第二十九話 黒衣の男、王城にて
ノドバーレイ王都アルクレプト、その主城のセクタ城。黒衣の男はその廊下をひとり歩いていた。音も無く歩く姿は実体のある影のようである。
黒衣の男が向かったのは、ハリウィム王の私室だった。奥まった場所にあるこの部屋を訪れるのは、魔女と黒衣の男だけだ。玉座の間に王が現れることはほとんど無いため、実質王に会えるのもこのふたりだけと言える。
「陛下、失礼いたします」
黒衣の男は返事を待たずに部屋に入った。ハリウィムが返事することは無いため、待つ意味が無いのである。
部屋に入ると、ハリウィムはひとりがけのソファーで憂うつそうに沈み込んでいた。血色の悪い顔は生気というものが一切無い。
さしもの黒衣の男も、王の様子には面食らった。前々から気味の悪い雰囲気だったが、それにますます拍車がかかっているように思う。
「……陛下、睡眠と食事はきちんと摂っておられるのですか。そのようでは、いずれ身体を壊されます」
黒衣の男の苦言に、ハリウィムはわずらわしそうに口を開いた。
「私の勝手だ。貴様には関係無い」
「……失礼しました。出過ぎた真似を」
「ふん。そんなことより、どうだった?」
主語の無い言葉だが、その意味は解っている。黒衣の男は頭を下げた。
「申しわけありません。予想以上にガードが堅く、ディアルナを連れ帰ることができませんでした」
「……ディアルナはこの城にいないのか」
「はい。期待に添えず、申しわけありません」
「…………」
ハリウィムは顔をそらし、爪を噛んだ。
ハリウィムのディアルナへの執着は知っているだけに、この反応は意外だった。
怒るか嘆くか、そのどちらかと思っていたのだ。それなのにハリウィムは苛々とした様子は見せるが、何も言わない。
ハリウィムのディアルナに対する感情は、病的なレベルに至っていた。端的に言ってしまえばそれは恋と呼ばれる感情だが、そのあり方は異常である。
目の前にいたとしても、触れるどころか話すことさえできないだろう。そもそも一度対面したきりで、その時も目さえ合わせられなかったと聞く。
だがその存在を感じること、感じられるものを欲しがる。対外的な情報に全く関心が無いハリウィムだが、ディアルナの情報だけはどんなささいなことでも手に入れようとする。ディアルナを思い起こさせる銀細工、白い絹織物などを集めては、ただ眺め続けるなど、気味悪い行動をしていた。
だから、ディアルナ本人を連れてこられなかったことにもっと激しい反応をすると考えていた。
不思議に思いながら、黒衣の男は話を変えた。
「ところで、師はどこに? あの方にもご報告しなければ」
「……あの方は、今この城にはいない。何かを調達すると言っていたが」
「調達……?」
黒衣の男はハリウィムを見つめたが、ハリウィムは視線を避けるように目を合わせなかった。
それ以上聞き出すのは不可能と判断し、黒衣の男は退室した。
気がかりは、魔女の行方である。まさかミゼリアのところへ直接行ったのでは、と不安になる。調達という言葉が本当ならその心配は無いかもしれないが、それなら一体何を調達しに行ったというのか。
魔女の動向を注意せねばならないというのに、幸先が悪い。
どうにかして魔女の行き先を探れないかと考えあぐねていると、向かいからふたりの男女が歩いてきた。
男の方は赤紫がかった黒髪の、派手に着飾った成金趣味の青年だった。顔立ちは整っているのだが、浮かべた笑みに傲慢さがにじんでいるため、下品に見える。
服装もひたすら派手なだけで、金がかっている以外に褒めるところが無い。
一方、女の方は。
「っ……!」
黒衣の男は絶句した。女の容姿に、背筋が凍るほどの衝撃を受けたのである。
女は若い──未だ少女の域にある年頃のようだった。豪奢なドレスに身を包み、化粧を施した顔に笑みを浮かべている。
