第十七話 月下の誓い
ミゼリアが宿に戻ったのは、その日の夜だった。
リリアナは、一日いてもよかったのに、と言ってくれたが、ミゼリアは到底そんな気にはなれなかった。
ディアルナの話が嫌になったわけではない。一から十まで必要な話だったことは理解している。
ただ、いたたまれなかった。ディアルナの話を聞いて、耐えられなかった。
ディアルナは、推測の域を出ないからとためらっていた予想を話してくれた。
ミゼリアの身を狙う“何者か”の目的は、おそらくミゼリアの肉体を自身のものと取り替えることだそうだ。そんなことが可能なのか、できたとしてもなぜそんなことをする必要があるのか、そこまでは語ってくれなかったが。
だが、その何者かはミゼリアが加護を持って生まれたことを知り、ミゼリアを手に入れるために暗躍を始めた。そのひとつとして、当時の第一王子──現国王に近付き、取り入ったのである。
ディアルナがそれに気付いた時には、すでに遅かった。先王は意識不明の危篤状態、重臣達及び第二王子と彼の近臣達はいわれの無い罪状で拘束、あるいは処刑。先王が亡くなると更に加速し、王妃までも処刑されるに至ってしまった。
ここまで来ると、政治的権力の無いディアルナにはどうしようもない。火を最小限にとどめようとするサーティス達を裏から助けるしかできなかったのだ。
それでも、回避できたのは想定される最悪の事態だけだった。
第一王子は、周囲の反対を第二王子の死を盾にして押し切り戴冠、主立った家臣は一部を除いて死罪、王子に取り入った何者かは宮廷魔術師の地位に収まってしまった。
ミゼリアの父とその周囲の人間の死も、その者の仕業だという。
人間の成せる業とは思えない、大規模な呪い。ディアルナの話では最低でもあと四年は使えない代物だそうだが、それを差し引いても恐ろしくもおぞましい所業だった。
「怨霊のようなものよ。いいえ、怨霊そのものね」
ディアルナの声は苦々しかった。
「あれは何かの間違いで現代まで生きのびてしまった過去の害悪よ。あれに対して私が言えることはひとつ。全力で叩き潰しなさい。あれをこの先の未来に持ち越してはいけない」
ディアルナは何者かの正体を知っているようだった。それを語らない理由は、ミゼリアには解らない。
だが、ディアルナの話そのものは、全面的に同意だった。
ミゼリアが把握している今までの出来事。その全ての背後にその何者かがいるのなら、その人物──はたしてその者を人間として扱っていいのか否かは疑問が残るが──は周囲に悪意を振りまく存在だ。止めなければ負の連鎖はずっと続くだろう。
自分は生きるべきだ。生きて禍根を断ち切らなければならない。もし使命というものが自分に課せられているのだとしたら、その者を打倒することが使命だろう。
理解してなお、思わずにはいられない。
──私は、生きていていいのでしょうか。
全ての元凶が狙っているのは自分。それによって死んでしまった人間が何人いることか。その者達は、そんなことで死ぬ程度の価値しか無かったのか。
自分に、彼らの死に値する価値があるのか。
あるわけがない。あるはずがないのだ。
自分はただの小娘でしかない。多くの人間の価値に見合うだけのものなど、この弱く小さな身体にある道理が無い。
考えれば考えるほど身体が内側から凍り付くような感覚がして、とても眠ってなどいられなかった。
部屋を抜け出して出た夜の廊下は、そろそろ夏だというのに驚くほど寒かった。もしくは、ミゼリアの身体が冷え切っているがゆえに、そう感じるのかもしれない。
窓の外には冴え冴えと輝く月。いつもなら、ミズル女神の加護をより一層感じられて安心できたのに、今はただ寒さを増長させるだけだった。
ミゼリアは力無く月を見上げた。
母から聞かされた話は、まだリリアナ達には話せないでいた。
ミゼリアのせいで、何もかも失ってしまったリリアナ。彼女にありのままを話すことなど、できなかった。
自分を狙う者のせいで父と城を失わせてしまったと話す覚悟が、ミゼリアにはまだ無い。
「……私は、どうしようもないほど愚かで、弱い人間です」
涙は出てこなかった。
怒りや憎悪という感情は、不思議とわいてこない。ただ、心が冷たかった。心臓と脳が冷え切っていて、感情を削ぎ落とされたかのようだ。
こうして悩むことさえ、馬鹿馬鹿しいと思うほどに。
どうして自分がこんな目に──と、己の不幸を嘆く気にはなれなかった。
自分の悲劇に浸るほどに、ミゼリアは自分本意にはなれない。むしろ生存意識が希薄になるばかりである。
──ミズル様、どうして私にこんな力を授けたのですか?
