75: 手当て
エルダの真意を確かめ、害が無いと判断したらこちらへ取り込めとロランに指示したのは、クリユスだった。
そして恐らくトルバに追われているというのは真実だろう。
暗殺部隊の人間である。あの愚直さも、全てこちらを騙す為の演技だとも考えられたが、それは無いだろうとロランは判断した。
剣が素直だったというのもある。だが色々考えた末、結局決め手になったものは、ライナスへの信頼に他ならなかった。
「お前を一先ず信用するとして……お前に聞きたい事がある。トルバの事だ」
「……何だ?」
「フィードニア国王軍に、恐らくトルバと密通している者が居る。お前もトルバの暗殺部隊にいたのだろう、何か知らないか」
「密通者だと?」
エルダは僅かに眉根を寄せ、そして首を横に振る。
「残念ながら、そういう話は聞いていない。私達は自分に命じられた任務以外の事など、何も知らされはしないのだ。……いや、待て。そう言えばこの街に、ベクト様が…私達暗殺部隊の長であるベクト様が居を構えていた」
「何だと?」
「てっきり私を監視しているのかと思っていたが……思えばそれだけの為に、わざわざベクト様がこの地に来る筈が無い。密通者が国王軍内部に本当に居るのだとしたら、間違い無くベクト様と何らかの関わりがある筈」
「ベクト…」
初めて、何も掴むことの出来ない霧の中から『何か』の影を掴んだ。そんな気分だった。
「エルダ、俺をそいつの居る場所へ案内しろ。――――いや、トルバに追われているお前が、のこのことその場をうろつく訳にもいかんか。そうだな、街の地図を持って来よう。待ってろ」
「それはいいが…ちょっと待て」
警備兵の屯所に街の地図があるだろう。それを取って来ようとしたロランをエルダが引き止めた。
「その前に、一度塔へ来い。その傷の手当てをしてやる」
エルダがロランの頬をちらりと見やり、そう言った。
「別にいい、これくらい掠り傷だ」
傷口からまた滲み出た血を、再び拳で拭う。
「いいから、来い。来ないと後悔するぞ」
「何を言う、これ位の傷で大袈裟な」
そう言いはしたが、塔へ行けばユリア様に会えるかもしれないという期待が頭に飛来する。
そうだ、この女を護衛として使う事にしたと、彼女に報告もせねばならない。ベクトという人物の居所を聞くのは、それからでも遅くは無いだろう。そう自分に言い訳をしつつ、ロランは言われるままに塔へ向かった。
塔へ行き、一階の客間にでも通されるのかと思えば、エルダが真っ先にロランを連れて行ったのは、四階談話室だった。この直ぐ上階にはユリアの居室があるのだ。
「お、おい。どういうつもりだ」
幾らなんでも一介兵士がここまで上がるのは不躾が過ぎるであろう。下へ戻ろうとするロランを押し留めると、エルダは「いいから、ここで待っていろ」と言い残し部屋を出て行ってしまった。
さっきからいいから、いいからと、一体何なんだ? こんな無礼、良い筈が無いだろうが。
この一つ上階でユリアが寝起きをしているのかと思うと、妙に落ち着かず、ロランは部屋をうろうろと歩き回る。
(―――――まさかあの女、この俺を不敬罪に嵌めようとしている訳じゃないだろうな)
そんな事が頭に過ぎった時、部屋の扉が開いた。
「おい、エルダ―――――……!」
当然エルダだと思い声を上げたロランだが、現れたのは彼女では無かった。
「浅い傷だと言っていたのに、深そうな傷ではないか。大丈夫なのか、ロラン」
「まあ…本当に、痛そうですわ」
そこに現れたのは、ユリアと世話役のダーナだった。
「は……いえ、はい、これ位、大丈夫ですが……」
フィルラーンの塔なのだ、ユリアが現れたとしても不思議では無いのだが、ロランは思わず動揺した。
「ユリア様、これ位浅い傷ですよ。練習台としては丁度良い位です」
二人の後ろから顔を出したエルダがそう口を挟む。
―――――練習台? 何を言っている?
