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白銀の剣  作者: 沙伊


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第九話 黒衣の男

「あ……」

 ミゼリアが小さく漏らした声は、誰の耳にも届かなかった。かぶせるようにタリスが誰何(すいか)の声を上げたからだ。

「何者だ!? 先ほどの騎士達の仲間かっ」

「……仲間ではない。案内をしただけだ」

 それだけで、黒衣の男の立場を知るには充分だった。

 タリスはリリアナを守るために彼女の前に立つ。リリアナは邪魔にならないよう、一歩後ろに退いた。

 ミゼリアは――動けない。かろうじて剣を構えているものの、それ以上何もできない。

 ミゼリアは頭が真っ白になっていた。

 全く考えていなかったわけではない。彼が敵であることも想定していたし、覚悟もしていたつもりだった。

 だが、そうでなければいいと思っていたし、敵対する可能性を信じきれないでいた。

 しかし、実際はどうか。こうして目の前にいるのは、敵対者としての彼だ。

 森で初めて会った時の傷付いた彼でもなければ、スターク城で再会したこちらを気遣う彼でもない。

 今の彼は、敵だ。

 それを認識したのは、黒衣の男が剣を抜いた瞬間だった。

 ミゼリアは踏み込んだ。ほとんど何も考えずに、反射に任せて距離を詰め、黒衣の男に斬りかかる。

 下から上への鋭い斬り上げを、黒衣の男は難なく受け止めた。

「――思ったより速い。よく鍛えてある証拠だ」

「っ……? 貴方は、一体……」

 ミゼリアは思わず眉をひそめ、黒衣の男を見据えた。

 黒衣の男は、何の表情も浮かべていなかった。精巧な仮面のように、一切の感情が無い。

 ミゼリアの知る彼は、起伏こそ少ないが、確かな感情を持った人間だった。

 しかし、今目の前にいる彼は、からくり仕掛けの人形のようである。

「っ……!」

 ミゼリアは目を見開いて唇を引き締めると、弾かれるように後退した。

 黒衣の男は追わない。剣をだらりと下げたまま、一歩だけ踏み出した。ゆっくり、見せつけるように。

 それを確認して、ミゼリアは後方に向けて声を張り上げた。

「タリス殿! リリアナ様をお連れして逃げてください!」

「は……? いや、しかし」

「間もなくエイン隊長達が到着するでしょう。早く合流をっ」

 普段出すことの無い厳しい声によほど驚いたのだろう、タリスは勿論リリアナも黙り込んだ。

 しかし、タリスもまた貴人を守るための訓練を積んだ人間である。やや強引にリリアナの背を押し、その場を離れようとする。

 リリアナは一瞬抵抗した。しかし、結局それが一番正しいことも理解していたのだろう。

 反転する前に、吐き出すように怒鳴った。

「ミゼリア! 怪我一つでもしたら承知しないわよっ」

「――はい。心得ております」

 ――それに、彼は私を傷付けないでしょうから。

 最後の呟きは、胸にしまっておいた。

 やがて背後の気配が遠ざかるのを感じ、足音さえも聞こえなくなって、それでもしばらく間を置いてから――ミゼリアは、剣を下ろした。

「……何のつもりだ」

 黒衣の男は、思わずといった風情で言った。表情は変わらず無いが、おそらく戸惑っているのだろう。

 一方ミゼリアは、僅かに緊張をにじませながら黒衣の男を見つめた。

「先ほどの私の剣、貴方なら受け止めるだけでなく、そのままはじき飛ばすこともできたのではないですか?」

 黒衣の男は、今度こそ目に見えた戸惑いを垣間見せた。

ミゼリアは一歩踏み出す。黒衣の男はなぜか目を見開き、後ずさった。それに構わず、ミゼリアは言葉を続ける。

「先ほどだってそうです。そのまま追撃すればいいのに、貴方はそうしなかった。今だって、リリアナ様を追おうとも、邪魔者である私を排除しようともしない。どちらもできるし、またするべきなのに」

