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白銀の剣  作者: 沙伊
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第五話 逃走者達の密談

 前回からだいぶ間が空いてしまいました……申しわけありません……;

 ミゼリア達がその不穏な噂を聞いたのは、村を出た翌日、その日の寝床として立ち寄った宿で、同じ宿を利用していた行商人達の口からだった。

 半分は予想していた内容であり、半分は予想外の内容である。

 予想していた半分――すなわち、ノドバーレイ軍が壊滅したという報である。生存者は不明、レコキウス軍もまた潰走したらしい。

 ここまでは三人が立てていた予想通りだった。

 防衛軍には、城を襲ったあの王都の軍がいる。城を落として、その主を生かしておく道理は無い――順番としては、主の方が先に陥落していたことになる――し、侵攻してくる敵を放置する理由も無い。ならば共倒れを狙うか、レコキウスを討ち果たした後に攻撃するのが自然だろう。

 問題は、噂の後半である。両国に大きな傷を残したこの戦の結果は、なんとサーティスの裏切りにあったとされていたのだ。

 無論、サーティスがそんなことをするはずがない。彼の人となりをよく知るミゼリアはそれが解っていたし、タリスも同様である。その噂を同じ宿にいた行商人から聞いた時、その場で感情を爆発させないようにするのが大変だった。

 もっと大変だったのは、リリアナの制止である。彼女は激昂のあまり即座に噂を否定しようとして、ミゼリアに物理的に抑えられたのだった。

 現在、三人は身分を隠して旅をしている。そんなことでうっかり正体を露呈させるわけにはいかない。ただでさえ、情報収集のために危険を冒して人の集まる宿などに立ち寄っているのである。不必要な危難は避けたかった。

 勿論、情報収集を全て“手足”に任せ、自分達は動かないという選択肢もあった。だが、可能な限り自分達の耳目でも情報を取り入れることで、より正確に状況を把握することが必要だと考えての行動である。

 それが解らないリリアナではない。つまり、彼女はそれほど怒っていたということだ。

 彼女にとって、父は大切な家族であり、尊敬すべき目標である。当然の反応と言えた。

 ミゼリアにとっても、サーティスがそのようないわれの無い噂を流されることが耐えがたかった。噂をしていた行商人達に突っかかるような真似をしようとは思わないが、噂の大元を問い詰めたい気分だった。

 しかし、そんなことをしたところで状況が変わるわけではない。ミゼリア達がすべきことは、現状の打破なのである。それをするのはすべきことを全て終わらせてからでよい。

 それに、ミゼリアには幾つかの疑問点があった。

「噂の真偽がどうあれ、広まるのが早過ぎます」

 夜。三人が借りた宿の一室で、ミゼリアは口を開いた。

本来は四人部屋らしく、四つのベッドがそれぞれ四隅に配置されている。

 そもそもこの宿は旅商人が使うことを想定して建てられたものである。旅商人は基本的に従者や護衛と共に旅をし、最低でも四人で行動する。そのため、この宿は複数人の部屋は四人からしか無いのである。料金は三人分であるものの、部屋の設備はひとり分余っていた。

 リリアナはそのベッドのうちの一つに腰かけ、ミゼリアは扉の前に、タリスは窓の傍にたたずんでいる。どこから襲撃されてもすぐ対処するための配置だった。

 ちなみに宿代を払ったのはミゼリアである。ミゼリアはもともと、常に騎士服の上着に一定金額を入れた財布を忍ばせていた。必要だからではなく、いつか必要になるかもしれないと思っての常備だった。あくまで念のための所持だったのだが、こんな形で役に立つとは思わなかった。

 ミゼリアにとっては、嬉しくない結果であったが。

 ミゼリアの発した言葉に、リリアナもタリスも神妙な顔付きになった。

 引き締まった空気を確認して、ミゼリアは話を続けた。

「正確な日数は解りませんが、予定通り行軍が行われているのなら三日前の日中に戦は行われています。誤差はありましょうが、それでも一日前後でしょう。つまり三日、多くて四日で件の噂がここまで流れてきたことになります」