今のこの状況が分からないロランは、三人の女性に取り囲まれる中、ただ呆けるように立ちつくしているしかなかった。
「そうか……分かった、やってみよう。それよりエルダ、お前は急いで客間に行った方が良いな。ライナスがお前を待っているぞ」
「ライナスが?」
「突然お前が塔から姿を消すから、心配していたぞ。あのライナスが動揺する姿を初めて見た」
くすりとユリアは笑う。
「ロランがエルダを訪ねて来たと侍女から聞いて、やっと落ち着いたようだったが……まあ、怒られる覚悟くらいはしておいた方がいいな」
「はあ………」
幾分顔を固まらせ、エルダは部屋を出て行った。
「さて…お前のその傷の手当て、私にさせて貰いたいのだが……いいだろうか」
ロランに向き直ったユリアは、よく見るとその手に薬箱を抱えていた。
「は……ゆ、ユリア様が、この俺の……? い、いえ、そんな滅相もない事です……!」
「ロラン様、ユリア様はエルダ様から応急手当の方法を習ったのですよ」
言いながら、ダーナがにこりと笑う。
「応急手当を……ユリア様がですか? それは一体」
「エルダが元々軍人だったと聞いて剣を習おうとしたのだが、フィルラーンの私が剣を覚えるより、応急処置の仕方を覚えたほうが、戦場で役に立つだろうと彼女に言われたのだ。確かに、今のままでは役立たずだからな、私は」
「いえ、決してそんな事はありません……!」
戦女神としてそこに在られるだけで、どれだけ兵士達を勇気づけている事か。そう続けようとするロランを、ユリアは手で制する。
「まあ、そういう訳だから、練習がてら手当てをさせて貰いたいのだ。……嫌か?」
「嫌だなんて、とんでもありません……! この俺がお役に立てるのならば、幾らでもこの身体を使って下さい。何なら、もっと怪我を作ってきても……!」
「何を言っている」
ふふ、とユリアが笑った。
その柔らかい笑顔に、心臓が跳ね上がる。
「では、始めるぞ。お前、その椅子に座れ」
「はい」
言われるままに、ロランは長椅子の端に腰かけた。その隣にユリアが座り、机に薬箱を置く。ふわりと甘い匂いがした。手を少し動かせば抱きしめられる距離に、ユリアが居た。
(――――――ば、馬鹿野郎、俺は何を考えているんだ……!)
ロランは心の中で、己の顔を殴りつける。
「ユリア様、俺、やっぱり……」
ロランが立ちあがろうとした時、ユリアがその手を伸ばし、彼の顔に触れた。
「え……」
左頬の傷に薬をつけた白い布が押し付けられ、反対の頬には支えるように、ユリアの白い手が宛がわれていた。彼女の指の温かみが、頬に伝わる。
「わ……ゆ、ユリア様……!」
「あっ、こら、動くな」
思わずロランが仰け反ると、ユリアの叱責の声が飛んだ。
「いえ…けれど……」
ロランの顔を覗き込んで来るユリアの顔が、近い。彼女の睫毛さえ、数える事が出来そうだった。
大きな金の瞳。赤く小さな口。
(何て綺麗な人だろうか)
心臓の鼓動が早鐘を打つ。全力で戦った後でさえ、これ程に心臓が強く打ち付ける事は無いだろうと思えた。
不敬罪で処刑されても、構わない―――。
「ユリア様――――」
知らず、ロランの手が、ユリアの腰に伸びそうになる。その時、再び薬を付けた布が傷口に宛がわれた。
「―――――――!」
ぐいぐいと傷口を抉るように押し付けられるその痛みで、ロランは正気に戻る。痛い、もの凄く。
「ああっユリア様、そんなに強く抑えてはいけませんよ…!」
ダーナが慌てて止めたが、乾きかけていた傷口が再び開き、血がつう、と流れ落ちた。
その血を見たユリアの顔色から血の気が引いた。まるで怪我をしているのが彼女自身のように、ユリアは顔を歪める。
「す、すまない。痛かったか?」
申し訳なさそうに、ユリアは眉を下げた。いいえ、お陰で正気に戻れましたと、ロランは心の中で呟く。
「いえ、それ程は」
「ロラン、痛ければ痛いと言ってくれないと、練習にならない」
「はあ……」
そうは言うが、痛がる度にユリアに申し訳なさそうな顔をされてしまうと思うと、ついつい平気な顔をしてしまうのだ。
