21: 剣
ユリアは剣を眺めていた。
その剣は、兵士達が使う剣よりも短く軽い。クリユス曰く、子供が稽古用に使う剣らしかった。
ユリアはその剣を両手で持ってみる。
軽い、と言っても、非力なユリアにとっては、十分重いものだった。
ロランが起こした事件の後、クリユスはその剣をユリアに渡し、少し剣を習ってみてはどうか、と言ったのだった。
また同じような事が起こった時に、己の身を守る術を持っていた方が良いだろうというのだ。
「何を言っている、フィルラーンのこの私が、人を傷つける物など持てるか……!」
ユリアは反論した。 武器を手にするフィルラーンなど、聞いた事も無い。
第一フィルラーンがその手で誰かを殺めなどしたら、フィルラーンの資格を直ぐ様失ってしまうのだ。
だがクリユスは、渋るユリアに首を振ってみせた。
「人を傷つける為ではなく、ご自身を守るために持つのですよ。剣を持って対峙するだけで、多少は相手も怯むものです。 ――――私が何時でもお傍に居られれば良いですが、そうも参りません。また同じような事が起きたらと思うと、私は心配で居ても立ってもいられないのですよ」
真剣に言うクリユスに、ユリアは黙った。
確かに、今までにも自分の非力さを呪った事は、幾度となくあったのだ。
自分で自分を守る事の出来る力が、確かに欲しい。
だが剣を持つ事には抵抗があった。
この手が誰かを傷つける所を想像すると、それだけで眩暈がしそうだった。
それ位なら、いっそ自害した方がましだろうとさえ思えた。
「……分かった、自分を守る為だけというのなら、この剣を持とう」
ユリアの言葉に、クリユスは安堵したように表情を和らげる。
こんな物は持ちたくない、と本当は言いたかったが、ユリアは真剣な表情をするクリユスに弱かった。
ユリアは差し出された剣を受け取る。
相手を怯ませる為――――それがもし叶わない状況になったら、自害する為の剣だ、とユリアはその時決心したのだった。
「それにしても、こんなに重いものを普段に持ち歩ける訳が無いではないか……」
ユリアはフィルラーンの塔の裏にある、小さな中庭で一人、呟いた。
こんな物騒な物を、人目に付く場所で振りまわす訳にもいかなかった。
この場所ならば、城からは樹が邪魔をして見えない位置であるし、フィルラーンの塔からはここに面した窓が無い為、死角に入る位置なのだ。
そもそも、フィルラーンが腰に剣を携える訳にもいかない。
結局身に付けるものはせいぜい短剣がいいところだろう。ならば何の為にこんな剣の訓練をしろというのか。
ユリアは不満に思いながらも、クリユスの笑顔に逆らう事は出来ず、こうして先程から剣をただ眺めていたのだった。
それに習ってみてはどうかと言われはしても、習える相手など、クリユスかラオしかいないのだ。
その二人に、中々会えない現状で一体どうしろというのか。
一人で剣をただ漫然と振っていろとでも言うのか――――。
何だか無性に腹が立って来た。
ユリアは腹立ちまぎれに剣を頭上に持ち上げると、見よう見まねで振り下ろしてみる。
勢いで剣は更に重みを増し、ユリアの手は剣に引っ張られよろめいた。思わず手放した剣は、そのまま地面に突き刺さる。
ユリアはそれを引き抜くと、今度は両手で剣を横に振る。
まるで剣の方に自分が振り回されているかのようだった。
なんと、言う事を聞かない剣なのだろうか。
ユリアはふらつきながら、剣に対して憤慨した。
「―――――何をやっている。 何のお遊戯なのだ、それは」
突然、後ろから笑いを含んだ声が発せられた。
振り返ると、そこには塔の壁にもたれながら、ユリアを眺めているジェドが居た。
「な―――――い、いつからそこに居たんだ……!」
一番見られたく無い男に、己の無様な姿を見られてしまった恥ずかしさに、ユリアは顔を赤くした。
「お前が難しい顔でその剣を眺めている所からだ。フィルラーンを止めて、見世物小屋にでも行くつもりか?」
ジェドは面白そうに、笑う。
「う、煩い! 私はただ、クリユスに己の身を守る術を知っておいた方がいいと、そう言われたから……!」
「身を守るだと? お前のその下手糞な剣の腕でか? 相手が少しでも剣を仕える男だったら、何の役にも立たんと思うがな」
益々ジェドは愉快そうになったが、それとは逆に、ユリアはどんどん腹立たしくなって行く。
「煩いぞ! 何をしに来た、用が無いならどこかへ行け……!」
精一杯睨みつけるユリアを余所眼に、ジェドは剣を腰から引き抜いた。
「剣はこう扱うのだ、見てろ」
「何を―――――」
ジェドはくるりと剣を回すと、片手で構えた。
綺麗な立ち方だった。一瞬で、その場の空気が凛としたものに変わった。
そのまま、剣は空気を切った。 払い、突き、切る。
自由に動き回る剣が、まるで生き物のようだと、ユリアは思った。
それはユリアの知るどの兵士の剣よりも、洗練され、綺麗だった。
「―――――凄い……」
思わず口から零れた自分の言葉に、ユリアは動揺した。
ジェドは剣を止め鞘へ納めると、ほんの少し、眼を細めた。
「――――どうだ、面白いか?」
