第四話 少女達の進軍
最初に視界に映ったのは緑色だった。艶やかで鮮やかな、生命力あふれる色である。それが朝日を浴びた草の色だと気が付いて、ミゼリアの思考は覚醒した。
長いまつ毛を瞬かせ、自らの身体を確認する。
ミゼリアは剣を抱えていた。勿論抜き身ではなく、鞘に収まっている。それを支えにして、座ったまま眠っていたらしい。そうして剣を抱えた腕は、赤黒く染め上がっていた。真っ白なシャツに染み付いた毒々しいまだら模様は、腕だけなく胸元にまで広がっている。
それは、乾いた血だった。ミゼリア自身が殺した兵士の、そして――友人の血が、折り重なった結果だった。
ミゼリアの唇から苦しげな吐息が漏れた。消え入りそうな、かすかな響きである。取り落としかけた剣にすがり付き、目を伏せる。まぶたの裏に浮かび上がるのは、鉄錆の臭いと剣戟の音に彩られた深紅の光景だった。
ミゼリアはリリアナを連れてスターク城を抜け出した。王都の兵士の手から逃げたのである。
逃げ道の先は、森だった。抜け道自体は地下にあったため、地上に出るまで気付かなかったが、その森は城から見て前方――南東に離れた場所にあった。リリアナによれば抜け道の出口は幾つかあり、その中で王都から距離を置く方を選んだという。
本当はその森からも早々に後にしたかったのだが、夜も深い上にふたりそろって精根共に疲れ果てていた。だからせめて出口からから遠く離れ、適当な場所に腰を下ろしたのである。
リリアナはミゼリアの騎士服を敷物にして眠ったが、ミゼリアは横になるわけにはいかない。いつ追いかけてくるやもしれぬ王都の兵士を警戒して剣を抱え、座ったまま目を閉じた。意識は確かに眠っていたはずなのに休眠を取った気がせず、頭の奥がうずき、手足が妙に重い気がする。しかし、それはしかたがないだろう。
ミゼリアはのろのろと顔を上げ、リリアナの姿を確認した。
リリアナはまだ夢の中だった。木漏れ日を浴びながら静かに横たわる姿は、森の妖精のように幻想的な美しさがある。肩が穏やかに上下していなければ、生きた人間とは思えない。
眠り続けるリリアナをミゼリアはぼんやりと眺めていたが、ふと我に返ってリリアナの肩を揺さぶった。
「リリアナ様、起きてくださいまし」
「んぅ……あと五分……」
「…………リリアナ様」
「……うん、ごめん。起きる、起きます」
硬度を増した声から、ミゼリアの心情を読み取ったのだろう、リリアナはすぐさま身体を起こした。翡翠の瞳がミゼリアを恨めしげに見据える。
「冗談ぐらい言わせてちょうだい」
「お気持ちは承知しております。ですが」
「……解ってる。言ってる場合じゃないわよね。大丈夫よ、ごめんね」
リリアナは気の抜けた笑みを浮かべた後、ぐい、と背筋を伸ばした。
「連中が追ってくる気配は無い?」
「今のところは。ですが、それも時間の問題でしょう。行きましょう。早く身を隠せる場所を探さなければ」
ミゼリアは手を差し出した。乾いた血にまみれている手では失礼だろうと、シャツでなるべくぬぐってからであるが、乾いた血はそうそうとれるものではなく、手のしわに入り込んだ血はこびりついたままだった。
その手を取りかけたリリアナは、ふと表情を変えた。
「そうだ」
「リリアナ様?」
「ミゼリア、私にいい考えがあるの。というか、いい場所があるの」
「はい?」
リリアナの思考が読み切れず、ミゼリアは彼女の顔を見つめ返すことしかできない。一方のリリアナは、晴れやかな微笑を見せた。昨夜から見られなかった、いつもの彼女の、バラのように華やかな笑みである、
「近くに、いい隠れ場所があるわ」
―――
その村は森の外れにあった。外れと言ってもすぐ傍、というわけではない。森の傍にある村はほかにも幾つかあったし、大きな差ではないにしろ、そちらの方が森に近いぐらいである。それ以外に関しては、規模も人口も同程度と言ったところだろう。
その村とほかの村々との決定的な違いは無いのだ。少なくとも、表面上は。
「……まさか、こんなところに隠れ家を用意していたなんて思いませんでした」
ミゼリアはどこかぼんやりとした口調で手の中のマグカップを持ち直した。
