第三話 スターク城の洛陽
ノドバーレイ軍がスターク城から出兵して六日後の深夜。ミゼリアはフィースと共に城内の見廻りの任に着いていた。
準騎士は基本的に戦に参加しない。準騎士は正式な騎士ではないため、戦には不適格とされているからである。しかし、仕事が全く無いわけではない。
例えば、ふたりが現在着いている城内の見廻り。さすがに領地内巡回は正騎士の役割だが、城内のような限定的な場所の警戒は準騎士の仕事だった。それと、騎馬の世話や個人所有以外の武器の管理や手入れ――弓矢などが主である――などの戦ごとの雑事も準騎士の仕事だ。個人所有の馬や武器は所有者本人が管理するが、それは大抵百人隊長以上か、一部の実力者のみで数は限られている。大半の騎士及び準騎士は支給された武具を使っていた。実際ミゼリアとフィースの剣は上から配されたもので、自分のものではない。
現在城に残っている兵士のほぼ全員が借り物の武器を帯びていた。例外は、城を任された指揮官ぐらいである。
「城が静かなのも慣れたね」
ランタンを片手に、フィースは呟いた。ミゼリアも頷きを返す。
「明日で一週間たちますから。何ごとも無ければ、すでにとっくに開戦しているでしょう」
「そっかあ。……ザフィロが暴れまくっている姿が目に浮かぶよ」
「それをエイン隊長が制止するのですね。……どうしてでしょう、見てもいないのに、鮮やかに目に浮かびます」
「僕も……」
顔を見合わせたミゼリアとフィースは苦笑を浮かべた。
だが、その笑みはすぐしぼんでしまう。
友人が戦場に立っていると知って愉快な気持ちでいられるほど、ふたりは図太い神経をしていない。ましてや相手が強敵となればなおさらである。
「……ふたり共、大丈夫かな」
「ザフィロも隊長も強いですから。でも」
ミゼリアは口をつぐんだ。
どれほど強くとも、命を落とす時は落とす――そう言いそうになって、それがどれだけ非情な言葉であるか気付いたからである。
しかし飲み込んだ言葉は、非情な分真実であった。どれほど勇猛な戦士であろうと、戦場において無敵というわけではない。ミズル神の教えにも、それは重要な一文として書かれている。
ミゼリアはミズル神の加護を受けた人間であり、それだけに信仰心も人一倍篤い。だからこそ、神の教えにある戦ごとは無意識でも非情な見方をしてしまう。実際に戦に関わるならまだしも、友人を気遣うには不的確な思考だった。
それだけではない、夜になる少し前から、ミゼリアは言いようの無い不安にさいなまれていた。今は何とかこらえているが、最初は立っているのも困難なほどのめまいを伴っており、ただの気のせいと片付けるにはあまりに強烈な印象を身体に刻んでいる。
おそらく、よくないことが起こっている。
「でも、何?」
眉尻を下げて、フィースはミゼリアの顔を覗き込む。明らかに不安を増長された顔で、ミゼリアは慌てた。
「いいえっ。大丈夫ですよ。隊長もザフィロも――サーティス様も。みんな無事で帰ってきます」
「だ、だよねっ。大丈夫だよね!」
フィースはようやくほっとした顔で息をついた。
「きっとみんな帰ってくる――うん、そうだね」
「すみません。心配をかけるような言い方を……」
「そんなことないよ。僕が勝手に不安になっただけだから。……て、あれ?」
フィースはふと、視線を上げた。前方にカンテラをかざし、目を瞬く。ミゼリアも、彼の目線をたどる。
「……ねぇ、ミゼリア」
「……はい」
「僕、目が悪くなったのかな。今夜だよね? 何でリリアナ様がいるの?」
「いいえ、フィース。貴方の目は悪くなっていません。私にも見えますから」
リリアナはサーティスの長女であり、いずれ彼の跡を継ぐべき貴人である。エインとは婚約を交わした仲であり、ミゼリアとフィースにとっては忠誠を向けるべき人物だ。
つまり、こんな真夜中にひとりで出歩くべき人ではないし。
「あ、ミゼリアだ。それと――フィースだっけ。とにかく、こんばんは」
寝間着姿で臣下の前に顔を出し、あまつさえお気楽なあいさつをするべき人でも、ない。
「こんばんは、リリアナ様。ご機嫌麗しゅう」
