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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第三章
84/187

84: 死の神


 男はトルバ国城下町の中央にある広場に据えられた、処刑台の下を箒で掃き清めていた。

 男の住まいはこの広場の脇にある、小さな靴屋である。近くに住んでいるからという、ただそれだけの理由で彼はこの処刑台の清掃を仰せつかり、それでも幾ばくか貰えた賃金はありがたかった為、曲がった腰を労わりながら、毎日せっせとそこを掃き清めるのだった。

 忌まわしい場所ではあるが、普段はただの何でもない台だと思っていれば、気味の悪さもやり過ごせていた。だが、今は――――。

 処刑台の上に置かれた首を見ないように、男は足元だけを見つめながら箒を動かす。

 フィードニア国王軍の偉い人物であったというその首を、男は一度もまともに見たことは無かったが、きっとその無念さが現れ出ているような、険しい表情をしているのだろうと思うと、恐ろしくてならなかった。


 さっさと終わらせてしまおうと、箒を持つ手を速めたその時、男の体の上に影が落ちた。

 まだ空が白み始めたばかりのこんな早朝に、わざわざ首を見物しに来た物好きかと思い、男は顔を上げた。

 風が強く吹き、目の前でどす黒い血のような色をしたマントがばさりと舞う。

「――――ひ……」

 男はそのまま二、三歩後ずさると、腰が抜けたように尻餅を付いた。

 ――――死の神メトプスだ。

 何の迷いも無く、そう思った。男は慌ててその場に平伏する。

 闇のように黒い髪と瞳。若く精悍な顔付きをした軍人風の男にその身を変えてはいたが、この禍々しさが人のものである筈が無い。今目の前に立つ者はメトプス神に違いないと男は思った。

「――――おい」

 メトプス神が口を開く。

「は……はい……!」

 恐怖を必死に押さえ、男は掠れた声で返事をする。顔を上げると、メトプス神は処刑台の上の首を見詰めていた。

 ――――怒っているのだ。神々はトルバをお怒りになり、このメトプス神を使わされたのだ。

 そう直感し、男はがくがくと身体を振るわせる。

 トルバの軍人であったというあの女が処刑される直前、彼女は高らかに叫んだ。祖国トルバよりも敵国の男を愛してしまったが、その事を恥じる事は何も無いと。

 敵国に自国を売っておきながら、恥じる事は無いなどという厚顔無恥な言い草に民衆は怒ったが、彼はそうとは思わなかった。己の死の直前に、弁解するでも命乞いするでも無く、ただ自分に恥じる事は何も無いと公言したその女が、どこか痛快で清々しささえ覚えたのだ。

 もしかしたら、フィードニアへトルバの情報を流したと言う罪状は、間違いなのでは無いかと思った。だが国王軍の兵士に向かってそのような事を口にしたら、次に処刑されるのは自分かもしれない。そう思うと口出しなど出来なかった。

 彼女を単身で助けに来た、あのフィードニアの男も然りだ。敵国に一人乗り込んで来るなど、死を覚悟しての事に違いない。あのような二人には裏切りや密通などという言葉は不似合いに思えてならなかった。そう思うのに、やはり男にはそれを口にする事が出来なかったのだ。

 結局、あの処刑はやはり不当なものだったのだろう。罪の無い二人の男女を死なせる事になった。だからこうしてメトプス神がこのトルバの地へ舞い降りたのだ。


「―――この国の国王軍総指揮官の名は何と言う」

 メトプス神は台上の首を見詰めたまま、そう靴屋の男に問うた。その声は死の神に相応しく、低く重厚で、威厳に満ちていた。

「あ……アイヴァン様でございます。いえ、で、ですが」

 男の顔からさっと血の気が引く。まさか、メトプス神はアイヴァン様を連れて行くおつもりなのか。

「お、お許しください、アイヴァン様はきっとあの二人が無実であった事を知らなかったのです」

 知っていたらあの処刑を止めていたに違いない。トルバ国王軍総指揮官アイヴァンという男は、そういう男なのだ。

 愛想は無く、国民の声援に手を振って答える事などしない。真面目で堅物ではあるが、だが民の事を真摯に考えてくれる誠実な男である。トルバの国民の誰もかれもが、彼の事を好きだった。