「……逆算すると、戦の直後、下手すると戦の前に噂が流れたってことかしら」

「ここはまだ、リュグス領内です。それにレコキウスとの開戦予定地であるハディウスとの間には二つの領があります。その領自体は大きくはないので、二日もあれば馬で抜けられますが、それでも噂がここまで来るのはもっと先でしょう」

 ミゼリアの言葉に付け加えたタリスは、眉間に深いしわを作っていた。

「行商人は確かに耳が早い。ですが、距離と時間を超越できるわけではありません」

「それってやっぱり、誰かが意図的に流しているってことよね?」

 ぶすりとした表情でリリアナが言った。せっかくの美貌が台無しな上、そもそも淑女としていただけない顔である。

「そう考えるのが自然でしょう。噂そのものが不自然ですし、作意を疑うのはむしろ当然かと。商人達も心底からこの噂を信じているわけではなさそうでしたから」

 問題は、と、タリスは表情を曇らせた。

「これを第三者が信じた結果です」

「……例えば?」

「例えば――領民が聞けばどう思いましょう。サーティス様は真っ当な領主です――むしろよき領主でしたが、それで悪しき噂を打ち消せるかどうかと問われれば、それは否です」

「なぜ?」

 リリアナが厳しい顔で問うた。

「お父様がよき領主であれば、噂を疑う者も大勢出てくるんじゃない?」

「……関係ないから、ですね」

 ミゼリアは言った。ほとんど囁くような音量だったが、ふたりにはきちんと聞こえていたらしい。二組の視線がミゼリアに集まる。

「領民にとって、領主とは自分達の生活を保障する存在です。逆に言えば、保障してくれさえすれば領主は誰でもいいということになります。だから、生活が安定していれば、領民は領主が誰かなど気にしません」

「……あぁ、そっか。そうだったわねぇ」

 リリアナはため息をついて天井を仰いだ。

「そりゃそうよね。領主――貴族っていうのは、そういう役割だものね。不安には思っても疑いはしないか」

 領民からすれば、税という対価を払って守ってくれる存在が領主であり、貴族というのはその役割を担う者達である。そこに情が存在するかどうかは、否と言うほか無いだろう。この国の制度上、領民は領主を選ぶことができないから、なおさらだった。

 心優しい領主のために民が奮起する――そんな美談は物語の中だけと割り切るべきである。

 そして、このような不穏な噂が流れた場合は、最悪の事態を想定すべきだ。

「混乱は、起こるでしょうね」

 ミゼリアは言った。言ってから、自分の口調が想像以上に重々しくなったことに眉をひそめる。しかし、言葉を切ることはしなかった。

「関係無い、とは言いましたが、それはあくまで平和なら、という意味です。平穏を脅かされれば、不安に突き動かされることになります。そうなった場合、リリアナ様は何が起きると思いますか?」

「え?」

 急に水を向けられ、リリアナはきょとんとした。しかしすぐさま表情を引き締める。

「……先走ったことをする人間が出てくるでしょうね。領主にあらぬ疑いをかけられて、いなくなっただけでどこまでのことが起こるか、私には解らないけど」

「そうですね。私もそこまで予測を立てることはできません」

 ミゼリアとリリアナには、そのような状況を想像することは難しい。考えられないわけではなく、単純にそのような状況の経験が無いのである。想像で補うのにも限度があった。

 そんなふたりの視線は、自然とタリスのほうへ向けられる。少女達と違い、負の方面に慣れているのは裏方の仕事を続けていたタリスであろうと考えたからだ。

 その辺りはタリスも心得ていたようで、ふたりにそれぞれ視線を合わせた後、口を開いた。

「――領内で言えば、まず混乱が起きるでしょう。影響力の薄い領の端であれば、すぐにはそれほど大きなことにはならないかと思いますが、問題は領の中心部。自治体のようなものを持つ街や村ならいざ知らず、領主の治政が直接及んでいる場所は、すでに混乱が起きていると思います」