ミゼリアはにっこり微笑んで一礼した。実に恭しい態度である。
「さ、お部屋に戻りましょう。お送りします」
「会ってそうそうひーどーいー!」
間髪入れず発せられた言葉に、リリアナは楽しそうに笑った。
リリアナは今年で十六歳になる。赤紫がかった黒い巻き毛が美しい、華やかな令嬢だ。強い輝きを放つ翡翠の瞳が印象的で、紅い唇には常に勝気な微笑を浮かべている。化粧っ気の無い美貌は飾り立てるまでもなく華美であり、きちんとした礼装をまとえばよくバラに例えられた。
スターク城の者は皆知っている。彼女が気付けば城で一番高い木に登っていたり、馬を駆って近隣の村々や、果ては王都にいたりするような、とんでもない行動力を持つ、アグレッシブな少女であることを。貴族女性にあるまじき爆発力を持った――秘めた、ではない。そもそも彼女は秘したことがない――少女であることを。
ちなみにそれによる被害者は主にエインである。
「いいじゃない、夜の散歩ぐらいさせてくれたって」
「戦時中ですよ、リリアナ様。そもそも、貴人が寝間着姿で出歩くことなどもってのほかです。もうっ――とりあえず、これを着てください」
ミゼリアは自分の上着を脱いで、リリアナに渡した。素直にそれを受け取ったリリアナは、しかしはおろうとはせず、なぜかまじまじとシャツブラウス姿のミゼリアを見つめる。
「ミゼリア」
「…………何ですか」
「貴女さらし巻いてるの? せっかくいいの持ってるのに、それじゃ形が潰れちゃうわよ」
「え?」
一瞬何を言われたのか解らず、ミゼリアは首を傾げかけ――悲鳴を上げた。
「何をおっしゃっているんですかあ⁉」
「何って、貴女の歳の割に大きい――」
「やめてくださいぃぃぃっ」
リリアナの言葉を遮る、再びの悲鳴。普段のミゼリアなら絶対にしない、失礼極まりない行動だが、今の彼女に気にする余裕は無かった。
顔を真っ赤にして胸を両手で隠すミゼリアは、恨みがましい涙目でリリアナを見つめる。一方のリリアナは、苦笑しながら騎士服をはおった。
「ごめんごめん。うらやましいから、ついいじめちゃった」
「そんなことでいじめないでください……」
ミゼリアはか細い声で呻いた。胸から手を下ろしはしたものの、赤面と動揺は収まらない。隣でフィースが同じく赤くなりながらぶつぶつ呟いているのも気付いていない様子である。
「ミゼリアってそんな大きい……あれ、これザフィロ知ってるのかな。あれ、僕あいつに殺されない?」
「フィース?」
フィースの顔が赤から青に移行したところで、ミゼリアはようやく冷静さを取り戻した。
頭を抱え始めた友人を横目にしつつ、ミゼリアはリリアナに向き直る。
「本当にどうなされたのですか? このような夜更けに、しかも仮にも戦時中に歩き回るなど、いくら貴女でも、普段ならなさらないでしょう」
「あー……うん」
リリアナはばつの悪い顔で肩をすくめた。
「大したことじゃないの。ただ、胸騒ぎがして」
「胸騒ぎ?」
ミゼリアの表情がふと曇る。
破天荒なリリアナだが、だからこそなのか、勘が的中することが多い。しかもその予感は、悪ければ悪いほど現実となる。一種の予言のようなものである。
ものがものだけに信じていない人間も多いが、ミゼリアはリリアナの根拠の無い予感を信じていた。
ミゼリア自身にも覚えのあることだからだ。彼女もまた、予言とも取れるような予感を感じ取ることのある人間である。
六年前もそうだった。
そして今日、またあの時のような言い知れぬ感覚を感じている。
「…………」
「…………」
ミゼリアとリリアナは顔を見合わせる。互いに互いの顔を探り、そこにあるのが自分と同じものであると確認すると、ふたりの顔に苦々しいものが広がった。
ふたりは見た目も性格も正反対の少女達である。思考回路も噛み合うことは少ない。
しかし、ふたりが互いを理解していないかと問われれば、そんなことはなかった。むしろ喋らずとも考えていることが解るほど、互いのことを把握していた。それは付き合いの長さもそうだが、何より強い信頼関係あってこそである。
しばし黙り込んでいたふたりだったが、ふと、リリアナが口を開いた。
