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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第一章
20/187

20: 罰

 

 矢がユリアの足を掠めた。

 バランスを崩し、ユリアはその場に倒れ込む。

 慌てて起き上がろうとしたが、既にロランは彼女の直ぐ後ろに立っていた。

 ロランの手が、ユリアに伸びる。


「――――――嫌……!」


 咄嗟にユリアは土を掴んで、ロランの顔へ投げつけた。

 彼は怯んだが、だがそれはほんの束の間の時間を稼いだだけだった。

 立ち上がり再び走ろうとするユリアの髪を、ロランは掴む。

 乱暴に引っ張られ、その痛さにユリアは思わず声を上げた。

 地面に仰向けに倒される。

「放して………!!」

 抵抗しようとする両腕は、ロランの片手であっさりと押さえつけられた。

 必死にもがくが、ユリアの体に馬乗りになる男の体は重く、身動きが取れない。


「あっけないな、これで終わりですか? ユリア様」

 ロランが笑った。それはぞっとする冷笑だった。

「嫌……! 放して、お願い……!」

 ユリアは懇願する。情けなくとも、もうそれしか出来る事が彼女には残されていないのだ。

 捕えられたら最後、男の力に敵う筈も無い事を、ユリアはもう十分に理解していた。

「―――俺の弟は、許しを求めませんでしたか? 助けてくれと懇願はしませんでしたか?」

 ロランは顔を歪めた。

「言った筈だ。あんな死に方、望んでいる訳が無いのだから。――――だけどそれは聞きいれられなかった、そうだろう?」

 その通りだ。

 イアンはジェドに懇願した。だがジェドはそれを許さなかった。

 懇願した所で、ロランがユリアを解放する筈も無いのだ。

 

 ―――――――死のう。

 逃げる事は出来ない。ここでこの男に凌辱され殺されるのを待つ位なら、その前に自ら命を断った方が余程ましだ。

 舌を噛み切ろうと思った。

 ユリアがそう決意した瞬間、だがロランはユリアの口を無理やりこじ開けると、布をそこへじ込んだ。

「おっと。自決なんて無しだぜ、ユリア様」

「………! うぐ……んん……っ!」

 ―――死ぬ事さえ、許されないのか。

 口に入れられた布で、唯一この状況で自ら選択出来るものを失った。

 声ももう上げられない。来ないと分かっている助けを呼ぶ事さえ出来ない。

 涙が零れ落ちた。


 ――――何故、こんな事になってしまったのだろう。


 殺してやりたいと思う程、苦しめたいと思う程、自分はロランに憎まれているのだ。

 それだけの憎しみを向けられる事が、怖い。そして辛い。

 

 憎しみの目を向けられるのは、ロランが初めてでは無かった。

 ずっと、ユリアを憎んでいる男が居る。

 ―――自分は周囲の人間を不幸にしているのかもしれない、とユリアは思った。

 神に仕える者、邪を払い清める者。そんな聖なるフィルラーンである己が、他人を不幸にする。

 それは何より罪深い事のように思えた。


 ――――これは、私の罰なのだろうか。

 凌辱され、殺される。 それが私の十二年越しの罰なのか。

 なら。

 それならせめて、その罰を受ける前にせめて。


 少年を思い出した。

 

