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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第三章
67/187

67: その名を知らず4


 ――――――なんだ、この男は?


 数ある客室の内、扉が僅かに開いている部屋があった。掃除をしていて誰かが閉め忘れたのだろうかと思い、エルダがその中を覗き込むと、そこには長椅子の上で眠り込んでいる男が居た。

 武具を一切身に着けてはいないが、十分に鍛えあげられたこの身体付きからすると、恐らく兵士なのだろう。しかしそれにしてもフィルラーンの塔でこれ程に図々しく昼寝をする兵士などいるのだろうか。

「――――誰だ、お前は?」

 眠りこけているとばかり思っていたその男から声を掛けられ、エルダはどきりとした。男はゆっくりと目を開けると、目だけをこちらへ動かす。

「それはこっちの台詞だ。何者だ、お前は」 叱責の意を込めて、エルダは声を張り上げる。

 男はのそりと上体を起こすと、そのまま長椅子に座り込みエルダを見上げた。

 黒い髪に黒い瞳。中々に整ったその顔は、低い声から想像するよりも随分若い。年の頃は恐らくエルダと同じか、少し下くらいだろうと思えた。ならば位持ちだとしても、せいぜい小隊長といった所か。何にしてもこのフィルラーンの塔で居眠りするなど不遜にも程があろう。

 今まで出会ったフィードニア兵士達もフィルラーンに対し大概に無礼であったが、この男の行為はそれ以上に目に余った。フィルラーンの少女が優しく寛容である事に、彼らがつけ上がっているとしか思えない。

「この俺に何者かと問うか。お前、フィードニアの人間ではないな」

 幾分面白そうに男は言う。国王軍の人間の顔を、国民全てが知っているとでも思っているのかと、エルダはいささか呆れた気分になった。

「それに、どこかの軍人だな」

 男はエルダを眺め、そう言った。

「な――――何故」

 突然真実を当てられ、エルダはぎょっとする。ライナスの時のように殺気など放っていない筈である。何故分かったのか―――。

「他国の軍人が、何故フィルラーンの塔を我が物顔で歩き、そしてユリアの服を着ているのだ?」

「私は……故あってここに一時身を寄せさせて頂いているのだ」

 今男がフィルラーンの少女の事を、ユリアと呼び捨てにしたような気がしたが、流石にそれは聞き違いであろうと流す。

「ふん……よくよく客を招く奴だな、よほど暇らしい」

「……何?」

 この男が口にした言葉を把握する事が出来なかった。いや、エルダの中の常識というものが、それを理解しようとするのを拒否したと言った方が正しいかもしれない。

「私の事などどうでもいい。貴様こそ、ここで何をしている」

「何を? さて、見ての通りだが」

 言いながらにやにやと笑うその態度が、酷く馬鹿にされているようで腹が立った。

「訓練を怠け昼間から居眠りか。しかも不敬にもフィルラーンの塔に入り込むとは、貴様の上官は何を教えているのだ」

「上官か。それは誰のことを言っているのだ?」

 くく、と男は笑った。馬鹿にされているようで、ではない。確実に馬鹿にされているのだ。

 こんな男を放っておくとは、ライナスは一体何をやっているのか。上官が上官だから、こんな部下が出来上がるのだ。

「もういい。この国の総指揮官や副総指揮官はお前に礼儀を教えないらしいな。礼節を知らぬ国王軍とは呆れるものだ」

 厭味を言ってみせたが、男は素知らぬ顔である。

「そうだな、確かにライナスに礼儀を教わったことは無いな」

「もういいと言っている、減らず口を叩いていないで早々にここから立ち去れ……!」

 エルダは踵を返し、部屋を出ようとした。だが、ふとこの男の言葉に引っかかった。

 ―――――ライナス、と。国王軍副総指揮官を、敬称も付けずに呼び捨てにしたのだ。今度は聞き間違いなどでは無い、この男ははっきりとそう口にした。

 幾ら無礼な男であるとしても、はたして国王軍の兵士が、上官である男を他人の前で呼び捨てにする事があるだろうか? 