「ミゼリアはさ、王都から来た例の連中のこと、どう思ってるの?」
「リリアナ様、そのような言い方は」
「今は言い方はどうでもいいから。貴女の意見が聞きたいの」
そう言われては、答えないわけにはいかなかった。ミゼリアは一つ息をつくと、口を開く。
「一言で言えば、信用するのが難しい相手、でしょうか」
「はっきり信用できないって言っていいわよ?」
「いえ、それは――ともかく、彼らを信用しきれないのは、彼らと全く接触が無いからでしょう。現状、彼らと話したことのある人は確認できていません」
「そういえば、そういう話聞いてないね……ていうか、ミゼリア、よく調べたね」
フィースの感心したような声に、ミゼリアは微笑む。しかし、すぐさまそれを消した。
「何ごとにも方法はあるものですから。――しかし、それが問題になってきます。彼らと話したことがある人間はいない――そもそも彼らは兵舎から一度も出ていません」
ミゼリアは黒衣の男と再会した際、彼に言われた言葉を実行していた。
信用できない人間はとことん疑った方がいい――彼の忠言に従って、まずは最も猜疑の念を向けている者達、すなわち王都軍の様子を探ることにした。
一言で言えば、何も無かった。
ミゼリアが見る限り、彼らは何もしなかった。疑わしいことも怪しいことも何もしなかった。本当に何もしなかった。
何も無さ過ぎた。
疑いの目を向けているのだから多少怪しく映るでしょう、と必要以上に思い込まないようにしていたミゼリアだったが、彼らの行動は、その必要が無いほど何でもなかった。
そもそも彼らを疑う疑わない以前に、何もしていなかったのだから。
食事はするようだ、睡眠もおそらく摂っているだろう。しかし、それ以外が無い。生命の維持に必要な行為以外を一切していない。
例えば、騎士や兵士として必要な戦闘訓練、武器や馬の手入れ、人格ある者が当然行う会話などの他者との交流、あるいはちょっとした余暇に行う趣味のたぐい。それら全て、彼らはしない。必要無いと切り捨てたように、あるいは忘れてしまったように、彼らはあてがわれた部屋でじっとしている。
それは人間の様子では無い。動物のそれとも違った。
ミゼリアが簡潔にそのことを説明すると、リリアナは顔をしかめた。フィースに至っては若干青ざめている。
「なぁんかそれってさあ」
リリアナはうそ寒そうに首をすくめた。
「人形みたい――なあんて。……冗談じゃないわ」
後半はほとんど吐き捨てるようだった。表情も、とてもではないが淑女らしからぬものとなっている。
それをとがめることを、ミゼリアはしなかった。口にはしないものの、気持ちとしては同じである。
これだけの人数を無機物のようにしたのが何なのかは解らない。魔術的なものなのか薬物的なものなのか、その辺りも現状不明である。
ただし、確実に問題として挙げるべき点はふたつ。ひとつはこれだけの人数――王都軍全員と見るか否かは今は保留する――が非人間的にされたこと、そしてもうひとつは、そんな兵達が王都から派遣された事実である。
「……あの王都軍、本当に国王陛下が派遣された軍なんでしょうか」
フィースがおそるおそるリリアナに尋ねる。ほとんどすがりつくような声音だった。
「本当に、本物よ。でなきゃ、お父様が連れて行かないわ。いえ、そもそも城に入れないでしょうね。門前払いして、突っ返してるでしょうよ」
サーティスやリリアナの属するリュグスの一族は、ノドバーレイにおいて“第二の王家”と呼ばれている。元をただせば王家から派生した一族であり、国内唯一の公爵位だからだ。王家が断絶した場合の王位継承権も持っており、ノドバーレイ貴族で最大の勢力を持っていると言っても過言ではないだろう。
だからこそ、リュグスの長たるサーティスが軍への編入を拒まなかった時点で、彼らは正真正銘王が派遣した軍なのだ。リュグスの一族に強権を振るえるのは、ノドバーレイで王のみなのだから。
「……だとすれば、解らないことが一つ」
ミゼリアは神妙な面持ちで言った。
「陛下はなぜ、そのような軍をお貸しになられたのでしょう。まさかレコキウスの侵攻を受け入れているわけでもないでしょうに」
