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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第五章
147/187

147: 運命の一夜4

 ―――――――――俺は、お前を愛している。


「え……何。今、なんて……」

 ユリアの頭の中で、先程ジェドが口にした言葉がこだまの様に反芻される。

 聞き間違い? いいや、確かにジェドはそう言った。……多分、恐らく。

 だがそんな筈はない。ジェドがユリアのことを愛するなどという、そんな夢のような事態が起こる筈がないのだ。

「お前を愛していると言ったんだ。何度も言わせるな」

 眉間に皺を寄せると、ジェドはユリアに再び口付けた。今度は触れるだけの優しい口付けだった。

 ジェドは乱れて額にかかったユリアの髪を指で掬い掃うと、額にも唇を落とす。まるで愛おしむかのようなその行為に、ユリアは身体を震わせた。

「うっ……嘘だ、そんなの嘘だ。お前が私を愛する筈が無い……!」

 ユリアはジェドの身体を押し返すと、身体を捩り顔を背けた。

 その言葉を本気にしてしまうのが怖かった。信じ受け入れてしまい、もしそれが嘘だったとしたら、きっともう立ち直ることなど出来ない。

「ユリア」

 ジェドは構わず彼女の頭に口付ける。どうして、なんでそんなに優しく名を呼ぶのだろう。

 だってお前はずっと、私を憎んでいた筈なのに。

「や…っ止めろ、私に構うな。私はお前が嫌いだ」

「そんなことは言われなくとも知っている」

 そっけない言葉とは裏腹に、ジェドはユリアの首に掛かる髪を掬い上げると、露になった首筋や肩に唇を押し付けてゆく。触れられる箇所が熱を帯び、焼けそうに熱い。

「ジェド、止めろってば。お前は…だって私は、お前から両親を奪ったのに……っ。ずっと、私を憎んでいたのだろう。なのに、どうしてこんな…」

「何を言っている」

 ジェドは横を向くユリアの顔を覗き込むと、幾分困惑するように眉を顰めた。

「そういえば前もそんな訳の分からんことを言っていたが―――何なんだ、それは」

「え……?」

 何なんだ、と言われ、ユリアの方が困惑した。ジェドがユリアを憎む理由など、それ以外に無いではないか。

『たった一人の大切な息子を、貴女が私から奪ったのです……!』

 ジェドの母の悲痛な叫びが頭に蘇る。ユリアに縋るその手の強さも。

 ジェド自身も、家族がいるから城へは行きたくないと言っていたではないか。だが私を助けたが為に、剣の腕が皆に知られることになり、登城せざるを得なくなったのではないか。

 だから私を、ずっと憎んでいたのだろう?

 恐る恐るそう口にすると、ジェドはいっそう眉間の皺を深くさせた。

「何を言っているんだ、俺は自分でこの城へ来たんだぞ。十年後、お前に再び会うために」

「え――――?」

 頭が真っ白になった。だって、そんな、どうして。

「う、嘘だ。だってお前は、私を……」

 再会した時、私を冷たい目で見たではないか。憎んでいないのだったら、どうしてあんな目を向けたというのだ。

 あの身体の底から冷えていくような絶望感を、今でもつい先程のことのように思い出すことが出来るというのに、どうしてそんな甘い言葉が信じられるだろう。

 そんな言葉で惑わせないで欲しい。覚悟を鈍らせないで欲しい。どうしてこの男は、いつも私の思惑と正反対のことをするのだろう。

「嘘ではない、信じたくないのならばそれでも構わんがな。ただお前を抱く理由を答えてやっただけのことだ。―――安心しろ、だからといって俺の命をくれてやるという言葉を違える事はしない」

 止まっていたジェドの手が、再びユリアの足に伸びた。耳を軽く噛まれ、思わずこぼれそうになる声を必死で堪えた。

「まっ待って、ジェド」

「もう待たん」

 言葉通り長い指は躊躇無く太腿まで滑り、そしてユリアの下着に触れた。慌ててその手を押さえると、首を横に振る。

「待って、違うんだジェド。私はっ……」

 ―――もう嘘でもいい。後で傷つくことになっても構わない。

 ジェドの両親のことも、フィードニアのことも、全てがユリアの頭の中から消え去った。これ以上、自分の気持ちを黙っていることなど出来ない。

「ジェド、私は……お前のことを――――――」

 黒い綺麗な瞳がユリアを見下ろしている。ユリアは息を飲み込むと、次の言葉を――――ずっと口にしたかったその言葉を、紡いだ。









「おいラオ。いい加減その狭い檻の中でうろうろするのは止めてくれないか。うっとおしくて敵わないよ」

 壁一枚隔てているため視界には入ってこないが、鉄格子は音を遮断してはくれない。終始足音やら喚き声を聞かされては、この冷たい床以上に気力が損なわれていくというものだ。

