第一話 スターク城にて
ノドバーレイ国西部、リュグス領。同名の一族が治める、国内でも有数のさかえた土地である。王領とも隣接している点から見ても、この地を治める一族がこの国においていかに有力かを示しているだろう。
そのリュグスの象徴、スターク城。広い城内には兵士や騎士達が鍛錬することを目的とした屋根付きの広場がある。今日もまた、上官の監督の元、準騎士や正騎士達が訓練用の剣を振るっていた。素振りを終えた今は、ふたり一組で相対し、試合のように打ち合っている。
その中で、特に目立つ者がふたり。
片方はがっしりとした体格の男である。束ねた長髪を尾のように揺らしながら剣を振るう様は獣じみており、たくましい身体付きも相まってまさに猛獣といった風情だ。まだ二十歳かそれより若いだろうに、動きには一分の隙も無い。戦士とはこういったものであると無言で公言しているような印象の青年だった。
対するのは、青年とは真逆の容貌の少女である。まっすぐに伸ばした白銀の髪、白皙の美貌、銀玉の大きな瞳を備えた、銀細工のような美人であり、青年とは違って剣を持つことが不思議なほど華奢だ。しかし剣筋は非常に洗練されており、さながら剣舞の見せられている気分になる。
青年と少女の打ち合いは、ほかの騎士達の一も二も上の段階に至っていた。もはや鍛錬などというレベルですらなく、近くにいたものが思わず手を止め、場所を空けてしまうほどの迫力であった。
一体何合、剣を交えていたのだろうか。体力が有り余っているだろう青年に対し、少女の額にはうっすら汗が浮かんでいる。限界に達したのか、少女の身体が不意にゆらりと前に傾ぎ――
「っ……!」
鈍い金属音を上げて、青年の手から剣が消えた。
少女の剣が、恐るべき正確さで鍔の部分をとらえ、勢いを殺すことなくすくい上げたのである。青年の手から離れた剣は宙を舞い、そのまま彼の背後に落ちた。
「……まじで?」
青年は強張った半笑いを浮かべた。一方の少女は剣を下げ、額の汗をぬぐう。ほぼ同時に、上官の終了を告げる言葉が響き渡った。
「だあ! やっぱ剣じゃ勝てねぇー! 槍も使えりゃいいのによぉ」
「あの、ザフィロ、あんまり叫ぶと……」
弛緩した空気の中、ザフィロと呼ばれた青年の絶叫が響き渡る。あれだけ動いたにも関わらず、やはり体力はかなり残っているようだ。そんな彼の服の裾を、少女は困った顔で引いた。
ふと我に返ったザフィロに、少女は無言で上官の方を示してみせる。上官はこめかみをひくつかせ、ザフィロを睨み付けていた。
「ザフィロ」
「……はい」
上官の冷たい声に、ザフィロは先ほどの元気が信じられないほどしおれていた。
「私の話を聞く気はあるかね」
「あります、すみません」
「なら、少しはミゼリアを見習いたまえ」
上官は少女を指した後、表情を和らげた。神経質そうに見えて、上司としては非常に優れた男である。ザフィロの反省が本物であると見てとり、それ以上の叱責を必要としなかった。
そのまま上官は全体の評価を離し始める。いつもと変わらない、言葉が幾つか違うだけの話だったが、続く個人に関してはまさしく的確な指摘だった。それぞれ違う部分を指導している様は目が二つ以上あるのではと思わせる。
そしてそんな彼が、ザフィロと少女――ミゼリアの繰り広げた打ち合いを見逃すはずもない。
「ザフィロ、ミゼリア。おまえ達の剣術にはいつも驚かされるばかりだ。ザフィロは専門が違うにもかかわらず、ミゼリアもその歳でよく鍛え上げている。今後もはげめよ」
「はい!」
「はい」
ザフィロは勢いよく、ミゼリアは淑やかに、上官の褒め言葉を受けて頭を下げた。
―――
ミゼリアは回想する。いつものように、毎日のように、自分がここにいる理由を思い出す。
あの血の惨劇から六年たった。六年もたった、と言うべきか、六年しかたっていない、と言うべきか。どちらでもいいし、どちらでも同じことだとミゼリアは思う。
ともあれ、思い起こすべきは六年前のこと、そして六年間のことだ。