「あの方は軍人としても人としてもとても立派な方なのです。誠に民の事を考えてくださるお方なのです。どうかどうかお許し下さい、彼を天の国へなどお連れにならないで下さいまし」

 頭を地面に擦り付けながら、男は必至に哀願した。死の神は恐ろしくてならなかったが、それにも増して、

アイヴァンを死なせる訳にはいかなかった。

「その男の為にお前が懇願するか。民に慕われる男か―――面白い」

「で、ではお許し頂けるのでしょうか」

 そうっと男は顔を上げる。メトプス神は口の端を僅かに吊り上げていた。

「―――――そういう男でなければ、こいつの首に相応しくは無い……」

「――――え」

 男が目を見開いた瞬間、強い風が吹いた。その目に埃が入り、慌てて彼は瞼を閉じる。再びその目を開いた時、メトプス神の姿は既に遠くにあった。

 彼が歩む方向は、王城である。

「ああ……神よ、お許し下さい……! どうか、どうか……!」

 既に聞こえぬとは知りながら、男はあらん限りの声で叫んだ。









 何から何まで、不快だった。

 あのエルダという罪人を牢で犯したのは、ロドリグの言う通りに国王軍の末端に属する者達だった。きゃつらはアイヴァンが憤怒と共に問い詰めると、涙を流しながら許しを請うという体たらくであったのだ。

 崇高たる国王軍にそのような輩が混ざっていたという事も許せぬ。「俺の言った通りだろう」と勝ち誇ったように笑うロドリグも腹立たしい。あの男は何かと言うと国王軍に喰ってかかってくるのだ。

 国王軍の裏組織である暗殺部隊。敵と真っ向から戦わず、闇に紛れ屠るようなやり方をする彼らを、アイヴァンは忌み嫌っていた。

 エルダという女もその一員であったらしく、標的をベットに誘い込み暗殺するなどという、「女」というものを武器にしたやり口には不快さを感じたが、それでも牢番をしていた男達が好きなように弄んで良い筈も無い。あの女の方が誘ってきたのだと言い訳をした兵士は、その浅ましさが胸糞が悪く、その場で首を撥ねた。

 国を裏切った罪は重い。敵国の人間と密通し、我がトルバの内情を流したという罪状からすると、彼女の処刑は免れぬ事であったが、それを民衆に晒すという行為自体はアイヴァンには不快だった。

 故に彼はその時刻、処刑には立ち会わずに訓練に勤しんでいたのである。後で思えば、それが間違いだったのだ。

 刑が執行される直前、彼女を助けに来た者が居た。フィードニア国王軍副総指揮官、ライナスである。

 一度剣を交じわせたいと思っていた相手だった。それが単身トルバに乗り込み、処刑台周辺を警備していたトルバ国王軍相手に大立ち回りをするという無謀な行為を成したあげく、あっけなく命を落としたのだ。それを聞いた時は、ただ惜しいと思った。己がその場に居ればその男と剣を合わす事が出来たものを、その機会を失した事が惜しかったのだ。

 だが事はそのように単純なものでは無かった。


「―――今、何と仰った」

 トルバの宰相ハイラムの言葉に、アイヴァンは目を見開いた。

「フィードニア副総指揮官ライナスの首であろう? だからそんな事は一々報告するまでも無い事だと言っておるのだ。いずれベクトがその首を持ってくる事は分かっていた」

「それは、どういう事ですか」

 まさかあの処刑は。

「フィードニアの軍事など、秀でているのは頭の二人のみだ。そしてそのどちらか一つでも潰れれば、たちまち立ち行かなくなる危うい力よ。わしがベクトにその首を取って来いと命じたのだ。あやつはそれを仕損じる男では無い」