 溜息と共に吐き出すクリユスの言葉に、ラオが獣の咆哮のような声を出した。

「何言ってやがる、こんな時にじっとしてなんかいられるか。お前を見損なったぞクリユス。妹みたいにユリアのことを可愛がっていたくせに、よりにもよってジェド殿に殺させるなんてな。目的のためならそこまで冷徹になれる男だとは、今まで思っていなかったぜ……!」

 散々好きなように喚き散らすラオを静観したあと、クリユスは再び溜息を吐いた。

「……お前ねえ、ジェド殿が本当にユリア様を殺すと思っているのか?」

 その言葉にラオはぴたりと動きを止めた。

「―――何?」

「冷静になって考えてみろよラオ、お前が生涯使えようと誓った男は、あんな非力な少女が襲い掛かってきたからといって、分別無くあっさりその場で切り殺すような男なのか? しかもその相手は己が守るべき自国のフィルラーンだというのに」

「う……いや、だがお前が……そうだ、お前がユリアに言ったんじゃないか。ジェド殿に殺されてこいってな。だからユリアはそのつもりでジェド殿の部屋に行ったんだろうが」

 困惑しつつも反論してくるラオに、クリユスは肩を竦ませる。

「何を言っている、俺は一度もユリア様に対して、ジェド殿に殺されに行けだなんてことは口にしてはいないよ。ただジェド殿を殺すつもりで彼の部屋へ行けと言っただけだ。この俺が女性に対してそのような恐ろしい事を口にするなど、この世の全ての草花が枯れ果てる事態が起こったとしても有り得ないね」

 しれっと言うクリユスに、ラオは嫌そうな声を出す。

「同じことじゃねえか、話の流れはそうだっただろう。ユリアがジェド殿に殺された場合、とかなんとか抜かしてたじゃねえかよ」

「全然違う、あれは仮定の話をしていただけだろう。確かにそのような事態になればジェド殿は国王軍総指揮官を罷免されるだろうが――――けれど別に、その為にユリア様が命を落とす必要など無いんだよ、ラオ」

 含み笑いをするクリユスに、ラオは苛立ったような声を上げた。

「おい、訳が分からんぞ。どういうことか分かりやすく話せ」 

「つまりだな、ジェド殿がユリア様の命を奪わずとも、ただ単に“フィルラーン”というものをこの国から奪ってしまえば結果同じことになるということだ」

「それは、つまり―――」

「こんな夜更けにあのように愛らしい女性が自分の部屋を訪ねてきて、手を出さずにいられる男がいるとは、俺には思えないね」

「お前なあ」

 今度はラオが呆れたような声を出す。

「皆がみんなお前と同じだと思うなよ、ジェド殿がユリアに手を出すとは限らないじゃねえか。お前にしては随分穴の開いた計画を立てたもんだな」

 ラオにしてみれば精一杯の嫌味だろうが、クリユスは意に介さなかった。

「別に、手を出さなかったとしても構わないさ。それならそれで、ユリア様を手引きした男が二人の仲を証言するまでの話だ。フィルラーンという聖女を夜更けに部屋へ入れておいて、ただ事で済むわけないだろう。まあ、フリーデル殿やハロルド殿は問題視するだろうな」

 その状況で何も無かったと主張したところで、誰が信じるだろう。事実はどうあれ、そんな話が流れるだけでフィルラーンの名は汚されるのだ、無罪放免に出来る筈が無い。

「……俺は嫌だ、ジェド殿の名誉がそんな事で損なわれるなんてな。ユリアにしても可哀想じゃねえか。傷物にされたって公表するわけだろう」

 心底嫌そうに足を踏み鳴らすラオに、クリユスは苦笑した。

「お前、何を勘違いしているんだ、これは不名誉なことじゃないんだぞ。寧ろ民衆は喜ぶだろうな。ジェド殿とユリア様の恋話が今、巷で流行っているのを知らないのか」

「はあ?」

 素っ頓狂な声を出す。まあ、浮いた話に弱いこの男は知らないだろうと思ってはいたが。

 そうなのだ。あの日、ユリア様がティヴァナから戻られた時に、ジェド殿が彼女の手に口付けをした光景を目の当たりにした民の間で、二人の恋物語が噂されるようになったのである。

 今や二人の人気は高まりきっている。英雄とフィルラーンの許されぬ恋というものは、大衆の好奇心をくすぐる話なのだろう。

「それともうひとつ勘違いしているが、俺は二人の間に無理矢理関係を持たせようとしている訳ではない。そもそもジェド殿とユリア様は、本当に愛し合っているのだよ。お互い気づいてはいないけれどね」

