60: ボルテンの罠
突如現れたボルテン軍は、フィードニア国王軍と同領兵軍との間を割くように布陣をしいた。
「我らを一つにさせぬという訳か。だがそれならそれで、こちらがボルテンを挟み打ちにするまでだ……! ハロルド、第七中隊は右方を押さえろ、敵に退路を与えるな……!」
「は……!」
指示を与えるライナスに、ハロルドは頷くとすぐさま馬に飛び乗った。
「フリーデル、領兵軍へ合図を送れ、これから全軍でボルテンへ一斉攻撃をしかける…! 出遅れればそこが穴になる、皆心せよ。援軍を呼ぶ隙を与えず、何としてもここで敵兵を叩きつぶすのだ……!」
「は!」
それぞれの隊へ指示を与え、ライナス自身も馬に跨る。ラオ率いる第三騎馬中隊に指示は出ていなかったが、彼を追うようにラオも急ぎ馬へ乗った。
そしてジェドへ視線をやったが、彼は馬に跨ったまま動く気配を見せない。いつも真っ先に敵へ突撃して行くというのに、珍しい事もあるものである。
「総指揮官殿、我らも早く参りましょう」
逸る気持ちを抑えきれずラオはジェドを促す。だが無言のままでいるジェドに、ライナスが代わりに口を開いた。
「―――しかし、何故我らの動きがボルテンに知れたのか……」ライナスは言いながら顎に手をやる。「たまたま巡回していたボルテン兵に見つかったか、それとも……。クリユス、お前はどう思う」
彼の近くに待機していたクリユスに、ライナスは問うた。彼の直属部隊である第一騎馬中隊の後援を、クリユスは任されているのだ。
「敵兵の数は二千五百から三千といった所で、そう多くはありません。巡回中、或いは訓練中のボルテン兵にたまたま発見され、慌てて付近の領兵軍を徴集したのだと取れなくもないですが……しかしそう考えるには、幾分数が多く集まり過ぎているようにも思えますね」
「それは、こちらの動きがボルテンに読まれているという事か」
思わずラオは口を挟んだ。
ジェドがエルウンゴン山でのスリアナの侵攻を読んだように、こちらの動きを読まれたのか。それとも。
―――その先は、恐らくライナスが先程言いかけた言葉と同様のものに違いない。
「それとも、こちらの動きが敵に筒抜けになっているか、だな」
ジェドが初めて口を開いた。
敵にフィードニアの動きが筒抜けになっているという事は、フィードニア内部に敵と密通している者がいるという事である。ならばここで少数のボルテン軍を叩きつぶした所で、既に本軍にはこちらの動きが知れ渡っているという事だ。
「だとすればこのボルテン兵は敵の罠という可能性もあるという事ですな。―――参った、面倒な事になったものだ」
眉間に皺を寄せるライナスに、ジェドはにやりと笑う。
「何が面倒だ。罠かどうかなど関係無い、別の兵が新たに現れる事があれば、それも一緒に倒してしまえばいいだけの事だ」
「またそう簡単に言う……」
ライナスは一つ溜息を吐いた。
「まあいい、あなたはそう言われると思いましたよ。面倒な事は俺達で考えましょうとも。あなたはあなたの好きに戦われるが良い。―――ラオ、この人を頼んだぞ。この人の無茶に付き合えるのはお前くらいしかいないからな」
「は」
ラオは短く返事をする。言われなくとも、彼にはもうジェドの背に付き従い戦う事しか考えられなかった。
「さて、ボルテンはどう動くか……。まずは攻めてみるか」
ライナスはやはり面倒そうに言うと、待たせてあるフィードニア兵達の方へと馬首を向けた。
「行くぞ、クリユス」
「はい」
戦場へと駆けてゆく二人の背を眺めながら、ラオの胸の内にふと不安が過る。
フィードニア内部に敵と密通している者が本当にいるのだとしたら、いったいそれは誰だというのだろうか。
素性のはっきりしない人間は国王軍へ入軍する事など出来ない筈である。ならば連合国の刺客が内部へ紛れ込んでいるというよりは、内部の人間の裏切りということなのか―――。
何にしても同盟軍にこちらの情報が筒抜けになっていれば、ライナスの言葉では無いが、これから先々面倒な事になるだろう。
そこまで考えて、ラオは頭を振った。
今の自分はティヴァナの副総指揮官だった自分とは違うのだ。折角重責から逃れ、好きなように剣を振るう事が出来るようになったのだ。そういう事はライナスやクリユスが考えればいい、自分はただ、己の目の前の敵を倒す事だけを考えればいいのだ――――。
「ラオ、敵の主力部隊はどれだ」
ジェドがボルテンの旗を見ながら言った。
「緑の鷲旗――――あの旗は記憶にあります。恐らく、あれが」
「そうか」
そう呟き、腰に佩いた剣をすらりと引き抜いたジェドの背中に、闘気が瞬く間に満ちて行くのを感じた。
ライナスを中心とした、フィードニア兵士達の鬨の声が聞こえた。それを聞きながらラオは再び緑の鷲旗に目をやる。
もう彼に見える物は、風にはためくただその旗だけだった。
手ごたえが、ない。
ボルテン兵とぶつかりラオがまず感じたことは、それだった。
相手が弱いという訳では無い。そうでは無いが、何度も剣を交わしていると、ふと相手が引く瞬間があるのだ。それは一度や二度では無く、幾度となくあったとラオは認識していた。