名も無い村の、けして立派ではない、しかししっかりとした造りの家屋。二部屋しか無いこの簡素な、だが農民の家としては大きい方の家は、リュグスの一族が持つ隠れ家の一つであるという。
貴族にとっての隠れ家は、二つの種類がある。
一つは別邸という意味合いの、ようは避暑や療養、隠遁生活を送る上での隠れ家。公然の秘密として扱われるものである。
もう一つは、本来の意味での隠れ家。何らかの理由で姿をくらませなければならない時のための、緊急避難場所だ。
この村は、リュグスの一族にとっての一時避難場所の一つらしい。らしい、というのは、ミゼリアは初めて知った事実だからである。
知らなかった、というものの、ミゼリアはそこに特に思うところは無い。
リリアナとは幼少の頃からの付き合いとはいえ、身分差は歴然としている。主の娘と騎士見習いでは、本来なら並び立つことさえできない。親しい付き合いがあったのと、リリアナが不必要に気安いだけである。
「ここが隠れ家っていうか、この村全体が、かな。代々、変事の際にはここに身を隠せって伝わってるの。村人も信用の置ける人達よ」
同じくカップを手に、ベッドに腰を下ろしたリリアナは、に、と口端を釣り上げた。
彼女の格好は、すでに寝間着ではない。地味なワンピースである。このような村ではあまり見かけないだろう上等な仕立てだが、貴族女性の着るそれではない。みすぼらしいと言われてもしかたがない服だが、リリアナは特に文句は無さそうだ。普段からお忍びの一環と称して平民の服を着用しているから無くて当然かもしれない。
一方のミゼリアも、返り血まみれの服からリリアナとは別の女物の服に着替えていた。手や髪に付いていたものも濡れたタオルでふき取り、すっかり身綺麗になっている。
「もしや、この村の住民は」
言いかけ、ミゼリアは口を閉じた。自分が最後まで言うべきではない、という判断である。
ミゼリアの言わんとしたことを正しく察したリリアナは、笑みを深めた。
「そ。ようは“手足”よ」
“手足”。それは、文字通りの意味ではなく、とある者達を指す隠語である。
すなわち間者、間諜――その中でも、特定の人物、あるいは一族に仕えている者達のことを“手足”と呼んだ。
この村は、その“手足”が暮らしている村なのだ。否、そもそもこの村は“手足”が作ったのだろう。
貴族とは、どんな弱小でもひとりかふたり、諜報を専門とする人間を抱えているものだ。ましてリュグスの一族はノドバーレイ随一の大貴族である。村落を形成できるだけの人数の諜報集団を持っていてもおかしくないだろう。むしろ妥当と言える。
「ここにいれば、ひとまずは安心よ。お父様への連絡もしてもらったし」
「そうですか。ですが、長居は」
「……解ってる。ずっとはいられないわよね」
リリアナはミゼリアに頷いてみせた。
スターク城襲撃――という表現がはたして合っているかどうかは微妙なところである――が誰の指示であれ、生き残りであり、目撃者であるふたりを見逃すはずがない。彼女達の生存を把握するのはいつかは解らないが、即座に解る、と仮定した方が対応もしやすいだろう。
ここにいれば、確かにしばらくの安全は確保できるかもしれない。だが、それは永遠ではないのだ。相手はしらみ潰しに探しに来るに違いない。
城から離れているとは言っても、ここもまたリュグス領内である。いずれここに至るだろう。所詮は一時避難所に過ぎない。ここからも早々に離れるべきだろう。
「明日、発つべきでしょう」
ミゼリアはきっぱりと言い放った。あまりにはっきりとした進言に、リリアナは面食らう。
「明日って……早くない? せめてお父様の返事を待ってからでも」
「それでは遅すぎます」
ミゼリアは首を振った。僭越であることは自覚している。今更であるし、そんなことは言ってられない。リリアナに進言ができるのは、今は自分しかいないのだ。
「リュグス一族が抱えてきた方々です。とても優秀な諜報能力をお持ちなのでしょう。報告やサーティス様が返事を書く時間加味して、往復で――五日もあれば戻ってくるのではないでしょうか?」
「え? え、えぇ、そうね。それくらいかしら」