「……そっか。上がまるまるいなくなっているんだから、政治体制はがたがたになるし、そんなんじゃ治められるものも治められないわよね」

 リリアナの苦々しい声に、タリスは頷いた。

「勿論すぐに領民の生活に支障が出るわけではありません。領全体に波紋が広がるのはまだ先です。少なくとも大きな実害は出ていないでしょう。ですが、領外はそうはいかない」

「ほかの領主が領地を狙ってくる――ということでしょうか」

 ミゼリアは言った。自身でも驚くほどに落ち着いた声だった。

 タリスはそれになぜか意外そうな顔をした後、すぐに表情を戻して頷いた。

「ええ。リュグス領は王領と並ぶほどに豊かで広大な土地です。そしてそれを治めるリュグスの一族は、この国最大の勢力を持った大貴族。それを妬む貴族は数多い。貴族だけではありません。一定以上の権力と、それに固執する心があれば、誰しもがうらやむ気持ちを持ちましょう。平時であればただの嫉妬ですみましょうが、このような状況下では」

「付け入る隙は幾らでもあるってことか」

 リリアナは忌々しげに呻いた。

「……まあ、そうは言ってもすぐに動くことはないわよね。しばらくは睨み合いになるだろうし……というか、実際動いたら兵が動こうと動くまいと内乱よね、それって」

 内乱とは国内で争いが起こることを指すが、何も戦闘を伴うものばかりではない。政や宗教、学問での争いであっても、国を揺るがすのであれば立派な内乱である。

 タリスは頷いた。

「どう動くかは別として、ようは陣取りですから。誰がどこの土地を手に入れるか――それによって、情勢は変わります」

 つまりは、リュグスに代わる筆頭勢力を決めるに等しい。こうなった以上、リュグスは没落したも同然であり、残った資産は別の者が受け継ぐことになってしまう。そして受け継いだものによっては、国内の影響力を大きくすることが可能となる。

 しかし、そうなるとどう動くかが問題となってくる。ほかの勢力がどう出るか、見定めようとして動けなくなる。結果、膠着状態となるわけだ。下手に動けば、国に対する反逆とされかねない。

 ただし、これはほかの貴族や領主のみを対象として考えた場合である。この国そのもの(、、、、、、、)を数に入れるとすると、話は変わってくる。

「国が介入してきた場合、話は単純かつ一番厄介なことになりますね」

 ミゼリアが言うと、リリアナもタリスも難しい顔になった。

 ふたりの表情を確認した後、ミゼリアは視線を手元に落とした。

「今流れている噂は、おそらくは故意のものでしょう。その噂を理由に、国はリュグス領を没収する可能性が十二分にあります。形式上は、国から配された土地です。取り上げるのも容易でしょう。そして、そのまま別の貴族に配さずに王領の一部とする」

「まさか、それが王国側の狙いじゃないでしょうね」

 リリアナの目付きが鋭くなった。言動は、完全に全ての原因が王国にあると言わんばかりである。

 ミゼリアはそれは指摘せず、あえてリリアナの言葉を肯定する形で話を続けた。

「ただ、王領を広げるためだけに現状を利用しているとは、私は思えないのです。何か別の理由があって、その課程でリュグス領を王領に組み込む可能性が高いというだけです。ただ」

 ミゼリアの視界の隅に、鉄錆の臭いをまとった紅い影がちらついた。揺らめく影はミゼリアの目を覆わんとばかりに膨らむが、ミゼリアは目を閉じてそれを追い払った。もう一度開いた眼差しの先にあるのは、組まれた自分の手である。

 剣を持つようになって久しく、傷や豆が潰れた跡があるとはいえ、騎士と言うには白く細く、頼りない手だった。

 ミゼリアは眉をしかめた後、言葉を続けた。

「今のところ、可能性だけです。本当にそんな展開があるかどうか解りませんし、そうなったとして、向こうの真意は不明のままです」

 ミゼリアは顔を上げた。ふと目が合ったリリアナは、苦い表情をしている。

 果たしてそれは、自分の大切なものを奪われ、蹂躙される未来を想像してか、それとも別の理由でそんな表情をしているのだろうか。

「情報が圧倒的に足りません。そして何より、力が足りません。今の私達には、あらゆることに対抗する手段が無いのです」

「……ええ、そうね」

 てっきり激昂するか、悔しさに歯噛みすると思われていたリリアナは、存外冷静な声で肯定した。

「こうなった以上、リュグス家は没落するしかない。いえ、もうしているのでしょう。主城は陥落、不名誉な噂が流れ、下手すれば敵は国王かもしれない。……この上でお父様が亡くなられていたら、詰んだとしか言いようが無いわ」