六年前、父含め、城の者達がミゼリアを残して全員怪死した。生き残りなどひとりもいない。強いて言うならミゼリアが生き残りだが、惨状のただなかにいたわけではない。ミゼリアが城に着いた頃には何もかも終わっていた――つまり、何があったのかを語れる者は誰もいなかったのである。
そのことが、ミゼリアにとって幸いか否かは解らない。父の言う通りミゼリアを守ったのが無知だったのかも謎だ。
ミゼリアに、始めの一年に幸と不幸の区別を付ける暇などなかった。
一ヶ月は母、ディアルナのいるミズル領の聖都で過ごすことができた。城ではなく聖都で生活していたディアルナはあの血の海を逃れることができたのである。天涯孤独とならなかったことは、なるほど幸いだったかもしれない。
しかし、一月するとミゼリアは王都に連れて行かれることになった。
理由は今なお判然としない。父以下多くの人間を殺害した下手人を探すため、証言させるなどと聞いたが、おそらく嘘であろう。子供のミゼリアの証言など信頼性があるはずもなく、そもそもいくら大ごとであるとはいえ、半独立領であるミズル領でのことに王都が口を出すこともおかしい。よしんば口出しをすることがあっても幼い少女を呼び出す理由など微塵も無いはずである。
ディアルナも聖都の皆も当然抵抗した。が、それらは虚しい抵抗だった。
繰り返すが、ミズル領はノドバーレイに籍を置いているだけで実質的には別物の土地である。ノドバーレイを助けることはあっても、従う理由も道理も無い。
しかしその独立はミズル神の領域という神話性と、ミズル神に忠節を誓った聖騎士団という武力があってこそ成り立っているものである。聖騎士団を率いていたズウェルが死に、聖騎士団そのものも壊滅に近い状態の中、強硬手段に出られたらそれを撃退する手立ては無い。
先王であれば、そんな心配は無用だったかもしれない。そもそもそんなわけの解らない要求をすることも無いだろう。かの王は非常に穏健な人だったと聞く。
しかし、その時の王家の情勢は最悪だった。
ミズル領で惨状が作られる直前まで、王家では後継者争いが繰り広げられていた。先王が後継者を選ばないまま病で急死したため、息子である王子ふたりが玉座を巡って対立していたのである。結果だけ見れば兄の方が王位を勝ち取ったと、ただそれだけの話なのだが、それによって出た被害はあまりに非道だった。
弟である王子の死、王子達の母である前王妃の死、先王および弟の側近過半数の死。総勢二十名あまりが死亡。その全てが謀殺されたか処刑されたかのどちらかであるらしい。らしい、というのは謀殺と思われるものには事故死も含まれるため断定が難しいのである。
そのような経緯を持つ王――当時は即位前であったのだが――だ、何をしでかすか解らない。のちに行われた治世はその経緯を裏切るような穏やかなものだったが、少なくともその時の印象はただただ苛烈さと陰湿さを与えるものだけだった。
守りのうち一つを失い、もう片方は無効かもしれないとなれば、ミズル領には守る術は無い。
ミゼリアはそれを何となく察していたし、誰より知略に優れた母が従ったことを考えてみても、その時はそうするしかほかになかったのであろう。
しかし、軍略の女神に仕える巫女が本当に何もしないなどあるはずない。
結果的に、ミゼリアが王都にいたのは僅か三日だった。王都への道程を入れると一週間と三日程度である。
ディアルナは直前に幾人かの有力な、かつ信用のおける国の重臣達に根回しをしていた。王を抑え、ミゼリアをすぐに解放させるように。
更に娘の安全をより確実にするため、あえて娘を手放した。
聞き及んだ話によると、王はどういうわけかミゼリアをミズル領から引き離したがっていたらしい。その真意は今なお不明であるが、それが彼女を呼び立てた理由に関係しているのだろう。ならばあえてそれに応える名目で王都から離し、ミゼリアの安全をはかったのである。
全てをディアルナに聞かされたミゼリアは、それに黙って従った。
