第七話 令嬢の目的
ハディウスの地で起きた戦いの情報を集めていた“手足”から生き残りを発見したという報告を聞いたのは、夜、宿にて就寝準備をする直前だった。
そのうちふたりは、エインとザフィロである。
これを知った時、ミゼリアはまず安堵した。友人達の無事を、素直に喜んだのである。
だが同時に、サーティスがいないことに背筋が凍り付いた。
予想はしていたが、それでも僅かばかりの希望があった。希望と希望的観測は違うのだと、はっきり突き付けられた瞬間だった。
もっと激しい反応を見せたのは、当然だがリリアナだった。
彼女は生き残りの中にエインの名を聞いた後、一瞬だけ瞑目した。そして目を開いた直後、尋ねたのだ。
「お父様は、いらっしゃった?」
「………………いいえ」
長い沈黙の後返ってきた答えを、果たして彼女はどんな思いで聞いたのか。
リリアナは音がしそうなほどの勢いで青ざめ、ふらりとよろめいた。
半ば自失しかけている主を、ミゼリアは慌てて支える。そうすることで、ミゼリア自身の気持ちは抑えることができた。
だが、リリアナはそうはいかなかった。
ミゼリアに支えられているという認識も無いのだろう、焦点の合わない視線をさまよわせ、真っ青な顔で震えている。今まで保ってきた貴族令嬢の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
リリアナはしばし、そのまま失神してしまいそうな顔でミゼリアに支えられていたが、おもむろにその腕を押し返した。
「……もう大丈夫よ。心配かけたわね」
「ですが、リリアナ様」
「いいってば。大丈夫って、言わせて」
その言葉にミゼリアは一瞬固まり――リリアナから離れた。
支えを失ったリリアナは、しかし倒れることは無かった。背筋を伸ばし、一度だけ深呼吸。
そして。
「――話を続けなさい」
報告を持ってきた“手足”を、静かに促した。
顔は青ざめたまま、しかし凜とした姿勢に、ミゼリアは息を詰まらせる。
最後まで報告を聞いても、リリアナの態度が崩れることは無かった。
そうして最後まで聞いて、一番驚いたのは三人目の存在だった。
三人目は、ミゼリアとは面識の無い人物だった。それもそのはずで、その三人目はレコキウスの指揮官だったのである。
指揮官の名はレオードと言い、レコキウスの将軍のひとりである。今回のノドバーレイ侵攻の権限を任されていた、代々武官を輩出しているレコキウスの貴族、オルゴ家の現当主だ。
これらの情報を提示したのは、“手足”ではなくリリアナだった。
貴族、それも大貴族の一員として社交界にも頻繁に顔を出していたリリアナは、他国との交流の場にも何度も参加していた。レオードのことも、直接話したことは無いものの何度も見かけていたし、父サーティスとは挨拶を交わしていたらしい。
とはいえ、リリアナも詳しい人となりを知っているわけではない。オルゴ家の家格も子爵と低いため、二国間の社交の場にはそこまで顔を出していなかったのだ。将軍となったのも、純粋に実力らしい。
そもそもレコキウスには武官一族など珍しくもない。オルゴ家はその中でも地位は高くないのだ。
「――だから、レオード将軍のひととなりは、私にも解らないのよ。貴族らしくない人ってくらい」
「そのような人が、なぜエイン隊長やザフィロと共にいるのでしょうか」
ミゼリアは首を傾げた。
エインとザフィロはノドバーレイの騎士で、レオードはレコキウスの将軍。共に行動する理由は無いはずだが。
「……何にせよ、うちふたりがお父様の配下、しかも片方がエインなのは何よりの僥倖ね」
リリアナはそう呟いて紙とペン、インクを用意させた。幸い宿に備え付けられたものがある。
リリアナは手紙を書き始めた。内容の詳細は解らないが、“手足”との相談内容から察するに自分達が無事であること、簡潔な経緯、待ち合わせ場所を指定しているようだ。
口と手を動かし続けるリリアナを、ミゼリアは何とも言えない気持ちで見つめる。
今ここで、ミゼリアに出せる口は無い。あくまで一騎士見習いでしかないミゼリアは、主の判断に意見を唱える権限は無いのだ。リリアナが気さくかつ気軽な人物だから親しく会話をし、考えをそのまま伝えることができるが、本来言葉を交わすことさえできない人物である。
