154: 流行り病
フィードニアとティヴァナ二大国の同盟が破綻し、傘下にあった各国はどちら側の味方に付くか、決断を迫られることになった。
フィードニアの隣国であるカベルとスリアナは、旧トルバとの間に挟まれている為、否応も無くフィードニアに下ったが、その上に位置するグイザードとコルバス、更にはミレ、ネカテ、バレイ、ベスカはこぞってティヴァナへ下った。
北方にあり、フィードニア領とティヴァナの間に位置するリュオードは最後まで中立を保とうとしたが、傍観を決め込みどちらか勝利した側に阿ろうなどという魂胆が許される筈も無い。両国に再三せっつかれ、最終的にティヴァナ側に付く意を示した。
勢いがあるとはいえ、フィードニアはここ十数年で伸し上がったに過ぎぬ新興国だ。古くから大国として君臨していたティヴァナ側に各国が付くのは、最早必然とも言えよう。同盟の約定破りをしたのがフィードニアの方だという事実も、大国ティヴァナへ付く為の言い訳になったに過ぎない。
こうなることを、クルト王がどこまで予期していたのかは分からない。いや、あの王のことだからそれも思惟した上で、尚もフィードニアが勝つと目算を付けたのかもしれないが、全ては憶測に過ぎぬことだ。
フィードニア国王軍は北東へ進路を取り、まずはグイザード軍と対峙した。北ではフィードニア領である旧テナンと旧ボルテンの兵を含めた領兵軍が、リュオードと戦いを始め、東では旧トルバ軍がカベル、スリアナ両軍の指示の下、コルヴァス、ベスカを相手に二箇所に分かれ戦っている。
ティヴァナ軍は少し遅れてベスカと合流し、旧トルバの地で戦闘に入った。その勢いにカベル、スリアナ両軍は押されることとなったが、フィードニア国王軍はグイザード軍を破った後、そのままコルヴァスへ進軍した。ミレ、ネカテが援軍をこちらへ向けていた為、旧トルバへ向かうことが出来なかったのだ。
ハイルド大陸東の地全土の、あちらこちらで戦闘が行われている。それは連合国との戦いよりも激しく、まさに二大勢力のぶつかり合いだった。
フィードニア国王軍が出兵してから、十ヵ月余りが経った。
逐一王城へ情報が齎されるが、芳しい報告ばかりではない。戦況は一進一退、中々苦戦しているようだ。
戦いが長引けば長引くほど、情勢不安の暗い影が民の心にも巣食っていく。
そんな折だった、フィードニア王都の城下町で流行り病が発生したのは。
「――――流行り病?」
王城の政務官がフィルラーンの塔に齎した情報に、ユリアは眉を顰めた。
「そうなのです、ここ十日程の間に、城下町の民の間で急激に広まっているようなのです。なんでも、始めに激しい嘔吐や下痢を起こし、続いて高熱が数日続くのだとか…。死者も少しですが出ているようなのです」
なんということだろう、唯でさえ今までに無い大きな戦いが起こっている中、皆不安を覚えているというのに、更に追い討ちを掛けるように病が流行るとは。
「医者は何と言っているのですか、流行り病の原因は分かっているのですか?」
「それが、どういった病なのかまだ分かっていないのです。街医者は総出で治療に当たっており、更に事を重く見たクルト王が王城の医者までも派遣なされたのですが」
「それでもまだ広まり続けているというのですね」
「そのようなのです……。あの、それで……」
言い難そうに、政務官は視線を彷徨わせる。
「なんなのですか?」
ダーナが促すと、意を決したように口を開いた。
「街の民から、嘆願書が王城へ届いているのです。その…ユリア様に、病を清める儀式を執り行って欲しいと」
「病を?」
ユリアはぽかんと口を開ける。
「何を言っているのですか、病を鎮める力など、私に有りはしないというのに」
そもそも病を治す力をフィルラーンが持ち合わせていたという話など、かつて一度も聞いたことは無い。フィルラーンはただ、死者の魂を清め、国の穢れを払う為だけに存在するのだから。
「街の民人の間では、ユリア様を女神と同様に思っている者達もいるようなのです。軍に力を貸し、戦いを勝利に導いたお方なのだから、きっと病だって治してくれるに違いないと考えているようで」