 ――――せめて貴方に。


 ロランの手が、ユリアの太腿をまさぐる。


 ――――せめて、一目だけでも。


 ユリアは目を瞑った。

 世界は闇に覆われる。それでいい、とユリアは思った。

 見たいものを見る事が出来ないのなら、もう何も見たくは無かった。










「――――そこまでだ、ロラン」


 聞き覚えのある声だった。

 目を開けると、ロランの喉に剣が添えられていた。

「ク……クリユス隊長………、な……何故」

 ロランは驚愕の顔を、そのまま固まらせていた。

「何故ここに、かな? 簡単な事だ。バルドゥルに頼んで、お前を見張らせていたのだ」

 ユリアはこの状況を直ぐには理解することが出来なかった。

 死を、それ以上の屈辱を、覚悟した所だった。

 なぜここに、この誰も通らぬこの森に、この優しい声が響くのだろう。

 ユリアは視線を、ロランの後方へと移す。

 にこりと微笑むクリユスが、そこに居た。


 クリユスはロランをユリアの上からどけると、ユリアの口に入れられた布を外した。

 その手はゆっくりと、ユリアの頬に付いた泥と涙をぬぐう。

 そして彼女の前に、手を差し出した。

「遅くなって申し訳ありません、ユリア様。ロランを見張っていた兵士が、森で二人を見失ってしまいまして」

 差し出された手を取った。温かい手だった。

 涙が、溢れ落ちる。

 ああ―――――助かったのだ。 やっと実感が沸いた。


「馬鹿な事をしたな、ロラン。 死罪は免れんぞ」

「―――分かっていますよ、それ位」

 悪戯を叱られ、不貞腐れる子供のようにロランは言う。

 クリユスは溜息を一つ吐くと、胸から小さな笛を取り出し、それを吹いた。

 そして空へ向けて弓を射る。

 何をしているのかと不思議に思うユリアに、クリユスは微笑みながら言った。

「この森の中で貴女を探している者が他にもいるのですよ。 彼にユリア様を見つけたと、合図を送ったのです」

「………そうか」

 土にまみれた服に、裂けたスカート。

 バルドゥルかラオ辺りだろうが、この今の自分の姿を見られるのは、少し気恥ずかしいものがあった。

 何か羽織る物は無いかクリユスに問おうとした時、後ろから木の葉が揺れる音がした。

 ロランがとたんに眼をぎらつかせ、剣を握る。

「ロ―――」

 後ろから、何かがユリアに被さった。大きな――――マントだ。

 黒に近い深紅。それは、見覚えのあるマントだった。

 ユリアの体が、震えた。


「ジェド殿、ユリア様はご無事でしたよ。少し足に怪我をされているようですが、浅い傷です。それ以上の傷は負っておりません」

「――――そうか」

 低い声が聞こえた。それはおよそ感情の籠っていない声だった。

 ユリアは恐る恐る、後ろへ振り返る。

 無表情に立つ男が、そこに居た。

「な……何故、お前がここにいるのだ……何故お前が、私を探しになど…」

「五月蠅い、お前は大人しくそれを被っていろ」

「ユリア様、ジェド殿には私がお知らせしたのですよ。ロランは私の部下です。処罰を、私では決めかねますので」

 ロランが突然笑いだした。

「これだけの事をして、生きていられるとは思っていませんよ、隊長。けど大人しく殺されもしない…!」

 ロランはユリアに飛びかかると、彼女にめがけて剣を振り下ろす。

「―――――あっ……!」

 避けきれない、とユリアは思った。

 だがその剣は、彼女の目前で空へ飛ぶ。

 弾かれた勢いでロランは後方へ転がった。 

 ユリアの目の前に、ジェドの背中があった。


「おい、お前――――楽に死ねると思うなよ」

 ジェドの背中に感じる威圧感に、ユリアは思わず後ずさった。

「望むところだ……! 腕を落とされようが足を切られようが、息がある限りお前とその女に、俺は剣を向けてやる……!」

 ロランは青褪める顔で、それでも気丈にジェドに向かう。

 眩暈がした。

 あの時と――――イアンが死んだあの時を、まるで再演するかのように、全く同じ状況だった。

 また、人が死ぬのか。あの悪夢を、再び繰り返すのか。

 嫌だ――――。嫌だ、嫌だ。

「や……めろ」

 ユリアは呟いた。

 ジェドは鞘に納められていた剣を引き抜く。

 ロランは剣を構える。 ジェドに向かって、走った。

「――――――止めないか……!」

「ユリア様……!」

 クリユスが止めようと手を伸ばした。

 だがユリアはそれを振り切る。そして思いきり、ロランに飛び付いた。

 ロランと共に、そのまま地面に倒れ込む。

 ジェドの剣が振り下ろされ――――――ユリアの手前で、止まった。


「何をしている。そこをどけ、ユリア……!」

 ジェドが怒号を上げる。

 空気まで痺れるかのようなその声に、恐怖で体が震えたが、それでも負ける訳にはいかなかった。

「嫌だ、私はもう目の前で人が死ぬ所を見たくないんだ……!」