「それは……何でかしらねぇ」
三人は顔を見合わせた。
幾ら考えたところで答えは出ない。そもそも準騎士ふたりと令嬢ひとりが思考を働かせたところで明確な答えが出るはずないのだ。
皆で憂欝なため息をついたところで――騎士服の前をかき寄せたリリアナがあら、と声を上げた。
「ミゼリア、貴女上着のポケットに何か入れてる?」
「え? あ、ああ、はい。ちょっと」
ミゼリアが答えようと口を開きかけた時だった。
がしゃり、と。
金属音が、冷たい廊下に響き渡った。
三人は身を固める。突然の音に驚いた彼女らは、ここが廊下であることを今更ながら思い出した。ミゼリアとフィースに至っては見廻り中である。
音の発生源は廊下の向こう側、曲がり角からだった。よくよく聞いてみれば、それは鎧のこすれる音である。ミゼリアとフィースにとっては聞き慣れた音だった。
最初、三人はほかの見廻りの騎士が来たのかと思った。スターク城は広い、見廻りが一組では城全体を警備することは不可能である。別におかしなことではない。
しかし、この辺りはミゼリアとフィースの担当である。ほかの見廻りが来るはずが無いのだが――
「っ……!」
ミゼリアは息を飲んだ。そうすることを抑えられなかった。
角から現れたのは、ひとりの王都兵士だった。
薄暗闇の中であるが、着込んだ騎士服や鎧から見て間違いない。しかし、今まで兵舎から一歩も外に出ることのなかった人間が、どうしてこんな真夜中に出てきたのだろうか。
兵士は二十代半ばという頃合いの男だった。髭を生やした、野卑な印象の兵士は、どこかおぼつかない足取りでこちらに近付いてくる。
その手には、抜き身の剣が握られていた。
「リリアナ様、下がってください!」
ミゼリアが自分の剣に手をかけたのと同時に、男が走り出した。
けしてスピードは速くない。しかし突然のことにリリアナとフィースは反応できなかった。動けたのはミゼリアだけである。
ミゼリアが振り抜いた剣が、兵士の振り下ろした剣とぶつかり合った。金臭い臭いをかぎ取る間も無く、ミゼリアは危うく体勢を崩しそうになる。それでもなんとかこらえたが、無理な体勢になったことは否めなかった。
ミゼリアは顔を歪めて身体を沈める。押し込んでいた剣が急に落ち込み、兵士は前のめりに倒れそうになった。
その隙をついて、ミゼリアは足払いをかける。今度こそ本当に倒れてしまった兵士の剣を蹴り飛ばし、剣を突き付けた。
それで、兵士の動きは完全に封じたはずだった。実際兵士は倒れ伏したまま動かなかったし、ミゼリアだけでなくリリアナやフィースもそう思っていた。
だが。
「えっ……!?」
ミゼリアは戸惑いの声を上げた。実際に彼女の内心を走ったのは、戸惑いではなく驚愕だった。
兵士は、剣を至近距離で向けられているにも関わらず、勢いよく起き上がり、その勢いのまま突進してきたのである。
ミゼリアの剣は兵士の喉に深く突き刺さる。それでも兵士の勢いは止まらない。更に深く食い込まさんとばかりに突っ込んでくる。
ミゼリアは急なことに理解が追い付かない。ほとんど無意識で剣を動かしていた。
真一文に振るわれる剣。それを追うように斬り開かれる男の首。突き刺された喉に走る線は、思いのほか深かったらしい。遅れて噴き出した鮮血は、ミゼリアの剣だけでなく彼女の胸元までも染め上げた。
「ミゼリア!」
フィースの声に、ミゼリアは我に返った。一瞬であるが、呆けていたらしい。
一方の兵士は、またも床に倒れ伏していた。ただ今度は、ぴくりとも動かなくなっている。仰臥したまま紅いしみを広げるだけだった。
ミゼリアはぺたんとその場に座り込んだ。剣こそ離さなかったものの、全身の力が抜けてしまって、とても立っていられなかった。
「ミゼリア、大丈夫?」
慌てた様子のフィースがおっかなびっくり近付いてきた。
ミゼリアは吐息まじりに大丈夫です、と答える。胸元に血がべったり付いた状態で座り込んでいては説得力など皆無だが、実際ミゼリアは怪我ひとつしていないし、思いのほか冷静だった。