また、騎士はあくまで主を守るのが本分であって、政治的な動きに口を挟むべきではないとされている。戦略的、軍略的なことに知恵を使うべきであって、専門ではないことに出張ったところでいい結果を得るのは難しいという考え方だ。だからこそ武官文官という区別があるのである。
武官と文官、どちらの性格も持つ役職が無いでは無いが、今のミゼリアには関係の無い話だ。
しばしリリアナの様子を眺めていたミゼリアだったが、突然リリアナに視線を投げられた。
「それで、ミゼリアは何か意見ある?」
「……えっ」
「えっ、じゃなくて」
あきれたようにリリアナは肩をすくめた。
「レオード男爵がいる以上、いつもののりってわけにはいかないでしょう? それ相応の態度でいるべきだけど、ミゼリアはどうすればいいと思う?」
「貴族式の挨拶は、リリアナ様の方が詳しいのではありませんか?」
何しろ貴族令嬢である。ドレスや装飾品は無いが、礼を失しない、恥ずかしくない完璧な挨拶ができるだろう。
「ですが、あえて進言させていただくなら――略式の方がよいかもしれません。貴族としてではなく、武人として地位を築いた方なのであれば、あまり飾り立てた虚礼は敬遠される可能性があります」
「それもそうね。じゃ、今の旅装のままでいいかしら」
「いえ。さすがに最低限の身なりは整えるべきでしょう」
ミゼリアは改めてリリアナの姿を見た。
リリアナの格好は、本人の言う通り旅の装いのままである。かろうじてスカートであるが、その下は馬上用のズボンをはいているし、上は動きやすいがあまり仕立のよくない服だ。
見習いとはいえ騎士であるミゼリアはともかく、令嬢であるリリアナのこの格好は印象がいいとは言いがたい。髪も革紐で結っただけだし、せめてもう少し身綺麗にするべきだろう。
略式とはいえ、貴族は挨拶一つにも神経を使う。あまりに粗雑であれば相手を軽んじていると取られるし、身なりが粗末なら蔑まれる。いくら武官と言えど貴族であることには変わりないのだ。むしろあまりに適当だと相手を不快にさせてしまうおそれがある。
「髪は私が結いましょう。服の見立ても、少しはお役に立てるかと」
「そうね。こういう時、同性の意見は重要だわ。お願いね」
無邪気に笑うリリアナに、ミゼリアは言うか言うまいか迷っていたことを口にする決意をした。
本当は自分が言うべきではないと考え、エインに託そうかと思っていたのだが、彼は今、ザフィロだけでなく他国の騎士、それも将軍職の者と行動を共にしている。
彼らがいつまで一緒にいるつもりなのか解らないが、ミゼリアが言わんとしていることはあまり部外者に聞かせるべきではない。本来なら末端の人間にも聞かせるべきではない、ましてや指摘などとんでもないが、こればかりは状況が許さない。
果たして今言うべきなのかどうか、ミゼリアには自信が無い。しかし、リリアナがこれを自覚していなければこれから前にも後ろにも進めないのだ。
「リリアナ様」
「なあに?」
「リリアナ様は、これからどうするおつもりですか」
その問いに、リリアナはきょとんとした。戸惑っているのか、まじまじとミゼリアを見返す。
「急に、何? そんなこと」
「大変恐縮ですが、答えていただきたいのです」
重ねて問うと、リリアナは首を傾げた。
「それは勿論――」
言いかけて、リリアナは黙り込んでしまった。顔には呆然、とまざまざと書かれている。
やはり、とミゼリアは思った。
今の彼女の中には、目的と呼べるものが無い。
「サーティス様がいない――これはつまり、大変いたましいことに亡くなったと解釈するべきでしょう。つまり、サーティス様と合流するという目的が失われたことを意味します。これはもう、どうしようもありません」
きっぱり言い放ったミゼリアに、リリアナは鼻白んだような顔になった。彼女が何かを言う前に、ミゼリアは言葉を続ける。
「ならば我々は、次の目的に向かって動かなければなりません。そうしなければ、ここで立ち往生するほか無いでしょう。では、次の目的は何か。これは、リリアナ様が決めていただかなければ――」
