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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第二章
35/187

35: 胎動

 その部屋は窓が北向きに据えてあり、日光が室内へ直接差し込むことが一日中無い為、昼間だというのにどこか薄暗かった。

 だが男は、日の差し込まぬその部屋を好んでいた。 彼が自慢にする高級な絨毯が日に焼けずにすむからである。

 部屋には獣の剥製や角が多く飾られていた。

 若い頃彼は狩猟を好んでいたが、最近は歳のせいか腰を患っており、馬に乗り獣を追いかけることもめっきり無くなっていた。今はただこうして過去に得た獲物を眺めるのみである。

 男は皺だらけの手でハイルド東大陸の地図を広げると、渋い顔を作った。そして誰も居ない空間へ向け話し掛ける。

「フィードニアは国王軍を強化させるようだな」

「……は、先日国王からの布令が出とりましたな。身元の確かな人間の推薦状さえあれば、誰でも入軍試験を受けられるそうで」

 彼以外に誰も居ない部屋で、だが彼の呟きに答える声がした。

 男は地図から目を離し、顔を上げる。 そこには音も無くいつの間にか現れた、老齢の小男が立っている。

 男の背中はやや前屈みに曲がっており、只でさえ低い身長と痩せた体から、初めて会った者は彼に小さく弱々しい印象を持つものだった。だが彼が見た目通りのそんな弱い存在ではない事を知る者は、ごく限られた一握りの人間だけである。

「東にはティヴァナの脅威があるというのに、これ以上フィードニアが大きくなると厄介だな。だというのに連合を拒む愚かな国が未だ幾つもある。連合という名の属国に成り果てる訳にはいかぬと言うのだ。全く危機感を覚えておらぬ、阿呆共だ」

 苛立たしげに男が言うのを、小さな翁は柔和な顔を崩さず、静かに聞いている。

「そうですな。ティヴァナの副総指揮官と弓騎馬隊大隊長が国を出奔し、フィードニア国王軍へ入ったという話も入ってきております。これ以上人材がフィードニアに揃うのは、我が国の脅威になりかねませんな」

 翁は細い目を更に細くさせる。柔和な顔に、僅かに鋭さが混じった。

「フィードニアはわしらにお任せ下され。なに、大きくなっても所詮付け焼刃の軍に過ぎませぬ。 秀でているのは総指揮官と副総指揮官のみ、どちらか一人でも欠けてしまえば、たちまち立ち行かなくなる軍でございます」

「うむ、お前の力がこそ役立つ時だ」

 翁は頭を下げると、するりと部屋を出て行った。遠ざかる足音は一切聞こえない。視界から一度消えてしまえば、全く気配を感じさせない男だった。

「さて…連合を拒む阿呆共を、どうやって取り込むか…」

 再び一人になった部屋で、男はもう一度地図へ目を戻す。

 彼はもうフィードニアの事は考えなかった。 

 己に任せろと翁は言ったのだ、その言葉を違える男ではありえなかった。

 総指揮官ジェドか副総指揮官ライナスか。いずれそのどちらかの首を、あの小さな翁は持って来るだろう。 

 地図に目をやりながら、男は微かに口の端を吊り上げた。

 狩りをやらなくなってから久しく感じる――いや、ともすればそれ以上の高揚感を、男は今感じていた。







 ロランは一つ溜息を吐いた。

 それに気付いたバルドゥルが、面白そうに近づいてくる。

「何だ、やっと謹慎が解けたというのに、詰まらなそうではないか。余程謹慎中の身の方が楽しかったと見えるな」

 にやにや笑うバルドゥルに、いつもならむきになって反論するロランだが、今回ばかりはその指摘があながち間違ってはいなかった為、ただ黙って仏頂面を返しただけだった。

 前にカナル街への護衛を務めて以来、一ヶ月近くユリアと顔を合わせていなかった。

 小隊長の職に戻った今、隊の訓練等やるべき事は多く、一人気軽に動き回る事など出来ないうえに、一介の兵士が気安くフィルラーンにお目に掛かれる機会など、そうありはしないのだ。

