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白銀の剣  作者: 沙伊
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プロローグ

 ひづめの音が響く。地面を僅かにえぐりながら、一頭の灰色の駿馬は午後の平原を駆けていく。

 その背に乗っているのは、煌めく白銀の髪をまっすぐに伸ばした、十歳にも満たぬ少女だった。

 初雪の肌に未成熟ながらすらりと長い手足、できのいい人形のごとく整った面貌は、しかし冷たさとは無縁であり、桃色の唇は優美な弧を描いている。白い上等な服を着ていることも相まって、品のある清純な花のようである。

 特に惹かれるのは、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳だ。そこにあるのは大切に磨き抜かれたと言わんばかりに輝く、髪と同じ銀色である。だが鉱石めいた冷厳さはそこにはなく、あるのは柔らかな慈しみのみだ。

 白銀の少女――名をミゼリアと言う――は、馬とともに草原を走り抜ける。その眼差しが捉えるのは、故郷の自然だ。

 ミズル地方。ノドバーレイ国の東部に位置し、隣国ブリュドとの国境を有する、通称“神聖領”である。軍略を司る女神、ミズルの名を冠したこの土地は、ノドバーレイに属していながらノドバーレイに従わぬ独立した特殊な土地だった。

 ミゼリアの父はこの地を護る任を帯びた騎士であり、母はミズル神を奉ずる巫女である。ミゼリアもまたそういった役割を持たぬまでも、象徴の一つとして大切に扱われるべき立場にあった。が、ミゼリアはそのような意義に従うには無邪気過ぎる。もし自らの役割を本当に大切にしているのならば、こうして供も付けずにひとりで遠駆けなどするはずがない。

 そう、遠駆け。無謀にもこの少女は、自分が住む城を抜け出し、こうして自然の中を馬と共に疾走していた。

 しかし、彼女が城を抜け出したのは今日が初めてではない。ミゼリアはたびたび城から脱走しては父から送られた愛馬と共にこの土地を駆け回っていたし、両親や城の者のほとんどは皆それを容認していた。

 未だ幼い少女がそうしてひとり外で動けるのは、この土地が平和だからだ。隣国ブリュドとの国交は平穏そのものであり、ミズル地方の治安はノドバーレイの中でも特別いいものだった。ミゼリアが特別な武装もせず――武装と言えるのは腰に帯びたナイフぐらいである――供を付ける必要も無いほどに。

 そして何より、ミゼリアが何の危機感も無く外を動き回るのは、彼女自身が信じて疑わないからである。生まれた時から感じていた、自らに与えられる主たる神の加護を。

 しかし、ミゼリアも最近気付いたことだが、どういうわけか城内に僅かに厳しい空気が漂い始めている。城を抜けるのも一苦労だった。ちなみにミゼリアの中に遠駆けを止めるという選択肢は皆無である。

 ミゼリアは、春の草原を微笑みながら駆け抜ける。そこに、たったひとりで行動していることに対する高揚も不安も無い。あるのはただ静かな安らぎだけだ。

 今日はことのほか気分が乗ったせいか城から遠く離れ、この領土において特別に神聖視されているものの一つである森の傍まで差しかかった時だった。

「……?」

 ミゼリアはふと、白い面貌に困惑を浮かべ、馬を止めた。

 清澄な草原の空気。さわやかな自然の匂いに混じって、かぎ慣れぬ臭いが漂っているのに気が付いたのである。

 鉄錆に似た臭い、紅を連想させる臭いに、ミゼリアは一瞬視線を巡らせる。止まったのは、もう全容が確認できるほどに迫った森である。

 数秒の逡巡ののち、ミゼリアは馬首を森に向け、その中へと踏み入った。

 森の中は相変わらず静寂を保っている。今まで何度も入った森と何ら変わりはない。

 だが、ミゼリアにとってこの森は感覚の内である、異変もその出所も、手に取るように解った。

 愛馬はミゼリアの望む通り森の奥へと進んでいく。馬を操る手にも進むことに迷いはない。明らかに日常からかけ離れた雰囲気を感じ取って、ミゼリアはそれに臆することはなかった。

 やがてたどり着いたのは、森の中で最も暗い場所だった。

 木々が密集し、幾つもの枝が重なって日光を遮る場所。一つの空間として成立した闇の中で、血臭の主は座り込んでいた。

 闇よりなお黒い衣をまとった、ひとりの男である。まとう服も黒ければ髪や瞳も黒い、肌を除けばどこもかしこも漆黒の、大きな黒い塊としか形容できない人間である。身じろぎもせず、ただ闇の中でうずくまっている様は無生物のそれであり、漂う血生臭さと浅く荒い呼吸音がなければ生きているかどうかはおろか、そもそもいるかどうかを認識できたどうかも怪しい。事実、ミゼリアはその男の存在を一瞬視認できなかった。

