックした映像の最後は、わたしの心臓に矢を受けた映像で突然終わる。
わたしは確かに、ここではないどこかで、誰かと戦った。
ここにはいないあの人に恋をしたんだ。
じゃあわたしは5年間、あの人たちがいない世界を生きた?
そんなこと、ありえるの?
ただ、言えることがある。
わたしはたとえ、どんなに過酷な運命が待ち受けているのが分かっていても、
先輩に出会う世界で生きたい。
約束したんだ。小説家になって先輩に最初に読んでもらうって。
なら、生きなくちゃ。生きて、先輩を守って、約束を果たさなきゃ。
戦わなくちゃ。
あいつに、負けるわけにはいかないんだ!
「さ、さようなら、です!!」
わたしは返せていなかったホットミルク代として千円をお財布から抜いて、その上に指輪を置き、三原さんに強引に手渡した。
「磨瑠さんっ!!!」
呼びかけに振り返らず、一心不乱に走る。
この場所でできた親友に別れを告げるために。
*** ***
苗木さんは待っていてくれた。
こたつで〈小さな勇者〉を読み、息を切らしたわたしを見て軽く笑った。
「苗木さんっ!はあっ……はあっ」
「……そっか。やっぱり磨瑠は行っちゃうんだね。藤咲市から出たときみたいに、遠くに行っちゃうんだね」
「わたしには……、どうしても……、やらなきゃ――」
こたつから出た苗木さんはまた、わたしを強く抱きしめる。
「分かってるから言わなくていいよ」
「なえ……ぎ、さん……」
「磨瑠、最後くらい名前で呼んでよ~」
「名前…、苗木さんの名前……」
苗木歌音、わたしは初めて親友を名前で呼んだ。
「かのんちゃん……」
「名前だとちゃん付けかよ。よしよし、ホント泣き虫だなぁ」
「わたし、わたし……」
「磨瑠には、磨瑠にしかできないことをやればいい。でもね、あんたが心に決めたことは絶対に突き通さなきゃダメ。あんたはさ、本当はやればできる子なんだから」
「……はいです」
歌音ちゃんが体を離し、わたしと顔を見合わせた。
「どこにいたって、うちらは親友になれるよ。そんな気がする」
「また……親友になってくれますか?」
「もちっ!!」
ウインクにグーサイン、彼女の笑顔はわたしに勇気をくれた。
「玄関から出れば、また始まる。覚悟が決まったんなら行きな」
「歌音ちゃんは……!?」
「さあね。ここ、磨瑠の死に際の世界だから」
「死に際……」
瞬間的に心臓を突き刺した矢の感覚を思い出した。
「ま、うちもよくしらねーんだわ。要するに、磨瑠は生きるべきって神様が判断したんじゃない?多分」
歌音ちゃんの言葉を鵜呑みにすると、神様は死の淵にいるわたしにもう1度だけチャンスを与えるために、わたしの覚悟と本気を測っているのかもしれない。
本当に強い覚悟と戦う意思がなければ、わたしはまた負けて今度こそ死ぬだけだ。
それで終わりだなんて絶対に嫌だ!
確かにここには怖い魔導師も居ないし、戦わなくていいし、居心地は良かった。
歌音ちゃんという親友にも出会えた。
けど……ここに、あの人はいない。
わたしの夢もない。
わたしの望む未来がない。
ここには、思い出しかない。
思い出しか存在しない世界ではなく、
守るべき人たちを、自分の意思と力で守れる世界でわたしは戦いたい。
わたしが消えて、失われる未来があるのなら、
わたしが消えて、いなくなってしまう人たちが居るのなら、
わたしが、戦わなきゃ。
ドアノブに手を掛ける。
親友はわたしの背中に言葉を送った。
「……磨瑠と親友になれんの、楽しみに待ってる」
わたしは、全快の笑顔でグーサインを出した。
溢れる想いも頬を伝わせて。
「もちっ!です!!」
ドアは開かれる。
眩い真っ白な光が、わたしと、わたしのもうひとつの思い出の全てを包み込んだ。
*****
〈磨瑠、おかえり〉
*****
「――んっ!…はあっ…はあっはあっはあっ」
わたしは心臓に刺さった矢を両手で力いっぱい引き抜きにかかる。
痛くない、痛くない、痛くない!
わたしはもう、負けたくない!!!
「うああああああっ!!!!」
体を貫通して、地面にまで深く突き刺さった矢を歯を食い縛って抜く。
ようやく矢が抜けて、瞬時に傷跡が塞がれた。
「はあっ、はあ……ありがとです、嵐禍!!」
〈もうっ!ずっと呼んでたのに気がついてくれなくて不安だったわ!戻ってきて良かった!安心したっ!!〉
鏡の前で見えたのも、よく見た夢も嵐禍が呼びかけていてくれたおかげなんだ。
もし、呼びかけが聞こえてなかったら、わたしはあのまま……。
「安心するの早いですよ」
〈ふふっ。磨瑠、覚悟を持って帰ってきたみたいね〉
「はいです。もう迷いません」
それは親友かのんちゃんへの誓い。
わたしはお腹の矢も抜き取って、風で弓を形成する。
相手もわたしに気づき、眼を大きく見開いていた。
「……生きていたのか、人間」
奪った矢を弓に宛がい、狙いを定める。
「わたしは、わたしにしかできないことをやる為にここにいます!」
「だったら何だと言うんだ。どちらにせよ、覚悟なきお前に私は倒せんよ」
魔導師は不敵に笑った。
矢を引く。目一杯引く。
「いいえ!わたしは――」
風が弓矢に収束し、龍の様に矢に纏わる。
食らえ、これが、わたしの覚悟だ。
「――あなたを倒しますっ!!!」
全力で解き放たれた矢は竜巻を纏い、音速を超えて飛んでいく。
矢は魔導師の頬を掠めて、分厚い雲を突き破ると、空一面を覆っていた暗雲が一瞬で晴れ渡り、まんまるのお月様が世界を照らした。
「人間如きが……ッ」
魔導師は空を見上げ、気を抜いた。
その瞬間を見逃さない。
わたしは飛び立ち、魔導師の隣で風の刃を構えた。
「な……ッ」
「わたしは〈嵐禍〉!本名、鳴海磨瑠ですっ!!!」
頭上から振り下ろした風の刃は魔導師の体を左斜めに切り裂いた。
――先輩、わたし、戦うです。
先輩との約束、叶えたいから。
陸斗先輩、あなたがいるこの世界で、わたしは生きたいです。
陸斗先輩と、いっしょに。
だから……
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