本音を言えば母から離れたくなかったし、従いたくもなかったが、それが自分を守るためだと言い聞かされれば口をつぐむしかない。
“生きてくれ”――父の最期の言葉が、最後まで繰り返していた言葉が、ミゼリアを縛った結果とも言える。
生きること、すなわち自分の身を守ること。
父の末期の願いを、ミゼリアは叶えたかった。
ディアルナの思惑はうまくはまり、ミゼリアはこうして故郷でも王都でもない場所――リュグス地方に無事でいる。この地を治めている現当主、サーティスがズウェルの古い友人だったこともあって、ディアルナは安心して娘を任せたのだ。
実際、サーティスは非常に優れた領主であり、一軍をまかされた上将軍のひとりであり、何より優しい男だった。ミゼリアの事情や心情をくみ取り、王の目を欺いて、ミゼリアにかけられた様々な制限の幾つかを見逃しているのだ。彼にはいくら感謝してもし足りない。
王都での在住を免れたミゼリアだが、しかし、その行動には様々な制限をかけられていた。
その一つに、ミズル神に仕えるための勉強をしてはならないというのがある。が、サーティスはそれを容認してくれていた。ミゼリアには必要だと判断したからである。
現在は彼の擁する軍に所属する騎士として――正確にはまだ準騎士なので騎士とは名乗れないのだが――この六年を過ごしていた。
これが、現在に至るまでの、ミゼリアがたどった経緯である。
―――
「こうして考えるとよお、ほんと長ぇよなあ、六年ってよ」
「え?」
スターク城内の書庫。王立図書館や王城の書庫と比べるべくもないが、個人所有の書庫としては非常に多くの蔵書が収められている。
訓練後、昼食も採らずに書庫にこもったミゼリアの元に、しっかり昼食をたいらげたザフィロが姿を見せた。
この年上の友人は、常にミゼリアの隣にいる。ここに来た当初はサーティスの娘達の遊び相手として過ごしていたミゼリアを、騎士見習いにしたきっかけを作ってくれたのがこのザフィロなのだ。その経緯でミゼリアの置かれた状況も知っており、今では心許せる数少ない人間のひとりだった。
だからザフィロが気付けば隣にいることをミゼリアは黙認していたし、そうして数年を過ごしているうちにふたりはセットで扱われるようになっていた。ミゼリアを探したければザフィロを探せ、ザフィロを探したければミゼリアを探せ――というのが、同僚達の共通認識であるらしい。
今もまた、ザフィロはミゼリアが読んでいる本を背後から覗き込んでいる。はたから見ればミゼリアに覆いかぶさっているようだ。第三者がいれば誤解を招きかねない。
ミゼリアは本から顔を上げ、首だけを振り返った。間近に迫った白面の美貌にザフィロはたじろぐが、ミゼリアは青年の若々しい面立ちを前にしても揺るがない。不思議そうな表情のまま、尋ねた。
「急に何ですか?」
「あ、いや、その……あー」
ザフィロはミゼリアから少しだけ身体を離した。
「いや、ふと思っただけ。結構長いよな、俺達の付き合いもさ」
「そうですね。正確には、貴方との付き合いは五年と少しほどですけど」
ミゼリアは小さく笑った。その姿はつい先ほどまで剣を振るっていたとは思えない。長いまつげを軽く伏せる姿は、少女ながら清楚な淑女のそれである。まとう騎士服さえ瀟洒なドレスに見えてしまう。
ザフィロは落ち着かない様子で周囲を見回した後、後ろ頭をがりがりとかいた。
「そうだったか?」
「はい。初めて出会ったことを入れても、五年半もないかと」
「……そうだっけか」
ザフィロは微妙な面持ちでそっぽを向いた。
ミゼリアは本を閉じ、身体ごとザフィロに向き直った。ミゼリアは決して背が低いわけではない――むしろ年齢の割に高い方だ――が、ザフィロの身長は更に上を行く。向かい合えば見上げるほかない。
「本当にどうしたのです? 年月を気にする貴方ではないでしょうに」
ミゼリアはいぶかしげな眼差しをザフィロに向けた。彼が急にこんな話をするなど、おかしい。何かあったのではないか――疑問以上に不安が彼女の胸によぎったのは無理も無いだろう。
