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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第三章
90/187

90: 束の間の再会


 無数の手が、己に向かい伸ばされる。

 ――――止めろ……!

 そう叫んだつもりだったが、だた空気が漏れただけで声にはならなかった。

 腹の中や咽が、焼けるように痛い。腹の中のものを吐き出した時、それは咽をも焼いたようだった。


 無数の手が、肩や腕や足を掴む。

 ――――止めろ、触るな……!

 その叫びはやはり声にならない。

 伸ばされるそれらの手を振り払いたかったが、身体が痺れて動けなかった。

 無数の手に、荷物のように身体を引き摺られる。

「化け物」

「化け者」

「化け物が」

 暗い声が木霊のように反芻する。

 俺はただ、皆を守ろうとしただけなのに。それでもお前達は俺を殺すのか。


 ――――は、はは。


 笑いが込み上げた。

 そうだ、化け物に違いない。

 もしも俺が生き延びたなら、この腹の内でどす黒くうごめく化け物が、きっとお前達を喰らい尽くすだろう。

 その事に、俺は何の躊躇も何の感情も抱かないに違いない。


 ――――ははははは。


 ああそうだ。当然だろう、俺はお前達が言うように、確かに化け物なのだから。











 ユリアは半刻(三十分)程前から、客間の前をウロウロと所在なさげな様子でうろついていた。

 その客間の中では、ジェドが横になっている。

 クリユスとラオに支えられるようにして、彼が塔へやって来たのが一刻前。顔は土色になり、全身に脂汗をかいていた。一応己の足で歩いてはいるものの、意識は程んど混濁としているようだった。

 客間に寝かせた後、直ぐに軍医が駆け付け解毒剤を飲ませていたが、それだけで本当に彼は大丈夫なのか。

 あんなに憔悴しきったジェドを見たのは、初めての事だったのだ。彼の様子が気になってしかたが無いのだが、男の人が横になっている部屋を覗き見るなど、はしたない行為に思えて躊躇してしまう。

 そんな訳で、部屋から離れる事も出来ず、だが様子を窺う事も出来ず、先程からただその場でうろうろとしているしかないのだった。

 ――――どうしよう、もし彼が死んでしまったら。

 悪い考えが頭を過ぎる。そんな事、今まで想像だにした事が無かった。危険な戦場で戦っていても、ジェドの身に何か危害が及ぶとはちらりとでも考えた事など無かったのだ。

 だがあの軍神のごとき強さを持つジェドでも、毒に倒れるのだ。そんな当たり前の事に、血の気が引く思いがした。


 ふと、部屋の中から呻き声が聞こえた気がした。

 慌てて扉の外から中の様子を窺うが、よく聞こえない。ユリアは思い切って扉を少し開き、そっと中を覗きこんだ。

「………め、ろ」

 苦しいのか、ジェドは掻き毟るように喉を押さえ、そしてうなされている。

「ジェ…ジェド。苦しいのか……?」

 解毒剤は効いていないのだろうか。

 こんな時どうしたらいいのか分からない。病人の看病などしたことがないのだ。いや、昔病気だった母の傍についていた事はあったが、ただ私は横に座り、母の手を握っているだけだった。