「ちょ、待って。待って待って待って待ってっ」
リリアナは困惑を隠そうともせず、というより隠すことができず、後ずさった。
「え、あれ? 私……えぇ?」
「落ち着いてください。まずは深呼吸です」
「う、うん。すーはーすーはー」
素直に深呼吸するリリアナ。きっちり二度行った後、頭を抱えた。
「うあー……完全に頭から抜けてたわ。そう、ね。お父様との合流が無理である以上、別の目的を考えなきゃ、よね」
「このような状況で酷なことと思いますが、これからの指針を定める上で必要不可欠なことかと」
ミゼリアは自らの左胸に拳を当てた。ノドバーレイにおける騎士の敬礼だ。
「リリアナ様。私は貴女様の騎士です。貴女が望むことは、可能な限り叶えたいと思っております。ですが、その望むものが解らなければ、剣の振りようもありません」
「うぅ……耳に痛いわ。でもエインに言われるよりましかな。あいつ小言が多いんだもの」
リリアナは首をすくめた。
「けど、目的、目的か。ある意味、自明の理なんだけどね……改めて言葉にしてなかったわね」
しばしの間、リリアナは自嘲するように目を伏せた。先ほどの慌てぶりは消え失せている。この切り替えの早さは、彼女の美点だ。
「最初は、お父様と合流することが目的だった。それが最善だったから。でも、お父様はもう」
一度呼吸を整え、リリアナは言葉を続ける。
「リュグス家当主は不在、あらぬ疑いまでかけられた上、主要な人材や財産は失われてしまったと見ていいわ。リュグス家は没落したも同然。復興のためには、まず当主を決めなければ」
リリアナの目が開いた。強い煌めきを宿した翡翠の瞳が、ミゼリアを捉える。
「復興、そう、復興よ。それだわ、それよ。私は現状が許せない。リュグスがこのまま落ちるところまで落ちるのを看過できない。私はリュグス家の次期当主なのだから。その私が取るべき行動は一つ。リュグス家の名誉を回復すること。これしか無いわ」
「――はい。それがリリアナ様のお望みなら」
ミゼリアは微笑んで頭を軽く下げた。視界の端では、タリスが安堵したようにため息をつき、同じように頭を下げる。
配下の反応に満足げに頷いた後、リリアナは首を傾げた。
「それで、どうすればいいのかしら」
空気が一瞬で弛緩した。
ミゼリアとタリスは勿論、報告役の“手足”すら(実はまだいた)がっくりと力無くうなだれる。ややあって、ミゼリアは眉尻を下げてリリアナを見つめた。
「リリアナ様ぁ……」
「や、ごめんごめん。何となく、次にすべきことは解るんだけどさ」
リリアナは頬をかいた。
「まず、リュグス家を継ぐことから始めなくちゃね。だけど、そのための方法が解らないの」
今のリリアナは身一つである。
跡継ぎの証どころか、リュグス家の人間であるという証も、それどころかノドバーレイの貴族であるという証明すら無い。
ここからリュグス家当主になろうとすると、もはや茨の道である。
「生き残ったリュグス家の親族がどこまで頼れるか解らないしなー。分家は確実に利権争いに走るだろうし、私みたいな小娘、いいように使われるだけだわ」
「……そうですね。国内に味方となる貴族はいないと見ていいでしょう」
リリアナの指摘は正しい。少女が己だけで地位を手に入れることはできない。利用されるだけで終わるだろう。
ミゼリア自身が似たような状況に陥りかけたゆえに、実感として理解していた。
「ですので、国外に求めましょう」
「え? 求めるって味方を? 国外に?」
「はい、国外です。具体的に言いますと、ブリュドに求めましょう」
何でもないような口調で言ったミゼリアだったが、言われた側のリリアナはあ然としていた。
そのまま黙り込んでしまったリリアナに代わり、タリスが意図を読み取ってくれた。
「エルジェート様を頼られるのですね」
エルジェートはリリアナの母――つまり、サーティスの妻である。
ノドバーレイの法律上、家長が不在の場合、その権限を暫定的に引き継ぐのはその配偶者である。サーティスの死亡がほぼ確定となった今、エルジェートは自動的に当主代理となった。