ザフィロは難しい顔になると、後ろの本棚に背を預けた。
「……ザフィロ」
「あ、悪ぃ」
しかしミゼリアにたしなめられ、すぐ身体を離すことになった。
「んー……理由ってほどじゃないけど。ほら、一昨日シェルア様がブリュド王国に行ったじゃん」
シェルアとは、サーティスの娘のひとりであり――サーティスにはふたりの娘がおり、シェルアは下の娘である――先日、サーティスの妻、つまり母親と共に婚約者のいるブリュド王国に行ったばかりである。とはいっても結婚のためにではなく、結婚前の顔合わせのようなものだ。シェルアはミゼリアと同じ十四歳であり、結婚適齢にはまだ二年早かった。
ミゼリアはそこでふと思い至る。
ミゼリアはもともとシェルアの遊び相手だった。彼女が結婚を考えるようになるだけの年月を重ねたということは、同じだけミゼリアもこの城で過ごしたということだ。
それを改めて考えて、ザフィロと共にいる年月を思い起こしたミゼリアも、彼と出会った頃を想起して小さく笑った。
「本当、改めて考えると長い付き合いですね」
「だろ」
ザフィロはに、と笑った後、不意に真面目な顔になった。
「おまえさ、いつまでもここにいろよ」
「え?」
「いつか故郷に帰るつもりなんだろ? でもさ、そんな困難な真似しなくてもいいじゃねぇか。平和なんだし」
「…………」
「特に不自由無ぇんだし」
ザフィロの声は真剣だった。真剣過ぎて、だからこそ拒否の言葉を口にしなければならない。
真剣な言葉に応えるには、やはりこちらも真剣になければならない。
「それは、できません」
ミゼリアは緩やかに首を振った。
「まだまだ私は未熟者で、当分サーティス様のお世話にならねばならないでしょう。一体何年かかるか、検討もつきません。けど、それでは駄目なのです。誰かの庇護にいたままでは、お父様の仇も、死の真相も、何も解らないままになってしまう。それは、嫌なのです」
ミゼリアが己を磨き上げるのは、ひとえに故郷に帰る時を自らの手で掴むためだ。剣の腕を鍛えるのも、こうして本を読んで知識を蓄えるのも、その時のためである。
そして時が来れば、父の死がどんな意味を持っていたのか、ミゼリアは探らなければならない。無知で無力な子供のままではいけないのだ。ミズル神の加護にすがっているだけでは、何も変わらない。それどころか神もあきれて見放してしまうだろう。
何より、ミゼリア自身が耐えられない。何もしないという事実に、何もできないという現実に。
何しろ、相手は城の人間全員を殺し合いという形で殲滅せしめたのである。それだけのことができるのは、それ相応の力を持った者に相違無い。正直、ひとりで相手できるのか怪しいという気持ちもある。しかも、今までミゼリアが経た経緯やその他もろもろを考えると、背後にいるのはおそらく――
「ミゼリア?」
思考の海に沈んでいたミゼリアは、ザフィロの声に我に返った。
「あ、はい。何ですか?」
「何って、ぼうっとしてるから……どうかしたか?」
「いえ、どうもしませんよ」
ミゼリアは苦笑した。心配げなザフィロの顔が、妙に真に迫っていたのがおかしかった。
ザフィロとの会話は気が楽だ。別に常に気を張っているわけでも自分を作っているわけでもないが、気を使う必要の無い相手との会話というのは、とても穏やかな気持ちになれた。
彼と話していると忘れそうになりますね、と、ミゼリアは内心で呟く。
城内で自由に暮らしているように見えるミゼリアだが、ある程度の制限を免除されているとはいえ、完全に自由気儘というわけではなかった。王国からかけられた監視はまだ生きており、今なおその監視下で生活している。例えばこの城から出ることは叶わないし、故郷の様子を知ることもできない。母と連絡を取り合うなど問題外だ。サーティスから故郷が平和であることは知らされてるとはいえ、詳細は関知することができない。
サーティス配下の準騎士という地位はあるものの、ミゼリアのあり方は囚われの身であることに変わりない。