 おろおろとした後、取りあえずジェドの額に置かれていた既に温くなっている布を、水を張った桶に浸されている布と取り換える。

 だがそうしてみても、苦しそうに息を荒くするジェドは相変わらずのままである。

 どうしたらいい? どうしたら……。

「止めろ……!」

 その時、ジェドが突然声を荒げた。

「わ、私は何も……!」

 目が覚めたのかと思い、思わず言い訳をしたユリアだったが、しかしジェドは変わらず目を瞑ったままだった。眉間に皺を寄せている、何か良くない夢でも見ているのだろうか。


『ユリア、あなたの手は暖かくて気持ちが良いわ。気持ちがとっても安らぐの』

 ふと母の言葉を思い出した。手を握っているだけしかできない私だったが、それでも母は喜んでくれていたのだ。

 ジェドの心がそれで安らぐとも思えないが、それでも何もしないよりはマシな気がした。

 ユリアはそっと横たわるジェドの手を握る。

 大きい手だった。大きくてごつごつとしている。少年の頃とは、全く違う手だ。

「ジェド……死なないで……」

 小さく呟いた声が、眠るジェドの耳に入ったとも思えないが、不思議と苦しげな呼吸が徐々に和らいでゆく。

 もし病人の心を和らげるような「気」というものがフィルラーンにあるのだとしたら、自分がフィルラーンであった事を、初めて感謝したいとユリアは思った。

「あ……」

 少女は思わずびくりと身体を震わせる。いつの間にかジェドが目を開けていたのだ。その目と、まともに視線がぶつかった。

 慌てて握っていた手を離し、立とうとするユリアの手を、ジェドが掴んだ。

「ち、違う。私はお前の心配なんか……」

「ユ……ユリア。良かった……来て、くれたんだな……」

「え………?」

 思わず耳を疑い、ジェドを見下ろす。

「もう、来ないかと……思った……」

 ぎこちなく、ジェドは笑った。


「ジェ、ド……」

 ――――――違う。ジェドじゃない。のジェドじゃない。

 どくんと心臓が跳ね上がった。

 ジェドは未だ混濁の中にあり、目の焦点が合っていない。

 恐らく夢の中の自分と、現実の自分との区別が付いていないのだ。

 今目の前にいるのは、そう、少年の頃の記憶のジェド。あの日の、ジェドだ。

 ―――――ああ、神様。

 ユリアは再びジェドの手を握りしめる。

 身体が震えた。

「わたしは、ここにいるよ、ジェド。どこにも行かない、ジェドに会いたかったんだもの……」

 ―――――ジェドだ。ずっと会いたかった、ジェドだ。

 神様、どうかこの時間を止めて。今だけ、今だけでいいから。ほんの少しでいいからこのままで。あの日の二人のままでいさせて。

「すきだよ、ジェド。わたしジェドがすき……!」

 握りしめていたジェドの掌を、更にぎゅっと力を込めて握る。ずっとずっと言いたかった言葉が、やっと言えた。

 ジェドは再び、小さく笑った。

 もう一度見たかった、あの日の彼の笑顔だ。あの日のジェドだ。

 ああお願い、涙なんて出てこないで。私の視界を涙でぼやけさせないで。

「ジェド、ジェド……わたしは……」

 ジェドは再び目を閉じた。直ぐに寝息が聞こえ始める。

 意識を失った彼の掌に、ユリアはそっと口づける。

「……私は、お前が好きだよ……」

 ほんの一瞬の再会。だが、これで充分だった。






 翌朝、ユリアが再び客間へ様子を見に行くと、既にそこにジェドはいなかった。

 何かあったのではないかと、青褪める思いで慌ててその姿を探すと、そんな彼女の心配など余所事に、ジェドは食堂の一席に座っていたのだった。そしてまるで昨夜死にかけていた事実など何も無かったかのような、涼しい顔で朝食を食べている。

「何を、している」

 数刻前までは生死の境にいたというのに、もう起き上がって身体は大丈夫なのか、平気な振りをしているだけなのではないか。

 そんな言葉が頭を廻り、だが口に出たのはそんな言葉だった。

「見ての通りだ」

 ダーナに給仕をされながら、ジェドは無愛想にパンを齧る。

 だがそんな言葉でさえ、生きていたのだと、死ななかったのだと思うと、涙が出そうな程にほっとするのだった。

「そうか、元気になったのなら結構だ。だが食事を終えたらさっさと出て行け、病人で無いのならここに滞在させる理由はもう無いのだからな」

 ユリアは彼からくるりと背を向ける。気丈に振る舞っていないと、きっと泣き出してしまう。

「……おい、ユリア」

「何だ」

 呼びとめられ、ユリアは肩越しに振り返った。ジェドは少し考えるふうにして、ユリアを見る。

「お前、昨日俺の所に来たか……?」

 ぎくりとして、立ち去ろうとしていた足を止めた。

「ば、馬鹿な。何故私がお前の所になど。私がお前の心配など、すると思うか」

「……違いないな。何でもない、忘れろ」

 ジェドは口の端を少し吊り上げると、ユリアにはもう興味を無くしたように、スープを口に運ぶ。

 少女は早々に、部屋から立ち去った。


 これでいい。昨夜の事は、夢でいいのだ。少年のジェドと、幼い少女だった私が出会った。それだけでいいのだ。

 ジェド自身に、昨夜の再会を否定されたくは無かった。自分の心の中にだけ、ひっそりと留めていたかった。

 ずっと逢いたいと願い続けた人に逢えたのだから、ずっと見たいと思っていた彼の笑顔を見る事が出来たのだから。

 この大切な思い出だけは、私の心の中にしまっておくのだ。それで私は充分なのだから。


 例えこの先ずっとジェドに憎まれたままだったとしても、この思い出だけで、きっと私は生きて行ける。

 そう―――――例え、二度と彼に会う事が出来なくなったとしても。











 毒はやはりジェドが飲んだ酒以外には入っていなかった。分かっていた事ではあるが、改めてクリユスは溜息を吐く。全く馬鹿な事をしてくれたものだ。

「しかしメルヴィン殿がジェド殿を暗殺とは……そんな度胸が彼にあったのですな」

 妙な所に感心し、バルドゥルが言う。

「それがどれ程国を揺るがす事態なのか、そこまで深く考えていないのだろう。庶民階級の出の男が、それ程に国に多大な影響を与えている事など、彼には理解さえ出来ないのさ」

「ううむ……」

 顎鬚を弄りながら、バルドゥルは小さく呻く。

「それでは、とうとう……」

 クリユスはその問いに頷いて答えた。

「仕方が無い、メルヴィンを失脚させる。国王軍の従弟だ、勿論この画策がばれたら、こちらの身も危ういけれどね。だがこれ以上彼を放置してはおけない」

「そうですな……仕方無いでしょう」

 メルヴィンが頷くのを見て、クリユスは小さく息を吐いた。

 相手が相手である。バルドゥルもメルヴィンを常から快く思ってはいないようだったが、それでも彼も特権階級のみが要職を務める旧体制の時代から軍に居た人間なのだ、流石に国王の従弟という人物に対し姦計を図ろうというのは、受け入れがたい事かもしれないと思っていたのだ。

「それで、そのメルヴィンに仕掛ける内容だが……」

 クリユスが姦計のあらましを話すと、バルドゥルは苦笑した。

「なんと、悪趣味な。貴方は相変わらず敵にまわすと怖い方ですな。まあ、いいでしょう。私は人払いでもしていればいいんでしょうかね」

「ああ、頼む。こればかりは他に誰にも頼めないからな」

 今回の事は、ラオやユリアには特に協力など望めるものでは無かった。それどころか事を成した後、二人にどれ程罵詈雑言を浴びせられるか分からない。だがそれが分かっていながらも、止めるつもりも無い己が愚かしく、自嘲するしかなかった。

「バルドゥル、お前が賛成してくれて助かるよ……」

 呟くクリユスにバルドゥルは怪訝な顔をしたが、何でも無いと小さく笑って返した。

 






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