勿論動揺もある。初めて人を斬った感触は、実感を伴ってミゼリアの脳に届いていた。それが絶え間無く精神を揺さぶり、ミゼリアを立てなくしている。
それでも、みっともなく取り乱すようなことはしなかった。それほどこたえていないから、ではなく、背後にリリアナとフィースがいる状況ゆえであった。
「大丈夫じゃないでしょ。そんな座り込んじゃって」
しかし、幾ら平静を装うとしても、リリアナには関係の無いことらしい。
「フィース、ミゼリアを立たせて。んで、兵舎に放り込みなさい。血まみれのシャツじゃ色々問題があるし、このままじゃズボンまで汚れるわ」
「は、はい!」
フィースはミゼリアを引っ張り上げた。そして、なお範囲を広げる真紅から遠ざかる。顔こそ真っ青だが、思いのほか混乱していないようだった。
「すみません、手を貸していただいて」
フィースの肩にもたれかかるようにしてなんとか立ったミゼリアは、うなだれて囁きかけた。少しかすれている。
「それはいいけど……どうしよう、これ」
フィースは泣きそうな顔で男を見下ろした。つられて、ミゼリアとリリアナも視線を落とす。
兵士は、やはりちっとも動く様子が無かった。血の量からして、すでにこと切れていることは明白である。
「襲いかかってきたのはあっちだもの、正当防衛よ」
「過剰防衛ですよ。……結果的とはいえ、殺してしまったのですから」
ミゼリアは沈痛な面持ちで血まみれの剣を見下ろした。
手にかけたことを嘆いているのではない。
こうして剣を帯びている以上、そうすることへの覚悟と心構えはしていた。情けなくも動揺しているが、今更嘆きはしない。
そもそも、ミゼリアはあの血の海から戻ってきた人間である。惨劇そのものを目の当たりにしたわけではないが、それでも凄惨な爪痕は彼女に血道を歩くことへのためらいを奪い去るのに充分だった。
問題は、こうして斬り伏せた男が、王都から派遣された軍の兵士である事実だ。それが、ミゼリアの気を鉛より重くする。
国王じきじきの命令で派遣された兵士のひとりを害してしまったことも勿論問題である。下手をすればサーティスにまで害が及んでしまうかもしれない。しかし、現在差し迫ってミゼリアの懸念になっているのは、今まで穴熊よろしく閉じこもっていた王都軍が、ひとりとはいえ真夜中に出歩き、襲いかかってきたことである。個人か集団かははっきりとしないが、何かしら裏があると見て間違い無いだろう。
ことここに至って、ミゼリアの不安はもはや目をそらすことができないほどになっていた。このまま何もせずにいれば、確実に手遅れになってしまう。漠然とした、しかし輪郭だけははっきりとした予感が、ミゼリアの頭上にのしかかった。
ミゼリアは、とてもではないが常と同じとは言いがたい。しかし彼女の脳は冷水のごとく澄み渡っていた。あまりの事態に今はもう沈黙するしかないリリアナとフィースに対し、ミゼリアは異常なほど冷徹に現状を把握し、目の前の事実の意味に思考を巡らせていた。第三者がそれを見れば、実に不気味に映ったことだろう。
だが、そんな彼女だからこそすぐに気付くことができたのかもしれない。
廊下に面した窓の外。普段は日向の下の前庭を見下ろすことができる、非常に眺めのいい場所であり、ここから城の前面の一部分を見渡すこともできる。
その景色を透かしたガラスに、赤い揺らぎが映り込んだ。
ゆらゆらと形を変えて空気を、あるいは建物を舐めていく赤い影。
それは、まぎれもなく炎だった。
―――
黒衣の男は言った。信用できない人間はとことん疑った方がいいと。
ミゼリアは思う。あれはこういう意味だったのかと。
そして同時に、解らなくなる。なぜ彼は、そんなことを自分に言ったのだろうか。どうして彼は、そんな軍を率いていたのか。
だが、今はそれを問うことはできない。
「一体どうなってるのよ!」
リリアナが悲鳴のような声を上げた。優雅さのかけらも無い、淑女にあるまじき声だが、この状況ではしかたがないだろう。
三人は城の外を目指して廊下をひた走っていた。リリアナは部屋に戻るよう頼んだのだが、この状況で部屋が安全地帯とは言えないと言い張り、強引に付いてきた。
