64: その名を知らず1
荷物を全て袋に詰め、エルダは部屋を見回す。元々私物など殆ど持ち込んではいなかったが、それでも彼女を示す物が何一つ無くなったその部屋は、まるで初めからそこには誰も存在しなかったかのように、ただ静寂な空間であるだけだった。
それでいいと、エルダは思う。もうこの場所には二度と戻る事はないのだ。己の痕跡など、髪一本でさえこの場に残す必要は無い。
「エルダ…!」
戸を叩く音とほぼ同時に開け放たれた扉から、マリーが顔を覗かせた。
「お菓子を買って来たんだ、一緒に――――」
笑顔のマリーの視線が、この閑散とした部屋の中を泳ぎ、次にエルダの持つ荷物に止まる。そしてそのまま顔を固まらせた。菓子の入った袋が、ぽとりと床に転がる。
「………行っちゃうんだね……」
俯いたまま、マリーは呟く。
「そうだ」
答えながら、エルダは何故が胸が痛んだ。
誰にも―――マリーにも、何も告げず黙って出て行くつもりだった。そんな必要は無いと思っていた。
だが今、泣きそうに歪められたマリーの表情を前にすると、もしかしたら自分はこれを見たくなかったのかもしれないと思えた。
引き留められるのは面倒だとか、鬱陶しいとか、そういう事ではなく。
「エルダはそう長くはここにいないだろうと思っていたよ……。ふふ、だってお姫様が居るには相応しくない場所だもの」
マリーは顔を上げると、力無く笑った。
「そんな人間では無いと、何度も言っている……」
「どこに行くの? ずっと遠く?」
最後まで人の話を聞かない女だ。エルダは苦笑した。
「そうだな…ずっと遠くに」
「あたしも付いて行っちゃ……駄目だよね」
「駄目だ」
きっぱりと言うエルダに、マリーが何度か瞬きをする。涙を堪えようとしているのだと分かり、エルダの胸が再び痛んだ。しかし泣かれたとしても、彼女を連れて行く訳にはいかないのだ。
「えへへ…そりゃあそうだよね、ライナス様との駆け落ちに、あたしなんかがくっついて行っちゃ邪魔ってもんだ」
「――――お前はお前で、幸せになれ」
心細そうにする少女の頭を、エルダはそっと撫でた。何故そんな事をしようとしたのかは、己でも解らなかった。
マリーはくすぐったそうな顔で笑う。
「なれるかな、あたしでも幸せに」
「なれるよ、お前なら」
素直にそう思った。このお節介で人の話を聞かない、夢見がちな愛くるしい少女が幸せになれず、この世で他に誰が幸せになれる?
「あ……!」
マリーが目を丸くする。怪訝な顔をするエルダの顔を、マリーが嬉しそうに覗き込む。
「今、エルダ笑った……!」
「なに……」
「初めて笑った顔を見たよ、わあ、笑うともっと綺麗だね……!」
「ば……何を言っている……!」
顔が火照るのを誤魔化すように、エルダは荷物を片手で抱え彼女から背を向けた。
「私はもう行く、じゃあな」
「あ、待って……!」
慌ててマリーがエルダの服を掴み、波打つ髪を括っていた赤いリボンを解いた。
「これあげる、友達の印よ」
友達の。
どくんと、胸が鼓動を打ったのが分かった。また良く解らない感情が心に広がる。
「しかし、私には変わりにお前に上げられるものなど無いが」
「そんなのいいのよ。…あ、でもそれなら、それをちょうだい」
マリーが指差したものは、エルダが長い髪を頭の後ろで無造作に括りつけていた、茶色い只の紐だった。
「こんな物…お前のそのリボンと交換できるような、そんな上等な物では無い」
「あたしのリボンだって上等な物では無いわ。価値なんて関係無いのよ」
そんなものなのか。近い年頃の娘とあまり関わった事の無いエルダには、彼女の云わんとする所が良く解らなかったが、それでもマリーがいいというのならそうなのだろうと、大人しく己の髪を結んでいた紐を取って渡した。
にこりとマリーは笑うと、代わりに彼女の持つリボンでエルダの黒い髪を結び直す。エルダは赤が似合うわねと、マリーは言った。
「エルダもライナス様と幸せになってね」
その言葉にエルダは曖昧に笑って返し、そして今度こそ部屋の扉を開けた。
もう彼女と会う事は二度とないだろう。見送るマリーの半泣きの笑顔を見ながらそう思った。
――――何故。
彼女と触れ合った日々は短いというのに、何故これ程に別れが苦しいのか。何故離れ難いと思うのだろう。