 ミゼリアはゆっくり黒衣の男との距離を詰めた。

 黒衣の男は動かない。剣を構えたまま、ミゼリアを凝視している。怯えとも警戒とも取れる眼差しを、ミゼリアは見たことがある。

 あの時、初めて会った時と同じ目だ。

 ミゼリアの緊張が、一歩踏み締めるごとに消えていく。

「こちらに見せつけるように歩き、ゆっくり迫ってくるなんて、まるで逃げることを促していたように思えました。そんなこと、する必要ありませんでしたよね?」

 手を伸ばせば触れ合えるというところまで近付いた時には、ミゼリアの中から緊張も警戒も消え去っていた。

 黒衣の男は、動かない。剣も向けない、無防備なミゼリアを前に、ただ目を見開いている。途方に暮れる子供の目だった。

「貴方は、初めから私達を傷付けようとはしていません。ましてや、殺すつもりなんて無かったのではありませんか?」

「何を……根拠に……」

「今、この状況が根拠です」

 ミゼリアは剣を持つ黒衣の男の手に触れた。それほど近くにいることに今更驚いたのだろうか、黒衣の男は身じろぎした。

「離、せ」

「嫌です」

 ミゼリアは黒衣の男を見据えた。

「理由は解りませんが、貴方は自身を敵対者として見せたかったのではないですか?」

 こうして彼と立った状態で向かい合うのは初めてではないだろうか。

 黒衣の男は、ミゼリアよりずっと背が高い。おそらく頭一つ分以上、もしかすると二つ分高いかもしれない。視線を正面に向ければ、彼のみぞうちを見ることになるだろう。

「違うと言うなら、力ずくで離してみてください。そうすべきですし、貴方の力なら可能でしょう?」

「それは」

「なんなら」

 ミゼリアは黒衣の男の手を動かした。ほとんど力を入れていなかったのだろう。手と、その手に握られた剣は、思うように動く。

 そうして動いた刃は。

「それらを否定するなら――この剣で、私を殺して見せてください」

 ミゼリアの華奢な首筋に食い込んだ。

「何をしているんだ!?」

 絶叫。そう呼ぶにふさわしい声が、黒衣の男の喉からほとばしった。

 掴まれていた手を振りほどき、剣を投げ捨てて、黒衣の男はミゼリアの顔を覗き込む。ミゼリアは少し面食らったものの、眉尻を下げて微笑んだ。

「ほら。少し傷付いただけで心配してくださるんですもの。少なくとも本心で私に剣を向けていたわけではないのでしょう?」

「おまえ……」

 黒衣の男は目を見開き、次いでミゼリアが初めて見る表情を浮かべた。

 すなわち、怒りの表情である。

「何をしているんだ、おまえは! もし私におまえを殺す気があったらおまえはっ」

「はい。貴方に殺されていたでしょう」

 ミゼリアは首筋に手をやった。ぴりぴりとした痛みと生ぬるく伝う血の感覚をまざまざと感じ、切れているのだと当然のことを思った。

 黒衣の男の言う通り、あまりに無謀な行いだったということは、ミゼリアも充分承知していた。

 一種の賭けだったのだ。黒衣の男が自分を傷付けるか否か――命を落としかねない、あまりに危険な賭けだった。

 それでも。

「私は……貴方を心の底から疑えませんでした」

 ミゼリアが手に意識を集中すると、首筋がぽうと、柔らかな温かさに包まれた。同時に痛みも消えていく。

 自身にも施されたことのある奇跡をまた目の当たりにしたからか、それとも別の理由からか、呆然と見返す黒衣の男に、ミゼリアは微笑みかけた。

 その笑みは六年前と変わらない。白百合のような、たおやかで楚々とした微笑だった。

「愚かだと笑ってください。私は、貴方と初めて会った日のことが忘れられないのです。傷付いた貴方のことを――私を穢さないようにした貴方のことを……」

「ミゼリア」

「あの時、貴方は私を傷付けようとしませんでした。それどころか遠ざけようとしていました。触れることすらためらっていました。私は……あの時の貴方と、今の貴方が違うようには――変わってしまったようには、どうしても思えないのです」

「……」

 黒衣の男は、強く唇を噛んだ。ぶちりと食い破られた唇から血が流れる。

「血が」

「おまえは、どうして私をそんなに」

 ミゼリアが伸ばす手を拒むように、黒衣の男はかすれた声を上げた。

「私の意思がどうあろうと、おまえの印象がどうあろうと、私がおまえに剣を向けた事実も、敵対している事実も変わらん」

 黒衣の男の口からはっきりと敵対、という言葉が出てきて、ミゼリアは一瞬身をすくませる。

 少なくとも彼の立場は、ミゼリアと対立しているのだと突き付けられてしまった。

 喉元まで出かかった震えを飲み込み、ミゼリアは口を開いた。

「なら、せめて聞かせてください。なぜ貴方は私達の前に姿を見せたのですか?」

「……私の師であり、主である者の命だ」

 黒衣の男は淡々としていた。感情を無理矢理削ぎ落とした声だった。

「リュグス家の娘と、おまえを捕らえろと」

「……? リリアナ様はともかく、私も?」

 ミゼリアは目を瞬いた。しかし、すぐに思い出す。

 ミゼリアはもともと、母から引き離されて王都に連れてこられた。母の根回しとサーティスの立ち回りで逃れることができたものの、もしかしたらあのまま王都で幽閉されていたかもしれない。