「通常であれば充分早いです。ですが、それではやはり遅いと思います」
ミゼリアは続けた。
「情勢は刻一刻と変わるものと聞きました。一日ごと――と言いたいところですが、一時間ごとに変わるものと考えるべきでしょう」
「一時間ごとって」
「実際――一夜でスターク城は落ちました」
ミゼリアは意識して声に感情を込めないようにした。むしろ無感動に、いっそ冷酷に聞こえるようにつとめた。
案の定、リリアナは目を見開いて固まってしまった。
ミゼリアとて、昨夜のことは口にしたくはなかったし、思い出したくもない。リリアナも同様だろう。
だが、状況が目をそらすことを許さなかった。
ふたりは追われる側なのだ。追う側はふたりを捕まえるまで諦めないだろうし、一連の全てを解決しなければ逃走をやめることはできないだろう。
しかし、解決と言ってもそもそもその原因が不明である以上、糸口も見当たらない。つまり、今は逃げ続けるしか取れる手立てが無いのだ。
そう考えると、安全な場所は無いと考えるべきだろう。少なくともサーティスと、彼が率いる軍と合流できなければ安心はできない。今この瞬間、追っ手が現れても何らおかしくないのである。
だから、ミゼリアは決してこの状況を楽観視しようとはしなかった。
この村は味方なのだろう。しかし、追っ手から最後まで守ってくれるとは限らない。否、守れないと断言してもいい。
村全体は味方でも、個々は違うかもしれない。それに武装した集団に来られては、対抗することはできないに違いない。普通の村ではないかもしれないが、軍に勝つことはできない。
そもそも、サーティス達が無事であるという前提ですら、希望的観測でしかないのだ。
「っ……!」
リリアナは口を開いて、何かを言おうとしたようだった。しかし唇はただ震えるばかりでそれ以上動くことはなく、喉から声が漏れることも一切無かった。
ふたりはしばし見つめ合う。ミゼリアは視線をそらさなかったし、リリアナはミゼリアを凝視していた。
数秒、あるいは数分の間、同じ姿勢で睨み合いを続け――先に視線をそらしたのは、リリアナだった。
「……しばらく、ひとりにしてくれる?」
うつむくリリアナに立ち上がって礼をすると、ミゼリアはカップを近くの丸机に置き、家の外に出た。
「リリアナ様のご様子はどうでしたか?」
出てすぐ、呼び止められた。
玄関のすぐ傍にいたのは、がっしりとした身体付きの男だった。着ている服は平民の質素なものだが、立ち姿に油断も隙も無い。気配すらも希薄で、ミゼリアは人がいるとは思っておらず、固まってしまう。
しかし、よくよく考えれば少女をふたりだけで放置するということはありえない。当然護衛を付けてしかるべきである。彼は気配を殺して、こちらの様子をうかがっていたのだろう。警戒する必要は無い。
それに、ミゼリアはそもそもこの男を警戒する気にはなれなかった。
というのも、彼の雰囲気がどことなくあの黒衣の男に似ていたからである。勿論、完全に似ているわけではないし、ぱっと見で似ていると言えるほど酷似しているわけでもない。しかし、ミゼリアが彼を見て黒衣の男を連想したのは事実だった。
――あの人は、今どうしているのでしょうか。
ミゼリアに王都の軍を疑えと忠告した男。その王都軍を率いていた男。――裏切ったかもしれない男。
しかし、ミゼリアは黒衣の男を恨む気持ちも疑う気持ちも、なぜか少しもわかなかった。裏切ったのかもしれない、とは思う。彼のせいで多くの人が死んだのかもしれないとも思う。それでも、黒衣の男を憎むような感情が浮かばない。そんな発想さえ無い。
それはきっと、最初の頃の印象が強いからかもしれない。
傷付いた獣のような、弱い姿が、頭にあるからかもしれない。
「――どうかされましたか?」
「あ……」
目の前の男に声をかけられ、ミゼリアは我に返った。今は別のことを考えている場合ではない。
「……リリアナ様は、やはりいつも通りとはいかぬようです」
ミゼリアは男を見上げつつ、堅い口調で答えた。ミゼリアの表情にかえって思うところがあったのだろうか、男はふと、気を緩めた。