──こんな愚かで弱い女に、どうしてこんな過ぎた力を与えたのですか?
──私ではなく、もっと強くて賢い者が力を得ていれば、誰も死ななかったのではないですか?
ミゼリアは唇を噛み締めた。
自分が無力なことは百も承知だ。それを悔しく、苦々しく思ったことは数知れない。
そして今ほど、自分の無力さが情けなく思ったことは無かった。
「……ミゼリア?」
思考の波に捕らわれかけていたミゼリアを呼ぶ声が、廊下に響いた。
反射的に身構えて振り返り、すぐに身体の力を抜く。視線の先にいたのは、ザフィロだった。
大柄な姿を見て安堵したものの、それが危ういバランスを保っていた心身に、思いのほか影響があったらしい。ミゼリアはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「ミゼリア! 大丈夫か、おいっ」
慌てた様子で駆け寄ったザフィロは、ミゼリアの顔を覗き込んだ。そんな彼に、ミゼリアは弱々しく苦笑する。
「すみません……何だか、気抜けしてしまったみたいです」
顔を上げると、予想以上に顔が近かった。それに動揺したのはザフィロだけで、ミゼリアは恥ずかしがりもせず彼をまっすぐ見上げる。
「驚かせてしまってすみません。でもザフィロ、いくら驚いたからといって、今は夜中なのですからあまり大声は出さないようにお願いしますね」
「あ、悪ぃ……じゃなくてっ」
ザフィロは顔をしかめた。指摘されたためか、声はちゃんと抑え気味である。
「本当に大丈夫か? 貧血とかじゃねぇのか」
「大丈夫ですよ。こう見えて頑丈ですし、いたって健康体です。知っているでしょう?」
ミゼリアは壁を支えにしながら立ち上がった。
つられて立ち上がったザフィロは、しかし納得していないようで、渋い顔を崩さない。
「けど、顔色悪いぞ。真っ青だ」
「夜のせいではないでしょうか」
「茶化すなっ。……俺に隠しごと、すんなよ。心臓に悪ぃ」
ザフィロはミゼリアの肩を掴もうとして、手をさまよわせた。
ある時を境に、ザフィロはミゼリアに触れるのをためらうようになった。それ以前は、ある程度女性扱いはしても多少触れ合うぐらいはしていたのに。
ミゼリアはふと、きっかけに思いをはせた。
──そもそもミゼリアとザフィロが出会ったのは、ミゼリアがサーティスに保護されて間も無い頃だった。
当時のミゼリアは自身の置かれた状況を頭では理解していても、感情が付いてきていなかった。悲しめばいいのか怒ればいいのかも解らず、意思を押し殺して何とか心の均衡を保っていた。
一方のザフィロは騎士になるためにサーティスの元に出されていた。ザフィロの家は何人もの騎士を輩出した家系で、彼の父とふたりの兄も王家に仕える騎士だった。だが彼は騎士を目指しつつも父と兄達に反発心を抱いていたので、遠縁を頼ってサーティスのところに身を寄せたのである。
全く接点の無かったふたりが出会ったのは、偶然だった。その偶然によって出会ったザフィロは、開口一番こう言ったのだ。
『おまえ、人形みたいで気持ち悪い。感情無ぇの?』
当時八歳だったミゼリアは勿論、その時周囲にいた誰もが凍り付いた。当時十二歳だったザフィロは、今以上に無謀かつ怖いもの知らずだったのである。
今思い返しても、失礼を通り越して酷い発言だった。幼かったことを差し引いても、あまりに心無い言葉だ。
それからなぜふたりが仲良くなったのかは、ミゼリアにも解らない。それ以降、何かとザフィロが絡んできたから、自然と会話はする機会は増えたが、最初はけっして親しげとは言いがたかった。だが時がたつにつれ、いつしか友人と呼べるような間柄になっていたのだ。理由は特になかったように思う。
