8: リョカの少年
【人物紹介】
ユリア …フィルラーン(神に仕える者)の少女。
ジェド …フィードニア国軍総指揮官。フィードニア国の英雄。
ダーナ …ユリアの世話役。
ラオ …元ティヴァナ国軍副総指揮官。現傭兵。
クリユス…元ティヴァナ国軍弓騎馬隊大隊長(一級将校)。現傭兵。
ナシス …フィードニア国のもう一人のフィルラーン。フィルラーンとして最高権威を持つ。
ライナス…フィードニア国軍副総指揮官。
当時のラオとクリユスは、士官学校を卒業しティヴァナ国王軍へ入隊したばかりの十八歳の青年だった。
ヨサの町近くの国境警備に当たっていた彼らは、よくその町に顔を出していたらしい。
二人に助けられた事をきっかけに、ユリアは度々その町で彼らと会うようになったのだ。
二人は修行中のフィルラーンに興味を持ったらしく、ユリアの話を面白そうに聞いていた。
ユリアには二人と会う事が、堅苦しいその修業の毎日からの息抜きになっていった。
「そう言えば、フィードニア国に凄い男がいるらしいぞ。男…というか、ガキだがな。僅か十四で敵の総大将の首を取ったとか何とか。 去年の話だから、今は十五になってる頃か、末恐ろしいもんだぜ。…フィードニアと言えば、ユリアの故郷だろ?」
ユリアは奢ってもらった果実のジュースを飲みながら、うんと答えた。
「そうか。お前が修業を終えてフィルラーンとして城に上がる頃、もしかしたらその男がフィードニア国王軍のトップにいるかもしれんな」
「その頃は、きっと君も美しい女性になっているのだろうね、ユリア。勿体無いな、フィードニアに帰らず、ティヴァナ国のフィルラーンになったらどうだい? フィードニアは強国に挟まれた小国だから、いつ滅ぼされてもおかしくない国でもあるしね。…帰って危険な目に会わせたくは無いな」
ユリアはふるふると首を横に振った。
「ダメ、修業が終わったら、国に帰らないといけないの。帰ったらまた会おうって約束したんだもの」
「約束? それは男かい、ユリア。君が国を出たのは五つの時だろう。なんと、その若さで既に売約済みか。これは参った」
クリユスは、降参とばかりに片手を上げる。
「何を言っている、フィルラーンは結婚出来んのだろう。売約済みも何も無いもんだ」
「馬鹿だね、お前は。小さな恋の淡く純粋な物語ではないか。そんな大人の事情など、話すのは野暮というものだよ」
ああそうかよと、ラオは肩をすくめた。
「末恐ろしいと言えば、君の将来もそうかもしれないな、ユリア。君が大人になった時は、きっと君を巡って多くの男が争いを繰り広げるだろうよ。それを思うと、君が神に仕えるフィルラーンで良かったのかも知れないな。男達が無用の涙と血を流さなくて済むというものだ。―――まあ、もし戦うとしたら、この俺が勝ってみせるけどね。君を待っているその少年にも、容赦はしないよ」
言いながら、クリユスは片目を瞑ってみせる。
「ダメよ。そんな事したら、クリユスが怪我しちゃうかもしれないわ」
「何と……。俺はそんなに弱そうに見えるかい? これでも将来を結構期待されてる男なんだけどね」
「お前が軽薄な台詞ばかり吐くからだ」
肩を落すクリユスに、ラオが腹を抱えて笑った。
「そうじゃないのっ、クリユスが弱そうなんじゃないわ。でも、あの子には勝てないと思うの」
「ほほう。そんなに強いのかい、君の想い人は。では将来はフィルラーンの君を守るフィードニアの兵士という訳かな。幼い初恋の行く末としては、中々切なくも美しいでは無いか」
「ううん。兵士にはならないの。リョカの村に、ずっといるって言ってたわ。家族を守らないといけないから」
「まあ平民出身じゃあ、俺のように貴族の養子にでも入らんと出世は難しいしな」
ラオが頭を掻きながら言う。
ラオは元々農夫の息子だったが、その腕を買われ貴族の養子に入り、そこから士官学校へ上がったらしかった。 クリユスは、下級貴族の家に三男として生まれたのだそうだ。
「いや…フィードニアは確か五、六年前から、出自に関係無く実力の有る者を取り立てると、国王が布令を出した筈だ。いつ潰されてもおかしくない国だからな。王の苦肉の策だろう。―――さっきラオが言っていた十五歳の少年も、確か平民出身だという話だ」
「へえ、そうか。そりゃ全兵士にとっちゃありがたい話だな。我が国もそう変わって欲しいものだ」
「そうだな」
難しい話になって来たので、ユリアは黙ってジュースを飲み干した。
そして、懐かしい少年を思い出した。
