第二十六話 無名の城
ミズル地方は決して広い土地ではない。聖都を含め、街はあとふたつ、そのほか村が複数あるものの、そのほとんどの土地が森と草原、穀物や果物の畑に覆われている。
その中で異質なのは、かつて血の惨劇が起きた城である。ミゼリアの父、ズウェルが城主として詰めていた無名の城だ。
城下街も無く、国境から半日ほどの距離にある城の用途は想像に難しくない。だからこそ、かの事件がどれほど痛手であるか、解ろうものだ。
「……そんな城に、しかたがないこととはいえ、今晩泊まるなんてねぇ」
リリアナはぼやいた。
日はすでに沈み、外は暗闇に閉ざされている。今から外に出歩くことは、危険以外の何物でもない。
聖騎士一行はいつも、国境を越える前にこの城に滞在するらしい。現在城に住む者は無く、そのために使う城と化している。
それは事前にリリアナ達も知らされていたし、そこに文句は無い。
だが実際に滞在してみて、思うところは出てくるものである。
「……リリアナ様は、そういったことを気にされるお方ではないと思っていましたが」
リリアナの髪をとかしながら、ミゼリアは小首を傾げた。
ミゼリアの知る限り、リリアナは幽霊や怪談話を怖がる性質ではない。どころか、そういった話のある場所に行って、何も無かったとがっかりするタイプだ。
何しろ怪談スポットに突撃していって、エインに回収されるという一連の動作は、ミゼリアにとってもはや見慣れたものである。
リリアナはそう言われて、心外そうに眉をひそめた。
「私、配下の親族やその他もろもろが死んだ場所ではしゃぐほど不謹慎じゃないわよ」
「そう、ですか。……いえ、そうですね。失礼いたしました」
ミゼリアは軽く頭を下げた。
リリアナはそれを見て、痛ましそうな顔になった。
「意外と冷静ね。無理してない?」
「無理、ですか? ……ええ、してます。とっても」
ミゼリアは苦笑した。
「本当は今すぐ、ここから逃げ出したいです」
父が──多くの人が死んだ城。ミゼリアはそんなただ中に、ひとり残された。
あの日のことを忘れたことは、一時として無い。生きてくれという父の言葉も。
父が言っていた意味は、すでに理解している。彼もまた、魔女のことを知っていたのだ。だからこそ、知らない方がいい、いずれ知ることになると言ったのだろう。
もしもあの時知ることになっていたら、どんな悪手を打っていたのやら。子供の行動力がどれほどのものかその直前で身に染みて解っているだけに、何もしないとは言い切れない。
「……そう。まあそうよね。そう思わない方が当たり前か。私もスターク城で一晩過ごせって言われたら、整理付かないもの」
「リリアナ様の場合は、仕方が無いでしょう。まだ一ヶ月もたっていませんから。私は……もう六年もたっているのに、こんな有様で」
「もう六年じゃないわ、まだ六年よ」
髪をすいていたミゼリアの手を止めさせ。リリアナは振り返った。
「貴女はここで多くの死を見てきた。目の前で父親を失った。同じく父親を失って、おまけに日も浅い私だけど、そういう意味ではまだ幸福よ。大切な人の死をこの目で見ていないのだから。貴女はそれに加えて友達を目の前で殺されて、恩人も失って……もうすぐ、お母様も失ってしまうのよ」
リリアナには、母ディアルナの病のことを知らせていた。もう先は長くないこと、次に会うこともないことも伝えている。
ミゼリアの見立てでは、もってせいぜい一週間かそこらだろう。母に会えないのは決定的だった。
「貴女は、たくさん不幸になってきて、この上まだ不幸になろうとしている。そんなの、おかしいじゃない」
「リリアナ様、私は」
「自分が不幸じゃないなんて言ったら、私怒るわよ、ミゼリア」
リリアナはじろり、とミゼリアをねめつけた。
「貴女は不幸なの。大切な人を目の前で失って、病気のお母様と最期まで一緒にいられないなんて、そんな不幸なことある? 私は無いと思うわ。それにこのまま戦い続ければ、もっと不幸になる可能性だってある。そんなのおかしいって、どうして思わないの?」
「私、は……」
「ミゼリア、お願いだから気付いてよ。もっと感情に出してよ。貴女は泣いたり怒ったり、喚いたりしていいのよ。私だってみんなの前ではしてないけど、ひとりの時とか、エインの前ではそうしてるし、貴女の前でもちょっとは出してるわ。でも貴女、ひとりの時でもそうしないでしょ」
