第十六話 加護の災厄
ミゼリアが落ち着くまで、ディアルナはずっと娘を抱き締めていた。
ミゼリアがようやく泣き止むと、ディアルナはハンカチを取り出して涙をぬぐってやった。
「せっかくの可愛い顔が台無しねぇ」
「う、すみませ……」
「あー、はいはい。謝らなくていいの。こういう時は、素直に感情を出した方が、女の子は可愛いのよ。あ、勿論油断しちゃ駄目な相手には、笑顔で塩対応ね」
「……そんな教え、ありましたっけ」
「ミズル様の教えじゃないわ、私の経験則。これで私は、お父様を落としたのよ?」
「……ふふ」
ミゼリアは思わず笑ってしまった。そんな彼女を見て、ディアルナも微笑む。
「やっと笑ってくれた」
「え?」
「貴女、ここに来てからずっと、まともに笑ってくれなかったのだもの。心配だったんだから」
「……申しわけありません」
「いいえ。責めているわけではないの。謝るのはこちらの方なんだから──本当に、ごめんね。私の力が及ばないばかりに、ひとりぼっちにさせてしまって」
「そんな……お母様は私のために、色々としてくださいました」
ミゼリアが王都での幽閉ではなくサーティスの預かりになったのは、ディアルナが尽力してくれたおかげだ。母が動いてくれなければ、こうして再会することはおろか、外に出ることも、何かを努力することさえできなかっただろう。
ミゼリアがそう言うと、ディアルナはため息をついた。
「そう言ってくれると、私も救われるわ」
さて、と、ディアルナは切り替えるように言った。
「再会を喜ぶのはこれくらいにして──少し、真面目な話をしましょうか」
ディアルナの表情が変わったのを見て、ミゼリアも頭の中を入れ替えた。
お互い向かい合わせに座り直し、顔を確認する。先ほどまでの喜びは、互いの顔にすでに無い。
「まず、結論を言ってしまいましょうか。リリアナ様が追われているという話。間違っていないし、事実なのだけれど、それが全てでもない。追われているのはミゼリア、貴女もなのよ」
「…………」
「驚かないのね」
ディアルナは目を細めた。
「偶然知ったのか、何かしらの理由で思い至ったのか……どちらにせよ、それなら話は早いわ。どうして追われているのか、解る?」
「……いいえ」
ミゼリアは首を振った。黒衣の男からは、それは聞けずじまいだった。
ただ。
「推測なら、あります。ただ、それが合っているかどうか……」
「それでいいわ。話して」
「──私の身に宿ったミズル様の加護。それが理由ではないのでしょうか」
ミゼリアは言った。
「私には、ミズル様よりたまわった加護の力があります。傷を癒し、壊れた肉体をも治癒することが可能な──この力を狙っているのでは」
ミゼリアに宿ったミズル女神の加護。それは回復の力である。
傷を治す魔術や奇跡が、無いわけではない。使い手は確かに少ないし、難しい術式だが、稀少というわけではない。
だが、ミゼリアの加護は、それらと違う点がふたつある。
ひとつは、詠唱や魔具が一切必要無いこと。
魔術も奇跡も、扱う術式が違うだけで必要なものは同じだ。特定の意味を伴った呪文の詠唱や、生け贄や供物などの代償が必要になり、それらを省略、あるいは指向性を高めるには魔具、祭具を使う。魔具や祭具で省略するのにも限度があり、結局は詠唱や、場合によっては多少の代償も必要になる。
だがミゼリアは違う。彼女が行うのは、ただ対象に触れ、祈るだけだ。
祈り、魔力を活発化させれば、傷は瞬く間に治るのである。
そしてもうひとつの違い。それは、上限が無いことだ。
現在のところ、魔術や奇跡で行える治療は傷や軽度の病の治療のみで、肉体の欠損を無かったことにしたり、死に片足を突っ込んだ者を救う術は無い。
かつてのミゼリアもそうだった。死にゆく父を救えなかったのは、今なお痛みを伴う記憶だ。
だが、ある時とっさに力を使った時、ミゼリアは加護が成長していることに気が付いた。
本来であれば失っていたはずの命を、救うことができたのだ。
二年前の話だ。今なお成長していると考えると、現在はあの時以上の傷さえ治すことができるだろう。
幼い頃はただ傷を治すだけの力だった。流した血は戻らず、死に体を生かすことはできない程度の。
だが今は、そのどちらも取り戻すことが可能なのだ。もしかしたら、それ以上のことも。
どんな魔術師でも、あるいは神官でも、研鑽をしなければ魔術、あるいは奇跡の腕は上がらない。むしろ使わなければ使わないほど錆び付いてしまうものだ。