 だが兵士達と訓練をしていても、思い出されるのはユリアの事だった。

 二、三度彼女に剣を教えたのだが、ロランが見る限り彼女の剣を持つ姿が様になることは、とうとうなかった。

 あれから練習はしたのだろうか、少しは上達したのだろうか。剣を見ながらそんな事を思い、訓練中に何を余所事をと己を叱咤する。それの繰り返しなのである。

「おい、しっかりしないか。 訓練場に集まっている入軍志願者共を見てみろ、お前よりよっぽど覇気があるではないか」

 バルドゥルがロランの背中を叩き、訓練場を指差す。

 王が布令を出してから二十日余りだというのに、既に国王軍の入軍志願者は五百を越していた。

 今日は第一回目の入軍試験を執り行う日であり、試験を受ける事を許されたその五百余りの男達が、ここフィードニア国軍訓練場へと集まっていた。

 まあ、この中に使える人間がどれほどいるのかは分からなかったが。

 ロランは頭を振った。

 いや、今は腐っている時では無いのだと思いなおす。

 国王軍を大きくする事はユリアが望んでいる事なのだ。今自分が国王軍で働く事は、彼女の望みに少しでも役立てるという事なのだ。

「今回の入軍志願者に、面白い奴がいるぞ。領兵軍の副軍団長を務めていながら、国王軍とはいえ只の一兵卒になりに来た酔狂な男がな。――――ああ、あれだ。あの男だ」

「領兵軍の副軍団長」

 嫌な予感がしながら、バルドゥルの指先を眼で追った。

 視線の先に、黒髪のにやけた顔の男が映る。男はロランに気付くと笑いながら手を振ってきた。

 あの腹立たしい顔をこの場所で見る事になるとは、夢にも思わなかった。 ハーディロン領兵軍副軍団長、アレク・ハーディロンである。

 

「なんでお前がこんな所に居るんだ…!」

 対面し開口一番ロランは言った。

「なんでって入軍試験を受けに来たに決まってるだろうが。わざわざこんな所に試験の様子を眺めに来るほど暇人じゃねえよ」

 あははと、アレクは笑う。

「試験を受けにきた? ハーディロン領兵軍副軍団長が馬鹿を言うな…! 第一ハーディロン家の嫡男を国王軍へ入軍させるなど、公が許す筈……」

「親父には許可を貰ってるよ。ほら、推薦状も親父が書いてくれたんだぜ。ハーディロン家を継ぐ前に、一度世間に出て見識を広めた方がいいってな」

 アレクはロランの目の前で、確かにハーディロン家の印が押された推薦状をひらひらとちらつかせた。

 だがそれを見せられても、ロランはまだ納得いかなかった。

「お前、何を企んでいるんだ……? 何故お前が国王軍へ入隊したいなどと思うんだ」

 黙っていても次期領主の座を約束されている男が、わざわざ規律の厳しい国王軍へ入軍したいなど、どう考えてもおかしな話だった。

 しかもこんな浮ついた男がである。

 睨みつけるロランに、アレクはにやりと笑った。

「何も企んでなんかねえよ。―――俺、我儘に育てられた領主の嫡男なんだよな。他人に無視される事が許せねえお坊ちゃんな訳、解る?」

「――――は?」

 自分でも場違いに間抜けな声を出してしまったと思いはしたが、だがこの男が突然何を言い出したのか、ロランには全く分からなかった。

「だからさ、女は俺にちやほやしてくれなきゃ嫌なんだよな。なのに手を引いてるこの俺の存在を無視して、よりにも寄ってお前なんかの元に駆け寄ってくれちゃってさ…。俺そういうの我慢ならねえんだよ、俺をその辺の群衆と一緒にするなっての。―――だからこの国王軍で活躍して、ユリア様にこの俺が只の雑兵じゃねえって事を解らせてやるんだよ」

「な―――――……」

 二の句が継げないとはまさにこの事だった。

 怒りの余りというより、呆れて物が言えずにいるロランの背後で、バルドゥルが豪快に笑った。

「要は矜持を傷つけられたから国王軍へ入りたいという事か、面白い奴が来たもんだな」

「笑いごとではありませんバルドゥル殿……! こんな男が国王軍に入ったら軍の名折れとなります。この男の試験、俺に任せて下さい。尻尾をまいて、とっとと家に帰らせてやりますよ」

「まあ構わんのじゃないか、後でクリユス殿に言っておこう」

 やはり楽しそうに言うバルドゥルに、全くこの人は無責任な人だと思いはしたが、一応の礼は述べる。

 ハーディロン公がこの男を国王軍へ入れようとする理由が良く解るようだった。だが馬鹿息子の躾は己の家でやって貰いたいものである。

「この俺が相手をしてやる、後で待っていろ」

 睨むロランに、アレクは馬鹿にするように肩を竦めた。

「おいおい、俺が弱いって誰が言ったよ…? 勘違いするなよ、この三下が」

「何だと……!」

 掴みかかろうとするロランをバルドゥルが止める。入軍試験開始前から既に、そこには火花が散っていた。



 鐘が鳴り、訓練場の脇に据えられた観覧席に王が現れた。その横には総指揮官であるジェドが立っている。 そして二人より一歩下がった脇に、ひっそりとユリアが立っていた。

 離れた場所からではあるが、久し振りにユリアの姿を見る事が出来、ロランの心は浮き立つ。

 それと同時に、やはりジェドよりも格下の扱いをされるフィルラーンの少女の姿に、憤懣を感じた。

 王が集まった志願兵へ労いの言葉を述べ、ジェドが檄を飛ばした。

 二人の発する覇気と威圧感に、訓練場にはぴりりと張りつめた空気が流れる。

 そしてフィードニア国軍入軍試験が始まったのだった。






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