だから、それを打破するために、ミゼリアは強くならなければならない。もっと剣の腕を磨いて、もっと知識をつけて、軍略の女神に仕えるのにふさわしい人間に――
「ミゼリア、ザフィロ!」
がたん、と書庫の扉が乱暴に開かれた。次いで聞こえたのは、ふたりを呼ぶ声だ。部屋中に響き渡る声に、ふたりは顔を見合わせる。
「何で俺もいると思われてんの?」
「いつも一緒にいるからでしょう」
そんな会話が終わらないうちに、声の主はふたりを探し当てていた。
栗色の短い髪に同色の丸い目、全体的に幼い印象の、ミゼリアより少し年かさの少年は、彼女と同じ準騎士で、ふたりの共通の友人であるフィースだった。
本棚の間にいるふたりを見て、フィースは強張った表情を少しだけ緩めた。だが、口をついて出た声は、情けないほど震えていた。
「大変だ、大変なんだ」
「フィース、おまえ顔青いぞ」
ザフィロの指摘通り、フィースの面貌は体調が心配されるほど血の気が失せていた。元よりけっして気の大きくない彼だが、それでもここまで動揺するとはよほどのことだろう。
「落ち着いてください。一度深呼吸して」
「あ、うん……で、でもそんなこと言ってる場合じゃなくて」
ミゼリアに答えつつ、フィースは眉間にしわを寄せた。それでも、幾らかいつもの調子を取り戻したようである。顔色は少しだけ好転していた。
しかし、口にしたのは常とは違う事態だった。
「レコキウスが攻めてきた」
ミゼリアとザフィロは言葉を詰まらせた。
レコキウスとは、ノドバーレイ西部に接する隣国である。東のブリュドともども、長年ノドバーレイと友好関係を築いてきた国であり、互いに不可侵条約を結んでいるはずだ。本来なら攻めてくるはずのない国である。
「……本当ですか?」
先んじて意識を取り戻したミゼリアがフィースに尋ねた。フィースは苦い顔で、しかししっかり頷く。
「それは間違いない。宣戦布告があったらしいから」
「……ますます信じられねぇ」
ザフィロは低く呻いた。
「国交には何の問題も無かったはずだろ。何でレコキウスが戦争ふっかけてくんだよ。意味解んねぇ」
「……あえてきっかけを考えるとすれば、世代交代でしょうね」
ミゼリアは瞑目し、つい半月ほど前の情報を引っ張り出した。
「確かレコキウスの王が、年齢を理由に息子にその座を譲ったという話がありました。関係が変わるとすれば、その時かと」
「それにしたって半月だぞ! 即位してすぐ挙兵とかどんな神経してんだっ」
ザフィロの言う通りである。ただでさえ友好な関係にある国に攻め入るのだ、その上即位直後の行動となればよほどの理由を掲げなければ国内での反発は免れないだろう。
レコキウスの意図が読めない。一体かの国で何が起こっているのか、一介の騎士である三人には見当もつかなかった。
「……こんなところで顔を合わせていても意味がありませんね」
ミゼリアはため息をついた。
「フィース、何か指示はありましたか?」
「え、あ、いや。ただ、正騎士以上は戦の準備をするようにって」
フィースとミゼリアはザフィロを見やった。この三人の中で正騎士はザフィロだけだ。
「……部屋に戻る」
ザフィロは渋い顔で書庫を出て行った。部屋で槍の手入れでもするのだろう。まだ出陣が決まったわけではないが、西方を護るサーティスが侵略軍を静観する道理は無いだろう。
「僕達は、城に待機かな」
「でしょうね」
準騎士ふたりは顔を見合わせた。
フィースの顔は不安に彩られたものだったが、ミゼリアの胸中には苦々しいものばかりが広がっていく。
戦そのものに不安は無い。レコキウスの意図が見えないことは確かに暗雲として心に居座っているが、戦の行方に直接関係は無いだろう。
ただ、ミゼリアの心を淀ませるのは、ノドバーレイからかけられた制限である。
ミゼリアにかけられた制限。そのうちの一つである、“城から出てはいけない”という制限。
それはイコール、ミゼリアにこの戦に参加する権利が無いことを示している。
例えミゼリアが正騎士だったとしても、戦に出ることはできない。