「リリアナ様」

「でもね」

 リリアナは優雅に微笑んだ。安宿の一室であることを忘れそうになる、バラのごとき麗しい表情だった。

「諦めるつもりは無いわよ。落ちたのなら引き上げるのみ!」

「……リリアナ様、少しふざけていませんか?」

 ミゼリアのあきれたような言葉と、タリスの冷ややかな視線を受けて、リリアナは首をすくめた。

 しかしすぐさま、それはともかくとして、と呟いて笑顔を見せる切り替えの早さは、彼女の美点の一つである。

「お父様と合流を果たした後、もしくは果たせなかったとしても、どうしようかしらね。リュグス領に戻るわけにはいかないだろうし、かといって逃げるのもどこへって話だし」

「それに関しては、私に考えがあります」

 ミゼリアは言った。

「ただ、何にしてもサーティス様の行方が解らないままではどうにもできません。今は先を急ぐのが先決かと」

「そう」

 リリアナはため息と共に呟き、あくびをもらした。

「そうと決まったら寝るに限るわねー。理由も無く夜更かしなんて、いいこと無いもの」

 リリアナの一言で、三人は就寝の準備をすることにした。

 準備と言っても、湯浴みはすでにすませてあるし、後は寝間着に着替えるだけである。そして着替えるのはリリアナだけであり、彼女の護衛という立場であるミゼリアとタリスは、上着を脱いだり、多少緩める程度だ。市井の宿屋である以上、旅装を解くのは必要最低限にとどめておかなければならなかった。

「それにしても、よかったです」

 リリアナが寝付いたのを確認し、彼女のベッドの周りを衝立で囲ったミゼリアは、タリスの呟きに振り返った。

「タリスさ――殿、どういう意味ですか?」

 ミゼリアは最初、タリスのことを様付けで呼んでいた。だが、諜報を主の仕事とし、普段は平民として暮らしているタリスにとって、その呼ばれ方は馴染みの無いものだった。

 当初は呼び捨てを頼んだタリスだったが、今度はミゼリアが難色を示した。

 ザフィロのように親しくしているならともかく、会って間も無い年上の男性を呼び捨てにするのは、ミゼリアの性格上、強い抵抗があった。

 少なくない話し合いの末、殿付けで妥協となった。それでもいまいち馴染めず、こうして言いかけて訂正する、を繰り返していた。

 ミゼリアの視線を受け、荷物をまとめていたタリスは顔を上げた。

「いえ。リリアナ様が、思ったよりお元気そうでよかったと思いまして」

「そう、でしょうか」

 嬉しそうなタリスに対し、しかしミゼリアは同意できなかった。

「私には……リリアナ様は無理をしているように見えます」

「無理? ……空元気、ということでしょうか」

 自身が感じた印象に自信が持てなくなったのだろう、タリスは顔を曇らせた。ミゼリアは申し訳なさに顔を伏せる。

「タリス、殿の言葉を否定するわけではありません。ただ、リリアナ様が見せていた姿全てを、私は素直に受け止めることができないのです」

 リリアナは貴族だ。そのことを何より誇りに思い、自覚と自認を持っている。どれだけ奔放に振る舞っていようと、大貴族としての威厳は忘れない。

 つまり、他者に弱味を見せないこと、下の者に不安を与えないこと。それは時として傲慢な印象を見せることになる貴族の特徴だ。

 逆に言えば、他人に弱音を吐きだせないということである。もっと正確に言えば、吐いてはいけないのだ。

 そんなリリアナが、果たして不安を口にするだろうか。居場所を失い、財産を失い、父さえも失うかもしれない、そんな不安を。

 改めて考えて、ミゼリアは頭の奥にめまいに似た痛みを覚えた。

「リリアナ様は……まだ少女なのですよ。力も何も無い、子供の、はず、なのに」

 現実はリリアナひとりで抱えるには大き過ぎる。何もかもを失って、なおも失われていくかもしれない。その上、積み上がる現実はどれもこれもあまりに重い。重々しく、物々しい。

