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魑の鞘(ちのさや)  作者: 篠北凛
第四章
102/187

102: ティヴァナへ2


 ユリアがフィードニアへと旅立つその日、ナシスは深い溜息と共に、仏頂面で長椅子に座りこんでいる男を見下ろした。

 なぜこの男はこんな所にいるのだろう、とナシスは思う。

 ユリアの事で機嫌が悪くなる度にやってきて、花瓶やら茶器やらを割って行くのはいい加減にしてもらいたいものだった。その度に同じく機嫌を悪くする世話役のメイベルを宥めるのは、この私なのだから。

「――――見送りには行かないのですか、ジェド」

 親切に問いかけているというのに、ジェドは一層不快気な顔でナシスを睨みつける。

「俺はあいつが使者としてティヴァナへ行く事など、許してはいない。勝手に出て行く者を、何故見送らねばならんのだ」

 ナシスも一応はティヴァナ行きを止めるようユリアに説得を試みたのだ。だが戦場へ行くのを止められなかったように、今度もまた彼女の決心は固く、説き伏せることは出来なかった。

「暫らく会う事が出来なくなるというのに、素直ではないこと……」

「五月蠅い、黙れ」

 ジェドは目を吊り上げたが、ナシスは構わず続ける。

「あなたはユリアを止めるべきです。この地を滅ぼす獣だった筈のあなたを、ケヴェル神に変えたのは彼女なのですから」

「なんだと?」

 目を軽く見開き、ナシスを凝視する。その目の奥深くに宿る闇を、ナシスだけは知っていた。

「覚えていませんか、私とあなたが初めて会った時、私があなたに告げた言葉を」





『―――あなたは、いずれこの地を喰らい尽くす、獣になります』






 そう、ナシスがまだ登城せず、カナルの街に居た幼少の頃。既に先読みの力を持つフィルラーンとして鎮魂の儀式を行っていたナシスは、その日隣町であるリョカへ招かれていた。

 輿こしに乗せられリョカの村を回っていたナシスの視界の端に、ふと入って来たその少年を見た時の恐怖は、今でも覚えている。

 突然頭の中に浮かんできたのは、大人になったその少年が、多くの人々をその手で殺めていく、狂気の姿だったのだ。

「あなたは、いずれこの地を喰らい尽くす、獣になります」

 ナシスはその少年を呼ぶと、ひっそりとそう告げた。

 他の者に聞かれないようにしたのは、この先読みの告げを村人が知ったら、この少年の命は今すぐにでも断たれるに違いないと思ったからである。

 少年がこれから起こす禍を思えば、それが最善の策なのかもしれないが、ナシスはこの少年の命を奪って欲しくは無かった。少年の瞳の中に、自分と同じ深い孤独を感じていたのだ。

