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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第一章
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2: 清め

 清めの儀式を行う聖場は、フィルラーンの塔の地下にある。

 そこの中央には人の身丈程の深さに掘られた、4.5ヘルドス(約5.5平方メートル)あまりの広さの穴が掘られており、中には聖水が張られ、人工的な泉が出来ているのだ。


 ユリアが儀式用の錫杖しゃくじょうを用意し、聖場で待っていると、武具、着物一切を脱ぎ、変りに足首が隠れる程の長さの橙色の布を腰に巻きつけただけの格好をしたジェドが、そこへ現れた。

 穢れの付いた衣装を外し、身一つで儀式を受ける為このような恰好をするのだ。


 少女はジェドが泉に入っていくのを、静かに待った。

 彼はゆっくと泉の中央まで進み、そしてこちらへ振り返る。

 水は彼の胸の位置まで張られていた。


 ユリアは両手に持った錫杖を己の目の高さの位置で掲げると、祈りの言葉を紡ぎ始めた。

 ゆらりと、ジェドの背後に揺れる黒い影が見えた。これがフィルラーンだけが見ることの出来る、“穢れ”の影である。

 この影を清め、浄化させる事がフィルラーンの務めなのだ。


 これはこの男に殺された人間達の無念の影だ、とユリアは思った。

 英雄と持て囃されていても、実際は薄汚い人殺しに過ぎないでは無いか。

 この男の手に掛った人間の、その無念がせめて解き放たれるよう、ユリアは心をこめて祈った。


 祈りの言葉に共鳴するように、ジェドの周りの水が小さく揺れ始め、黒い影が彼の背後で、まるで意思を持った生き物の様にうごめいた。

 だがその動きは次第に緩慢になり、色も薄くなって行く。

 そして最後にそれは空気に溶け、消滅した。同時に水の振動も止まる。

 “清め”の完了である。


 ユリアはほっと一息を付いた、その時――。


「―――上達しましたね、ユリア」


 背後から掛けられた声に、ユリアは慌てて振り返った。

 そこに立つのは、女性かと見紛みまごう程線が細く、中世的な美を持った青年だった。

 腰まで伸びた、青味がかった銀の髪は見とれる程美しい。


「ナシス様……!」


 彼に会うのはひと月ぶりの事である。

 同じ塔に住んではいるが、おいそれとこちらから会いに行ける方では無い。

 彼がこの、フィードニア国もう一人のフィルラーンであり、最高の権威を持つ存在なのである。


 ユリアはとっさに髪に手を当てた。

 髪をもっとかしておけば良かった―――。

 ナシス様の前に立って、失礼な格好をしていないだろうか、何故今櫛の一つも髪に挿していないのだろうか――。

 そんな事がユリアの脳内を駆け巡る。


「何の用だ、ナシス。男になど用は無い」

 泉の方から、信じられない台詞が飛んだ。

 振り返ると、ジェドが泉の際へ肘を付き、面白くなさそうにナシスを睨んでいた。


「凱旋し気分が良い所なのだ、お前のその辛気臭いツラを見せるな」


 何を言っているのだ?この男は―――。

 ユリアには、自分の耳がおかしくなったとしか思えなかった。


「な……っな、何を……っ! 何を言ったのだお前は? ナシス様に向かって…何という口の聞き方を…っ」


 青ざめるユリアにも、ジェドは素知らぬ顔でいる。

 ここまで増長していたのかと、ユリアの体は怒りで震えた。


「ふ…相変わらずですね、ジェド。あなたに一言、労いの言葉を述べに足を運んだまでの事、そう睨まなくとも直ぐに退散しましょう」

 怒るユリアに対し、当のナシスは微笑みすら浮かべている。


「ナシス様…! このような無礼許される事ではありません。即刻王にこの男の処分を…」

 ナシスは片手を上げ、やんわりとユリアの言葉を制した。

「いいのですよ、ユリア。今に始まった事では無いのですから。―――そう、貴女が私と彼との会話の場に居合わせたのは、初めてでしたね」


 ユリアは頷く。

 公式の場では有るが、こうした場では初めてだ。