そして、リリアナがリュグス家の人間として何かしらの行動を起こす場合、エルジェートの許可が必要になってくる。逆に言えば、エルジェートの許可さえあればリュグス家の人間としての権限を行使すること――当主となることさえできるのだ。
そのエルジェートは国外――ブリュドにいる。ならまず、リリアナはブリュドを目指さなくてはならないのである。
「そっか……そういうことなら、この国を出るのも、やむなし、よね」
リリアナは奥歯に挟まったような、微妙な言い方をした。
「民を置いていくことになるのは承知の上です。リリアナ様のお気持ちは察しております。ですが、今この国にとどまっていない味方を探すより、確実な味方の元に行くのが最善です」
「ええ……ええ。解っているわ」
リリアナは天井を仰いだ。
「別に貴女を責めてるわけじゃないのよ。そうするのが一番だってのも解ってる。ただ、それ以外に選択肢の無い自分に嫌気が差しただけ」
ぐでん、と机に突っ伏したリリアナは、そのままミゼリアを流し見た。
「で? ここまで言うんだから、国外に出るための手段も思い付いてるんでしょうね」
「手段というほどのものではありませんが、はい」
ミゼリアは頷きつつ、気まずげに視線を落とした。
あては、あるにはある。
だが、それは果たして使うべきか否か、実は迷っているのだ。
ミゼリアにとって、最も頼るに足る存在。しかし、心のどこかで都合がよすぎるのではと囁く自分がいるのも確かである。
それを振り払って、ミゼリアはリリアナに向き直った。
「詳しい話はエイン隊長達と合流してからにしましょう。そこまでの移動も困難ですし、味方というならまず隊長達に会わなくては」
「そうね。……じゃ、手紙はこれでいいか」
リリアナは手にした手紙をさらりと見直した後、封筒に入れて控えていた“手足”に渡した。
「必ず渡すように。……いいわね」
「確かに承りました」
恭しく受け取った“手足”は、頭を下げて出て行った。
「さて。……返事を待つ時間は、無いわね」
リリアナは髪を後ろに払い、表情を引き締めた。
「目的が決まったなら即行動よ。荷物をまとめて出ましょう」
「……あの、その前にリリアナ様」
ミゼリアはおそるおそる尋ねた。
「どこで落ち合うのか、お教え願いますか?」
「あ、ごめんごめん」
自身の荷物を持ち上げかけていたリリアナは顔を上げた。
「リュグス領の隣――ルインド領の境の森よ」
―――
リュグス領を出てすぐ隣の領は、ルインド領という名称の領地である。
けっして大きいとは言いがたい領で、一日もあれば馬で通り抜けられなくもないし、農業は盛んだが特産品と呼べるようなものは無い。治める貴族も、最低限の権限しかない一族だ。リュグス家と比べるなど、酷なほどである。
その小さな領に、ミゼリア、リリアナ、タリスはいた。
リュグス領側との領境に接する森の中である。
エイン達との落ち合い場所にそんな場所を選んだ理由は、この森がリュグス領とルインド領の境界に存在しているということと、その構造があった。
そこまで大きな森ではないが、木々が密集して薄暗く、狩猟の獲物になるような獣もいないため、好んで入る者はいない。無法者がたむろしないように、定期的に巡回隊が入るぐらいである。
その定期さえ外せば、身を隠すのに非常にいい立地だ。リリアナが待ち合わせに選んだのは、そういった理由からだった。
時間は夜。夜の森というものは、危険な状況を例えるのに最適な表現の一つだろう。
森には道が無い。当然立て札などのたぐいは無いし、光源などあるわけがない。
そんな中をまともな案内も無く動き回るなど、自殺行為以外の何者でもない。ましてや夜になど、愚かを通り越していっそすがすがしい。
その森の中心部で、三人は息をひそめていた。
灯りは誰も手にしていない。三人共程度の差はあれど夜目が利く方であったし、案内が無いわけでもない。
そんな三人は――焦っていた。
道に迷ったわけではない。獣に襲われたわけでもない。根拠の無い恐怖に駆られたわけでもない。
ただ、命の危機には瀕していた。