「……何を言っている、お前を犯して殺そうとした男だぞ!」

「それでも、嫌なものは嫌なんだ……!」

 ユリアは叫ぶ。

 必死だった。守れなかったあの時のイアンと混同していたのかどうかは、分からない。

 とにかくもう、誰も死んで欲しくは無かった。

「な――――誰が、助けてくれなんて言ったんだよ……!」

 ロランはユリアを突き飛ばした。

「俺はとっくに死ぬ事なんて覚悟してるんだ。せめて一太刀でもあの男に浴びせられればそれでいい、邪魔をするな……!」

 無性に腹が立った。簡単に死ぬなどと、言うな。

「……五月蠅い、お前の気持ちなど知った事か! 私はもう後悔したくない、だからお前が死ぬ事は許さない…!」

 ユリアは再びロランに抱き付いた。

 そしてジェドを睨みつける。

「ロランを殺すというのなら、私共々切ればいい。私は、絶対にここを動かないからな……!」

 自分が言っている事が無茶苦茶だという事は、分かっていた。

 だが形振なりふりなど構っていたら、イアンの二の舞になってしまう。

「ふ……ふざけるな……、この……」

 ロランがユリアを引き剥がそうとする。

 ユリアは更に腕に力を込めた。


「――――馬鹿馬鹿しい……」

 ジェドが呟き、剣を鞘へ納める。

「……ロランをお許しになるのですか?」

 今まで黙って成り行きを見ていたクリユスが、口を開いた。

「こんな茶番に付き合っていられるか。俺は自ら死を望む奴を殺してやるほど親切ではない。それにフィルラーンを切り捨てる訳にもいかん」

「………そうですか。ではロランは上官である私が引き受けます、宜しいですか?」

「好きにしろ」

「ま――――待て……! 俺はお前を許さない、俺は何度でも、お前の命を狙ってやるぞ……!」

 収束しようとするその場の雰囲気に反発するように、ロランは尚も叫んだ。

「勝手にするがいい、どうせお前にこの俺は殺せない。……だが、二度とその女に手を出すな。次は許さん」

 そう言うと、ジェドはきびすを返した。

 そして一人さっさと馬に乗り、その場から去って行った。


 ロランはやっと剣を離した。彼の体から力が抜けていくのが、ユリアには分かった。

 顔には脂汗が浮かんでいる。ジェドの闘気に、必死に耐えていたのだろう。

「……何故俺を助けた。余計な事をしやがって……」

 ぽつりと、ロランは呟く。

「―――――なんで、あんな事をした俺を助けるんだ。なんで俺を――――。それくらいなら、なんで……イアンを助けてくれなかったんだ………」

 ロランの頬に、涙が落ちた。

 男の人が泣くのを、ユリアは初めて見た。

「―――――済まない、私が悪かったのだ。お前の言う通り、私はイアンを助けられなかった。済まなかった……」

 静かに涙を流すロランの顔を、ユリアは抱きしめた。

 ロランは成すがままになっていた。 嗚咽が、漏れた。

「…………違う、あんたの所為じゃない事くらい、本当は最初から分かってたんだ」

 掠れる声で、ロランは言った。

「………それでも、俺は誰かを憎みたかった……。イアンは嵌められたんだと、俺は自分に思い込ませたんだ。そうでもしなければ、イアンの死に耐えてなどいられなかった」

「いいや、ロラン。私が今日のように本気でジェドを止めていれば、イアンは死ななくて済んだかもしれない。―――私の罪だ、済まない」

 ロランは涙を拭った。

 そして、彼の頭を包み込むようにして抱きしめていた、ユリアのその腕をゆっくりと外すと、その場へ立ち上がった。

 赤くなった眼で、ユリアにぎこちなく笑う。

「貴女は、変ったひとだな。そんな事ではこの世を生きて行くのに、損をしますよ」

「――――そうなのだろうか? 確かに私は世間知らずかもしれないが。だが世の中の女性に比べて、そんなに私は劣っているのだろうか……」

 真面目に答えるユリアに、ロランと―――おまけにクリユスまで、笑った。


 心外な反応ではあったが、これがロランの笑い方かと、ユリアは思った。

 イアンと同じように、目尻を下げて笑う。

 ―――――だが不思議な事に、つい先程までどうしてもイアンが被って見えていたその顔が、今はもうロランにしか見えなかった。


「さあ、日も大分暮れて参りました。そろそろ戻りましょう、ダーナ嬢が心配されておりますよ」

「ああ―――そうだな、帰ろう」

 クリユスは悪戯っぽく、肩を竦めてみせた。

「こんなに遅くまでユリア様をお連れするなどと、と私はダーナ様に怒られるのでしょうね」

「違いないな」

 死を覚悟した瞬間、ダーナにももう会えないのだと思った。

 頬を膨らませ怒る、あの顔を再び見られるのだと思うと、ユリアの顔に自然と笑みが零れた。






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