走る途中でほかの見廻りの者が通るであろう場所にも足を向けたが、出会うのは王都の兵士か、その兵士に惨殺された城の者ばかりである。それを見るたびにフィースは悲鳴を噛み締めていたし、リリアナの気丈な表情はどんどん青くなっていった。
ミゼリアは、ただ黙って、それらを受け止めた。受け止めて、黙々と剣を振るった。
王都軍は無機質な表情で、こちらに襲いかかってくる。それは最初に出会った兵士と同じだ。躊躇すれば、斬られるのはこちらである。だからミゼリアは声を押し殺して、剣をひらめかせた。
そんなことを、何度続けただろうか。王都の兵士をフィースと共に斬り伏せ続けたミゼリアは、裏庭に飛び出した。撤退戦のように逃げ回りながら戦っていたため、気付けば正面に位置する前庭とは逆の方に出てしまっている。
「ここから城の正面に出られます。行きましょう」
ミゼリアはリリアナの手を取ろうとして、自身の手が血で濡れていることに気が付いた。
自分の血ではない。返り血である。だがぬらぬらと濡れる手は、差し出すにはためらわれた。
「案内が無くとも大丈夫よ」
だがリリアナは、そんなミゼリアの手を取った。己の手が汚れることもためらいはしない。
「り、リリアナ様」
「なあに? 私、これでも内心がくぶるなのよ。ちゃんとエスコートしてちょうだい」
リリアナは色の失った唇で微笑んだ。勝気とも強気とも言えない、弱々しい笑みであったが、握った手は力強い。
その強さが、心をゆっくり解きほぐしてくれた気がして、ミゼリアはゆっくり深呼吸した後、頷いた。
「……解りました。お任せください。――フィース、後方をお願いします。私は前方を注意しますので」
「う、うんっ。もしもの時は声かけるから」
フィースはこくこくと頷いた。青ざめた顔に反して、騎士服にはべっとりと返り血が付いている。
改めて見なくとも、自分もまた同じような格好であることはミゼリアも解っている。普段は身なりには気を使っている彼女も、さすがに今は気にしてはいられなかった。
事態が刻一刻と深刻になっているのが、肌で感じられる。鼻を突くのは、焦げた空気と鉄錆の臭いである。ミゼリアもフィースも経験は無いが、おそらくこれが戦場の臭いなのだろう。頭の奥を締め上げるような刺激臭は、確実に三人の精神を削り取っていく。
それでも、目の前の事態を放ってはおけない。三人は歯を喰いしばって前へ進んだ。
そうして何とか進んだ先の庭は、まごうことなき惨状だった。
城を覆い尽くさんと手を伸ばす炎。それに照らされて立っているのは、誰も彼も王都の兵士ばかりである。そしてその足元には、見覚えのある騎士達が伏している。騎士達を受け止めた芝生や石畳は、炎に照らされずとも紅く染め上げられていた。
「これは……」
フィースが絶句して息を飲んだ。ミゼリアも言葉を失い、リリアナは硬直して立ち尽くしている。
ミゼリアは悟った。もはや確認するまでもない。この城は、内部から陥落していた。もうどうしようもない。
一体どうしてこうなってしまったのか。それを考えて結論を出すすべはすでに無いが、おそらく、ミゼリア達が最初に王都の兵士と鉢合わせした時点で何もかも終わっていたに違いない。
何もかもが手遅れであり、手の施しようなど残っていなかった。こうしてこの場に急いで現れたこともまた、無駄だったに違いない。
ミゼリアは目の前の惨劇を見つめながら、必死で頭を働かせる。
ここで取るべき行動は一つ。リリアナを連れて今すぐこの城から逃げるしかない。
城にい続けても、この場を切り抜けるすべは無い。城を捨てて逃げれば、ひとまず命は助かるし、うまく立ち回れば事態をいい方向へ進めることができるかもしれない。半ば賭けに近いが、それしか方法が思い付かなかった。
そこまで考えて、ミゼリアの思考はたたらを踏んでしまう。
この場を逃げ出す。それははたして最善策なのか。
逃げる以外の方法は無いのか。戦うことはできないのか。立ち向かうことは可能ではないのか。
否、そもそも。
自分はこの城から出ていいのか。