 臭いからして、男は相当出血しているようだった。あるいは、それほどの返り血をあびているのか。だがミゼリアは、即座に後者を除外していた。無防備を通り越して愚鈍な判断だったが、彼女はその考えに何の疑問も抱かない。

 一方の男は、ひずめの音を聞いてかのろのろと顔を上げた。動くのがいかにも億劫だというありさまは、男の消耗を物語っている。

 だが、上げられた精悍な顔は、ミゼリアの姿を視界に収めた途端みるみるうちに驚愕へと塗り替わっていた。どうしてここにおまえがいる、とその目が問いかけている。ミゼリアが現れたことが信じられない、と言いたげだ。それは驚愕以上に、まるで奈落に突き落とされたような相貌だった。

 その視線にミゼリアは首を傾げた。男が驚愕したこと自体は、特におかしなことはない。こんな森の奥で子供に出会うことは、そうあることではないだろう。

 だが、男の驚きがそれだけでないことを、ミゼリアは敏感に感じ取っていた。

 どういうわけか、男は絶望している。ミゼリアに出会ったことにか、はたまた別の理由にか、それは解らない。だがどちらにしても、ただ子供に血まみれの姿を見られたことに由来するものではないことは明らかである。

 そして――これはあくまでミゼリアの直感だが、彼はおそらく、ミゼリア自身のことを知っている。彼の絶望は、それが一因ではないのか。

 ミゼリアの方は男のことを知らない。強烈な血臭を抜きにしても、その黒い姿は非常に印象的だ。そうそう忘れることはないだろう。となれば、男が一方的に彼女のことを知っているということになる。

 その可能性は、決して無いものではなかった。このミズル領において、ミゼリアの存在は両親に次いで有名であり、重要な立ち位置にある。知らない人間に知られているという事実は、特に問題視するようなことではない。

 ミゼリアは疑問を頭の中に留めつつも、馬を下りた。男がみじろぎし、視線に剣呑な光を灯す。

 それは害意というよりも、拒絶の色だった。近付いてくれるなという、懇願のようでもあった。

 男は言葉も無く、ミゼリアを拒否している。近付くことを明確に拒んでいる。近付くのなら牙を剥くと、無言で訴えかけていた。

 おそらく大抵の人間は、その眼差しだけで踵を返すだろう。拒絶されたからではなく、明かりの届かぬ洞穴のような瞳に恐怖して、その視線から逃れようとするだろう。

 しかし、ミゼリアは後戻りすることはなかった。男の目に臆することなく、ましてや真意を考慮することもなく、迷いない足取りで男に歩み寄り、その傍に膝をついた。

「大丈夫ですか?」

「…………」

 儚ささえ感じられるほど可憐な声に呼びかけられて、男は言葉を失った。無論、少女の声にあてられてのことではない。

 こうして近くで見てみると、男は意外にも若かった。おそらくミゼリアとは十ほどしか年の差はないのだろう。まだまだ青年と呼べる、若々しい面立ちだった。しかし今は、憔悴した表情のせいで幾らか老け込んで見える。

 ミゼリアは何も言わない男のみぞうち辺りに触れた。濡れた布の感触が指先に伝わり、男の出血が緩やかながら今なお続いていることを確認した。

 確認した後、眉をひそめる。こうして触れ合うほどに近付いて気が付いたが、男の衣服には僅かのほころびも無い。破れた跡も、切り裂かれた跡もない。出血した際に受けたであろう衝撃の跡が、無い。