 だが、公私など関係ある筈がない。


「いいのです。彼も私も公私はわきまえているのですから。……自覚が足りないと、私を怒りますか? ユリア」

「そ…そんなナシス様を怒るなど…!」


 ナシスは穏やかに笑う。

 春の日差しを思うような、柔らかな笑顔だ。

 ユリアの頬に、赤みが差す。


 ―――なんと、お優しい方なのだろう。こんな男の無礼をお許しになるとは。

 心が広く、美しいのだ。


 ユリアがフィルラーンとしての修業を終え、この城へやってきたのは今から二年程前になる。

 それ以来ずっと、彼女はこの美しく高貴なフィルラーンに心酔してきた。


「それでは、私は退散する事とします。邪魔をしましたね、ジェド」

 ジェドは不機嫌そうにそっぽを向いたまま、返事もしない。

 ナシスは小さく笑い、そしてこの場から立ち去って行った。


 ―――ナシス様に比べ、なんという最低な男なのだ、この男は。

 重ね重ね無礼な態度を取るジェドに、怒りが再度こみ上げてくる。

「ジェド…! 貴様と言う男は、無礼にも程があるぞ……っ!」

 ユリアはジェドに詰め寄ろうと、泉の際に居るジェドの方へ歩いて行った。


「ふ…あっははは…っ! これは傑作だな。お前、ナシスに惚れているのか」

「な…! 何を急に…!」

 突然なその言葉に、少女の顔は真っ赤に染まった。


「だが残念だな、ナシスがお前を抱く事は万に一つも無い。そうなったら、この国はフィルラーンを二人共々失ってしまうのだからな」

「何を…何と下世話な事を…! 私は心底ナシス様を尊敬しているのだ。それを汚らしい想像で汚すなど、許さぬぞ!」


 ジェドの眉が、ぴくりと動いた。

「汚らしいだと…? ほう、お前は男女の営みを汚いとぬかすか。夫婦になって子を宿す事は、汚らわしい行為か」

「私はそんな事は…」

 ジェドの手が、ユリアの方へと伸びる。

「あ………!」

 景色が回転した。抗う間も無く、ユリアは気付くと水の中に落ちていた。


 ユリアは訳が分からず、ただ必死に空気を求めてもがいた。

 彼女の背では、立って水面に顔を出す事が出来ない。咄嗟にジェドに掴まり何とか水面から顔を出すと、今度は咳き込む。水を飲んでしまった。


「………なっ…何を…するんだ…っ!」

「人を愛すると、相手に触れたくなるものだ」


 ジェドはユリアの体を引き寄せると、その両腕で彼女を抱きしめた。

 あまりに力が強く、息が苦しい。

「ジェド…!さっきから何なのだ。止めないか!」

 顔を上げると、その顎に手を掛けられた。

 視界が遮られる―――。


「んん………っ!」

 ユリアの唇が、ジェドのそれで塞がれた。

 余りに突然過ぎる行為に、ユリアの頭は混乱し真っ白になった。

 何故こんな事をされているのか、全く理解できない。

「やっ止め……」

 一瞬唇が離れた隙に顔を背けようとしたが、今度はジェドに後頭部を掴まれる。

 顔が固定され逃げられない。

 動かせる方の手で、少女はジェドの体を何度も叩いた。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ……………!

 必死にもがき離れようとするが、しかし屈強な体はびくともしなかった。


「――――――フィルラーンと言えど、唯の女には違いあるまい。お前も、綺麗事を言ったところで本心では、あの男にこうされたいのだ」


 冷たい目で見下ろすジェドに、寒気がした。


「こ…っこんな事、誰がされたいものか……! ナシス様を愚弄するな、あの方はこんな事など…!」

「そうだ、あの男はこんな汚れた行為などお前にしてはくれまい。俺達俗人と違って高尚なのだろうからな。全く、フィルラーンという生き物には反吐へどが出る」


 ジェドはユリアを解放した。

 少女は必死に泉から這い上がる。


 ―――なんと無様な格好だ。

 こんな男にいいようにされても、抵抗も出来ない。

 ただ無様に逃げるだけなのだ、フィルラーンのユリアは。



 ―――余りに無力な自分が、ただ、悔しい。

 したたり落ちる滴に、涙が混ざった。






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