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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第三章
71/187

71: ユリア3


 いよいよ二日後にはリョカ村を出るという日、私は母へ何かプレゼントを贈りたいと思った。

 当時の幼い私が母に贈れるものといったら、木の実か野花くらいのものである。私は村の中を歩き回り、せっせと野に咲く花を摘んだ。

 けれど集めた花は、可愛らしいけれどどこかぱっとしないものだった。

「ねえ、この村にもっときれいな花はないの?」私は村の人を捕まえて聞いた。

「綺麗って言えば、村の西に月霊草の花が咲いてるけどなぁ……」

 一人の男がそう呟くのを、もう一人の男が叱責する。

「馬鹿言え、あそこはミューマの谷に続く道じゃねえか。この子が真に受けたらどうする、例のフィルラーンの子だぞ…!」

 怒鳴られた男は青褪め、そして怒鳴った方の男はユリアの顔を覗き込み、諭すように言った。

「お譲ちゃん、あそこはいけない。奥にミューマがいますからね。危険ですから、くれぐれも近づいてはいけませんよ」

「……うん」

 私は頷いたが、既に心はその月霊草の咲く谷にあった。月霊草の花は、母の好きな花だったのだ。

 それにミューマは月霊草の匂いが嫌いなのだ。だから月霊草の傍には近寄らない。その花を摘んでいて危険などという事が有ろう筈がないと、私は判断した。

 話で危険だと聞くだけの、実際に見た事も無い獣の恐ろしさよりも、母の喜ぶ顔を見たいという気持ちの方が、私の中で勝っていたのだ。


 村の西側の奥、谷へ続く道には、ロープが張られていた。そこには何かが書かれた立て札が据えられてあったが、その頃の私には、まだ字を読む事が出来なかった。

 その場所の付近には月霊草は生えていなかったので、私はそのロープをくぐり、奥へと入って行った。

 初めは恐る恐る進んでいった。けれどミューマの姿はちらりとも見えない。恐ろしい獣の棲む場所なのだから、恐ろしい場所を想像していたというのに、辺りは静かで、とても穏やかだった。

 本当にそんな獣がここにいるのだろうか。谷底へ落ちては危険だからと、子供達をこの場所へ近づけない為に、大人達がそんな風に嘘を言っているだけなのかもしれない。

 小鳥のさえずりが聞こえた。

 そう、こんなに心地の良い場所なのだから、恐ろしい事なんて何もないに違いない。

 月霊草を見つけた時には、既にミューマの存在は頭の片隅からさえも消えていた。


 月霊草の花は白く、花弁が何枚も重なる美しい花だった。花びらの隙間にまだ残る朝露に、日差しが反射しきらりと輝いた。

 そして花からはとても良い香りがした。この香りが嫌いな生き物がいるだなんて、とても信じられない。花を一本手折りながら、私はそう思った。

 一本、また一本と花を摘んでいくうちに、いつしか私は月霊草花の中でも、より綺麗な花を摘んで母に持って帰りたいという欲求が生まれ、夢中になっていった。いつの間にか自分が随分と奥に入ってしまっているのだという事に、全く気づかずに。

 相変わらず辺りは穏やかで、小鳥がちちちと鳴く声が聞こえた。

 その時、背後にとん、と小さな音がした。

 何だろうと、私は振り返る。

 瞬間、私は息を飲み、その場に凍りついたように固まった。

 指一本、視線さえ動かせない。声すら発することが出来なかった。 それは私が生まれて初めて味わった、本当の恐怖だった。

 身の丈一七〇クロート(約二メートル)程の、真っ白な毛色の体躯、猫のような尖った耳、緑色の目。そして大きく鋭い牙。足は太く、その先には鋭い爪が生えていた。一度も実物を見たことは無かったが、直ぐにそれがミューマなのだということが分かった。

 ミューマに襲われた村が壊滅してしまったという話も聞く。それ程に凶暴な獣が、私の目の前に、たった四ヘルド(約五メートル)程の所にのそりと立っていたのだ。その恐怖は言葉ではとても言い表せないものだ。

 獣は、己の嫌いな臭いを発する花を持っている私と己の空腹とで迷っているかのように、四ヘルド先でうろうろとしていた。

 逃げなくては、と思うが、体が全くいうことを聞かない。汗が頬を幾筋も流れ落ちた。

 ―――――助けて。

 谷の方から、もう一匹のミューマが現れこちらへ近づいてくる。

 ―――――誰か、誰か―――!

 更にもう一匹。

 一番近くにいるミューマが、仲間に獲物を横取りされる前にと思ったのか、足を一歩こちらへ踏み出した。

 そしてその獣は牙を剥き、私の方に向かって飛び跳ねる。

 ―――――――お願い、誰かたすけて……!