「何だとおっ」

 さっきよりも驚いた様子のラオに、クリユスは肩を竦める。この反応はやはり気付いていなかったようだ。まったく、本人達も含めて鈍感な人間が多すぎる。

 己を殺そうとするユリアの命を、ジェドは決して奪おうとはしない。その理由をユリアはきっと問うだろう。考えれば良い、命のやり取りという極限の場面になって、せいぜい互いの想いをぶつけ合えばいいのだ。

 そして―――……。

「ジェド殿はフィルラーンを奪った罪で、またユリア様はフィルラーンを自ら捨てた罪で罷免されるだろうが、かといって二人を引き離せば民衆の反感を買う。恐らく二人揃って田舎にでも蟄居させられると言った所だろう。そして二人は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。―――ま、恋物語の結末は、こんな所かな」

「めでたし、めでたしって……いや、けどユリアはジェド殿の罷免を望んでいたくらい、あの人のことを嫌っていたんじゃないのか?」

 いまいち事態を飲み込めないラオは、そこから先へ進めずにいる。まあ、仕方が無いか、ユリアは最初からずっとそう主張してきたのだから。

「それは彼女の本心ではないんだよ。まあ、話すと長くなるから割愛するが、ともかく二人は愛し合っていて、そういう結末を迎えさえすれば、全て丸く収まるのさ」

 ユリアはフィルラーンという責務から逃れ、愛しい男と共に生きることが出来る。フィードニアはジェドという英雄を失い、ティヴァナとの同盟を続けざるを得なくなる。そしてティヴァナは正式に即位したリュシアン王の下、再び強固な大国で在り続けることが出来る。

 きっと両国は、内心のそれぞれの思惑はともかくとして、長らく友好国としての体裁を保ち続けることだろう。

「前に言っただろう。俺の考えていることも、やりたいことも、いたって単純なことでしかないと」

 笑いながらクリユスは言う。そうなのだ、母国を守り、そしてユリアを幸せにしてやりたかった。たったそれだけのことなのだ。

「なんだかよく分からんが、だったらそうユリアに話してやれば良かったじゃねえかよ。あいつ、本気でジェド殿に殺されるつもりでいたんだぞ」

「馬鹿を言うな、ジェド殿に抱かれに行けなんて言ったところで、ユリア様が素直にそれを実行する訳ないだろう。そもそも他人からジェド殿の気持ちを聞かされた所で、間単に信じるひとでも無いしね」

 それに、大切な妹をあっさりくれてやっては癪に障るというものだ。物騒な舞台を最後に用意したのは、ジェド殿に対するちょっとした意趣返しでもある。

「ち……俺もすっかり騙されたぜ、焦って狼狽えて馬鹿みたいだ。お前ってやつは演技が上手すぎるんだよ、ジェド殿に殺されに行けと言うのが辛いから、ユリアに嫌われようとしているのかとすっかり信じ込んじまったぜ」

 どかりと床に座った音がした。安堵し落ち着く気分になったのだろう。

「お前も一緒に騙されてくれる方が信憑性が増すだろう」

「ちっ、全くその通りだろうけどよ」

 不貞腐れた様子のラオにクリユスは笑い声を上げると、壁に背を預けた。

「ま、それだけではないけどね……」

 ぽつりと零すクリユスの言葉に、ラオは「なんだって?」と声を寄越したが、それには返事をせず、黙ったまま天井の隙間から入り込む月光に目をやった。

 それだけでは無いのかも知れない、とクリユスは思った。

 今にして思うと、大切な妹を手放すのは自分が思う以上に辛かったのかもしれない。

 それならばいっそ、嫌われてしまった方が楽だったのだ。あの妹は、そんなクリユスの逃げを許してはくれなかったが。

「全く、妹離れが出来なくて困るな……」

 だが仕方が無い、二人が結ばれた暁には笑顔で祝福しよう。

 そもそもユリアの名を高めることには、クリユス自身の我侭が大いに含まれていたのだ。しかしそれも、ユリアの前に跪くジェドの姿を見ることにより叶えられた。あとはただ、彼女の幸せを祈るだけだ。

 自嘲するクリユスの独り言を、ラオはもう問い返しては来なかった。ラオはラオで何か考えることがあるのだろう。ひょっとするとユリアとジェドにくっついて田舎町に行こうとでも思っているのかもしれない。ユリアがフィルラーンで無くなればダーナと夫婦になることも出来るのだ、それもまた良いだろう。

 夜が明ければ全てが終わる。いや、全てが動き出すのだ。

 だというのに、なんだろう。胸の奥がどこかざわついた。

 クリユスは胸の奥に宿る微かな不安を消し去るように、目を閉じた。眠ってしまおう、目が覚めた時には、新しい朝が始まっているのだから―――――。

 その時、深夜の静寂を破るかのような鐘の音が、街中に響き渡った。

 それは戦いを告げる鐘の音だった。

 






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