 そして、リュグス家が壊滅的なダメージを負ったのは、王都から派遣された軍の裏切りによるものだ。

 飛躍し過ぎかもしれない。だがもし、このふたつが繋がるのだとしたら。

「……私、ですか?」

「何?」

「私が、原因なのですか?」

 このふたつに接点があるのだとしたら、それは自分なのではないか――ミゼリアは青ざめた。

 理由は解らない。だが、わざわざ幼い自分を呼び出し、手元に置けずとも制限をかけるだけの意味が自分にあったのだとしたら。その意味がリュグス家にも及んだのだとしたら。

 全ての元凶は、自分なのではないか。

 自分のせいで、リリアナにここまでの苦難を強い、リュグス家に壊滅的な被害をもたらし、サーティスを死なせてしまったのではないか。

 脚に力が入らない。視界から色が消えていく。耳の奥ががんがんとうるさいのに、周囲の音が全く聞こえない。自分ははたして、ちゃんと地面の上に立っているのだろうか――


「違う!!」


 突如、ミゼリアの耳に鋭い叱責に似た声が届いた。

 それをきっかけにして戻ってきた正常な視界に、ミゼリアは浅い呼吸をくり返す。

 色が戻ってきた視界に真っ先に飛び込んできたのは、黒。一切の混じりけが無い、漆黒の瞳だ。

 せっかく戻ってきた色など一切無い、闇の穴のような瞳は、きっと多くの人間が恐怖し、身をすくませるだろう。

 けれど、ミゼリアにとって、それはあまりにも。

「おまえは何も悪くない。おまえに非は一切無いのだ」

「……貴方……」

「今の私は多くを語れない。だが、断言しよう」

 黒衣の男は、ミゼリアの頬に触れた。空気を撫でたと言い換えてもいいほどに、微かな接触だった。

「おまえは何も悪くない。全ての元凶は別にいる」

「……貴方は、それを知っているのですね」

 離れようとした手を、ミゼリアは取った。

 大きくごつごつとしていて、傷だらけでぼろぼろの手だった。

 使い古された武器のような手。指先で撫でてみると、人肌とは思えないほどざらざらしていて、なぜだか無性に哀しくなった。

「せめて、せめて教えてください。貴方は何が目的なのですか?」

 ミゼリアは黒衣の男に身を寄せ、じっと見上げた。

 多くを語れないと言う男の真意を、せめて知りたかった。

 黒衣の男の表情が、ふと消えた。だが瞳には、熱を帯びた光が宿っており、それがじっとミゼリアを見つめる。その熱が移ったように、ミゼリアは自身の身体もほのかに熱が宿るのを感じた。

 黒衣の男の口が、一瞬ためらうように引き結ばれ、再び開かれようとした時だった。

「っ、危ない!」

 ミゼリアが声を上げるのと、黒衣の男が飛びずさるのは、ほぼ同時だった。

 ふたりの間にできた空間。人がひとり立てるぐらいの隙間に、勢いよく何かが突っ込んできた。

 その何かは先ほどまで黒衣の男がいた場所を貫き、その勢いを殺すこと無く方向を変える。向かうのは、黒衣の男だ。

 黒衣の男は身体を投げ出すように後退した。その頬につ、と汗がにじむ。

「……おまえか、槍使い」

「てめぇ……またミゼリアを!」

 黒衣の男を貫かんとし、ミゼリアとの間に立ち塞がったのは、ザフィロだった。

 いつからそうだったのだろう、鎧は泥なのか血なのかよく解らないものでどろどろで、見る影も無い。闇夜の中では確認できないが、おそらく本人も薄汚れてしまっているだろう。