今まで気にしたことはなかった。考えてもいなかった。もしかしたら目をそらしていたのかもしれない。
彼女は、この戦だけではなく、外敵全てに打って出ることができないのだ。
―――
ミゼリアが騎士になったのは、力を得るためだ。
何があっても切り抜ける力、何があろうと切り開く力。そんな力が必要だったから、ミゼリアは騎士になることを志したのだ。
しかし、今はその意味があったのか否か、それが解らなくなっている。
どれだけ力を蓄えたところで、使い道が無ければ意味が無い。発揮すべき場所が無ければ何もかも無駄だ。
考えないようにしていたのかもしれない。振り払ってきたのかもしれない。しかし、戦が起こったことによって自覚してしまった。
ミゼリアには何もできないのだ。何があろうと――目の前で何が起ころうと。
レコキウスの宣戦布告が伝わって三日が経過した。ミゼリアはしばらく準騎士として戦の準備の手伝いをしていたが、ふと手透きになって裏庭にやってきた。休みたかったというのもあるが、ひとりになりたかったというのが一番だろう。
ここなら人もそうそう来ないし、普段ミゼリアがいる場所でもないからザフィロに見付かるのにも時間を有する。しばらくは静かに過ごせるだろう。
ミゼリアは大木の幹に背中を預け、深々とため息をついた。
「まるで逃げているようではないですか……」
まるで、ではない、実際逃げている。頭の中で第三者の声が響く。自分を客観視する声だ。
城から出られず、緩められているとはいえ自由の無い身。だからせめて、自分のできることをすると決めた。しかしそれさえ無いのではと思わされ、揺らいでしまっている。
今現在の自分を悲観しているわけではない。自分を悲劇的に見るつもりは毛頭無いし、そもそもそういった考えを持つことにミゼリアは忌避感さえ覚えている。だが、気を抜いていると思考がそちらに傾きそうだった。
ミゼリアは胸元のペンダントに触れた。父から渡された銀細工のペンダント。今ではこれだけが、亡き父と自分を繋げる唯一の物だ。
そして、母と自分を繋げるものも左手にある。
ミゼリアは左腕を空にかざした。そこには手の甲から手首と肘の中間までを覆う銀製の腕輪がある。ペンダントと似た細工の施されたそれは、別れ際に母から渡されたものだ。
一体どのような神秘によって創られたものなのか、手甲にも見えるそれはミゼリアの成長に合わせて大きさが変わり、常にぴったりの状態に保たれている。神の奇跡か魔術によるものか、それは解らないが、少なくともミゼリアを害する力ではないことは確かだ。
今のミゼリアにとって、両親の存在を確かに感じられるものはそれだけだ。
揺らいでしまった自分にとって、数少ない揺らがないもの。
「お父様、お母様……」
ミゼリアは小さく呟く。それはほとんど吐息のようなもので、傍どころか周囲に人影一つ無いこの場所で聞かれることもなく、流れるはずだった。しかし。
「大丈夫か」
低い声だった。独特の響きを持った男の声。
ザフィロの声ではない。当然ミゼリアのものでもない。城内の誰の声でもない。
だが、ミゼリアはこの声を知っている。六年前に、この声を聴いたことがある。
ミゼリアは顔を上げた。驚きと、一種の期待を込めて。
そこにいたのは、黒い男だった。
黒衣をまとった、長身の男。髪も黒ければ瞳も黒い、肌以外の全てが黒い、闇のような男。
記憶より当然ながら歳を経ているが、間違いない。
六年前ミゼリアが助けた男が、そこにいた。
「貴方、あの時の……」
ミゼリアは頬を緩める。男にまた出会えたこと、彼が無事であることが、なぜだか無性に嬉しかったのである。
ミゼリアの反応が意外だったのか、男は虚を突かれたように少しだけ目を見開いた。だが、すぐまた無表情に戻ってしまう。
ミゼリアは表情の変化などは気にせず、男を見つめた。六年前は彼が座っていたために気付かなかったが、こうして見ると巨体と言っていいほど長身だ。おそらくザフィロより高いだろう。身体もがっしりしていてまさしく戦士という風情だ。もうすぐ夏がくるというのに、全身を包む黒服を着ていながら汗一つかいていない。
