145: 運命の一夜2
「誰だ」
扉を叩いて暫く間が空いた後、部屋の奥から不機嫌そうなジェドの声が聞こえた。
ユリアはごくりと唾を飲み込むと、声が震えぬよう苦心しながら口を開く。
「わ…私だ、ユリアだ。お前に用があって来た、扉を開けてくれないか」
再び暫くの沈黙が訪れ、そして唐突に扉が開かれた。そこから顔を出したジェドは、目を見開き、眉間に皺を寄せ、まるで異形の者でも前にしているかのような顔付きで、ユリアを見下ろしている。
「や、やあ、ジェド。こんな遅くに悪いな……」
「――――――」
ジェドは口をもごもごと動かしたが、それは言葉になって出ては来なかった。どうやら絶句しているようだ。突然の訪問に驚くのも無理は無いが、こんな様子のジェドを見るのは初めてのことだ。彼を驚かせたことに、ほんの少しだけ愉快な気持ちになった。
「あの、お前にこれを持って来たんだ。酒と、食べ物も少し。えっと…この前クリユスを助けてくれたお礼にと思ってだな……」
籠を差し出したが、ジェドは受け取らなかった。変わりに眉間の皺を更に深くさせる。
「……お前に礼を言われる覚えはない、俺はただ総指揮官としての仕事をしただけに過ぎんからな。それよりお前、どうやってここまで来たんだ。何故俺の部屋の場所を知っている」
じろりと見下ろされユリアは慌てた。警戒されて追い返されてはたまらない。
「そっそれは、まあいいじゃないか。ところで立ち話も何だし、部屋へ入れてもらってもいいか? たまにはお前と一緒に酒でも飲みたいと思って……」
強引に部屋へ足を踏み入れようとするユリアの腕を、ジェドが掴んだ。
「おい、何言ってるんだ。正気か?」
逆の手がユリアの顎をぐいっと持ち上げた。ジェドの顔が間近に迫る。
「こんな夜更けに一人で男の部屋へやってきて、一緒に酒だと? 俺を誘っているのか、お前は」
「な――――」
ジェドの言わんとする事が分かり、顔が火を噴きそうな程に赤くなる。
「ばっ馬鹿っ、なっ何を言ってるんだ、そんな訳があるか」
「だったらとっとと帰れ」
部屋から追い出そうとするジェドに、ユリアはしがみつくようにして抵抗した。
「いっ嫌だ、私は礼にお前に酌をしなければ帰らないぞ、お前に借りを作ったままでいるのは気持ちが悪いんだっ」
我ながらなんて大胆な事をしているんだという自覚はあったが、そこは死を覚悟した身である、恥も外聞もどうとでもなれという気持ちがあった。
ジェドは己からユリアを引き剥がすと、忌々しそうに舌打ちをした。
「……酌をすれば気が済むんだな。では一杯だけだ、一杯飲んだら塔へ帰れ。いいな」
「わ、分かった」
ほっと一息つき、改めてユリアは部屋へ足を踏み入れる。扉を閉めようとしたら、再びジェドが声を荒げた。
「おい馬鹿、扉を閉めるな」
「え、何で。扉が開いたままでは落ち着かないではないか」
ユリアはジェドに、己を確実に殺してもらわなければならなかった。万が一騒ぎを聞きつけた兵士達がやってきて、ジェドを止めてしまっては、元も子もない。
そう思っての主張だったのだが、ジェドは何故か頭痛を堪えるかのように額に手を当て、そしてこれ見よがしに溜息を吐いた。
「――――分かった、お前がそう言うなら閉めればいい。だが言っておくが、扉を閉めたら俺はお前を犯す」
目が据わっているジェドに、ユリアは扉から手を離した。
ジェドの部屋は国王軍の総指揮官という地位に似つかわしくない程に、小さく質素な部屋だった。
家具はベットと小さなテーブル、それに棚に酒が数本と本が数冊置いてあるだけで、他には何の装飾品も無い。いかにも寝る為だけの部屋といった風で、ジェドらしいとユリアは思った。
ユリアは籠をテーブルに置き、酒と料理を取り出した。中には二つのグラスまで入れられていた。つくづく用意の良いことである。
椅子もひとつしか無いので、それはユリアに座らせてジェドはベットに腰掛けた。無言でグラスを手にするジェドに、ぶどう酒を注ぎ入れる。
「ジェド、本当に感謝している。お前のお陰でクリユスの命が助かったのだからな」
酒を持ってきた口実にはしたが、その気持ちは本当だった。それだけではない、今まで助けてもらった全てのことに感謝を込めて、酒を注いだ。
ジェドは何も言わず酒を煽る。一気に飲み乾すと、空になったグラスをユリアに渡した。
「一杯飲んだぞ、もういいだろう、帰れ」
「なっ……」
幾ら私の事が嫌いだからって、そこまで追い返そうとしなくてもいいではないか。ジェドの素っ気無い態度に悲しくなるのと同時に、少し腹立たしくもなる。
「私は一緒に飲もうと言ったんだぞ、私はまだ口も付けていない。料理だって口にしていないではないか。今のは無効だ、もう一杯飲め!」