 そんな彼は、ひたすら黒衣の男を睨み付け、槍の穂先を向けている。その背からは闘気を通り超して怒気が感じられた。

「あの時といい、今回といい――一体何が狙いだ! ミゼリアに何の用があるってんだっ」

「……おまえに話すようなことは無い」

 黒衣の男は冷めた口調で言い放った。先ほどとはまるで違う様子に、ミゼリアははっとする。

 機会を逃してしまったのだと悟った。黒衣の男は、少なくともザフィロの前では理由を語る気は無いのだ。

 それを肯定するように、黒衣の男は踵を返し、その場を立ち去ろうとした。

「逃がすか!」

「ザフィロ、駄目です!」

 追いかけようとしたザフィロを、ミゼリアは引き留めた。後ろからほとんど抱きつくように腕を抑えたのだ。

 ザフィロは驚いて振り返る。なぜと問いかける表情を顧みず、ミゼリアは声を上げた。

「待ってください!」

「……何だ」

 ミゼリアの声に、黒衣の男は振り返らなかった。だが足を止め、声に応じてくれた。

 それに安堵しつつ、ミゼリアは少し困ってしまう。

 声をかけたのは反射だった。何か理由があったわけではない。

 ミゼリアは一瞬口をつぐみ、改めて口を開いた。

「名を」

「は?」

「名前を、教えてくれませんか?」

 出てきたのは、そんな懇願だった。

 思えば、彼はミゼリアの名前を知っているのに、ミゼリアは彼の名前を知らない。

 今まで出会ったのは二度。その二度とも、訊きもしなければ名乗りもしなかった。今知らなければもう知ることも無いのではと思ったのだ。

 だが結局、ミゼリアが黒衣の男の名を知ることは無かった。

「そんな上等なもの――私は、持っていない」

 錆びたからくりのような、きしんで無機質な声だった。吐き捨てるような口調だったのに、感情が一切伴っていない声音は、ミゼリアの胸に深く突き刺さる。

 ミゼリアはそれ以上何も言えなくなってしまい、そのまま黒衣の男が去るのを見送ることになった。

 名前が無い。ミゼリアにとって、それはあまりにも衝撃的だった。

 名前とは各個人にあって当たり前のもので、名前が無いのは産まれたばかりの赤ん坊ぐらいだと考えていた。

 しかし黒衣の男は名前が無いと言った。

 捨ててしまったのか、もとより持っていないのか――どちらにせよ、その事実はあまりにも哀しかった。

 黒衣の男を呆然と見送ったミゼリアは、ザフィロの声で我に返った。

「ミゼリア! おまえまたっ」

「……ザフィロ」

 ミゼリアは掴んでいた腕を離した。ザフィロの表情が、あまりにも痛そうだったからだ。

 腕が自由になっても、ザフィロは黒衣の男を追いかけなかった。彼はミゼリアに向き直ると、顔を覗き込んだ。

「何考えてんだ、おまえ! どうしてあんな奴をっ」

「それは」

「あいつは、サーティス様を殺したんだぞ!」

 時が止まった気がした。ミゼリアは吐息すら漏らせず、ザフィロを見上げる。

「俺達はサーティス様を助けられなかった……あの方が死んだ時、あいつは傍にいたんだ。あいつが殺したんだよ!」

「そん、な」

「あいつは敵なんだ! なのに、どうしておまえは……」

 ザフィロはそれ以上続けられず、黙り込んでしまった。槍をだらりと下げてうつむき、唇を噛む姿は、先ほど以上に痛みに耐えかねている風である。

 しかしミゼリアは、ザフィロのことを見ていなかった。しばし虚空を見つめ、ふと視線をさまよわせる。

 目当てのものはすぐ見付かった。少し離れた場所で転がっていた剣である。黒衣の男が投げ捨てたものだった。

 ミゼリアは剣に駆け寄り、そっと手に取った。

 ミゼリアが使用するものより重く、やや長めに造られていることを除けば、どこにでもある普通の剣だった。

 柄はぼろぼろですり切れており、刃は刃こぼれひとつ無いが、よく使い込まれていたのが見て取れる。長く振るわれていたのだろう。

 黒衣の男そのものとも思える剣をミゼリアは握りしめる。

 黒衣の男は言った。全てミゼリアのせいではないと。

 それが何を意味しているのか解らない。だがミゼリアを慰めるために出た言葉とは思えなかった。

 しかし、黒衣の男の言葉はどこまで信用できるのだろうか。彼はサーティスを殺したかもしれないのに。

 彼を信じたい。信じたいのに。

 ミゼリアは目を閉じて、剣に額を寄せた。

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