「あの方は気丈で明るい方です。だからこそ、今回の件は重くのしかかっているのかもしれません」
「そうですね」
ミゼリアは同意しつつ、ふとひっかかりを覚えた。
男の言い方は、リリアナのことをよく知っているかのようだ。彼はリリアナと面識があるのだろうか。
ミゼリアの視線の意味を察したのだろう、男は苦笑を浮かべた。
「以前からよくいらしていたのです、あの方は」
「…………」
ミゼリアは沈黙した。言葉も無かった。
お抱えの諜報集団のところに遊びにいく令嬢など世界広しと言えどリリアナぐらいだろうと、ミゼリアは確信した。
「変わった方ですよ、あの方は。ご当主様もたいがい風変わりな方だが、リリアナ様はそれに輪をかけて破天荒でいらっしゃる。婚約者のエイン様も苦労なさっているようだし」
頭を抱えたミゼリアに、男は楽しそうにそう言った。
「さて、話はここまでに。明日には出るのでしたね」
「え? あ、ええ、はい」
「でしたら、旅支度をなさった方がいい。数日とはいえ、旅をするのであれば軽装ではいけない」
「それは、勿論」
ミゼリアとて、身一つで無事合流できるとは思っていない。ノドバーレイは治安のいい国であるが、用意も無く横断できるわけではないのである。ましてや現在、レコキウスと戦端を開いている。不安にかられた者が凶行に走らないとも限らないだろう。
それともう一つ、ミゼリアは自身にも不安を抱いていた。
幼少期こそひとりで馬を駆っていたミゼリアだが、この六年間は城に閉じ込められた状態だった。つまり、六年の間、外の世界を知らないということになる。外界のことは、リリアナの方がよほどよく知っていた。
剣の腕には自信がある。知識も、人並にはあるつもりだ。そこらの盗賊に負けることはないし、状況を見誤るほど愚かでもないつもりである。
しかし、いくら文武を誇ったところでそれが生存力に繋がるとは限らない。あるに越したことはないだろうが、直結しているとも言えない。
ミゼリアは、改めて自分の“弱さ”を思い知った。ミゼリアには外に出る自由はおろか、外で生きる術も無かったのである。それはつまり、リリアナどころかミゼリア自身を守る力も無いことを指す。
ミゼリアは唇を噛んで内から這い出してくる泥を飲みほそうとした。しかし、無力と言う名の泥は、染み込むように彼女の脳内を侵食していく。
泥を受け入れるのは簡単だ。しかし、そうすれば最後、ミゼリアはそこから一歩も動けなくなってしまう。泥は手足すらも染め上げて、石膏に変えてしまうに違いない。
そうはいかないと、ミゼリアは吐息ごとその泥を胸の奥底に閉じ込めた。
脳も手足もまだ停止させるわけにはいかないのだ。無理にでも動かさねばならない。無茶だろうと動かし続けなければならない。
そうすべきだと、ミゼリアは自身に言い聞かせた。
「――旅の支度の用意をお願いできませんか? 私は勿論、リリアナ様もあのご様子では、まともに身支度ができないでしょうから」
それから、と、ミゼリアは続けた。
「この村のどなたか、私達と供に来てくださらないでしょうか。私達ふたりでは、おそらくまともな旅はできないかと思います」
ミゼリアの願いは、そのようなものだった。
できないことはできない。それはしかたがないことである。それは変えようがないし、一日二日で覆せるものでもない。
ならば、できないことはできないから、と開き直るしかない。その上で他者に助けを求める。それがどのような感情を呼び起こそうともである。
実際、ミゼリアは頼る言葉を口にするのに多大な気力を使っていた。声に出なかっただけ、奇跡のようなものだ。
思えばミゼリアは、スターク城に閉じ込められてから本当の意味で誰かに頼ったことは無かった。ちょっと手を貸してもらう程度のことなら何度もある。だが本当に助けてほしい時、ミゼリアはいつも口を閉ざしていた。この六年、ずっとそうしてきた。
準騎士となった時も、訓練に飛び入り参加して自分と同世代の準騎士を上官の前で倒してみせたから認められたのだし、そのためにつけた剣の腕も独力で身につけたものだ。今のミゼリアは、ミゼリアひとりで積み上げてきたのである。