 暗殺部隊の長、ベクト。その名を聞くだけで充分だった。あの処刑は、そしてライナスの死はその男が仕組んだ事なのだ。そしてその姦計の片棒を我ら国王軍が担がされたという事だ。

「馬鹿な……! 敵国とはいえ国王軍の副総指揮官である男を姦計にかけるとは、トルバの名を貶める行為ですぞ、恥を知れ……!」

 ハイラムに対する日頃の憤懣も相まって、その怒りを抑える事が出来なかった。

 この身一つに剣だけを持ち、命を掛けて戦う全ての兵士達の矜持を、この男が今踏みにじったのだ。とても許せる事では無い。

 手を震わせ怒りを露わにするアイヴァンを、だがハイラムは蔑むように見る。

「何が矜持か、そのようなもので敵国を屠れるものなら苦労はせぬわ。そうやって煩く吠える前に、ティヴァナを早く倒して見せよ。それも出来ず、下らぬ自尊心にしがみつくだけの青二才が……!」

 ハイラムが投げ飛ばした羽ペンが、アイヴァンの額に当たり床に落ちる。

 怒りで目の前が真っ暗になった。

 何より許せないのは、こうまで侮辱されようとも反論出来ず、この男に剣を向ける事も出来ない、無様な己自身だった。



 腹立たしさを己の胃の腑に呑み込んだまま、アイヴァンは兵舎の自室へと戻った。

 総指揮官である彼の部屋は、書斎と、その奥に続く寝室の二間続きになっている。彼は書斎にあるソファにどかりと座ると、酒瓶の栓を抜いた。

『私はトルバの情報など流してはおりません……!』

 エルダという名の女が口にした言葉を、今更のように思い出した。

 振り返った時、その表情はロドリグの身体に隠れ見えず、真意の程を窺える事は出来なかった。

 いいや、あのロドリグと同じ暗殺部隊の人間の言葉である、端から信用などしていなかったのだ、だから己はその言葉の真意を問い質そうとはしなかったのだ。

 そしてロドリグの、「罪人の言葉に一々惑わされるのか」とでも言わんばかりの嘲笑に腹が立ち、深く考えようとしなかったのである。

 暗殺部隊の姦計にまんまと踊らされた己も愚かだが、真実を見抜く目を持たなかった己も愚かだ。ハイラムだけを責められたものでも無い。

 思わず自嘲し、アイヴァンは酒をグラスに注ぐ。その時、頬を夕刻の涼しい風が撫でた。

 彼はふとその風に違和感を感じた。

 ―――自分はこの部屋に戻って来て、果たして窓を開けただろうか。

 はっとアイヴァンは顔を上げる。手にしたグラスを、床に落とした。

「―――お前がトルバ国王軍総指揮官アイヴァンか」

 見知らぬ男が、いつの間にか窓枠に腰掛けアイヴァンを値踏みするように見下ろしていた。

「な、何者だ……!」

 彼は慌てて立ち上がると、剣を引き抜く。

 顔を上げ、その姿を認めるその瞬間まで、全く気配を感じなかった。だというのに今は、こうしてただ向かい合っているだけで、こちらが押しつぶされてしまいそうな程の圧倒的な覇気を放っている。

 剣を持つ手が震えた。それは武者震いなどでは無い事を、アイヴァンは自覚していた。

 ―――何と言うことだろう、この俺がたった一人の男を目の前にしただけで、このように恐怖で震え上がるとは……!