 いいや、答えは「否」である。国王軍の規律は厳しい、そんな事が許される筈が無いのだ。

 しかしこの男は副総指揮官であるライナスの事を、当然のように呼び捨てた。

 ―――――まさか。

 なら何だ? ライナスを呼び捨てにする事が出来る唯一の存在。それは。

 ―――――この男が。

 エルダは全身から汗が滲み出るのを感じた。恐る恐る振り返ると、悠然と長椅子に座っている男が、にやりと笑った。


「まさか―――まさか貴方は、フィードニアの英雄……フィードニア国王軍総指揮官、ジェド殿では…」

 男は幾分詰まらなそうな顔になる。

「だったら、どうなのだ?」

 ――――――なんてこと………!

 エルダは慌ててジェドの元へ歩むと、床へ片膝を付いた。自己嫌悪で死にそうな程に胃が痛かった。

「し…知らぬ事とはいえ、大変なご無礼を……!」

 噂に聞く“英雄”がこれ程に若い男だとは思いもしなかった。だがそんな事は言い訳になど成りはしないのだ。

 そもそも最初から気づくべきだったのだ。フィルラーンの塔で昼寝をするなどという不敬を、たかが小隊長が悠然と行えるわけがないのだ。

 だがフィードニアの“英雄”の前には、フィルラーンでさえ跪くのだと聞く。この塔での不敬がもし許されるのだとしたら、その“英雄”以外には有り得ぬではないか。

「私は故あって、ライナス殿の計らいによりこちらへ一時的に滞在させて頂いている者。名をエルダと申します」

 今度はエルダの方がジェドを見上げながら言う。更に続けようとするエルダの言葉を、ジェドは遮った。

「――――何故言葉を変える?」

「…………は?」

 その言葉の意味が理解出来なかった。

「お前は今、誰に対し物を言っているのだ? 英雄か。フィードニア国王軍総指揮官か。それともこの俺自身にか」

「は……あの……?」

「この俺の名を知る前は、お前は己と俺を同等の人間だと思ったのだろう? ならば今お前は“英雄”という偶像の前に膝を折っているに過ぎぬ。俺の部下でも無いお前が、この名に低頭する必要など無い。立て」

「いえ……あの」

 益々何を言っているのか理解出来なかった。ただ立てと言われた事は分かるのだが、敵国とはいえ国王軍総指揮官という、エルダにとって憧れてならぬ存在を前にして、ではとばかりに立ち上がり、礼を欠く事など出来なかった。

 しかしこのままその言葉に従わずに跪いている事も、もしかすると英雄の命に逆らっているのだろうか。どうしたら良いのか分からずにその場で固まっているエルダを、ジェドは暫く黙って見下ろしていた。

「―――お前、ライナスの計らいでここに居ると言ったな」

「はい」

 話題が変わった事に、救われた思いでジェドを見上げる。

「ではライナスにお前に似合う色の服でも用意して貰うんだな。いつまでも床に跪いているつもりなら、白は都合が悪かろう」

「え……あ……!」

 エルダが今着ている服はユリアから借りたものなのだ。彼女の服は殆どが白を基調としたものであり、勿論エルダの今の姿もその限りである。白い生地に汚れなど付けてしまっては、落ちなくなってしまう。エルダは慌てて立ち上がり埃を払った。

「英雄の名よりも服が大事か」

 同時に、はは、と声を上げ楽しそうに笑うジェドの声が聞こえ、我に返ったエルダは顔を赤くした。

 ――――からかわれているのだ、この男に……!

「この服はただの服ではありません、フィルラーンのユリア様からお借りしている、大切な物ですから」

 開き直った気分で、エルダはその場に立ったまま幾分つんとして言った。

 するとジェドの顔から急に笑みが消え、瞬く間に冷たい表情に変わった。唐突な彼の変わりように、流石に無礼が過ぎたかと冷や汗をかいたが、そうでは無かった。ジェドは既にエルダを見てはいない。視線は彼女の後方へ向けられていた。