困ったような口調の政務官に、「まあ、民人がそう考えるのも仕方の無い事ではありますわね」とどこか誇らしげにダーナが言った。
そんな馬鹿な、と思いはしたが、そのような考えに縋るほどに、民の間に不安が積もっているのだろう。
形だけでも儀式を行うことにより、民の心が少しでも安らかになるのならば、やってみる価値はあるのかもしれない。
「分かりました、ならば儀式を執り行いましょう。早急に嘆願書を寄越した代表者と連絡を取り、儀式の手筈を整えて下さい」
「まあっ」
ユリアの提案に、ダーナが驚いたような声を出した。
「私は反対ですわ、ユリア様。原因の分からぬ病が流行っている中へ行き、万が一にも感染してしまったらどうするのですか。そのようなことになったら、民は益々不安を募らせ、遠くで戦っている兵士達にも動揺を与えかねません!」
民に同情してはいるが、ユリアの不利益になる事を由としないダーナは、ぴしゃりと言うと、政務官を追い出そうとする。
「まあ待て、ダーナ。ここで民からの嘆願書を無視しては、不安が不満に変わり、暴動が起こり兼ねない。だから王は私にこのことを告げたのだ。言わばこれは王の命なのだろう」
政務官の方へ目をやると、彼はぎこちなく頷いた。嘆願書を政務官が直接フィルラーンの塔へ持ってくるとは思えない。王に寄越されたのだろうと見当を付けたが、当たりだったようだ。
ユリアが再び清めの儀式の手配を頼むと、政務官は恭しく頭を下げた。
それから三日後、ユリアはダーナと護衛の兵と共に、城下町の中央区へ出向いた。
清めの儀式は中央区にある広場で行う事になっていた。流行病が特に広まっているのが、中央区だということらしい。
「流行り病と言っても、人から人に、次々うつるようでも無いのです」
嘆願書の代表者であるらしき中年の男が、困ったように言った。彼はこの中央区の長でもあるようだ。
「家族の中の一人がこの病に倒れたからといって、看病していた家族にうつるという事は無いようです。しかし、かと思えば一家全員、隣近所の住民達が同時期に病に掛かることもある。食あたりや毒が原因かとも思われたのですが、病に掛かった者の食した物、食した場所や食材を購入した店、はたまた立ち寄った飯屋等、まったく統一性が見つかりませんでした」
食べ物が原因でも毒でもなく、人から人に感染していく病でもない、だが病に倒れるものは次々に現れていく。医者もこのような病の症例が今まで無く、原因が分かりかねているらしかった。
ユリアに清めの儀式を願ったのは、もう藁にも縋る思いだったのだろう。清めの儀式を行ったところで、病までもを清めることなど出来ないが、それでも民衆の気休め位になればいい。そう思いながら、設えられた祭壇へ上った。
人から人に感染しないとはいえ、原因が分からない以上は人々が密集する事は避けねばならない。今回の清めの儀式は人々が対象な訳ではなく、この“街”そのものだ。故にこの儀式を見物する事は、硬く禁じられていた。
そもそも祭壇は四方を幕で囲っており、外から儀式の様子は見られないようになっているし、民には極力外出を控えるように通達がされている。好奇心を抑えきれずにやってきた者もいたが、護衛の兵に追い払われた。
ユリアは祭壇の上で、錫杖を掲げ儀式の言葉を紡ぐ。幕の内側には、ユリアとダーナ、それに先程の中央区長を含めた数人の町の代表者のみである。皆、押し黙り儀式を見守っていた。
――――――静かだ。
街の賑わいも今日は無い。己の声以外には、何も聞えぬ程に静かだった。
「やぁっと会えたね、フィルラーンのユリア様ぁ」
ユリアのすぐ後ろで、くすくすと笑う声がした。
驚いて振り返ると、一人の若い男が片手をひらひらと振りながら、嬉しそうに立っていた。
もう片方の腕は無い。その男の顔は、見覚えが有り過ぎる程にあった。
「ユーグ……っ、生きていたのか……!」
ティヴァナへ行く船の上で、ジェドに右腕を落とされ海へ消えた。それからこの男がどうなったのか、ユリアは知らなかった。
「これ、ゼフィー。儀式の見物は禁じておるというのに、ここへ来ては駄目ではないか」
区長がユーグに向かい親しげに話しかけた。ゼフィー? どういう事だ?