ミゼリアがこの城にいることは、自分を守るためである。そして彼女がここにいるというのは、彼女を手元に置きたがった王に対するサーティスの忠義立てでもある。王に代わってミゼリアを監視しているという体を取ることで、王の手を止めていたのだから。
それなのに、自分はこの城から出て行ってしまってもいいのだろうかとミゼリアは考えてしまった。勿論、そのようなことを気にしている場合ではないことは解っている。だが、よぎってしまった思考は、ミゼリアの動きを確実に鈍らせた。
「ミゼリア!」
だから、反応が遅れた。
突進してくる王都の兵士に、気が付かなかった。
とっさにリリアナを後ろに押しやることしかできない。
剣を構える時間は、一瞬足りない。
剣はすでに、目の前に迫っている。
風切り音が、鼓膜を震わせた。
「……え?」
だが、兵士の剣はミゼリアには届かなかった。
ミゼリアの血は、ミゼリア自身の身体を濡らすことはなかった。
代わりのように、フィースの血が兵士とミゼリアを染め上げた。
何が起きたのか、ミゼリアには一瞬理解が追い付かない。斬り裂かれた彼の肩と上体が視界に収まり、全身がゆっくり傾いていくのを見て。
ようやく、自分がかばわれたのだと悟った。
「っ――!」
ミゼリアはフィースの身体を支える。力の抜けた友人を抱えて、そこで言葉を失ってしまった。
友人の目は虚ろだった。真っ二つになりかけた腕の中身体には一切の力が入っていない。腕を濡らしていく紅い血の色と温度が、妙なほど鮮やかにミゼリアの五感に訴えかけた。
「あ、あぁ、あぁぁぁああぁぁあぁ」
ミゼリアの喉から、かすれた声が上がった。それが嘆きによるものなのか、怒りによるものなのか、ミゼリア自身には解らない。ただその時の視界は、自身でも驚くほどはっきりしていた。
ミゼリアはフィースを抱えたまま剣を振るった。鈍く輝く刃は、剣を振り下ろしたままの兵士の喉に喰い込み、真一文字の斬撃を刻む。
噴出した血を顧みることもなく、ミゼリアはリリアナを振り返った。
リリアナは、呆然と全ての成り行きを見守っていた。ミゼリアと目を合わせて、ようやく我に返ったように肩を震わせ、口を開く。
「ミゼリア、フィースは」
「……駄目です」
絞り出した言葉は、想像以上にひきつれていた。はたしてこれは自分の声なのかと、ミゼリアは内心で驚いてしまう。
何より、言葉にした友人の状態が、自身の胸の奥を深くえぐる。だが、それにひたっている暇は、今は無い。
「リリアナ様、今すぐこの城を出ましょう。このままここにいても、事態は変わりません。いえ、それどころか、ここにいることで更なる事態悪化を招く可能性があります。どうか、脱出を」
「でも、城のみんなが……みんなを置いて行けというの⁉」
「今までの城の状態を見たでしょう。この城にはもともと、騎士達以外の城住まいは最低限の小間使いや侍女しかいない。そしてその全ては――殺されているでしょう」
現在のこの状態は、そういうことだ。スターク城にいる王都の兵士は五十人。普通に考えれば、その数で城一つを陥落させることは不可能である。しかし、事前に計画されていたのなら――今回のことが突発的なことでないのなら、おそらくすでに、ことは終わっているはずだ。とっくに闇夜に乗じて何もかも殺戮されているはずである。
城の中の死体の数々がその証拠だ。彼らはこちらが気付かぬうちに全てを終わらせていたのである。
だとすれば、長居は無用だ。
「リリアナ様、どうか……!」
「……貴女が言うなら、そうなのね。もう……どうしようもないのね。それも、そう、ね」
リリアナはうつむき、長々と息を吐いた。そして上げた顔には、青ざめていながらも確かな力強さがあった。ミゼリアのよく知る、リリアナ本来の顔である。
「抜け道があるの。そこから、脱出しましょう」
リリアナは再びミゼリアの手を取った。先ほどと同様、否、それ以上に力の入った手。ミゼリアの手を握り潰さんばかりの力が込められていた。そしてその力は、鼻をすするような音と共に強くなっていく。
ミゼリアはその手を引っ張って走り出した。後方からはこちらに気付いた王都の兵士達がわらわらと走り寄ってくるが、後ろを振り向く暇は無い。リリアナの指示に従ってひたすら脚を速めるだけだ。ふたり共脚には自信があり、その自信そのままに王都の兵士を引き離していく。