だが、それも限界だった。ミゼリアひとりの力では明らかに何もかもが足りず、誰かの手を借りなければ目の前のことさえ危うい。それが、ミゼリアにはとても悔しかった。
誰かを頼ることしかできない。頼る以外の選択肢が無い自分が情けなかった。
ひとりでできることは限りがある。そんなことは、ミゼリア自身も解っている。それでも、他人に頼るだけでなく自分にもできることがあるのではないかと考えてしまう。そうして己の能力の限度に打ちのめされるのだ。
胸を壊してしまいそうな衝撃だ。せっかく押し込めた泥がこぼれてしまう。
だが、ミゼリアはそれを受け止めた。受け止めて、防ぎ切った。そうではない、それではいけない、という言葉で守り通した。
そうして放った、“他者を頼る言葉”は、果たして男にどう伝わったのだろうか。しばしきょとんとした男は、朴訥とした微笑を浮かべた。何の含むところも無い、穏やかな笑みだった。
「もとよりそのつもりでしたよ」
その言葉を聞いた時、ミゼリアは足から力が抜けていくのを感じた。かろうじて踏みとどまったものの、膝はふるふると震えていた。表情が歪みそうになるが、何とかこらえる。
「申し遅れましたが」
男は軽く頭を下げた。
「長より、リリアナ様と貴女に同行を命じられましたタリスと申します。どうぞよろしくお願いします」
「…………こちらこそ、よろしくお願いします」
返事はほぼ反射だった。直後、ミゼリアはその場に座り込んだ。
―――
リリアナにとって、ミゼリアという少女は特殊な立ち位置だった。
表面上は遊び相手としてあてがわれた形であるが、実際はサーティスによる保護であったと知ったのは、彼女が準騎士の地位をもぎ取ってからである。
それまでは、リリアナはミゼリアが自分の庇護下にいると信じて疑っていなかった。
とんだ思い上がりである。ミゼリアは今も昔も、リリアナに守られていなかった。
幼い頃はサーティスに守られ、今ではむしろリリアナを守る立場にある。
それ自体は別にかまわないのだ。リリアナは貴族令嬢である。剣を持つことが仕事ではない。リリアナの仕事は、貴族としての務めを果たすことである。
問題は、ミゼリアがリリアナを守っているという部分だった。
「私の方が年上なんだけどなあ……って、そんなことは関係無いか」
リリアナはベッドの上に倒れ込んだ。
窓から差し込むのは、すでに日光ではない。柔らかな光を放つ月光だ。
ノドバーレイでは、月光はミズル女神の象徴の一つだった。軍略を司る女神は、月の女神でもあった。
祖国を見守る女神の恩寵を眺めながら、リリアナはそれとよく似た少女のことを想う。
ミゼリアに、あのような残酷な現実を口にさせるべきではなかった。彼女の主であるリリアナが自覚し、向き合わなければならなかったのだ。
それが貴族であり、人の上に立つリリアナの役割のはずである。
剣は持てない、他者に守られなければ自分さえも救えない、ひとりでは脆弱な存在だ。だからこそ、現実を見定めてこれからの方針を定めるべきはリリアナ自身だったのに。
「馬鹿じゃないの、私」
リリアナは貴族だ。貴族とは自分の下にいる者達の保護者である。
物理的な保護ではない。彼らの生活を守り、保証する。それが貴族の仕事だ。
その観点で言えば、リリアナは貴族失格ということになる。守るどころか、彼らを無為に死なせてしまい、自身は逃げて城を敵の手に落としてしまった。
無論、あの時のミゼリアの選択が間違っていたわけではない。あの場で逃げなければ、ふたりも死んでいただろう。それこそ無駄死にである。
しかし、はたして貴族としては正しかったのだろうか。リリアナは自由奔放な人物だと思われており、それは本人も自認しているところだが、貴族としての役割は常に意識していた。
そんな彼女にとって、守るべきものから背を向ける結果になったことは不本意だった。
あの時、自分は何をすべきだったのだろうか。自ら剣をとることができない、礼儀作法と自由に振る舞うことしかできぬ自分ができることは少なかった。あの場面においては、一切無かっただろう。