それが微妙に変化したのは、ザフィロが正騎士になってすぐの頃だった。
ザフィロはその時一度だけ、生死の境をさまよったことがある。
当時、領内を夜盗の一団が騒がせていた。ザフィロは初陣としてその討伐に参加した。討伐自体は難なく成功したのだが、ザフィロはその最中に運悪く崖から転げ落ちてしまったのだ。
幸い頭に損傷は無く、手足を骨折することも無かった。擦り傷は多かったがそれ以外の目立った外傷は無く、目に見える範囲で深刻な傷は無かった。
しかし問題は、内側にあった。
ザフィロはこの時、肋骨と胸骨を折る、あるいはひびが入るなどの大怪我を負っていたのだ。その上骨折の影響で内臓も損傷していたのである。
当然、呼吸するのも苦労するような激痛を伴っていた。だがザフィロは、よりにもよって意地を張ってその傷を周囲に隠してしまったのである。討伐が難なく成功したのに自分ひとり重傷を負ってしまったのを恥じたのかもしれない。
ミゼリアがそのことに気付いたのは、ザフィロが帰還してすぐだった。
本来ならすぐ治療を受けて絶対安静が必要な状態にも関わらず、馬での行軍に従い、その上外傷すら処置しなかった。身体の負担を一切考慮しない行動は、ミゼリア以外に気付かれなかったことが驚きである。
日中は様々なことが重なって話しかけることすらできず、夜になってようやく彼の部屋を訪ねてみれば、案の定、怪我による高熱で倒れていた。
ひとり部屋なのが災いして、誰もザフィロの異常に気付かなかったのだ。ミゼリアが訪問しなければ、一晩中そのままで、更に深刻な状態になっていたに違いない。
ミゼリアが迷ったのは一瞬だけ。彼女は自身の力でザフィロを救った。そのまま気を失ったザフィロの看病もした。
それをきっかけに、ミゼリアはザフィロに自身の身の上を話したのである。どうせ追求されるからと、自分から。
それ以来、ザフィロはそれを恩義に感じてか、何かとミゼリアを守るような態度を示すようになった。その癖、ミゼリアに触れることに躊躇するようにもなった。その前は、むしろ距離を詰めようと躍起になっているように見えたのに。
当時のことをぼうと思い出していたミゼリアは、ザフィロに声をかけられて再び我に返った。
「ミゼリア? 本当に大丈夫か?」
「……大丈夫です。少し、昔のことを思い出していたので」
「昔?」
「貴方と初めて会った時のこと、とか」
「……それは、忘れてくれ」
ザフィロは頭を抱えた。ミゼリアはくすり、と笑う。
しばらくうんうん唸っていたザフィロだったが、気を取り直して顔を上げた。
「……で。おまえ、一体どうしたんだ?」
「どう、とは?」
「……初めて会った時と同じ顔してる」
初めて会った時の顔。
人形のような顔。
ミゼリアは思わず笑みを消して、まじまじとザフィロを見つめた。
「……そのような顔をしていましたか?」
「ああ。何かあったのか? その、母親に何か言われた?」
「言われたといえば、言われましたが……」
ザフィロに言うべき内容なのだろうか。否、言えるわけがない。ザフィロもまた、自分を狙う何者かのせいで人生が狂った人間と言えるのだ。
サーティスが死ななければ、ザフィロはその実力で隊長クラスまで登り詰めていたはずである。しかし今回のせいで出世どころか騎士としての地位さえ危うくなっているのだ。
ミゼリアはいい。もとより騎士の地位に執着は無いし、自分は今回の中心にいるようなものだ。
だがザフィロは──リリアナや、エインは、もともと関係無かったはずなのに。
結局ミゼリアは、怖いのだ。真実を明かした時、あるいは真実を知られた時、彼らがどんな反応をするのか。どんな反応を返すのか。