 私はぎゅっと目を瞑った。―――必死の思いでやっと動かせたのは、瞼だけだった。


「―――――――ユリア……っ!」

 その声と共に、急に瞼の上に影が差した。けたたましく、獣が吼える―――。

 私は目を開けた。

 目に飛び込んで来たものは、剣を持つジェドの背中と、血しぶき。 雨のように赤い血が降ってきて、そしてごとんと私の隣にミューマの首が転がった。

「――――――い……いや――――――嫌だあぁ……!」

 今まで恐怖のあまり出なかった声が出た。極度の緊張が、突然現れたジェドにより緩んだのだろうか、恐怖を全て吐きだすように、ただただ私は叫んだ。

 ジェドは獣の爪をひらりと避け、もう一匹のミューマを切り捨てる。そしてちらりと私の方を見た。

 何故だろう、その黒い瞳は何かを恐れているかのようでもあり、そしてどこか―――悲しげだった。

 


 私はそのまま意識を失い、次に目覚めた時は馬車の中だった。

 既にリョカの村を出て半日立つという。貴重な残りの時間を失ってしまった上、最後に母に別れを告げる事も出来なかったのだ。自業自得とはいえ、なんともやるせなかった。

「花は……」

 私が呟くと、叔父が優しく笑った。

「お前のお母様の為に摘んでいたのだろう? 気を失ってもしっかりと握りしめていて、離すのに苦労したぞ。お前は優しい子だな」

 そう言いながら、叔父は私の頭を撫でる。

「けれどあんな危険な事は二度としては駄目だぞ? お前はフィルラーンになるのだから、もうお前自身の命でさえ、お前が自由にする事は出来ないのだ」

「………はい」

 その言葉の意味は良く解らなかったが、あの谷へ近づいては駄目だと言う村人の話を聞か無かった為に、危険な目にあったのだ、それは反省していた。

「ねえ、ジェドは? ジェドが助けてくれたの」

「ああ、リョカ村の少年がミューマを倒したそうだな。考えられない話だが、怪我一つ負ってはいなかったようだ、安心しなさい」

 あんな田舎の村に凄い少年がいたものだと、叔父は感心したように言った。

 あの恐ろしい獣を相手にして、三匹とも倒してしまったのだ。やっぱりジェドはとても強いのだと感心し、そして叔父が彼を褒めるのがどこか誇らしかった。

 私はこの時、自分が何をしたのか。どのような罪深い事をしてしまったのか、全く気付いていなかった。

 助けて貰ったお礼も、別れの挨拶もすることが出来ず、こんな風に突然別れなくてはならなかった事が、ただ心残りであるだけだった。


 フィルラーンの修行が終わったら、一番にジェドに会いに行こう。そして助けて貰ったお礼を言うのだ。

 私はラーネスでの十年間、再びジェドに会う事をずっと想い続け、再会を心待ちにしていた。

 彼に会いたかった。ただただ会いたかった。両親には二度と会う事が叶わないのだと理解してからは、彼だけが心の支えだったと言ってもいい。

 何も知らぬ幼い私は、純粋で、そして恐ろしく愚かだった。


 十年経ち修行を終えた私は、フィードニアの王都へ戻る旅程で、休憩という名目をたててリョカ村へ立ち寄った。

 約束通りジェドに一番に会いに行ったのだ。ジェドが喜んでくれる事を、そして以前と同じように笑顔を向けてくれる事を想像し、胸が高鳴った。

 久しぶりに来たリョカ村は、建物がその分くたびれてはいるが、他は十年前と少しも変わっていない。

 私は護衛の兵士の目を盗んで宿泊する屋敷を抜け出し、村の東外れの、あの大きな木の元へ行ってみた。けれどジェドはそこにはいない。

 それもそうだろう、いつまでも遊び場にいる子供では無いのだと、思わず苦笑した。ああ、そうだ。もう彼は立派な大人になっているのだから。

 昼間である、畑を耕しているか、それとも何か商売でもしているのか。あまり想像がつかなかったが、とにかく仕事をしている最中なのだろう。

 村へ戻り、私は村人を捕まえジェドの居所を聞いた。けれど返答は「そんな男はいないよ」であった。

 そんな筈は無い。見知らぬ女に不審を抱いているのかもしれないと、私は頭に深く被っていた布を外す。

「怪しい者ではありません、私はフィルラーンのユリアと申す者。十年前にこの村に滞在し、そしてミューマに襲われ命が危ない所を、この村の少年に助けて貰いました。そのお礼がしたくてここへ立ち寄ったのです」

「なんと……フィルラーンのユリア様……!」

 村人は慌てて平伏すると、「少々お待ちを」と言い残し立ち去り、そして暫くの後に中年の女性を連れて戻って来た。女は土の染みついた、粗末な衣服を身に着けていた。手は荒れ、爪にも土がこびり付いている。身なりからすると農婦のようである。