『――――こんなものが、面白いのか?』
ユリアは目を見開いた。
ジェドの言葉に、違う声が被る。
「これ位の事が出来れば、見世物小屋位は行けるであろうがな」
『見世物じゃないぞ、どこかへ行け』
ユリアはその声を消そうと、頭を振った。
「――――おい、ユリア?」
『――――ユリア』
体が震えた。
『もう、来ないかと思ったんだ』
『―――――お前が来るのを、待っていた』
『なんだ、これは――――なんで、目から水が落ちて来るんだ……?』
「……おい、どうした?」
伸ばされた手を、ユリアは振り払った。
「――――――――何のつもりだ、ジェド……! 私にそんなものを見せるな。私達には懐かしむ過去など、無い筈だぞ……」
「………………違いないな」
ユリアの中の小さな女の子が、ユリアを不思議そうに見つめていた。その口元は、何か言いたげだ。
(何も言うな)
ユリアはその少女の言葉を、内に押し込む。
「私の事は、放っておいてくれ。お前に剣を教わるつもりなど、無い」
ジェドは先程までの、からかうような笑みを消し、代わりに冷たい笑みを顔に貼り付けた。
「……己の命を守る為に剣を持つ……か。 虫も殺さぬ筈のフィルラーンも、己の命の前には他人の命など軽いとみえる」
それは蔑むような口調だった。
「違う、私は人を傷つけるつもりなどない……! 私はただ……」
「何が違う。剣は武器だ、それを手にして人に対峙すれば、その時点で相手と同等になったという事になる。切り殺されても文句は言えんぞ。 ――――俺は俺に剣を向ける相手は、誰であろうと容赦はして来なかった」
「ならばロランの時のような事が再び起こっても、私はまた成すすべなく襲われていろとでも言うのか……! あの時、クリユスが助けに来てくれなかったら、私は……」
それを思うと、今でも背筋が凍るのだ。
だがジェドはフンと鼻を鳴らした。
「そもそもお前が、良く知りもしない男にのこのこと付いて行くから、ああいう事になるのだ。 もっと人を疑え、世の中お前が思っている程、善人ばかりでは無い」
「また、私が悪いと言うのか……! お前はいつも私を責める。今度は何だ、人を疑わない事は罪か……!」
怒りがこみ上げてきた。
この男と話していると、いつもこうだ。
「人を信じようとして、何が悪い! 一々他人を疑って生きる位なら、死んだ方がましだ……!」
「だったらナシスのように塔に籠っていればいいだろう! お前がふらふらと兵士達の前に出歩いて、下手な情けをかけるから、男共が勘違いをするのだ…!」
「な………」
確かに、一般的なフィルラーンはユリアのように、あまり外出をしないものだろう。
フィルラーンを失った国は穢れを払う事が出来ず、死者の負の魂に喰い潰され、やがては滅びるとされていた。
しかしフィルラーンは数少なく、一国に一人しかいないという事が多い。
唯一のフィルラーンが死んでしまっても、都合よく次のフィルラーンが誕生するとは限らない。
故に外出しないというより、させて貰えないと言った方が正しいのだろう。
だがフィードニアにはナシスという、穢れを払う事以外に、先読みの能力を持つフィルラーンが居た。
ユリアが噂で聞いた限りでは、彼は水脈を言い当てたり、天候を操る事も出来るのだという。
そんなフィルラーンの前に、穢れを見、払う事のみしか出来ないユリアの存在は、小さなものだった。
それが逆に彼女を自由に動ける立場にしてくれてはいるが、それもフィルラーンという権威を活用し、英雄の名を高める為に与えられた自由なのだと、自覚していた。
公の場所に出、英雄に跪く代わりに与えられる自由なのだ。
それをこの男が、ユリアに屈辱を与える張本人が、そのような事を言うのか。
「確かに私は、普通のフィルラーンとは違うのだろうな。 私とお前の間に有るものは、憎悪しかない。 こんな感情を心に持つフィルラーンなど、他に居りはしないだろう。 ―――私はフィルラーンとしての私を貶めるお前が、憎くて堪らない」
「――――だから何だ。 今更言わなくても、そんな事は知っている」
ジェドは薄く笑った。
「だが普通のフィルラーンとは何だ? ナシス以外のフィルラーンに、お前は会った事も無いのだろう。お前はフィルラーンというものに幻想を抱いているに過ぎぬ」
「何を言う……! なんて無礼な事を……。お前こそ、フィルラーンの何を知っているというのだ、兵士風情が……!」
「――――お前は、俺が知るフィルラーンの中で、誰よりもフィルラーンらしい。……腹が立つほどな」
ジェドはユリアの剣を取り上げると、それを樹の幹へ深く突き刺した。
「あ、何をする……!」
「こんな物を、お前が持つな」
言うと、ジェドはユリアに背を向け、歩き去る。
「――――勝手な事を……!」
いつもあの男は、勝手に現れ勝手な事を言い、勝手に去って行くのだ。
自分はあの男が憎い。
己とあの男の間にあるものは、憎悪だ。 それ以外にはあり得ない。
それでいい、とユリアは思った。
そうであるから、私はあの男をこのフィードニア国軍から、追放する事が出来るのだ。