「どうしてここにいらっしゃるんですか?」
「……師の指示で、この城に王都の軍を率いてきた」
「王都の軍を?」
ミゼリアの表情が曇った。たった三日間とはいえ、王都にはいい思いが無い。懐かしい顔が王都から来たと聞いて、気分はよくならなかった。
それを感じ取ったのだろう、男はしばし黙り込んだが、無言でミゼリアの隣に腰を下ろす。
許可を入れることも断りを入れることもない。普通なら憮然とするであろうが、ミゼリアは嫌な顔一つせず、それどころか場所を空けた。
「なぜ王都から?」
「師が数年前から、王都で暮らしているからだ。王に召されてな」
「貴方の師とは?」
「……魔術師だ」
「貴方は魔術師なのですか」
ミゼリアは目を瞬かせた。
魔術師とは文字通り魔術を行使する者のことを指すが、同時に真理の探求者のことも示している。魔術は真理を求めるための手段の一つとされ、神々に仕える者達の扱う奇跡と並んでこの世の神秘を司るものだった。
魔術師というものが持つイメージと目の前の男がどうしても重ならず、ミゼリアはまじまじと男を見つめる。それが居心地悪いのか、男は肩を揺らした。
「……私より、おまえだ。大丈夫なのか?」
「え?」
「落ち込んでいるように見えたが」
男に言われて、ミゼリアは先ほどまでのことを思い出した。
自分の無力さを痛感し、何もできない事実を実感し、ミゼリアは確かに落ち込んでいた。
ミゼリアは眉尻を下げた。
「そう見えます?」
「ああ」
「あう……」
ミゼリアは思わず両頬に触れた。
「駄目ですね。表情に出しちゃいけないのに」
「何をだ?」
「感情です」
男の問いに、答えるミゼリア。
「感情は必要な時以外表に出すなと言われているんです。感情も策略として使えるのだからコントロールできるようにと、お母様が」
「娘に何を教えているんだ、おまえの母親は」
「だから、顔に出しちゃいけないのに、読まれちゃいけないのに」
ミゼリアは途方に暮れた顔で男を見上げた。それを見返して男は首を傾げる。
「それで、結局おまえは何を落ち込んでいたんだ」
「えっと」
男にどこまで話せばいいのやら、ミゼリアは視線をさまよわせた。
男はミゼリアの出自を知っている。だが、ここにいる経緯は知らないはずだ。王都にいるからと言って、全ての人間が事情を知っているわけではないだろう。
ミゼリアは迷った末、端的に己が身の置かれた状況を離すことにした。
「私、今回の戦に出られないんです。いえ、そもそもこの城から出られない。この先、何があっても。そういう決まりになってるんです」
「それは、正騎士じゃないから、だけではないのだな」
男の視線がミゼリアを見下ろす。静かな眼差しを受けながら、ミゼリアは頷いた。
「勿論ずっとここにいる気はありません。いつか自分の力で出ていくつもりです。そのために頑張ってきたんですから――でも、その全てが無駄だったのでは、と、そう思えてしまって」
考え過ぎだと、一体何人が笑い飛ばすだろうか。少なくともザフィロはそうするはずだ。悪意からではなく、ミゼリアのことを考えて。だがミゼリアは、それを杞憂とすることができずにいる。
いつか外に出るつもりでいた。だが、そのいつかというのはいつなのか。一年後か二年後か、あるいは十年後なのか。否――そもそもいつかなど来ないのではないか。
自分はただ、“いつか”を言い訳にしていただけではないのか。
「ミゼリア」
男の武骨な手が、ミゼリアの白銀の髪に触れた。ためらいがちに、ほとんどかすめるような微かな感触で。
「おまえはここから出たいのか?」
「はい」
「……連れ出してやろうか」
「え?」
ミゼリアは男を見つめる。男は目をそらすことなく、穏やかな眼差しを少女に注いでいた。
六年前と同じだ。暖かい、こちらを慈しむ目。ミゼリアは男から目をそらせなくなる。