五歳の時、ほんの数か月間滞在した、リョカの村で出会った少年の事を。
ユリアは叔父と母に連れられ、フィルラーンの修業の地、ラーネスへと向かう途中だった。
だが通り道となる国が戦乱の真っただ中だった為、当時のフィードニアの国境付近にあったリョカ村に、暫く留まる事になったのだ。
だがユリアにはそれが嬉しかった。母と一緒にいられるのは、そのフィードニアの国境までだったのだ。
それに、その村でユリアは少年と出会った。
ユリアより六つ年上の、黒い髪と黒い瞳の少年だった。
ユリアが会いに行くと、少年はその目を細めて笑うのだ。
「――――そう言えば、国に戻ったら再会を約束していたという、その男とはお会いになられたのですか、ユリア様?」
クリユスの言葉に、ユリアはふと現実に引き戻された。
現実は、甘い回想の世界と違い、余りに苦い。
「――――いや……私の会いたかった少年は、既にこの世にはいなかったよ。………死んだのだ、あの少年は」
「それは……悪い事をお聞きしました」
「まあこういう時世だからな、そういう事もあるだろう。 …おいユリア、さっきからダーナが待ってるぞ。明日の舞踏会の服を合わせるんだろう、早く行ってやれ」
「ああ、そうだな」
ユリアは侍女に二人を客室へと案内させ、そして自身は自室へ向かった。
ダーナは用意した衣装を嬉しそうにユリアへ着付ける。
懐かしむ過去などこの自分にはないのだと、ユリアは自身に言い聞かせた。
それよりもこれから、自分はどうしたらいいのか。この私に何が出来るのか。それだけを考えればいい。
事がどのように転ぼうとも、とにかく全ては明日始まるのだ。
*
「――――風が、変わろうとしています」
ナシスは自室の窓から外の景色を眺めながら、そう呟いた。
「風だと? 風とは何だ。それは吉報なのか、凶報なのかどっちなのだ」
ジェドが苛立ちながら言う。
「さあ……物事は立場が違えば吉凶変わるものですから。私には、どちらとも」
「またそれか。何時も抽象的な事ばかりだ、貴様は。たまには具体的な事でも言ったらどうなのだ」
「私が具体的に貴方にこうしろと言ったとして、それを聞き入れる方では無いでしょうに」
「ふん、違いないな」
ジェドは聖酒を勝手に飲み始める。
彼の傍若無人振りは、だがナシスにとって慣れたものであり、小気味の良いものでもあった。
ナシスが城に召し上げられてから少しして、ジェドもまた国王軍へやってきたのだが、その頃から彼は全く変わっていない。
幼い頃からフィルラーンとしての能力を開花させていたナシスの前では、誰もが膝を折ってきた。
大の大人が、ほんの十歳そこらの少年に跪く。それが滑稽だと少年のジェドは言った。
その時ナシスは、自分を対等の相手として扱うのは、生涯この男しかいないのだろうと悟ったのだ。
「王には良い風だと伝えて下さい。 ……恐らく、この国にとってそう悪い風では無いでしょう」
「では、誰にとって悪い風なのだ?」
「私には分りません。――――ですが貴方にとっては、本当はどうでも良い事なのでしょう?」
ジェドは口の端だけで笑みを作った。
「確かにな。この国がどうなろうとも、この俺自身がどうなろうとも、関心は無い」
「関心があるのは、ユリアだけですか」
「………知った事をぬかすな、殺すぞ」
ジェドはナシスに凄んで見せたが、ナシスは静かに笑った。
「貴方は私を殺しませんよ。――――私と貴方は、似ていますから」
「ふざけた事を、この俺とお前のどこが似ていると言うのだ。まるきり正反対では無いか、何もかもが」
「そうですね、何もかも正反対……けれど、初めて貴方を見た時に思ったのですよ、私と同じだと……。 貴方もそう思っているから、私の事が嫌いなのでしょう、ジェラルド」
「――――その名で呼ぶな。既に捨てた名だ」
ジェドは先程から占拠していたソファーから立ちあがる。
「お前といると酒も不味くなる。他所で飲み直しだ」
言い捨てると、さっさとジェドは部屋から出て行った。
「貴重な聖酒を殆ど飲み干しておいて、よく言うものです」
ナシスは苦笑する。
外では、心地良い風が吹いていた。
ナシスは窓を開け、室内へその風を招き入れた。
何が起ころうとも、自分は只の傍観者でしかないのだ、とナシスは思う。
先読みの力を持つ自分が、そこへ主観を入れる事は許されない。
誰が傷つこうと、誰が悲しもうと、自分はそれに感情を持つことは無いのだ。
――――貴方と私は、似ているのですよ、ジェド。
私も貴方も、人の愛情を知らない孤独な人間なのだから。