「まったく、警備の兵士がいただろうに、どうやってここへ入ってきたんだ」
慌てて追い返そうと、ユーグに駆け寄ろうとする区長を、ユリアは手で制する。
「駄目だっ、この男に近づくな!」
突然目を吊り上げるフィルラーンの少女に、区長達は目を丸くしたが、悠長に説明などしている暇は無かった。兎に角この場に居る皆の命が危ない。
「皆、早く逃げて…!」
叫ぶものの、状況が掴めずにいる彼等は、ただ困惑し互いに顔を見合わせるばかりである。
「ユリア様、その男は怪しいものではありません。その道の先にある、プリメリーという食堂で働く男で……」
呑気に言う区長を無視し、ユリアは手にした錫杖を剣代わりにユーグに向ける。警備の兵は、恐らくもうこの男の手に掛かり殺されているだろう。ここに戦えるものは誰もいない、どうやったら切り抜けられる?
「ダーナ、私の側へ来い……!」
「は、はい…!」
同じく状況が分からぬダーナではあるが、切迫したものを感じた彼女は、慌ててユリアの側へ駆け寄り、ぴたりとくっついた。ユリアはユーグを睨み付けたまま、ダーナに小声であることを告げた。
「そんなに怖い顔しないでよね、噂の女神様に会えて感激してるんだからさぁ。いやー、ホント相変わらず綺麗だね。でももっと恐怖に震えてくれたほうが、俺の好みかなぁ」
あはは、と笑いながら、ユーグは懐から数本のナイフを取り出した。
「ゼ、ゼフィー……? いったい、何を……」
狼狽する区長の喉に、ナイフが一本突き刺さった。周りの者達から叫び声が上がり、我先に逃げようとしたが、既に遅かった。ユーグのナイフは次々に彼等を襲い、皆その場に倒れた。
一瞬の出来事に、止める暇も無かった。既に皆絶命している。
「ユ…ユーグ、何を……!」
「あはは、何って、邪魔だから死んでもらったに決まってんじゃん」
当然の事のように言うユーグに、恐怖よりも怒りが増した。こんな風に簡単に命を奪うこの男が許せなかった。こいつが、ロランを、エルダを、ライナスを殺したのだ。
「お前を、許さない。絶対に許さないからな……!」
「許さなきゃどうするっていうのさ、この俺を倒すって言うの? その剣も持てない細い腕で?」
愉快で仕方ないとばかりに、おなかを抱えて笑う。
「じゃあやってみればいいじゃないか」
言いながらユーグはゆっくりと近づいて来て、ユリアに手を伸ばした。
「駄目、ユリア様…!」
庇うようにダーナが前へ躍り出る。ユーグは幾分気を害したとばかりに舌打ちすると、振り払うように手の甲で彼女の頬を殴りつけた。
「ダーナ…!」
地面に倒れる彼女を覗き込もうとすると、ユーグに腕を掴まれた。
「今遊んでるのはこの俺でしょ、他に気を取られないでくれる?」
「は、離せ……!」
振りほどき逃げようとすると、足を引っ掛けられ倒された。
「逃がさないよ、折角苦労してあんたをここに誘き寄せたのにさぁ」
その言葉に、さっと血の気が引いた。
―――――誘き寄せた? それは、まさか。
「城下町に広がる病は、もしやお前が仕組んだ事なのか?」
ユリアの問いに、ユーグはにやりと笑う。それ以上の言葉など無くとも、それだけでこの男がやったことなのだと分かった。
「わ、私を呼び寄せる為だけに、多くの民を犠牲にしたというのか……!」
「そうでもしなけりゃあんた、中々王城から出てきてくれなかったからね」
仕方ないだろ、とまるでユリアを責めるかのように言う。
「大変だったんだぜ、街の飯屋に潜り込んで、少しづつ毒をばらまいて流行り病に見せかけてさあ。んで頃合を見て、ユリア様に清めて貰えば鎮まるかも、なんて言いふらしてね。まったく時間掛かっちゃったぜ」