「あくまでおまえが望むのならば、だが。おまえがここから今すぐ出たいのなら、私は手を貸してやれるだろう。繰り返すが、おまえが望むのならの話だ。どうする?」
男は先を促すでもなく、強制するのでもなく、ただ平坦な状態を保ったまま尋ねた。
このままミゼリアが頷けば、彼は望み通り城の外に連れ出してくれるのだろう。断れば、未練無く引いてくれるだろう。どちらにせよ、彼はミゼリアの意思を尊重してくれているのだ。
答えの定まらないまま、無意識に手を伸ばしかけていた時だった。
最初に聞いたのは風切り音。空気を分け、裂き、突進する刃の音。
手を引いたのは反射だった。男が飛びずさったのは当然と受け入れた。
男がさっきまでいた場所を、槍が穿ったのだから。
深々と地面に突き刺さった槍。穂先を中心とした周囲の土がめくれ上がっていることが、その威力を物語っている。そしてその柄を握っているのは。
「てめぇ、何こいつたぶらかしてんだ?」
ザフィロだった。獣じみた顔を更に獣のごとく歪ませ、鋭い双眸と引き抜かれた槍の切っ先は男を睨み付けている。
一方の男は地面を転がるようにザフィロと距離を取り、立ち上がった。瞳には何の感情も浮かんでおらず、微塵の動揺も無い。それでいて、立ち姿は一切の隙が無かった。
「たぶらかしたつもりは無いがな」
「連れ出そうとしたじゃねぇか!」
「彼女が望むのならそうしていたがな。彼女が望まないのならそのつもりは無い」
「何だあ、そりゃ……」
一触即発の雰囲気を醸し出し始めたふたりを見て、ミゼリアは慌てて立ち上がった。
「ザフィロ、待ってください! 彼はただ私を気遣ってっ」
「何言ってんだよ、おまえを誘拐しようとした奴だぞ!」
「してません、されてません! 何を言ってるんですか、貴方はっ」
「ミゼリア、いい」
ミゼリアの弁護を、男は静かに遮った。
「ある意味、その男の言葉は正しい。私がおまえを連れ出そうとしていた事実に変わりない」
「ですがっ」
「……おまえがかばってくれただけで充分だ」
男は全身の力を抜いた。目に見える豹変に、つられてザフィロも構えを解く。
男は肩をすくめると、改めてミゼリアに向き直った。
「忠告、というわけではないが、ミゼリア」
「あ、はい」
「おいこら、気安く呼んでんじゃねぇ」
「うるさいぞ、槍使い。――信用できない人間はとことん疑った方がいい。特に、今回の戦はな。おまえは信用に足るか否かの判断ができる人間だと信じているぞ」
男は意味深な言葉を残して、何の未練も見せずに背を向けた。そのまま振り返りもせずに去っていく。
一瞥もせず遠ざかっていく黒い後姿にどうしてだか心惹かれたミゼリアだが、それよりもまず解決すべき問題として、ザフィロに視線を送った。
明確な非難を含む銀の瞳に、ザフィロはたじろぐ。
「いや、だって明らかに怪しかったじゃねぇか! 何か黒いしっ」
「色だけで人を判断しないでください。でしたら髪が白い私はどうなんですか。髪どころか全身真っ白ですよ」
「いや、おまえの全身が白いのはともかく髪はどっちかつうと白銀――」
「ザ・フィ・ロ?」
「いでででで! 耳引っ張んなっ」
「もう……」
ザフィロの耳を離した後、ミゼリアは男が消えた方を見た。
男の言葉、その真意。それはミゼリアには解らない。だが、おそらくちゃんとした意味があるに違いない。
考えなければいけない。彼の期待に応じるために。
だが、ミゼリアにはそれ以上に気がかりなことがあった。
重要度で言えば、おそらくかなり低い。他人にとっては最底辺になるかもしれない。だが、ミゼリアは、それがまっさきに気になってしまった。
そういえば彼の名を一度も聞いたことがないな、と。
この次の日、上将軍サーティス率いる軍と王都から派遣された軍との混成軍がスターク城を出て、六日後にレコキウスの軍とぶつかることになる。レコキウスの宣戦布告から十四日後のことであった。
この戦がのちにノドバーレイの存亡はおろか、レコキウス、ブリュドの三国全ての運命を左右することになろうとは、ほとんどの人間が考えもしていなかった。