31: カナル街へ3
カナル街は王都から馬車で一昼夜程走った所に在る。
通常フィルラーンとしての職務に就いている時は、世話役はそれに同行しないものだが――あくまでも彼女たちは、フィルラーンの日常生活の世話をする役目だからである――今回は泊まりという事もあり、ダーナも共にその馬車に揺られていた。
気が乗らない道程ではあったが、横に座るダーナが、近場とはいえ旅のようだとはしゃいでいた事が、ユリアにとってはせめてもの救いだった。
行く道沿いには、花が一面に群生している所や羊が放牧されている場所など、心癒される景色が続いていた。
フィルラーンとしてフィードニアに戻ってきて以来、王都から離れることなど久しくない事だ。行く先がその場所でさえなければ、ユリアにとっても心躍る外出だったに違いない。
「…ユリア様? お疲れですか、先程から顔色が優れませんが…」
ダーナが心配気な表情を浮かべる。折角楽しそうにしていたというのに、自分の為にその表情を曇らせてしまう事は、本意では無かった。
「ああ…何でもない。そうだな、久し振りの外出で少し疲れたけれど大丈夫だ。カナルに着いて少し休めば直ぐ治る」
ユリアは無理にでも笑顔を作った。
こんな風に直ぐ顔に出てしまう所が、自分の悪い所だ。
そもそもカナル街はユリアにとっては何の縁も無い場所である。リョカ村に近い、ただそれだけの街でしかないのだ。
(だからといって、一体何があるというのだ―――)
ユリアは首を振った。一々思い悩むなど、馬鹿馬鹿しい事だ。
カナルは比較的大きな街だった。
馬車が街門を潜りその中へ入ると、そこには賑やかな街並みがずっと奥まで続いていた。
「カナル街はナシス様の故郷だそうですよ。それは立派な祭壇が設置されているそうです」
御者台に座り馬を繰っていたロランが、首を少し後ろへ捻り、話しかけてくる。
「そうなのか?」
ユリアは窓から外を眺めた。十二年前にこの近くへ来たというのに、全く知らなかった。
尤も、ユリアがリョカへ立ち寄る少し前に、ナシスは既に城に上がっていたそうだが。
「元々カナルは小さな村だったそうですが、ナシス様というフィルラーンを輩出した事により栄えたようですね」
当時のフィードニアは、数年もの間フィルラーンが不在だった。ナシスがフィルラーンであると分かった時、国は彼をラーネスへはやらず、ラーネスから指導役を招き寄せるという形を取ったのだ。
只でさえいつ他国から攻め滅ぼされてもおかしくない状況である。フィルラーンがいない国は滅びると云われる中、修行の為とはいえ、これ以上不在期間を作りたくなかったのだろう。
幸いな事に、ナシスはフィルラーンとしての高い資質を携えていた。少しの指導を受けただけで、直ぐにその能力を発揮し始めたそうだ。
「カナルは五年間、幼少のナシス様をその地で預かりました。その時設置された祭壇が、未だにこの地に残っているのです」
「へえ…そうか。詳しいな、ロラン」
「あ…いえ、まあ…」
何故だかロランは言葉を濁したが、ユリアはさほど気に留めなかった。
程なくして、ロランはこの街で一番大きな屋敷の前に馬車を停めた。
「着きました。ここが、カナルを含めたこの辺り一帯を領する、ハーディロン公の屋敷です」
ちらりと外を見ると、数人の男が跪きユリアを出迎えていた。ロランが御者台から降り、馬車の扉を開ける。
ユリアはラティを深く被ると、差し出されたロランの手を取り、馬車から下りた。
「これは、ユリア様…! このような遠い所へ、わざわざ我ら領兵軍の為にお越し頂けるとは、感激の至りでございます」
四十代後半位の、精悍そうな男が一番に顔を上げ、そう述べた。
この男がハーディロン領主にして領兵軍軍団長であるハーディロン公なのだろう。
身に付けている衣服は、黒を基調したシンプルなものであるが、それとなく高価な生地を使っていた。白髪一つ無いその男の、その黒々とした髪に良く似合っている。
そんな事を考えながら目の前の男を眺めていると、思ったとおり彼は自身をハーディロン領の領主であると名乗った。
そして次に顔を上げたのは、ハーディロン公から半歩後ろに下がる位置で跪いていた、若い男である。