 女性は私の前に跪き、頭を深々と下げて言った。

「幼少の貴女様をミューマからお助け致しましたのは、確かにこの私の息子でございます。けれどユリア様、お探しになりましても、既に息子はこの村にはおりません」

「いない……? それは、どういう……」

 驚く私に、農婦は顔を歪めた。

「貴女はご存じでは無いのでしょうか。おかしなこと、貴女様をお助けした為に、私の息子は軍隊へ徴兵されてしまったのだというのに……!」

「え………」

 女は憎らしげな目で私を見上げる。

「私の息子は幼い頃から剣術に優れた腕を持っておりました。その才覚が国に知れたら、軍隊へ徴兵される事は必至。息子を手放したくなかった私達夫婦は、それをひた隠しにしていたのです」

 農夫婦はジェドに人前で剣をふるう事をきつく禁止したのだという。村の外にジェドの才覚が漏れなければ、、軍隊の目に止まりさえしなければ、親子三人ひっそりと暮らしていけるのだ。

 だがあの日、一つの村を壊滅させてしまう程の凶暴な獣であるミューマを、しかも三匹も倒してみせた剣の腕前は、瞬く間に村の外へと知られてしまった。それはもう、今更隠しようの無い程に。

 ジェドが国王軍へ徴兵されたのは、実にあの事件から、たった二十日後の事だったという。


「そんな………」

 私は愕然とした。

 ――――何という事を、私はしたのだろう。


『そんなに強いのに、王様のけらいにならないの?』と私はジェドに聞いた。

『別に、そんなものになりたいとは思わないな』とジェドは答えた。『家族が、いるからな』と―――。


 私を助けてくれた時、最後に見たジェドの悲しそうな表情が、やっと理解出来た。

 彼には解っていたのだ、私を助ける事は、己の家族と引き離される事であると――――。

 ――――私は、何という事を……!

 家族と離される悲しさを、寂しさを、この十年間で嫌という程味わってきた。その私が、よりにもよって彼を同じ苦しみに引きずり込んだのだ。この私の迂闊な行動によって……!

 いいや、私と同じではない。私には本当の兄のように私を慈しんでくれた、クリユスとラオが居た。だがジェドに与えられたものは、あの狂気に満ちた戦場だったのだ。

 だというのにそれも知らず、この十年もの歳月の間、私は呑気に彼との再会を夢見ていたのだ。

 何と愚か、何と罪深い事か。

「私達夫婦には、他に子供はおりません。たった一人の大切な息子を、貴女が私から奪ったのです……!」

 返してください、と女は叫んだ。

「夫は最近体を悪くしています、なのに頼れる筈の息子はいない。ああ、どうして神は私にこのような苦しみを与えられるのですか……!」

 ジェドの母はその荒れた手で、私に縋りついた。どこから出るのかと思う程の強い力だった。

「ねえ、ユリア様。この私をお助け下さい、ほんの少しご慈悲をお与え下さるだけで良いのです。出来るでしょう、貴女様はフィルラーンなのだから」

「わ…私は……あなたに何をしたら……」

 私がこの女性に何をしてあげられるというのだろう。今の私には何もしてあげられない。彼女が苦しんでいる原因は、この私が作ったのだというのに、何もしてあげられぬのだ。

 女はすっと手を伸ばし、私の首を指差した。

「なら、それを私に下さいませ。きっと高価なものなのでしょう? それで暫く食べて行くことが出来ますから」

 私は襟元に付けていたブローチを外し、彼女に差し出した。左程高価な物では無いが、それでも少しは生活の足しになる筈である。

「ああ、ありがたいこと…。やはりフィルラーンは慈悲深くていらっしゃる」

 女はブローチを両手でぎゅっと握りしめると、私を見上げ口の端を吊り上げた。

「けれどこれで罪をあがなったとは思わないで下さいまし。私から息子を奪った罪は、これ位の施しで消えるものでは無いのですから。ねえ、ユリア様、そうでしょう。きっとまた来て下さいましね」

 その言葉の意味する所は、私にも解った。

 だが誰がこの彼女の行為を責められるだろうか。善良な農婦である彼女をここまで追い詰めたのは、紛れもなくこの私なのだ。



 彼女の元へ、このリョカの村へ、ジェドを返してあげたい。私が放り込んだ戦場から、彼を開放してあげたい。それが出来たなら、一番の贖罪になるというのに。

 けれど私にそんな事が出来る筈がないのだ。フィルラーンは軍に口出しする権利など持ち合わせてはいないのだから。


 ――――いいや、違う。

 

 私は己の思い付きに、目を見開いた。


 出来なくともやらねばならないのだ。そうではないか。それ以外に、私が贖罪出来る事などあるものか。

 何としても、やるのだ。

 そう、例え他に何かを失い、何かを犠牲にしたとしても。


 私はジェドをこの村に返してみせる。


 






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