再びぶどう酒を注ぎ入れ無理矢理ジェドに押し付ける。
「一杯だけだと言っただろう」
睨み付けてくるジェドの眼光を、ユリアはふんと跳ね返した。
「うるさい、私が一杯飲むまで付き合え」
「お前が酒を飲むと碌なことにならんと言っているんだ」
酒に口を付けようとしたユリアのグラスを、ジェドが掴む。碌なことにならない? そんな訳の分からない理由を付けてまで私と一緒に飲みたくないのだろうかと思うと、ユリアはむっとした。
「何を言っているんだ、私が酒を飲んだらどうだというんだ。言っておくが私は酒で失敗したことなど一度も無いぞ。生憎だな」
「よく言う…自分を知らんというのは幸せだな」
「何だとっ」
腹立たしさに思わず席を立ちかけたが、慌てて座りなおす。危ない、危うくジェドのペースに乗せられる所だった。ここで怒って帰る訳にはいかないのだ、冷静にならねば。
「まっまあいい、今日は礼をしに来たのだ。私はともかくお前は飲め。酒も料理も、美味しいだろう」
「……まあな」
ジェドは酒を再び口にすると、悪くなさそうに目を細めた。クリユスの事だ、きっと酒も料理もジェド好みの物を用意してあるに違いなかった。
――――あくまでユリア様は、本気でジェド殿を殺すつもりで行って下さい。
ユリアはクリユスの言葉を頭の中で反芻する。
スカートの下に隠したこの短剣でジェドを殺そうとするのなら、まずはジェドを酔わせなければならないだろう。酔い潰れた所を介抱する振りをしながら襲うのだ。これならきっと殺意の信憑性は生まれるだろう。そしてそれに気づいたジェドは、逆にユリアを切り捨てるのである。
完璧なシナリオではないか、とほくそ笑むユリアを前にして、ジェドは不審げに眉を顰めた。
「何をにやついている、不気味だからよせ」
本当に刺してやろうか、とユリアは思った。
二杯目の酒を飲み終わったジェドに、「二杯も三杯も同じではないか」と更に酒を勧めることに成功したユリアは、目的はともかくとして、こうしてジェドと最後にゆっくり酒を飲み交わせたことが、嬉しくて堪らなかった。
ジェドの制止を振り払い口にしたぶどう酒は、確かにとても美味しい酒だった。人生最後に口にするものとして、決して悪くは無いものだ。
「どうなっても知らんからな」
そうぶつぶつと言うジェドの小言は聞き流す。酒は弱くないといっているのに、しつこい男だ。
だがひょっとすると心配してくれているのかも知れないと思うと、それすら嬉しく思えてしまう自分に思わず苦笑する。
「そういえば、アレクにはまだ付き纏われているのか?」
特別アレクに関心があった訳ではなかったが、話を変えようとその名を口にした。するととたんにジェドが嫌そうな顔をする。
「ああ、あまりに鬱陶しいから、一度あいつの足腰が立たなくなるまで相手をしてやったんだが、逆効果だった。今やこの俺の弟子気取りだ」
「そうなのか……アレクは、強くなりそうなのか?」
ユリアの問いに、ジェドはほんの少し口の端を吊り上げただけで答えなかったが、恐らく肯定なのだろう。誰が剣の相手をしてやっていると思っているんだ、とでもいうような目をしている。
「ふうん。いいな、楽しそうで」
自分で話題を振っておいてなんだが、ユリアは少し機嫌が悪くなった。アレクに嫉妬してしまいそうだった。自分のように、あれこれ口実を作らなくても毎日ジェドと一緒にいられるなんて、羨まし過ぎる。
「何が楽しいんだ、迷惑していると言っているんだ、俺は」
そう言いながら、豆を煮た物を口にする。味が気に入ったのだろう、再び匙を口に運んだ。
それでも今、この瞬間だけは、ジェドと同じ時を共有しているのはユリアだけなのだ。
この時間がずっと続けばいいのに。時がこのまま止まってしまえばいいのに。儚い願いだと分かっているのに、それでも願わずにはいられなかった。
「――――で?」
「え?」
焼いた肉を口に放り込みながら、ジェドが問うような目を向けてくる。その意味が分からず、ユリアは首を傾げた。
「そのスカートの下に隠している物は、いったいいつ出すつもりなんだ?」
「―――えっ……」
一気に血の気が下がった。気づかれていた? そんな、馬鹿な。
「な……何を言っているんだ、ジェド。私は、何も」
「しらばっくれるつもりか。では先程お前が立ちかけた時に、微かに金属音が聞こえたが、それをどう説明するつもりだ?」
面白そうに言うジェドの声が、次第に低くなる。
「なんなら俺が服を剥ぎ取ってやっても良いんだぞ」
いつの間にか冷たい目に変わっていたジェドに、ユリアは息を飲む。最後に神が与えてくれた、夢のようなひと時は、終わりを告げたのだ。
スカートの下に付けた短剣を、ユリアは引き抜いた。
人生を賭した一世一代の演技が、今、始まる――――。