気が合う訳でも無く、人の話を聞かず勝手な妄想をしてはエルダを苛立たせた。そんな少女に。
――――それでも自分は彼女に惹かれていたのだと、今更気付いた。その屈託の無さに。その笑顔に。
何の見返りも要求せずに手を差し伸べられたのは、初めての事だったのだ。
マリー。お前が私の友になりたいと言った時、本当は私がどれ程嬉しかったのか、お前に解るだろうか。
伸ばされたその手を、血に塗れたこの手で握り返す事など出来はしなかったが、それでもその笑顔に私は確かに救われていた。
エルダはたった一度だけ、マリーの居る娼館を振り返った。
マリーが幸せになれば良いと、心からエルダは願う。
たった一人の、私の友が。
そして。このフィードニアの地で出会い、エルダの心に入り込んできた人物は、もう一人――――。
「今日もその格好か。似合ってはいるが、男装する女を口説く趣味は無いんだがな」
苦笑しながら現れたのは、ライナスである。エルダは城下町南地区の、塀に囲まれた空き地にライナスを呼び出していた。
「男装をしている訳では無い。だがドレスでは動きにくい、それだけだ」
細みのズボンを穿くエルダを見ながら、ライナスは肩を竦める。
「だがその赤いリボンはお前に似合っているな」
「触るな」
ライナスが伸ばした手を、エルダは振り払った。代わりに男の胸倉を掴むと、自分の方へ引き寄せる。
エルダの方から口付けるのは初めての事であり、ライナスは一瞬驚いた様子を見せたが、直ぐに彼女の腰と頭に手を回すと、貪欲に彼女の唇を貪った。
エルダは服に縫い付けてあった短剣を引き抜き、彼の首へ目掛け振り下ろす。
「おっと……!」
ライナスはエルダを軽く付き飛ばすと、後ろへ飛んでそれを避けた。
「相変わらずだな、牙を持つ猫とはおちおち情事に耽る事も出来ん」
人を猫扱いとは無礼な奴だ。
エルダは短剣を捨てると荷物の中から長剣を取り出した。
「ふん……今更お前を騙し打ち出来るとも思っていない。今のはちょっとした挨拶だ」
これで殺せるものなら、今まで自分の横で寝息を立て寝るこの男を、散々襲ってきたのだ、既に殺せている。
「挨拶で人を襲うな、怖い女だな」
そういう顔は笑っていた。最後まで、この男の飄々とした顔を崩す事さえ出来なかった。
エルダは鞘から剣を抜くと、ライナスに突きつける。
「お前も剣を抜け。――――私と勝負をしろ、正々堂々と、本気の勝負だ」
悔しいが、自分の腕ではこの男を殺す事は敵わない。
ならばせめて、一度でいいからこの男と本気の戦いをしてみたかった。暗殺部隊へ身を置き、命令により今まで思い返したくも無い姑息な手段を用いて暗殺を繰り返して来たが、元々彼女は武人なのである。その誇りだけは捨ててはいないのだ。
せめて最後は武人として戦い、武人として死にたかった。
「…………本気の勝負か。いいだろう」
エルダの覚悟を見てとったのか、ライナスは素直に己の剣を抜く。そして構えた。
「…………!」
急にびりりと空気が張り詰めるのを、エルダはその身体全身で感じた。
この男に切りかかれる隙など微塵も見いだせない。それどころか、エルダが少しでも動いてしまったら、その瞬間にライナスの持つ剣にこの身は貫かれるだろうと思えた。
なんという覇気を持っているのだろう。この男の実力も分からず、己ごときが彼を殺せるなどと今まで良くも思えたものだ。
こうして睨みあっているだけで、身体から汗が噴き出した。
よく今こうして立っていられると、それだけでも己を褒めたい位だった。
だがこうしてただ睨みあう為だけに、自分は今命を掛けている訳では無いのだ。せめて一太刀剣を交わす位の事をしてみせねば、死んでも死にきれない。
「ライナス………!」
唇を強く噛み、その痛さに自分の意識を集中させた。ライナスの闘気を全身に受けながら、一歩駆ける。エルダは無理矢理剣を振り上げた。―――そして。
そして剣は高い音を立て、エルダの手から離れる。それは彼女の身丈分程後ろの地面へ突き刺さった。
エルダは地面へ崩れ落ちる。たったこれだけの間に、彼女は肩で息をする程に疲労していた。
「よく一太刀でも剣を振るえたもんだ、褒めてやる。だが無茶をするな、血が出ているぞ」
ライナスはエルダの前にしゃがみ込むと、指で彼女の唇に滲む血を拭った。