ユリアはそれでも何とか傷を消毒し終えると、新たな白い布をロランの頬に当て、包帯を巻き始めた。かすり傷に対し随分大袈裟ではあるが、これも練習なのだろう。
「ユリア様、それではロラン様が息が出来ませんよ」
「え……あっ」
口と鼻の両方を塞いでいた包帯を、ユリアは慌てて解く。
どうやら彼女は―――ほんの少しばかり、不器用らしかった。
エルダが客間へ向かうと、待っていたのは不機嫌顔のライナスだった。
「ロランと、どこへ行っていたんだ」
「……鍛錬所で、手合わせをしていた」
そんな事を一々報告しなければならない筋合いは無いと思いはしたが、塔へ匿ってくれたのは他でもないこの男なのである。エルダは大人しく答えた。
「手合いか。……あいつ相手だったら、勝てはしなかっただろうな」
「ああ、くやしいが負けた。私もまだまだ鍛錬が足りない」
「まあ、仕方がないな。あいつは小隊長の中でも腕の立つ男だ。弓の腕はもっと凄い、五、六年もしたら中隊長位にはなっているかもしれんな」
「へえ……そうか」
ならば小隊長の中でも他の男なら、自分でももっと勝負になるのではないかという思いが、ちらりと頭を過ぎった。ユリアという主を得た今、国王軍に対してそう執着する訳ではないが、それでも自分の腕を試してみたいという気持ちは湧くものだ。
そんな思いが顔に出ていたのか、ライナスはエルダの顔を眺め、そして溜息を吐いた。
「手合わせでも何でも、したけりゃ好きなだけやればいい。―――だが頼むから、塔から出る時は一言くらい、ユリア様かダーナ様に行き先を伝えてからにしてくれ。お前、トルバに追われている身だという事を忘れているのでは無いだろうな」
「忘れられる筈が無いではないか。だが王城の敷地内は他国の手が入る隙など無い筈、それ位好きに行動させてくれてもいいだろう」
「お前な」
ライナスは何かを言い掛け、だが諦めたように、再び溜息を吐いた。
「猫は猫でも野良猫だったな。大人しく籠に収まっていてはくれんか。まあ、そこに惚れたんだが」
「お前はまた、人の事を……」
獣などに例えるとは、と文句を言おうかと思ったが、続かなかった。いつの間にか、ライナスの胸の中にいたのだ。
「無事で良かった………この、馬鹿野郎が」
呟くように、ライナスはそう言う。
『あのライナスが動揺する姿を初めて見た』と言った、ユリアの言葉を思い出す。トルバに捕まったとでも思ったのか。王城の警備が堅固なのは、誰より知っているだろうに。
「し……心配かけたな。悪かった………」
こんな風に誰かに心配されたことなど、初めてのことだった。何だろう、どこかむず痒い気分だ。
だが―――――。
「ライナス、私も戦場へ行きたい。ユリア様をお守りしたいのだ」
エルダは顔を上げ、ライナスの目を見詰める。
「いつまでも塔の中に隠れている訳はいかないだろう。それにトルバに命を狙われているのは私だけでは無い。お前だってそうだし、ジェド殿や、他の兵士達も同じだ。戦場へ出れば皆、敵から命を狙われている。私は逃げているより戦いたいんだ」
「――――――」
ライナスは黙ったまま、ただエルダを見下ろしていた。
許しては貰えないかもしれないが、それでも諦めるつもりは無かった。国王軍に入れる訳も無いし、ユリアの世話役になれる訳でもない。けれどそんな肩書など必要であるものか。名などなくとも、ただ影のように寄り添えればそれでいいのだ。
「俺はお前のその目に弱い」
諦めたようにライナスはそう言うと、エルダの頭をくしゃりと撫でる。
「お前は、いつかそう言いだすだろうと思っていたよ。安穏と暮らしていける女ではない、そういう女に惚れた、俺が悪い」
「ライナス……」
「戦場へ行け、エルダ。だがもしお前に危害が及んだとしても、俺が助けに行く事は無い。俺にはフィードニア国王軍を纏めねばならない、責務がある。副総指揮官が単独行動を取る訳にはいかんからな」
「そんな事、当然のことだ。助けになんか来たら殴ってやる」
怖い女だな、とライナスは笑った。