悪びれずに言うユーグに、怒りで体が震えた。だがあの奇怪な流行り病がこの男の仕業だというのなら、その治療法を知っているのもこの男だということになる。
「……毒とはいったい、何をばら撒いたんだ。医者は原因を特定出来ていなかったが……」
「そりゃあ、そうだろう」
ふふん、と得意気な顔に男はなった。
「あの毒は、このハイルド大陸よりもっとずっと西の方の地から取り寄せた毒なんだ。街医者なんかに分かる訳がないね」
「では、その毒をどうやってばらまいたんだ? 飯屋の食事に混ぜたのなら、その飯屋で食事をした者だけが毒に倒れることになる。だが今回病に倒れた者達は、皆が皆同じ飯屋で食事をした訳では無かった」
「へえ…この状況で民の為に情報収集って訳か。流石、フィルラーン様は心お優しくていらっしゃるね。まあ、いいか。あんたを呼び出して目的は達成されたし、教えてやってもいいかな」
くすりと笑うと、ズボンのポケットからコインを取り出した。
「これだよ」
「青銅貨……?」
金がなんだというのだろう。意味が分からず手を伸ばすと、ユーグがそれを高く上げた。
「おっと、触らないほうが良いんじゃないかな。これに毒を塗ってあるからさ」
「え?」
「この毒は皮膚からでも体内に入り込んでいくんだよ。つまりこの金を触っただけで、そいつは毒に犯されるのさ。だが遅延性の毒だから、触って直ぐに効く訳でも無い。人が毒に感染し、そうと気付かずまたその金は違う者の手に渡る。そうして次々に毒に感染するって訳、分かったかな? ちなみに、俺はこの毒に耐性をつけてあるから、効かないんだけどね」
「金……」
それならば不特定多数の人間に毒がばら撒かれていく。だから感染源を特定できなかったのだ。
「さて、無駄話もこれで終わりだよ」
目を細めると、ユーグは短剣を取り出した。そして再びユリアに手を伸ばす。
「私に触るな…!」
手を撥ね退けると、ユーグは楽しそうな顔になる。
「いいねぇ…その嫌悪に満ちた顔、ぞくぞくしちゃうよ。ほら、もっと抵抗してみな」
獲物を弄ぶ獣の目だ。
ユリアは手にした錫杖を両手で振り上げ、ユーグが一歩後退した隙に立ち上がった。
「何故、私を狙う。トルバが無くなった今、私を狙って何の意味があるというんだ」
「何故って、そりゃあお前が、あの男の弱点だからさぁ。人質にするんだよ、お前をね」
「あの男……?」
「無駄話は終わりだって言っただろう、抵抗しないんだったら、もう連れていくよ。言っとくけど、人質って言っても綺麗な身体のままでいられるとは思わないでね」
くすりと薄ら笑いをする男に、ぞっとした。
再び錫杖を構え間合いを取るが、こんな物がこの男相手に牽制になるとも思えない。いったい、いつまで持ち堪えられるものか―――――。
そう思ったときに、複数の足跡がこちらへ近づいて来る音が聞こえた。
「悪いがお前の人質になるのは御免だな。その変わりの提案だが、お前が牢に入るというのはどうだ?」
ユリアがにやりと笑うのと、複数の王城の兵士達が祭壇の周りを囲むのとが、同時だった。
「ユリア様、ご無事で良かったです」
ダーナが涙ぐみながら、四方を囲む幕を捲り、顔を出す。先程近くに呼び寄せた時に、ユリアがユーグの気を引いている間に抜け出して、助けを呼ぶよう言っておいたのだ。
「へえ……何も出来ない女かと思って、油断してたよ。けど、それで勝ったつもり?」
「え?」
次の瞬間には、ユーグはユリアの目の前に立っていた。抵抗する間も無く強引に髪を掴まれ、引き寄せられると、短剣が首筋に当てられた。
「人質じゃなくても、これさえあれば、まあいいや」
ユーグはにこりと笑うと、そのままユリアを切り裂いた――――――。