 リリアナは、まだ十六歳なのに。

「貴女もでしょう?」

 ミゼリアは、はたと、タリスを見た。タリスは真剣な表情で、眼差しだけは酷く気遣わしげに、ミゼリアを見つめていた。

「貴女だって――貴女なんて、まだ十四歳ではありませんか。地位だってまだ準騎士で、本来なら戦に出ることもない。いえ、そもそも、貴女は騎士になることは無かったはずの人間だった」

 ミゼリアは身体をこわばらせた。タリスをまじまじと見つめ、か細く尋ねる。

「知ってらっしゃるのですか? 何を、どこまで?」

「全てではありません、さわり程度です。ですが、それだけで充分、貴女が辛い思いをしたことは解ります」

「…………」

「私は、疑問なのです。リリアナ様もそうですが、貴女がたは、あえて過酷な道を進もうとしているのではありませんか?」

「……そんなことはありません。リリアナ様も、私も、状況に応じて行動しているだけです」

「ええ、そうですね、今は」

 タリスは嘆息して、荷物を床に置き直した。

「ですが、この先何らかの選択肢を提示されたとして、貴女がたはきっと、より困難な道を選ぶでしょう。楽な道、簡単な道があっても、そちらには見向きもしない。たまにいるのです、そういう人種が。貴女がたはきっと、そちら側の人間です」

「買いかぶりですよ、それは」

 ミゼリアは自嘲の笑みを浮かべ、拳を握り締めた。

「リリアナ様はともかく、私はそのような強い人間ではありません。事実、選択を誤ったあげく友人をむざむざと……」

「ミゼリア殿?」

「……フィースが――私の友人が、死んでしまったのです」

 ミゼリアは意識してきっぱりと言い放った。

「私が、判断を迷ったから、目の前のことを注視していなかったから――それができていれば、彼は死なずにすんだのに」

 迷っていた、など、言い訳にもならない。足を止め、手を止め、目前の危機から目を離していた。それは、ミゼリアの怠慢にほかならなかった。

 己の一瞬の間が、友人を死なせてしまった。その事実は、ミゼリアの華奢な肩に岩のような重量をもってのしかかる。今にも細い背中を折ってしまいそうだ。

 けれど、ミゼリアは重みのまま折れてしまうわけにはいかなかった。

 なぜなら。

「――だからこそ、私は選択を誤るわけにはいかないのです。もし困難な道を選ぶとしたら、必要だからそうするだけです」

 もう目の前で大切な人を失うのはたくさんだった。

 一度目は父。二度目は友人。

 これ以上、大切なものをとりこぼさないために、ミゼリアは最善を選ばなければならない。

「……それが、一番困難な道だと思うのですけどね」

 タリスはほとんど呟きに近い、ささやかな言葉を口にした。

 この時のミゼリアは、タリスの言葉の意味がよく解らなかった。

 この時は、まだ。


    ―――


 ハディウス地方の城、ウルキラード城。

 主のいない、城下町も無い、ただ戦の時のための備えとして存在する要塞。

 だが、今現在に限って言えば、主でなくとも管理者はいた。

 日が沈みきった深夜。管理者たる黒衣の男は、城の最上部の部屋にいた。薄暗い部屋の中、簡素な椅子に座り、粗末な机の上に広げた地図を眺めている。ろうそく一本しか光源の無い部屋の中において、男の姿は影そのものだった。

 そんな男の、ほとんど睨み付けるような視線にさらされている地図は、部屋の家具――とはいえ、先に挙げた椅子と机ぐらいしかない――以上にみすぼらしい。しかし、それは紙がぼろぼろである、という意味であって、地図そのものが稚拙なわけではない。むしろこの上なく精密な代物だった。