だがミゼリアは、二年前のあの時まで、一切力を行使していなかったし、鍛錬をすることも無かった。なのに肥大化していくこの力は、人間には過ぎた力である。
ミゼリアは一度目を閉じて、再び開けた。
「お母様。お母様は言いました。この力を他者に無闇に見せてはいけないと。こうなると解っていて、おっしゃっていたのですか?」
「はい、であり、いいえ、ね」
ディアルナは言った。
「口外を禁じたのは、混乱を避けるためよ。一切の過程を排除して、結果を──完全な癒しという結果だけを導く力なんて、争乱の種にしかならないもの。私は、いいえ、私達は、貴女を争いの渦中になんて放り込みたくなかったの。……無駄な努力だったけどね」
あらゆる前提、行程、過程を必要とせず、技術も思想も無くただ祈るだけで結果を顕す力。それは本来、人の成せる力ではなく、また人の身に宿るべき力でもない。そんな力を神の加護以外にどう表現すればいいのだろうか。
「……ま、それはもういいわ。それよりミゼリア。その加護は、一体どこに宿っていると思う?」
「それは……魔術の理論に当てはめるのであれば、肉体でしょう。魔術とは、あるいは奇跡とは、魔力を宿す肉体と、それを操る精神、魔力に形を持たせる触媒が必要になります。ですが、私には触媒──つまり魔具などは必要ありません。おそらく、私の肉体は触媒の役割も兼ねているのではないでしょうか」
「私も同じ考えよ。つまり加護の行使は、貴女の肉体に宿った魔力を、貴女の肉体を介して形を与えている。……普通の人間は勿論、どれほど高位の魔術師でも、自分の肉体を触媒にすることなんてできないはずなんだけどね」
ディアルナは少し顔をしかめた。
「たまに……いいえ、ごくごくまれに貴女のような人間が産まれるの。数百年、下手したら千年単位に一度、いるかいないかの頻度だけどね」
「…………」
「記録に残っているのも片手で数えられる程度。しかもその半数はほとんどおとぎ話のようなものよ。その上、九割がた神話時代のもの。ただ、共通して歴史的に大きな事件に関わっている。本人の善悪や巻き込まれたのか、自分から関わったのかまでは定かではないけど」
ディアルナの話に、ミゼリアは沈黙を返すしかなかった。
自分の力の特異性も異常性も、ミゼリアは充分理解していた。理解せざるをえなかった。
父の死の理由と、その原因を探すために、ミゼリアは多くの知識と戦うための力を欲した。その過程で、自分の力を理解しようとすることはむしろ自然な流れだった。
その時は気付かなかった──否、気付かないふりをしていたのかもしれない。それが争いの種になる可能性など、少し考えれば思い至ることではないか。
あるいは、理解していたつもりだけだったのかもしれない。
「まあ、原理や歴史的立ち位置は、今はいいでしょう。問題は、貴女の力が狙われているという事実。真意の方は、まだ解らないけどね」
「お母様にも、解りませんか」
「推測は立てられるんだけどね、推測の域を出ない以上、言葉にできないわ。かなり難しい問題だし。ほぼこれっていうのはあるんだけど、確実ではないから」
ディアルナの言葉に、ミゼリアは再び押し黙る。ディアルナもそれ以上何も言わないため、しばし沈黙が部屋を支配した。
「……この力の、どこが欲しいのでしょう」
ミゼリアはぽつりと呟いた。
「過程も行程も無く、傷を癒す──いいえ、癒したという結果を導き出す力。確かに凄い力です。自分にそんな力が宿っているなんて、幼い頃はともかく今はあまりに恐れ多いです。ですが、それは何かを犠牲にしてまで手に入れる価値のあるものなのですか? そのためだけに、誰かを踏みにじらなければなりませんか?」
「ミゼリア」
「私は、私自身が情けないです。神からの加護だと無邪気に信じて、争いの種になるなんて思いもしませんでした。その上、この力で助けたい人を助けられないなんて……!」
父は、ミゼリア自身の力が足りなかったゆえに力尽きた。
フィースは、すでにこと切れていたゆえに間に合わなかった。
サーティスは、そもそも傍にいることすらできなかった。
自分のせいで命を落とした人達。そんな彼らを救えなかった自分。
はたして、この力に彼らの命に釣り合う価値はあるのか。
はたして、自分に生き続ける価値はあるのか。
「こんなことなら、あの時死んでいればよかったのに……」
絞り出した呟きは、六年間圧し殺してきた言葉だった。