「――――へえ、それで?」

 だからなんなのだ、という目で少年はナシスを見返した。

「この国が滅んで、何か困る事があるのか?」

 目を見開いたのは、ナシスの方だった。

「困る事……けれど、それは多くの人が命を失うのですよ。あなたが、奪うのです」

「ふうん、別にいいじゃないか。それの何がいけないんだ?」

 そうけろりと言う少年に、ナシスは背筋が冷たくなった。

 己がいずれ凶行に及ぶ事を知れば、そうならぬよう今から常に心を自制し、御することに努めるかもしれないと思い、この少年に先読みを告げたのだ。

 だが少年は、その凶行の何がいけないんだと言う。人を殺める事に対し、何の感情も持っていないように見えた。

 言いようの無い恐怖に後ずさりそうになり、だがナシスは頭を横に振る。

 いいや、もしかしたら少し頭が弱い少年で、私の言葉の意味が分かっていないのかもしれない。そうなのだとしたら、いずれ分かってくれるかもしれないではないか。

 もう少し様子を見よう、とナシスは思った。

 そしていずれこの少年と再び会った時、それでもまだ彼がこの地を滅ぼす運命だったならば、フィルラーンの名において、その獣を捕らえさせなくてはならない。

「―――あなたの、名を教えて下さい」

 再び出会うその日まで、その名を覚えていますから。

「ジェラルド」

 少年はそう口にして、するりとナシスの傍から離れて行った。




 次にジェラルドと会ったのは、それから一年半程たった後、驚くべきことに王城でだった。尤も、その少年はジェドと名乗ってはいたが。

 会ったのは一度きり、それもほんの僅かな間だけではあったが、それでも間違えようも無く、その顔はくっきりと覚えていた。

 ジェラルド―――いや、ジェドは国王軍へ入軍していたのだ。

 たった十一歳の少年が国王軍へ入軍したというのには驚いたが、あの死の神をも思わせる凶行に行きつく少年なのだと考えると、何があってもおかしくは無いとも思えた。

 この小さな獣は、手始めにこの国王軍を喰らい尽くすのだろうか。ジェドを目の前にし、ナシスが身体を小さく震わせた時、ふと再び彼の頭の中に映像が飛び込んできた。

(――――――え?)

 ナシスは今まで一度も疑った事の無い己の先読みの力を、思わず疑った。

 それは以前先読みで見たものとは全く違う、英雄としてフィードニアに君臨するジェドの姿だったのだ。

(何故?)

 ジェドの狂気の姿を見たのは、ほんの一年半程前でしかないというのに。たったそれだけの間に、何が狂気の獣を英雄へと変えることが出来たのか。

(何故、何が)

 それを知りたいと、ナシスは強く思った。己と同じく、かつえた心を持っていた筈の少年の胸に、水を差し入れたのは何なのか。

 それを知りたいと思う欲望に打ち勝つには、まだナシスは幼過ぎたのだ。

「ジェド」

 ナシスは、ジェドの腕を掴む。


 未来は何らかの要因がそこに含まれれば、案外容易に変わるものである。だが過去だけは決して誰にも変える事は出来ない。変わらぬものならば、それを覗く事に意味は無く、ただ勝手に他人の心に踏み込む行為でしかないのだ。

 故にナシスはその力を、誰にも話した事は無い。己にもその力を使う事は禁忌であると、戒めてきた。

 だが今、ナシスはその禁忌を破った。

 彼には先読みの力だけでは無く、触れた相手の過去を“視る”力も持っていたのだ。


「―――――――あ……っ!」

 掴んだ腕から、ナシスの心の中に深い悲しみと憎しみ、怒りが洪水のように流れ込んで来た。

 不の感情の大きさに耐えきれず、手を離そうとしたその瞬間、何か別のものがすっと入り込んだ。それは一筋の光のようなものだった。

 ナシスはジェドの腕から離れた己の手を、じっと見詰める。ナシスが求めていた答えは、確かにそこにあった。

 ジェドは登城する少し前に、一人の小さな女の子と出会いを果たしている。

 その出会いが。いや、その時少女が口にした、たった一言。その一言が、ジェドの運命を大きく変えたのだ。








「ユリアはあなたの“鞘”です。腹に抱えた憎しみのまま暴れる獣を、太陽神ダヴィヌスが己の聖剣の鞘へその負の心を封じた為、獣は闘神となれた。彼女はその“鞘”そのものなのです。―――ユリアに万が一の事があれば、あなたはまた獣に戻る」

 だからあなたはユリアを止めなければならない。そう続けようとした時、ジェドは蔑むように小さく笑った。

「そうだな、今すぐ獣とやらに戻りお前を噛み殺してやりたいものだ。フィルラーンという奴は、お偉い生き物らしいな。他人の心に勝手に踏み込み、よく語るものだ」

 ジェドの目が、かつて無い程に冷たいものになっていた。分かっていたことだが、唯一の友を失った瞬間なのだと、ナシスは理解した。

 しかし、それでも伝えなくてはならない。

 今ユリアをティヴァナへ行かせたら、ジェドは彼女という“鞘”を失うかもしれない。

 ナシスの頭に、ここ数日浮かぶ不吉な映像があった。それを現実のものにしてはならないのだ。

「ジェド、お願いだからユリアを止めて下さい。私では無く、あなた自身の口で彼女を引き止めるのです」

「五月蠅い、お前の言う事など聞くものか」

 懇願するナシスの制止など聞きもせず、ジェドは部屋を出て行こうとする。

 その時、一陣の風が部屋の中を吹き抜けた。

「あ………」

 ナシスは慌ててジェドを追いかけると、彼の腕に縋りつく。

「待って、ジェド。ユリアが危ない。風が彼女の危険を告げています……!」

「何……」

 ナシスの手を振り払うと、次の瞬間ジェドは駆けた。






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