「―――――ここで何をしている」

 エルダの背後―――ジェドの視線の先から、凛とした声が響いた。

 その声は確かにユリアのものだったが、険が含まれたその声が本当に彼女から発せられたものだとは、振り返り彼女の姿をこの目にしても信じられなかった。

 そしてその表情もまた、今まで優しく微笑む彼女の顔しか見た事が無いエルダにとっては、信じがたい程に冷たいものだった。

「フィルラーンの塔を何だと思っているのだ。ここはお前の休憩所では無い、さっさと兵舎へ戻るがいい…!」

「…ふん。こんな塔、ただ単にフィルラーンが住んでいるというだけの、唯の塔ではないか。殆ど使われる事のない無駄な部屋を活用しただけだ。何が悪い」

 ジェドは面倒そうに言う。フィルラーンに叱責されているというのに、その様子には悪びれた所など微塵も感じられなかった。そしてその言葉にユリアは目を吊り上げる。

「唯の塔……何を言う、この無礼者が……!」

「事実を言っただけだ、つまらんことで怒っている暇があるならお前の仕事をしろ」

「何だと?」

 ジェドが立ち上がると、ユリアはびくりと一歩後ずさった。

「――――お前のただ一つの仕事は、清めの儀式を行うことであろう? 神を語り戦場へ行く事では無い」

 睨み合う二人の姿に、エルダはただ驚愕するしかなかった。

 そこには『フィルラーン』と『英雄』という存在から想像し得る、崇高な関係など何処にも存在せず、ただ憎悪をぶつけ合う二人の人間でしかなかった。

 それに、確かにジェドは戦場と言ったのだ。このフィルラーンの少女が戦場へ? 一体どういう事なのか――――。

「ち――――近寄るな……!」

 ユリアは怒鳴った。

「お、お前が戦場で私に言ったのだろう、近寄るなと。ならば私にもそう主張する権利はある筈だ」

「何を言っている」

 ジェドはユリアの腕を掴んだ。それを外そうと、ユリアはもがく。

「嫌だ――――離せ……!」

 その叫び声に、エルダははっとした。ユリアの顔色が随分と悪い事に、彼女はようやく気づいた。

「ジェド殿、失礼ながらユリア様はご気分が優れぬようです。清めの儀式を執り行うのは後日にしては頂けませぬか」

 エルダは二人の会話に慌てて声を挟む。

 何が何だか分からないが、一先ずここは二人の睨み合いを止めさせた方が良いだろうと、エルダは判断したのだった。

 一瞬ジェドの視線とぶつかり、その目に宿る光の力強さに圧迫されエルダは身を竦ませたが、ジェドはそれ以上の無体をすること無くユリアの腕を離す。

「ふん、番犬を手に入れたか。ユリア、お前が知っているかどうかは知らんが、この女はどこかの国の軍人だった女だ。着せ替え人形変わりに使うより、もっとましな使い方をするんだな」

 そう言い薄く笑うと、ジェドは部屋から出て行った。


「ユリア様、お部屋にお戻りになられた方が…」

 青褪めながら立つ少女は、どこか視線が定まっていなかった。倒れるのではないかと不安になり、身体を支えるように肩を抱くと、その肩が小さく震えている事にエルダは気づいた。

「…………何の、話を……」

 ユリアは掠れた声を出した。

「え?」

「……あの男と、何を話していた? あんな笑い方、あの男が……どうして……」

 エルダに問いかけるような言葉ではあるが、実際は答えなど求めていないのだろう。彼女の視線はエルダを通り越し、遥か遠くを見ているようだった。

「もう、あの時の少年は、この世にはいないと思っていたんだ。……だけど、違った。私の前に……いないだけだ。 そうか、それも、そう……」

「……ユリア様……?」

 少女は酷く動揺しているようだった。そう、これ程に青褪める程に。

 ユリアが口にするそれらの言葉の意味は全く解らなかったが、彼女が心に抱える様々なものが、内側で渦巻いているのだという事は分かった。

 そしてその葛藤は何となく理解出来るような気がした。 自分の中に抱える葛藤とそれは似ているような気がしたのだ。

 激しく相手を憎く思う、その想いと。そしてそれと同じだけの相反する別の感情を―――。


「ユリア様は、ジェド殿を愛していらっしゃるのですね」

 呟くエルダの方へ、ユリアはゆっくと顔を向けた。

「……………え?」

 虚ろな視線がエルダを見詰める。ユリアはその大きな瞳を二、三度瞬きさせた。

「……何を言っている? そんな事、ある筈が無い」

 言いながら、ユリアはくしゃりと顔を歪めた。

 ――――気づいていなかったのか。

 口にするべきでは無かったのかもしれないと、ユリアの顔を見ながらエルダは後悔した。その顔には絶望の色しか浮かんではいなかったのだ。


 

 ―――――ああ、そうだ。

 誰もかれもが、己の心の内にあるその感情の名など、知らないのだ。

 





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