容姿に優劣を付けるなら、男より女の方が優れていた。だがそれはろうそくの火一本分ましという程度で、女の容貌は美貌というほどではない。
だがその特徴は、黒衣の男を絶句させるのに充分だった。
結い上げた長い髪は銀、大きな瞳もまた銀、華奢な身体を覆うのは白いドレス。
それらは黒衣の男に、あの母娘を思い起こさせるのに充分だった。
「……む、何だ、おまえは。平民風情がいていい場所じゃないぞ」
男は黒衣の男に気付き、不愉快そうな顔をした。黒衣の男は頭を下げる。
「私は宮廷魔術師の弟子。貴方がたは?」
「……僕はリュグス家の後継者、パディンだ。こっちは妹のカルティ」
「貴女がたが……そう、ですか」
黒衣の男は内心の動揺を必死に押し殺した。
リュグス家の後継者、その妹。それは本来、リリアナ・シェルア姉妹を指すものだった。
だが今現在、王都でそれが意味するのは、国王の婚約者とその兄を指すことになる。
そして未来の王妃の容姿は、王家とリュグス家の特徴である黒髪に緑の瞳だと、黒衣の男は聞いていた。
黙り込んだ黒衣の男をどう思ったのか、パディンは嘲笑を浮かべた。
「そこをどけ、平民。我々は国王陛下に用があるのだ」
「……そうですか」
黒衣の男は苦々しい気持ちで道を譲った。すれ違い際、カルティが媚びるような流し目を向けてくるのがなおさら吐き気をもよおした。
黒衣の男は彼らを見届けず、足早にその場を立ち去った。
──魔女か国王か、どちらの要望か知らないが。
「……最悪の趣味だ」
そう吐き捨てずにはいられなかった。
───
かつてアイルルージュという国が存在していた土地は、そのほとんどがノドバーレイ、レコキウス、ブリュドの三国に併呑されているが、唯一、三国のどれもが手を出さなかった土地がある。
かつて王都があったその土地は、死の土地と化して今なお誰も住まない場所だった。
土は毒を含み、空気は腐り、水は真っ黒。建物跡は腐食が進み、触れることすらできない有様である。この世に地獄が顕現しているのだとしたら、それはおそらくこの場所なのだろう。
そこに、魔術師の女がいた。
おぞましい風景の中にひとり立ち尽くす美女は、真っ赤な唇に艶然とした笑みを浮かべている。呼吸するだけで肺が腐り果てそうな空気を吸い込み、うっとりとしている。
「ああ……懐かしい。ここが始まりだったのよねぇ。ふふ、いいえ、きっかけかしら」
女は踊るように両手を広げ、くるりと回った。
「ふふ、さあ──目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ! 死の恐怖を、融けるほど熱い情欲を、悶えるほどの飢えを! 思い出し、この世を染め上げなさい!」
笑い声と共に空気が更によどみ、風も無いのに渦巻いていく。地面からは毒霧が吹き上がり、女の周囲で色濃く揺れていた。
「あああぁぁぁぁぁ……なんて素敵。聞こえるわ、怨嗟の声が! あぁ、私の中に、入っていく……」
女は頬をバラ色に染め、陶酔の表情でくるくると踊る。
その手先からぞっとするほどの魔力が放出されていることを、見る者が見れば気付いただろう。それと同時に、女の身体の中に毒霧が収束されていく。
「そうよ、私の力になりなさい! 王都を滅ぼした時のように。おまえ達の感情は、私のためにある。私が欲望を満たすために、私が野望を達成するために! さあ……その怨念を私に捧げ、よみがえれ!」
女の言葉と共に、地面から、建物跡から、よどんだ川から、黒い人型の何かが姿を現す。どろどろの身体のそれらは、辺りに更に強烈な悪臭をまき散らしながら立ち上がろうともがく。
地獄のような──否、地獄そのものの光景の中心になって、女は哄笑を上げながら踊り続けていた。