そう、何もなかったのだ。物怖じしたわけでも躊躇したわけでもない。変ええぬ事実として、リリアナにできることは一切無かった。許されたのは、目の前の現実を眺めるだけである。
対して、ミゼリアはどうだっただろうか。
彼女は初めて人を斬り、その上目の前で友人を失った。にもかかわらず、己を見失わずにリリアナを守り通した。その上、リリアナに現実と向き合わせようとする。
解っているのだ、リリアナも。甘い見通しはきかない。事態はこうしている間にも変化していく。それは、リリアナは勿論、ミゼリアにも止めることも変えることもできないことである。
リリアナに今できることは、それら全てを理解した上で、今自分にできることを考え、最善を尽くすだけだった。
ミゼリアは常に最善を尽くそうと努力している。それは傍で見てきたリリアナがよく知っている。
しかし、はたして自分は常に最善を尽くそうとしていただろうか。
あの時、本当に自分にできることは何も無かったのだろうか。
考えたところで答えが出るはずもない。たらればをくり返したところで、過去を変えられるはずもない。
こんなことを考えることさえ不毛なことである――けれど。
「リリアナ様」
不意に、部屋の外から声がかけられた。
ミゼリアの声である。帰ってきたらしいが、リリアナは彼女が帰ってくる音に全く気が付かなかった。それほど思考に没頭していたのだろう。
「リリアナ様、ミゼリアです。入ってもよろしいでしょうか」
「……ええ、いいわよ」
リリアナは身体を起こしながら答えた。
控えめな動作で入ってきたミゼリアは、正真正銘の貴族であるリリアナですらはっとするようなしとやかな気品を持っていた。
ミゼリアの気品は、生まれついてのものだとリリアナは考えている。
男性を魅了し、女性さえもため息をもらしてしまうような仕種の美。それは、本来なら生活における長い訓練の末に身に着けられるものである。実際リリアナも、幼少の頃からの習慣で身に着けた。
けれどミゼリアは、生来それを身にまとっている。生まれついての貴人というものなのかもしれない。
何より凄いのは、それが嫉妬に繋がらないという点である。ミゼリアのその美しい所作と儚げとも表現できる美貌が、そういった感情を向けにくくさせているのだろう。
だから、リリアナはミゼリアのそれを妬んだりしない。
ただ、うらやましいとは思う。彼女はリリアナが持っていないもの、あるいは努力してようやく手に入れたものを生まれつき持っているのだ。
「ミゼリア、ちょっと貴女に酷いことを言うけど、いい?」
だからこそ、そんな彼女の力を利用しようとリリアナは考えた。
悪意からでも妬み嫉みからでもない。
貴族として、ミゼリアの主として、自分の最善を尽くすためにミゼリアを使う。それが、ミゼリアがリリアナに求めていることであり、現在リリアナにできる唯一のことだった。
「ねえ、ミゼリア。貴女、昨日人を初めて斬った時、どう思った?」
「それ、は」
ミゼリアは一瞬言葉に詰まった。白い顔が、月明かりに浴びて青白く浮かび上がる。その表情を縁取る白銀の髪も相まって、神秘的な美しさを見せていた。一度ならずとも鮮血を浴びたことがあるとは思えない。
しばし唇を閉ざしていたミゼリアはしかし、次に口を開いた時には、毅然とした表情をしていた。それはまさしく、騎士の表情だった。
「お恥ずかしい限りですが、とてもまともに立っていられませんでした。それどころか、正しい判断ができたかどうかさえ怪しいです。その結果」
ここで言葉をいったん切るミゼリア。軽く首を振り、再び唇を動かす。
「その結果、私は友人を失いました。あの時、私ができることはほかにあったはずです。あの時最善を尽くしていれば、私は大切な友人を失うことは無かったでしょう」
「そんなことはないわよ」
リリアナは慌てて首を振った。
「ミゼリア、貴女は頑張ったわよ。最善を尽くしたわ。私なんかより、ずっと」
「リリアナ様」
「最善を尽くしてないのは、むしろ私の方よ」
リリアナはため息をついて天井をあおいだ。
「私はあの時、何もしなかった。何もできなかった。私は最善どころか、そもそもすべきことを一切しなかったのよ」