 一般に流布している、主要な街道が描かれただけのものではない。小さな村町や地元の者しか知らないような道、大小の森林や山、そこにある獣道まで、ことこまかに記されていた。

 何より驚きなのが、それらが全てたったひとりの手で描かれたという点である。紙上の線全てが、ペン一本で詳細に描き抜かれていた。そして、その何もかもが正確なのである。

 地図の制作者はひたすら自身の作品を眺めている。地図上に仇でもいるかのような、むしろ地図そのものが仇と言わんばかりの眼差しである。常は洞穴のような漆黒の瞳が、この時ばかりは熱さえ帯びた意思を宿していた。

 しかし、その鮮烈な意思は、唐突に消え去る。初めから何も無かったかのように、先ほどの熱は幻だったのだと主張するように、男の瞳はただの黒へと戻ってしまった。

 そんなガラス玉を閉ざし、男は囁くような声を上げた。

「何でしょうか、主。対象の捜索はまだ途中ですが」

『いやね、おまえがさぼっているとは思ってないわよ』

 黒衣の男の耳の中で、女の声が反響した。

 砂糖を蜜で溶かしたような、胸やけしそうな声。媚びているわけでも色目を使っているわけでもない。なのに、脳を溶解させ、理性を融解させ、人格さえも蕩けさせるような甘美な艶を含んでいた。

 しかし、声は確かに男の耳に届いているにもかかわらず、女自身の姿はその場には無い。広いとは言いがたい部屋には、どれだけ見渡そうと男ひとりだけである。

 そもそも女の声が響いているのは黒衣の男の耳の中だけであり、部屋の中には一切響いていない。空気さえも揺らしていない。

 それもそのはずで、女の声は、男の右耳に付けられたピアスから流れていた。

 あまりに小さく、男の短い髪にも隠れてしまうほど地味耳飾り。それが振動して男の耳に音として伝えているのだ。魔術具の中でも、非常に珍しい品である。

『近況報告を聞こうと思ってね。サーティスの首は確認できたのは聞いたけど、リュグス当主の証は見付かったのかしら?』

「いえ、それはまだ。持ち出した者の行方も掴めていません。目下捜索中です」

『そう。絶対に見付けなさい。あれがリュグスの人間の誰かの手に渡ったら厄介よ。こちらで押さえておかなければ。特に、サーティスの娘の手には絶対に渡してはいけない』

「……ということは、まだ」

『ええ。忌々しいことに、件の小娘も“器”と一緒に未だ逃走中。ま、こちらは時間の問題ね。もうひとりの娘は国外にいるから色々手がかかるけれど』

「かしこまりました。そちらの捜索も行いましょう。優先としては、“器”とサーティスの娘を重視でよろしいでしょうか」

『さすが、解ってるわね』

 女は、笑ったようだった。

 声により濃く婀娜っぽさを含ませ、とろりとした音色を男の耳に注ぎ込む。

『では、再確認をしましょう。おまえの役目はなあに?』

「はい」

 だが、男は一切揺るぐことはなかった。瞳に何の色も浮かべることなく、表情に感情を見せることもなく、ただからくり仕掛けのように答える。

「貴女の望みのため、貴女の欲望のために、“器”を献上すること。それが私の存在意義であり、至上命題です」

『うんうん、そうね』

 女は満足げに頷いたようだった。

『おまえは私の道具だものね。それ以上の価値もそれ以下の価値も無いわ。早く私に“器”を捧げて、使い捨てられてね』

 それ以降、女の声は途切れてしまった。一方的にかけられた通話は、一方的に切られたのである。

 男はしばし同じ体勢を保っていたが、やがてゆったりとまぶたを閉じ、おもむろに力を抜く。

「ああ、使い捨てられてやるさ」

 再び開いた瞳には、女と話す以前より強烈な熱量を宿していた。

「だが、捨て場所は私が決める」

 その言葉の意味を知るのは、この時はまだ、黒衣の男のみだった。


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