しかしそれを誇る気にもなれず、ミゼリアは唇を噛み締めた。
腕の中に、すでにフィースの身体は無い。走り出す時に、手放さざるを得なかった。
リリアナの手を取った右手も、剣を握った左手も、真っ赤に染め上げられている。
喉の奥からせり上げてくるものを飲み込んで、ミゼリアは目の前を見据えていた。
それでも、頭の中はこれからどうするかをひたすら考えている。
これから取るべき行動、向かうべき場所。仮定という仮定が頭の中で浮かんでは消え、最善策を導き出そうと循環する。
それがどれだけ異常か――この状況下でも自分が冷静さを失っていないという事実に気付くことなく、ミゼリアはひたすら思考を繰り返してた。
―――
ノドバーレイ国王都、アルクレプト。その象徴たるセクタ城。深夜の暗闇の中においてなお壮麗さを失わない、ノドバーレイ国内で最大の規模を誇る王城の一番奥に、国王ハリウィム二世の寝室がある。
ひとりで寝るにはあまりに大き過ぎる豪奢なベッド、派手を通り越してけばけばしい調度品の数々。広々とした寝室には隅から隅まで目もくらむような品で埋め尽くされている。さながら宝物庫だ。ミズル女神の教義により派手を好まぬはずのノドバーレイ王家の主の寝室とは到底思えない。
そんな煌々としたものの中心たるベッドの上にいるのは、部屋の主、ひいては国の主たるハリウィムだ。ベッドに対して、彼自身は貧相な印象の男だった。
顔立ちが悪いわけではない。どちらかというと整った部類に入るだろう。しかし陰鬱で光の無い瞳とやつれた表情のせいで十も二十も老け込んで見えた。ベッドに座っている姿も、奇妙に小さく見える。赤紫がかった黒髪が、そんな顔に更に影を作っていた。
ハリウィムが見ているのは、ベッドの前に立ったひとりの女だった。
紅いドレスの上に鮮やかな深紫のローブをはおった、黒髪の美女である。両手両足、首や胸元を金の装飾品で飾り立て、妖しいまでに婀娜っぽい美貌には華やかな化粧が施されている。ドレスや外套、装飾品や化粧にいたるまで、全てにおいて手間も金もかかっていることが見て取れた。
「スターク城が落ちたようですわ」
女は言った。一言一言が砂糖のように甘くとろけるような音色であり、ただの言葉でさえ淫靡な響きを持っているようだった。
「サーティスの首も、ハディウスにてしかと取ったようです。ですが――サーティスの娘と、“器”は逃げてしまったようですわ」
“器”、と女が口にすると、ハリウィムの肩がぴくりと跳ねた。構わず、女は続ける。
「六年前にサーティスに奪われたのが痛かったですわね。であれば、こんな回りくどいことをせずにすんだのに。いえ、憎むべきはディアルナかしら」
「“器”は」
女の言葉を、ハリウィムは遮る。かすれている上に震えていて、とても聞こえのいい声ではない。そんな声は、女の言葉をこれ以上聞きたくないという響きが込められていた。
あるいは、ディアルナ――ミズル女神信仰の宗主の名前を聞きたくないと言いたげな。
「どこに逃げた」
「解りませんわ。しかし、いずれ姿をとらえるでしょう。あれに、もう何の庇護もありません。サーティスはもういませんしね」
「……ミズル神は」
「あんな偶像」
は、と女は笑う。血のように鮮やかな紅をひいた唇には、明らかな嘲りが含まれている。ミズル女神を奉じるノドバーレイにおいて、かの女神を前にできる種類の笑みではなかった。
「あれに何ができるというのです? 天空で惰眠をむさぼってるあの女に、“器”を守る器量があると?」
「…………」
「心配なのですか? 問題ありませんよ。善は貴方にある」
女はその場でくるりと回ってみせた。すそがめくれ上がり、美しくもほっそりとした白い脚があらわになる。
「貴方は正しい。私の手を取ったのだから。貴方は善き人。私を信じたのだから」
女の瞳がハリウィムを捕らえる。黄金の瞳は、蜜のように王に絡みついた。
「貴方は真実の人。形無き女神ではなく、形ある女神を奉じるのだから」