生きろと願った父の言葉があったからこそ、ミゼリアは今日まで歩き続けていられたのだ。奥底にある薄暗い感情を無視して、それでも足を止めなかった。
だが、押さえつけるのも無理が出始めていた。
目の前で死んだフィース。戦死してしまったサーティス。陥落してしまったスターク城。
何より、黒衣の男が敵であるという事実が、ミゼリアを強く揺さぶった。
大丈夫だと思いながら、いつも通りに振る舞いながら、ミゼリアはとっくに限界を迎えつつあったのである。
リリアナと逃げ出した翌日に自身に誓った言葉は、嘘ではない。だが今は、それさえも暗闇の向こう側のような気分だった。
自分の全てが無価値な気がして、自分の言動全てが無駄な気がして。
もうこのまま、ここで終わってしまいたい──
「馬鹿言わないでちょうだい」
大きな声でもなければ、荒々しい声でもなかった。
ただただ刃のような鋭い声が、ミゼリアの思考を切り裂いた。
ディアルナの顔に、表情は無い。初めて見た母の無表情は、ミゼリアの身をすくませるのに、充分な威力を持っていた。
「お父様がどんな思いで貴女を生かしたと思う? 価値とか意味とか、そんなものは考えていなかったはずよ。その力だって、微塵も関係しているもんですか。貴女が娘だから──大事な存在だから、貴女に生きて欲しかったの。死んでいればよかったなんて、口にしないで」
再び緩みかけていたミゼリアの涙腺は、一瞬で引き締まった。
相手を諭す時、ディアルナは常に穏やかに笑っていた。愉快犯的な言動や、相手をひやりとさせるような物言いをすることはあっても、その微笑が揺るぐところを見たことがなかった。
こんな怒りを抑えつけているような言い方は初めてだった。
「全く……こうくると思ったから言いたくなかったのよ」
おもむろに頭を抱え、ディアルナはため息をついた。
「……お母様は、私が自死でもすると思っていたのですか?」
「するでしょう。それが最適解だと判断すれば」
ミゼリアが眉をひそめて問うと、ディアルナはため息をついて断言した。ミゼリアは思わず沈黙を返す。
「他人が傷付くのは嫌、犠牲も最小限に抑えたい、そのくせ自分に関して無頓着。お父様の言葉が無ければ、あるいはあの時真実を知っていれば、貴女はこれ以上の悲劇を起こさないよう、命を絶っていたでしょう。それが当時の貴女が取れた、最適解だったから」
「…………」
「でも、今は違う」
ディアルナはじい、とミゼリアの瞳を覗き込んだ。そこに映る変化を見抜こうとするように。
「当時の貴女と、今の貴女は違う。今の貴女は、あの時の無力な貴女ではないわ」
「……いいえ、お母様。私は、今もまだ無力なままです」
ミゼリアは首を振った。
「目の前で死にゆく命さえ救えない、あまりにも無力な人間なのです。努力を怠ったことはありません。それは胸を張って言えます。ですが、それでも足りなかったのです。届かなかったのです。何もかも、私には成せなかったのです」
「本当に、そう?」
ディアルナの口調は、いつもの穏やかさを取り戻していた。穏やかに、静かな口調で問いかける。
「本当に、貴女は無力で何もできない人間なの? そんな人間が、本当にリリアナ嬢を救い出して、ここまでお連れすることができる? 無力な人間が、交渉の場に連れてこられたり、交渉の助言を行ったりできると思う? 少なくとも、私はそう思わないわ」
「でもっ」
「手が届かないことがあるのは、当然よ。人間のできることには限度がある。人間ひとりが成せることは本当にごく僅かなの。神々さえ成せないことがあるのだもの、人間にできないことがあるのは当然でしょう? 突破できない現実を前に無力を嘆いたって、時間の無駄なだけよ」
反論しようとしたミゼリアを遮って、ディアルナはあくまで静かな口調で語りかける。
「理不尽から目をそらしていいと言っているんじゃない。できないんだから諦めなさいと言ってるんでもない。ただ、自分が成せること、成すべきことを見失わないでほしいの」
「成すべき、こと」
ミゼリアは口の中でディアルナの言葉をくり返した。
自分に成せること。成すべきこと。
そんなものが、本当にあるのだろうか。
「……ミゼリア」
ディアルナは、しばしの間を置いて再び口を開いた。
「今から話すことを、しっかり聞いてちょうだい。その上で、貴女が成すべきことを判断しなさい。命を絶つのではない、本当にやるべきことを考えなさい」
母の言葉に、ミゼリアはもう何も言えなかった。
ミゼリアはただ、母の話を黙って聞いていた。




