第三十三話 黒衣の男と魔女
惨憺たる様子のサロン。その高い天井付近に、黒い半透明の煙のようなものが渦巻いている。その上である天井には、妖しく輝く魔法陣が描かれていた。
魔女から目を離さないまま、天井を指して黒衣の男は吠える。
「答えろ。この者達に悪霊を取り憑かせ、あのように魂も生気も吸い上げて、一体何をするつもりだ!?」
対し、魔女は楽しそうにころころ笑った。
「さすがね。人間達と、天井を見ただけであの渦が何か理解するなんて。ちょっと知恵を付けさせ過ぎたかしら」
「答えろ!」
「うるさいわねぇ……ただの魔力補給よ」
魔女は片手をかかげた。とたん、半透明の煙は一直線に魔女の元に向かう。瞬く間に、煙は魔女の身体に吸い込まれた。
「……ふう、まだ足りないわね」
唖然とする黒衣の男の前で、魔女は艶っぽくため息をつく。そして、彼を半眼で睨んだ。
「六年前の術式で使った魔力、まだ回復していないの。まったく……十年前、おまえがあの娘を連れ帰っていれば、こんなことにはならなかったのに。六年前だって、おまえが直前に拒否したせいでほとんど無駄になったし」
しかも、と魔女は忌々しそうに吐き捨てる。
「私がかけた呪い、いつの間にか解けてるじゃない。そうでなければ、こんな風に口答えしたおまえが無事で立っているはずがないのに」
「ああ。おかげで六年前は酷い目に遭った」
今度は黒衣の男が吐き捨てる番だった。
六年前、ミゼリアに会った時に彼が血まみれだったのは、呪いによって内側から身体中を斬り裂かれたからである。
それが効果を発揮するのは、魔女に明確に反抗した時。黒衣の男の場合は死ぬことは無いものの、常人であればのたうち回るような痛みと恐怖を味わうことになる。
更に黒衣の男は魔力の大部分も封じられていた。まだうまく魔力を使いこなせないうちに封じられたために抵抗もできず、本来なら今も解呪できなかったはずだが──
「解けていることに気付いたのは、つい最近だ」
黒衣の男は目を細めた。その表情を見て、魔女は顔を歪める。
「あの娘の力、か。ふうん……未だ私の力じゃないだけに、ひたすら忌々しいわ」
「これから先も、おまえのものになることはない」
そう言って剣に手をかける黒衣の男に、魔女は甘く笑いかけた。
「ねえ。私があの娘を手に入れるのは、おまえにとってもメリットがあるんじゃないかしら」
「何?」
黒衣の男の片眉が跳ね上がった。それを見て、魔女は笑みを深める。
「あの娘に惚れているのでしょう? あの銀色に恋い焦がれているのでしょう? 私があの肉体を手に入れれば、一番最初におまえに触れさせてあげる。悪い話じゃないでしょ」
「…………」
「おまえが嫌なら、王にも、ほかの誰にも触らせないわ。あの娘の魂もあげましょう。綺麗な人形に閉じ込めて、可愛く着飾らせてあげる。それともガラス細工がいいかしら。宝石細工がいいかしら。私が全てを手に入れれば、おまえとあの娘、ふたりだけの空間を造ってもいいわ。誰にも邪魔されない、甘くて綺麗なだけの世界よ。素敵でしょう?」
魔女の微笑みは慈愛に満ちあふれており、その言葉は穏やかで優しい響きを帯びていた。
それは滴る蜜のように。あるいはあふれる美酒のように。声で、姿で、仕種で、他者を誘惑する。理性を溶かし、本能に訴えかける魔女の誘いだった。
それを、黒衣の男は。
「…………」
無言の剣で返した。
「……!」
「交渉決裂ね、お堅い男」
渾身の一撃は、しかし魔女の手前で停止する。魔女の目前に、目に見えない壁が現れたためだ。その壁が黒衣の男の剣を受け止め、それ以上の突進を阻止したのである。
だが黒衣の男は攻撃をやめない。一旦距離を取り、先ほどより速い突進で魔女に迫る。その剣は、僅かに光っていた。
「! 雷よ!!」
剣の輝きを見た魔女は、顔色を変えて魔力を片手に集めた。雷電へと姿を変えたその腕は、黒衣の男の剣とぶつかり合い、激しい光と電流を撒き散らす。
拮抗していたのは数秒である。反発する力は両者に返り、黒衣の男と魔女を吹き飛ばした。
「あっ、がは!」
魔女はサロンの外に弾き出された。廊下を無様に転がり、あおむけに倒れ込む。
だが、その身体は即座に立ち上がった。雷と化していた腕には多少の火傷があったものの、その全身は無傷と言っていい。
にも関わらず、魔女の顔は不満に彩られていた。
「術具と法衣があって、完全に防げないなんて……本当にあの男、封印が解けたのね」
サロンを覗くと、黒衣の男はいなかった。あるのは枯れ木のような多数の抜け殻と、暴発で崩れたサロンの残骸だけである。
「逃げたか。思ったより冷静さを欠いていないのね。憎らしいったら」
魔女はため息をつくと、一転して艶然と微笑んだ。
「まあいいわ。ブリュドに行こうとレコキウスに行こうと、ノドバーレイに留まろうと、私の手のひらの上であることに変わりないのだから」
魔女は嗤った。心の底から楽しいと言わんばかりの声で。
「せいぜいあの少女を守ればいいわ。あれは大事な容れ物。私が本当の意味で復活するための受け皿なのだもの。結局おまえは、私から逃げられないのよ」
魔女は自らを隠すことを止めた。どの道黒衣の男の口から、自身のことは漏れることは確実なのだから。ならいっそ、明かしてしまえばいい。
この瞬間、ノドバーレイは一歩踏み出したのだ。崩壊の時へと。
───
一心不乱に逃げた末に城外に飛び出た黒衣の男は、脚を止めないまま城下街の外へ向かう。
魔女への怒りは今なお胸の内を焼き、今にも炎を巻き上げそうであったが、それでも無理矢理頭を冷静にさせて、黒衣の男は魔女から距離を取ることを選ぶ。
どこに逃げようと魔女の手のひらの上なのは理解している。魔女の手が思いも寄らないところに伸びているのは彼自身が何より理解していたし、自分の正体を明かされたところで魔女に何の痛痒も無いことも解っていた。
それでも魔女から逃れる選択したのは、魔女の傍で情報を得ることにこれ以上のメリットが無いことと、時間が無いことを悟ったからだ。
このまま魔女を放置すれば、ノドバーレイは死の国へと化してしまうだろう。否、ノドバーレイだけではない。ブリュドも、レコキウスも、それ以外の国も──滅びへと向かうことになる。
魔女の目的は国や世界を征服するなどということではなく、神の位階に至ることなのだから。そのために、ノドバーレイを含めた三国を緊張状態にさせ、更に今、新たな火種を持ち込もうとしている。
ミゼリアは今、ブリュドにいるはずだ。そこでブリュド国内で起こっていることを解決しようとしているのだろう。だが優先すべきはブリュドではなく、レコキウスなのだ。レコキウスの問題を解決ないし、好転させなければ、最悪別国からの侵略もあり得る。
そうなれば泥沼だ。侵略国を含めた四国は、最終的に共倒れに陥ることになるだろう。そうして魔女が得るのは──
「……間に合ってくれ。いや、絶対に間に合わせる!」
黒衣の男は駆けた。ただひたすら、自身の限界も思考の隅に追いやって。ただ伝えるべきことを伝えるために。