「たった一太刀振るっただけの剣を褒められても嬉しくとも何ともないな」
「そう言うな、これでも心から褒めているんだぞ。国王軍でも小隊長位の人間でなければ、動く事さえ出来ん兵士などざらなのだ」
「……自慢か、それは」
「そうとも言うな」
はははと笑うライナスに、エルダは苦笑した。
憎まれ口を叩き不貞腐れてみせてはいるが、エルダの心中はその実晴れ晴れとしたものだった。
――――――なんて、強い男なのだろう。
これ程に強い男と戦った事など、今までに無かった。手も足も出ぬ程に完敗し、だというのにこれ程に楽しい気分になった事も初めてだ。
最後に出会えたのがこの男で良かった。
「もういい、行け」
「おいおい、久しぶりに会ったというのにもう用済みか。相変わらずつれない女だ」
言いながら差し出された手をエルダは振り払い、一人で立ち上がる。 そして地面に突き刺さった剣を引き抜き、鞘へ収めた。
「―――――お前、私のことが好きか」
唐突な問いに、ライナスは「何を今更」とばかりに肩を竦めた。
「今までに何度もそう言っている」
「そうか」
剣を荷物の中に再びしまい込むエルダの腕を、ライナスは掴んだ。
「そしてお前も俺に惚れている。そうだろう?」
エルダの顎に手を掛け上を向かせると、ライナスは強引に口付ける。その唇に、エルダの血が付いた。
「………そうかもしれないな」
この想いが愛なのかどうかは分からないが、確かにその強さに惹かれていた。そう、多分それは初めて剣を合わせてからずっと。
己が欲してやまない強さを持つこの男が、狂おしい程憎かった。そしてそれと同じくらい焦がれてもいた。
これを愛と呼ぶのなら、それは破滅的な愛に違いない。
荷物を持ち上げると、エルダはライナスに背を向ける。
「もうお前に用は無い。お前が去らぬのなら、私が去ろう」
「エルダ」
呼ばれたが振り返らなかった。振り返りたいとも思わなかった。もう未練は何も無いのだ。
一人になり、周りに誰もいないのを確認してから、エルダは荷物を下ろした。
再び長剣を取り出し、剣先を己の首に当てる。
ライナス暗殺に失敗した己を、ベクトは恐らく許さないだろう。役立たずの上にフィードニアの要人であるライナスに顔が知られているのだ。このまま許されるとは到底思えなかった。
ベクトの元に戻った自分は殺されるに違いないと、彼女は確信していた。
それにもし万が一許され別の任務を与えられたとしても、もう彼女はこの暗殺という忌むべき仕事をこれ以上行いたくなかった。
ライナスと戦い完敗した、この清々しさのまま自ら死を選ぶ。それが彼女に出来る唯一にして、最善の未来なのだ。
エルダは目を瞑り、剣先に力を籠める。
だが、剣はエルダの喉を突き刺さなかった。
彼女は目を開ける。
「――――こんな事だろうと思ったぜ」
剣先をライナスが握りしめていた。掌から血が滲んでいる。
「何故」
「何故も糞もあるか、この馬鹿野郎が」
ライナスは彼女から剣と荷物を取り上げると、更にエルダの腕を掴み歩き出した。
「な―――待て、何処へ行く」
強引に引っ張られ慌てて制止を求めたが、その言葉をライナスは聞き入れなかった。そして代わりに「いいから黙って付いて来い」と怒鳴る。
いつもの飄々とした男の姿はそこには無く、眉間に深い縦皺を作っているライナスは、珍しい事にどうやら怒っているようだった。
この男も真剣になることがあるんだなと、エルダは妙な所に感心していた。
ライナスはエルダの腕を掴んだまま南地区を出ると、更に中央地区を通り抜け、国王軍兵士用の王城の門を潜り抜けた。
「おい、待て。私をこんな所に入れていいのか」
まさか国王軍兵舎へ連れて行こうとでもいうのだろうか。王城の敷地内に、王城を守り固めるように置かれた国王軍の兵舎は、どこの誰とも知れぬ人間を受け入れるような所では無い。
いくら副総指揮官の女であろうと、それは同じ事の筈だ。
「ライナス、いい加減に……!」
何も語らずただエルダを引っ張って歩くライナスに痺れを切らした時、やっと彼は立ち止まった。
それは危惧した国王軍の兵舎では無かった。いや、それよりももっと有り得ぬ場所である。
フィルラーンの塔。
驚愕するエルダに構う事無く、ライナスはその塔の扉を開いた。