リリアナは軽く首を振り、ミゼリアと向き直った。
「けど、もうそんな言い訳をする気は無いわ。言い訳を言えないぐらい、がむしゃらに頑張ってやる。例え何があったって――お父様に何があったってね」
ミゼリアが目を見開いてリリアナを見返した。リリアナは淡い苦笑を浮かべる。
「解ってるわよ。スターク城が襲撃された以上、お父様の方にいる部隊も裏切った可能性がある。むしろ断定してもいいでしょう。その結果、お父様の身に何かしらの危険が起こりうることも」
ああ違うか、と、リリアナは軽く目を伏せた。
「解っていなかったのかな。それとも、解っていたけど目をそらしていたのかも。とにかく、私は現状をちゃんと見ていなかったんだ。見ようとしていなかった」
「リリアナ様……」
「だけど、そうは言ってられないのよね。常に最悪の事態を考えなきゃ、なのよ、ね」
リリアナはミゼリアと再び視線を合わせた。
「ミゼリア、その最悪の事態にそなえるために貴女の力を貸してちょうだい。ううん、もっと直接的に言わせてもらうわね。……貴女の力、使わせてもらうわ」
リリアナの言葉に、ミゼリアは静かに微笑んだ。
嬉しそうな、哀しそうな、複雑な笑みだった。
「かしこまりました。とはいえ、私にできることはあまりありません。せいぜい、剣を力の限り振るうことと、ミズル女神の教えにのっとり、知恵を絞るだけです。それでもリリアナ様が私の力を求めてくださるというのなら、私は全力を尽くさせていただきますわ」
うやうやしく頭を下げるミゼリア。その華奢な姿を見ながら、リリアナは考える。
彼女は、リリアナが言えばいくらでも努力してくれるだろう。しかし、それではリリアナが最善を尽くしたとはいえない。その結果得られた成果はミゼリアのものだ。
リリアナはリリアナの最善を尽くさなければならない。ミゼリアを使う、というのは、貴族としての権利を行使するだけに過ぎない。
リリアナの最善は、この先にある。
友人を手下として使う、という状況に何とも言えない気分になりながら、リリアナはあえて嫣然と微笑してみせた。
「ありがとう。よろしく頼むわね」
―――
翌日の早朝、日も明けきらぬ内に、ミゼリア、リリアナ、タリスの三人は、馬に乗って村を出立した。
三人の服装は旅に向いた軽装で、ミゼリアとリリアナはその上からフード付きの外套を羽織っている。ふたりの目立つ容姿を隠すためのものだ。
更に三頭の馬に旅支度をくくり付け、ミゼリアは新しい剣を、タリスもミゼリアのものよりやや短い剣を腰に帯びて武装していた。
ミゼリアは久しく馬を駆りながら、改めて自分の服装を確認する。
ミゼリアの旅装は、男性ものの服の上から薄い革でできた導鎧を着用したものだ。あの村で、いざという時のために用意されていた女性用の防具の一つである。
金属製の鎧は入手にも手入れにも費用がかかり、いくらリュグスお抱えの諜報集団とはいえ、そこまでの費用を捻出できるわけではない。だから村人自身の手で作れる防具が常用されていた。
騎士の服としては粗末であり、防具としても頼りない。しかし、ミゼリアにはこの上無く合った防具だった。
ミゼリアは剣の腕は並より立つが、少女特有の非力さはいかんともしがたい。金属の全身鎧は、ミゼリアの足かせになってしまうのだ。
自分に合う戦い方。装備をそろえることもまた、自分の戦い方を探るための一端である。
今までのミゼリアには、そんな自由すら無かった。
ただがむしゃらに、自分自身を鍛え上げるしかなかった。
だが、これからは違う。
経過はどうあれ、ミゼリアは六年ぶりに外に出た。それがどれだけ大きな意味をミゼリアに与えるのかは、彼女自身には解らない。
それでも、城に閉じ込められていた時より大きな一歩を踏み出すことになったのは事実である。
――もし、あの時、あの人の手を取っていたら。
ミゼリアは思う。あの黒衣の男が差し出した手を。
多くを裏切り、ミゼリアさえも裏切ったであろう男。あの時差し出した手も、取ればすぐに振り払われたのかもしれない。
それでも、あの時、あの手を取っていたら。
今と同じような一歩を出せたのだろうか。
それとも、あるいは――