怒ったり、憎まれたりするだけなら、まだいい。辛いけれど、耐えられる。だが話した結果、彼らを絶望させたり、前に進めなくしてしまうのが、怖い。
自分のせいで大切な人達が不幸になってしまうのが、怖い。
「…………」
「…………」
ミゼリアもザフィロも、しばし無言を貫いた。互いに向き合ったまま、何を言うべきか探っていた。
「……なあ」
先に口を開いたのは、ザフィロだった。
「俺ってさ、頼りない?」
「え?」
「ミゼリアが躊躇するぐらい、俺って信用無い? ミゼリアが困ってる時に助けられないような人間だと思われてる?」
「そ、そんなことはっ」
「だったら」
ザフィロは今度こそ、ミゼリアの肩をしっかり掴んだ。
「俺を頼れ。信用しろ。でなきゃ、強くなった意味無いだろ」
「……え?」
ミゼリアは目を瞬いた。
「強くなった……って、それが理由ですか? 騎士として大成するためではなく?」
「勿論、それもあるっちゃあるけどさ」
ザフィロは頭をかいた。
「でもそれ以上に、俺はミゼリアを守りたい。騎士とか騎士じゃないとか関係無い。ただ、おまえを守りたいんだ。苦しい時は助けたいし、大変な時は力になりたい。どんな時だって、味方でありたいんだ」
言ってから、ザフィロは薄暗い中でも解るほど顔を真っ赤にさせた。一方のミゼリアは呆然とする。
あの時ザフィロを助けたことが、ここまで影響するとは思っていなかった。あの時の自分はただ必死だっただけで、恩を感じてもらうつもりなんてこれっぽっちも無かったというのに。
騎士の誓いよりも自分を優先してほしいわけではなかったのに。
──ああ、けれど。
それを嬉しく思う自分がいることもまた、ミゼリアは自覚していた。
助けたい、力になりたい、味方だと言われることが、どれだけ得がたいことか。自分はあまりにも恵まれていると思わざるをえなかった。
そんな風に思ってくれる人が、ひとりでもいるのなら。
「ザフィロ」
「おう」
「今、貴方に全てを話すことはできません」
自分は忘れていた。自分ひとりでできることは、確かに少ない。あまりに少なすぎて、足が止まってしまいそうになるほどに。
けれど、できないのなら、誰かを頼ればいいのだ。
できないから、手を伸ばし、手を取る。できないことをできないのだと諦めたり、無理にこなそうとするのではなく、助けてほしい、手伝ってほしいと声を上げる。
それを、旅に出た時に学んでいたはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。
「ことは、あまりに大きいのです。まずはリリアナ様にお話しなければ。いいえ、あの方にこそ、知っていただきたいのです。そうであるべきだと、私は思っています」
「……解った。その後に、俺に話してくれるんだな」
ザフィロの表情は、寂しげだった。だが、けっして悲痛なものではなく、言葉もまた、確認するような響きだった。
「勿論です」
ミゼリアはしっかり頷いた。その表情に、もはや陰りは無い。
大きな銀玉の瞳には、澄んだ輝きが戻っている。柔らかく穏やかな輝きは、しかし儚さとは無縁のそれだった。
むしろ力強い、白銀の刃を連想させた。
「ザフィロ。おそらく今後、理不尽なものをたくさん目にすることになるでしょう。私を疑うことになるかもしれません。それでも貴方は、私の味方でいてくれますか?」
「……当たり前だろ。むしろ今更だって」
ザフィロは若干すねたように、しかし嬉しそうに言った。ミゼリアもまた、ザフィロに微笑みを返す。
まずはリリアナに全てを話そう、とミゼリアは決意した。
できることはあまりに少なく、しかしするべきことはあまりに多い。
だからまずは全てを語ることからだと、素直にそう思えた。