リリアナの言葉が、ミゼリアの胸にざくざく突き刺さる。それなのに心が動かない自分に、どこか壊れているのかと思ってしまう。
実際自分は壊れているのかもしれない。あの日、血まみれの城で取り残された日から──生き残ってしまった日から。
「ねえ、いないの? 貴女には、そういう感情を剥き出しにできる相手。きっとお母様はそうだったんでしょうけど、それ以外に」
「私……」
ミゼリアはだらりと両手を下ろした。
感情を剥き出しにできる相手。そんな相手は、いただろうか。そんな相手存在するのだろうか。
解らない。解らない。解らない。
そんな人、本当に──
「……ミゼリア。もういいわ、いったん下がりなさい」
「え? で、ですが……申しわけありません。ご不快にさせてしまいましたか」
「違うわ。貴女にはひとりで考える必要があるって判断しただけよ。もうすぐエインが不寝の番で来るから、ここは大丈夫。ゆっくり休んで、考えて。……ごめんね、急にこんなこと言って。貴女に無理させてるのは、私なのにね」
「そんなことはありませんっ。むしろリリアナ様が無理をされている方です。私は……ただ私が、ふがいないだけなのです」
「そんなこと言わないで。ほら、部屋に帰った帰った。お休み、ミゼリア」
「はい……お休みなさいませ」
ミゼリアはうつむきながら、そのまま礼を取って退室した。
灯りのあった部屋に対し、廊下はすっかり暗かった。日が落ちた廊下は日中では考えられないほど寒い。
ミゼリアの脚は、自然割り振られた部屋ではなく、中庭に向いていた。
今すぐここから逃げ出したい。リリアナに語った言葉は本心である。叶うなら、今すぐにでも外に出てしまいたい。
だが、逃げるわけにはいかない。自分には果たすべき義務がある。ここから逃げるということは、その義務から逃げることと同義だ。
「ああ、でも」
リリアナは、そんなミゼリアの思いをこそ危惧しているのだ。
ミゼリアとて、自分が不遇であると思ったことはある。不幸だと感じたことも、無いでも無いのだ。
だが、それは義務から逃げる理由にはならない。不幸から逃げて手に入るのは、幸福だとは限らない。ならば果たすべきことをしよう。そう思っているだけなのだ。
だがそれがはたして正しいことなのか、正しいあり方なのか、ミゼリアには解らない。
中庭に出ると、暗い空がミゼリアを出迎えた。今日はあいにくの曇り空で、星は勿論月も見えない。かろうじてぼんやり庭を視認することしかできない。
「何もありませんね」
それでも、ある程度様子を確認することはできた。
六年たった。六年もたったのだ。
積み上がっていた死体も、床を塗らした血も、使い込まれてしまった剣も、もう残っていない。表面上は、あの時の名残は何も無い。
それでも、目を閉じればかつての光景がよみがえる。もう焼き付いて、忘れることは無い。
だがそれはあくまでかつての記憶で、ここにはもう、本当に何も無いのだ。
それは死を連想するものだけではない。父や、多くの人達が生活していた痕跡もまた、残っていなかった。
ミゼリアが父や城の者達と過ごした思い出さえ、もうどこにも無い。
「……お父様」
こぼれた声は震えていた。自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「……お母、様」
次に落ちた声は、もはや声として機能していないほどかすれていた。ミゼリア自身、その意味を認識できないほどに。
と──
「あ……!?」
突如、腕を引かれた。何が起きたのか理解できないまま、城の中に引き込まれる。
とっさに剣に手をやり、振り抜こうとして──停止した。
「貴方……」
振り向いた先にあったのは、闇夜よりなお濃い黒い服。漆黒の瞳が自分を見下ろしているのを認識して、全身の力が抜けた。
そこにいたのは、黒衣の男だった。なぜここにいるのか、何しに来たのか、その疑問も押しのけて、歓喜が胸を熱くする。
──ああ、どうして。
彼は敵なのに。いずれ刃を交わす相手なのに。
どうして、こんなにも。
「泣くな」
黒衣の男は、ミゼリアを抱き締めた。あれほど触れるのをためらっていたのに、それを忘れたように強く。
「頼むから、泣かないでくれ」
そう言われて初めて、ミゼリアは自分が涙を流していることに気が付いた。
だがそんなことよりも、彼がここにいることが──彼が触れてくれていることが嬉しくて、ミゼリアは目を閉じて、その胸にすがりついた。