「十人編成の小部隊、全員騎馬、軽量の金属鎧を装備しています。騎馬は無装備、槍兵はいません」
三人の前にひざまずいた“手足”は、厳しい面持ちで報告した。
森にたどり着き、一夜を明かすために準備をしていた三人に、その“手足”がもたらしたのは、ルインド領の騎士部隊がこの森に向かっているという報告だった。
遠くから確認する限り、ただの見回りではない物々しさだったという。
周辺に盗賊たぐいはいない。指名手配の犯罪者もまた同様である。
そうなると、狙いは逃走者である自分達の可能性が高い。
問題はなぜ居場所がばれてしまったのかだが、これはさほど気にとめることではない。
目立つ行動はしていないが、人の多い場所をそれなりに通ってきたのだ。それをたどれば、ある程度予想されるはずだ。
むしろ問題は、それをたどって正確にリリアナ達の元に行き着いたことである。なにしろこの森までの道程は人目に付かない道を選び、追跡を気にし、徹底的に姿を隠してきたのだ。
ここまでの道中、幾らでも身を隠す場所はあったし進路を変える可能性もあった。にも関わらずこの森を突き止めたことは、恐ろしい事実だった。
そこまで考えて、ミゼリアの背筋を冷たい塊が滑り落ちた。
敵がどのような意図を持って動いているのか解らないが、その者は自分達を捕捉できるだけの能力を持っているのだ。その上、こちらは相手がどのような人間なのか一切解らないのである。
未知の相手に自分達が知られているという事実。これで冷たい感触を覚えるなという方が無理な話である。
――けれど、それでも立ち向かわなければ。
ミゼリアは一度目を閉じた。
思考が一瞬でクリアになる。冷水を注ぎ込まれたかのようだ。冷たいが、不快ではない感覚。
恐怖は無い。あるのは現状の情報と、それに対する理解だけ。
敵は十の騎馬。重装備ではないが、金属鎧着用。
騎馬の利点は、突進力と頭上からの攻撃だ。その二点だけで、騎馬というものは平原で無類の強さを発揮する。
しかし、この場ではどうか。
木々が生い茂る暗い森。足場の確認がしづらく、隠れられれば突進も攻撃も難しい。
「……タリス殿」
「え? あ、はい。どうしましたか?」
「弓矢かクロスボウを用意できませんか? 簡易の投石器でも構いません。とにかく遠距離攻撃が可能なものが欲しいのですが」
タリスは目を白黒させた。突然の要求に、驚いたのである。
「弓矢なら……彼女が」
タリスは視線を泳がせ、報告係の“手足”を見る。その背には、確かに小ぶりの弓と矢筒に入れられた矢があった。
「投石器なら、私が。彼女も持っています。それと、エイン様達を案内している者も持っていますし、エイン様は確か弓を持っていたはずです」
「隊長達が到着するのは?」
「あと二十分ほどかと……」
「さすがに時間がかかり過ぎですね……では、合計で三つですか」
「簡易な投石器は、今からでも作るのに五分とかかりませんが。道具もそろってますし」
「では、お願いします」
「待ってくださいっ。その前にミゼリア殿、貴女は何をしようとしているのですか?」
タリスの困惑を、ミゼリアは静かに受け止める。静かに受け止めて、彼女には似つかわしくない不敵な台詞を口にした。
「敵を撤退させます」
―――
森の全体を見渡せる高台がある。そこまで高いわけではないが、小さな森を把握するには充分な高さだ。
その高台から森を見下ろすのは、黒衣の男である。馬に乗り、無表情で森を見つめる姿は、死神のように――死そのもののように忌まわしく、恐ろしかった。
黒衣の男は腰の剣の柄を一度撫で、くるりと馬首を巡らせた。
向かう先は森の中だ。先行した騎馬小隊を追う――わけではない。
確かに彼らを案内したのは黒衣の男である。しかし彼らの手助けをするつもりは毛頭無かった。
そもそも――彼には、今まさに狙われている者達を傷付ける気は全く無い。ましてや、その中のひとり、あの銀色の少女を傷付けるなど。
黒衣の男の目的は一貫している。六年前から――もっとずっと前から。
あの日、銀色の少女に会ってから。
「……おまえをあれに利用させるものか」
黒衣の男は呟く。その声は繊細なまでの悲哀と、壊れそうなほどの決意が込められていた。