年の頃は二十代前半といったところか。黒い髪に黒い瞳、すっと伸びた高い鼻梁。彼はハーディロン公に良く似た顔立ちをしていた。
「本来であれば我らの方が王都へ出向くべき所を、怪我人に負担をかけては成らぬとユリア様自ら御配慮頂いたそうで、感謝致します」
男は再度頭を下げた。
「ああ…いいえ、フィルラーンとして当然の事をしたまでです」
言いながら、心中で苦笑した。
(――そういう事になっているのか)
ここへ来た事は、ただクリユスに説得されただけのことであり、自らの考えでは無い。いや、それどころか来る事を渋りさえしたというのに、彼らにはユリア自らここへ来る事を望んだという話で通してあるらしい。
「申し遅れました、こやつは私の倅であり、ハーディロン領兵軍副軍団長を務めているアレクです」
ハーディロン公は傍らに控える、彼に似た顔立ちの男の肩に手をやりながら言った。
「アレク・ハーディロンと申します」
アレクは一礼をしてから、ユリアへ笑顔を向けた。屈託のない笑顔だった。
「今日は私の屋敷に泊って頂き、清めの儀式は明日執り行う予定でいるのですが、仔細ないでしょうか」
「ええ、問題ありません。世話になりますね、ハーディロン公」
「勿体ない、ユリア様を我が屋敷へお泊めする事が出来るなど、ハーディロン家の誉れでございます」
そう言い、ハーディロン公自らユリアを屋敷へ案内する。
屋敷の調度品を眺めながら、ふとダーナが懐かしそうな顔をした。
そういえばダーナは元々貴族の娘なのだ。フィルラーンの世話役になどならなければ、こういう豪奢な物に囲まれて今も暮らしていただろうに。 そんな思いがちらりと心を過ったが、だがユリアはそれ以上考える事を止めた。
ダーナがフィルラーンの塔からいなくなる事など、とても考えられなかった。
翌日、クレプトの刻(十三時)に清めの儀式が執り行われる事になった。
祭壇は何年も使われていなかったらしいが、その割りに朽ちてはおらず、今でも丁寧に扱われている事が伺えた。
「ナシス様が使われていた祭壇ですからね。まあ、実は観光客もこれで呼べるといいますか…」
祭壇へ案内をしてくれたアレクが、少々申し訳なさげな様子を見せながら言った。
成る程、確かにこの豪華で美麗な祭壇は、一見の価値はあるだろう。
ましてや、ナシスが実際にここで清めの儀式を行っていたのだ。 ユリアでさえ、見惚れずにはいられない祭壇だと思った。
ユリアはゆっくりとその祭壇へ昇る。その下の広間には、既にハーディロン兵が揃っていた。彼らは揃って地へ跪いている。
その群衆の中に、ロランの姿を探してみたが、彼を見つける事は出来なかった。ユリアの護衛としてこの街へ来ている筈なのに、彼は朝から姿を見せていない。その代わりアレクが常に傍にいるので、問題は無いのだが。
(まあいい、どこへ行っていたのか、後で聞けばいいだけのこと)
ユリアは視線を目の前の兵士達に戻す。
彼らの視線は、祭壇に立つ少女に集まっていた。ユリアは兵士達を見渡すと、頭から深々と被っていたラティを、するりと外してみせた。
兵士たち間に、どよめきが微かに起こる。
それもそうだろう。フィルラーンが公の場でラティを外す事など、通常であればまず有り得ない事である。
(全く、相変わらずクリユスの考えることは分からない)
ユリアは錫杖を手に取りながら、ひっそり溜息を付いた。 そう、これはクリユスからの指示なのだった。
クリユスのやる事に一々とやかく言わないと決めてはいたが、流石にこれにはユリアもすんなりと頷く事が出来なかった。
それはフィルラーンの権威を自ら軽んじる行為でもあるからだ。
そう反論すると、だがクリユスは「ラティを外したからといって、貴女のその気品が失われることなどありませんよ」とただ微笑むだけで、それを覆すことは決して無かった。
こんな事に何の意味があるのか分からないが、取り敢えず彼に言われた通りの事をしていれば、間違いは無いのだろう。
己に少々情けなさは感じたが、クリユスに反論して勝てるほど弁が立つ自分では無いことは、十分分かっていた。
ユリアは祈りの言葉を口にする。
そよ風に吹かれて、彼女の金の髪がさらりと流れた。