じりじりと後退して行くボルテン兵に、一見するとフィードニアが押しているように見えるのだが、実は相手の手中に取り込まれようとしているのだと彼は思った。
緑鷲旗には、いつもあともう少しで手が届くという所でするりと逃げられていた。そして間に割り込んで来る他のボルテン兵達には、実にのらりくらりと手ごたえ無く戦われるのだ。どうにも鬱憤の溜まる戦いであった。
こうして誘導する事により、ジェドが率いるラオの隊を、本軍から引き離して孤立させようとしているのかとも思ったが、だがボルテンの旗の直ぐ向こう側にフィードニア領兵軍の姿が見えて来た時、その考えも違っているのだと分かった。
これでは例え本軍と切り離されても、領兵軍と合流する事が出来てしまうのだ。
領兵軍と本軍を別つように間に出現したボルテン兵であるというのに、何故わざわざ両者を合流させようというのか―――。
そう、それは分断させようと思ったのでは無く、ボルテン兵がいるこの場へフィードニア兵を集めたかったののはないだろうか。
「ジェド殿………!」
敵と切り結びながら彼の背に向かって叫ぶと、ジェドの顔がこちらへ動き、軽く頷いた。様子見はもうこれでいいだろうという合図である。
ボルテンのこの一連の動きは、間違い無くフィードニア軍に罠を仕掛けてきているのだ。そうジェドも判断したのだろうとラオは思った。彼らは偶然我らの前に現れたのでは無い、何らかの方法でこちらの動きを知り、そして我らを嵌める為にこの場へ集めた。とすると、次のボルテンの動きは容易に予想が出来た。
そう考えた時、フィードニア軍の遥か後方から新たなボルテン兵が現れるのが見えた。余りに思った通りの行動に、ラオは思わず苦笑する。これで今までとは逆に、今度はフィードニアがボルテンに挟まれる形となった。
だがそうと分かっても、ラオの中に焦る気持ちというものは生まれなかった。相手の思惑が分かってしまえばどうという事も無い、どれだけ相手が増えようとも、やる事はいつもと変わらないのだ。
つまりは、主力部隊を打つ―――。それだけなのである。
まずは後方に新たに現れたボルテン兵がここへ到着するまでに、緑鷲旗を打ち果たす事だ。
切り交わす剣からボルテン兵が再び引いた時、ジェドは逃げる事を今度は許さなかった。強行にぶつかって行くと、次々に馬から切り落とす。
ラオはそれに付き従い、今までの鬱憤を晴らすかのように攻めに攻めた。突如動きに精彩を増した第三騎馬中隊に、ボルテン兵はようやく今までの曖昧な攻守態勢をはっきりと攻撃へと転じさせたが、既にラオ達は緑鷲旗の目前にまで迫っていた。
ジェドの剣が緑の鷲旗を薙ぎ払った。ラオが率いる第三騎馬中隊と、緑鷲旗を掲げるボルテン領兵軍がぶつかる。
この戦いで初めての手ごたえを感じたが、しかし我らの相手では無い。そう思った瞬間、だがそれに相反するようにラオの心の中でざわりと胸騒ぎが起こった。
眼の端に捉えた遥か後方にいるボルテン兵に、どこか違和感を感じたのだ。
剣を操りながらもそちらの方へ振り返ると、その違和感がはっきりと分かった。
フィードニア本軍を挟みうちにする為に、こちらへ向い進行している筈のボルテン兵の矛先が、いつの間にか僅かに逸れていたのだ。
その先は、彼らが夜営をする為陣を取っていた場所―――――ユリアと、ダーナがいる場所である。
(まさか―――――――)
胸騒ぎは、今や確信となってラオの胸中を襲う。
ボルテンが我らをこの場に集めたのは、一つに纏めて周りを取り囲もうと思ったからでは無い。我らを、引き離したかったのだ。
そう、フィルラーンの少女から。
「ジェド殿……!」
上官の名を呼び、だがラオはその続きを叫ぶ事を躊躇った。
戻りたい。だが第三騎馬中隊は今、緑鷲旗をやっとその手中に捕まえたのだ。決着を付けずにのこのこと引き返す事など、許される筈が無かった。
ユリアの居る陣営付近では一個中隊もの兵が待機している。己よりも戻りやすい位置に、クリユスもいる。ここで自分が引き返したいと願うのは、只の個人的な感情に過ぎないのだ。
冷静に考えろと、ラオは己に言い聞かせた。今この場で取るべき最善の法は、とっととボルテンの現時点での主力であるこの緑鷲旗軍を下し、その後引き返し後方で始まる戦いに合流することなのである。
引き返したい想いを抑え込み、ラオは己の剣を握りしめた。
ジェドの背へ目をやると、今まさに彼は緑鷲旗の領兵軍軍団長まであと少しの所に辿り着いている。この決着を待つのだ。それから引き返せばいい事だ。
脳裏にダーナの顔がちらついた。手にじわりと汗が滲む。
「ダーナ、無事でいろ……」
思わず口に付いた、その言葉にジェドが僅かに振り返った。
その時、緑鷲旗の軍団長がジェドの前に進み出ると、彼に向い馬を走らせた。
ジェドはその男の前で、何故かその動きを止める――――。
振り上げられた軍団長の剣が、頭上で光った。
「ジェド殿………!」
ラオは驚愕に目を剥いた。有り得ぬ事が、まさにその時起こったのだった。