「何者だ、貴様は……! 魔の者か。それとも―――死の神メトプスか」

 この禍々しくも巨大な覇気は人では在り得ぬものだ。死の神メトプスという名が、この男にはしっくりと馴染んだ。

「化け物だろうが死の神だろうが、好きなように呼べば良い」

 男は感情の伺えぬ顔でそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。深紅のマントが風になびく。

「お前の剣の腕を確かめたい、かかって来い」

 その言葉と同時に、男から威圧感が消え失せる。アイヴァンの腕の震えはやっと止まり、全身からどっと汗が吹き出した。

「どうやって王城の強固な門を抜け、国王軍兵舎のこの俺の部屋まで辿り着いたのだ」

 問うてから、やはりこの男は人ではないと確信した。不審者が侵入したという騒ぎなど、どこにも起こっていないのだ。屈強な国王軍兵士達が集うこの王城敷地内を、誰の目にも触れず侵入して来るなど、唯の人であるならば不可能な筈である。

「そんな事、どうでもいいことだ。かかって来ぬなら俺から行くぞ」

 人ならざるこの何者かは、剣を抜くとアイヴァンに向かい跳躍する。

 ――――――速い………!

 男の剣は閃光のごとき速さで、アイヴァンを襲った。かろうじてそれを己の剣で受け止めたが、衝撃の強さに弾き飛ばされ、壁に体を打ちつけた。

「ほう……これを凌いだか」

 男は幾分興味深そうにアイヴァンを見下ろす。

「だがこれ位の剣なら、あいつも防ぐ事は出来たな」

「あ……あいつとは、誰の事を言っている」

 アイヴァンは立ち上がると、再び剣を構えた。圧倒的な強さを目の前に、心が沸き立つのを感じる。死の神でも何でもいい、この男を自分の下へ使わしてくれた事を、全ての神に感謝したい気分だった。

 策略だの姦計だのは、アイヴァンの気性には合わぬ事だった。軍隊同士の戦いも、互いの戦力を真っ向からぶつけ合う、それこそが軍人の美学だと信じて疑わずにここまで来た。

 それが通じなくなったのは、ハイラムが宰相となった頃からだ。

「―――では、これはどうだ」

 男は再び剣を振るう。先程の攻撃より、更に速い。

「ぐ………!」

 受け止め切れず、弾いた剣先がアイヴァンの肩を切った。だがその痛みよりも、彼にとって体から流れ落ちる大量の汗の方が深刻であった。たった二度の攻撃を受けただけで、もう既にアイヴァンの息は上がっているのだ。

「肩だけか……成程、あいつよりもお前のほうが、少しばかり腕が立つかもしれん」

 男は幾分意外そうに片眉を上げる。

「だから……あいつとは、誰なのだ」

 問い掛けるアイヴァンの言葉など聞いてもいない。男は問いには答えず、満足そうににやりと笑った。

「お前は民に慕われているようだ、そして腕もある。―――お前の首なら、あいつに相応しい」

「何を……言っている」

 良くは分からぬが、死の神に見込まれてしまったのだ。

 だがもう恐ろしくは無かった。ただ感じるのは、久しぶりに得る事の出来た充足感のみだ。

 ハイラムのやり口は好まぬ、信じる物は己の剣のみ。それが通じぬ今の国王軍には、既に己の生きて行く道は残っていなかったのだ。

 アイヴァンは再び剣を構える。

「それでも、簡単にこの首をやる訳にはいかぬ」

 死の神相手であろうと、せいぜい足掻いて見せようではないか。それがこの俺が、今まで軍人として生きてきた矜持なのだ。









 翌朝、靴屋の男は何時ものように箒を片手に処刑台の下へ行く。

「ああ……」

 男は崩れ落ちるようにがくりと地面に膝を付けると、溜息と共につぶやいた。

「やはり、神はトルバをお許しくださらなかった」

 処刑台の上には今、二つの首が飾られていた。

 一つはフィードニア副総指揮官ライナスのもの。そしてもう一つは、トルバ国王軍総指揮官アイヴァンのものである。

 男は初めて、置かれた首をまともに目にした。

 なぜだろうか、と男は思う。

 その並べられた二つの首は、そろって非業の死を迎えたと言うのに、何故か二人とも穏やかな顔をしているのだ。







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