 これではまるで、内側から肉体が裂かれたような――

「私に、触れるな」

 頭上から、男が途切れがちに言い放った。視線以上に冷たく鋭い音だった。

 ミゼリアは男を見上げた。薄暗闇の中でなお輝く瞳と視線を合わせたとたん、男は顔をあらぬ方向へ向ける。

「……放っておいてくれ。おまえには関係無い」

「そうはいきません」

 ミゼリアはきっぱりと言い放ち、首を振った。

「こんな怪我をしてる人を放っておくなんて、私にはできません」

 ミゼリアはなおも何か言おうとした男を無視して、添えた手に意識を集中した。

 とたん、ミゼリアの手が暖かな白銀の光を宿した。暖かな光は薄闇を僅かに照らし、男の身体を緩やかに包み込む。

 輝きはほんの数秒のことだった。淡い光輝にさらされていた空間は瞬く間に元の暗闇を取り戻し、残滓さえ残さない。

 だが、変化は確かにあった。

 荒かった男の呼吸は、気付けば正常に戻っていた。憔悴は未だ色濃く、失血による倦怠感は残っているが、それでも彼を苛んでいた傷は跡形も無くなっていた。

 男は目を見開いて自身の身体とミゼリアを見比べた。困惑の表情は、今の奇跡を許容できないゆえだろうか。

「おまえは、一体……」

「あっ」

 ミゼリアはそこで、自分が名乗っていないことに気が付いた。

「す、すみませんっ。私、なんて不作法をっ」

 ミゼリアは眉尻を下げて座り直した。

「改めて――私」

「知っている。ミゼリアだろう」

 名乗ろうとしたミゼリアを遮って、男は彼女の名前を口にした。

「この領地の主、ズウェルと、ミズル神信仰の宗主、ディアルナの娘にして、ふたりの後継者」

「……やっぱり、貴方私のことを知っているんですね」

 ミゼリアはじっと男を見つめた。男は、はっと目を開いた後、またすい、と視線をそらしてしまう。最初を除けば表情の起伏が少ない彼だが、何を考えているかは大体読み取れる。おそらく、よけいなことを言ったと後悔しているのだろう。

 そのまま黙りこんだ男を、ミゼリアはじっと見上げる。銀の大きな瞳は、今は好奇心できらきらと輝いていた。そのまま男の膝に乗り上げかねない様子である。

 しばらく沈黙を守っていた男は、盛大に顔を歪めて立ち上がろうとした。だが、傷が塞がったと言ってもそれだけである。消費した体力が戻ったわけではなく、当然その身体は先ほと同様重症であることに変わりはない。まともに立てるはずもなく、膝を上げただけでめまいがした。

「駄目です、まだ休んでないと!」

 ミゼリアは慌てて男の服を引っ張った。逆らうことができずにまた腰を落とした男に、ミゼリアは子供とは思えぬ慈愛に満ちた笑みを向ける。

「もうしばらく休んでいてください。さっきまで大怪我していたことには変わりないんですから」

「……なら、おまえはここから去れ。おまえがここにいる理由は無いだろう」

「駄目です」

 男の言葉に、ミゼリアはすぐ答えた。内容は否である

「だって目を離したら無茶なことしそうなんですもの、貴方。それに、一度面倒を見たのなら最後まで見るべきだとお母様が」

「……私は犬猫か」

「え……そんなつもりじゃ」

 男のため息に、ミゼリアは困ったように眉根を寄せた。しばらく言葉にならない呟きを繰り返した後、とにかくっ、と毅然と男を見つめる。

「私はしばらくここにいます。貴方もここにいてください」

「……おまえは」

 男は困惑の色を隠そうともせず、ミゼリアを見据えた。

「何なんだ、一体。私が怖くないのか」

「怖い? 何でですか?」

 問われたのは、ミゼリアにとって意外なものだった。

 男が怖くないのか。その返答は実に簡単である。

 常人なら彼を恐ろしいと答えるだろう。闇を擬人化したような姿は、言い知れぬ恐怖を呼び起こすのに足る様だ。あるいは、恐れのあまり答えられないかもしれない。

 だが、ミゼリアは少しも恐れていなかった。

 闇は恐ろしい。それはミゼリアにも解るし、それを恐れる気持ちもある。しかし、それが目の前の男そのものであるとは思えないのである。

 ミゼリアにとって、目の前の男は傷付いた獣だ。傷付いているがゆえに、身を護るために他者を遠ざけようとする。近付けば牙を立てるそれは大抵の人間にとって脅威だろうが、ミゼリアにはかわいそうな生き物にしか映らない。

 それに、男が自分を傷付けることは無いという、不思議な確信もあった。全く根拠の無い信頼だが、ミゼリアには一切の疑問は無い。

 だから。

「怖くないですよ」

 そう言って、男の膝の上に乗った。じわり、とミゼリアの白い服に紅いしみがひろがっていく。

 男は唖然とした顔でミゼリアを下ろそうと肩に手をかけた。

「おい、汚れる」

「今更ですよ。さっき血がついちゃいましたもの」

 ミゼリアはべっとり紅く染まった左掌を見せた後、それに、と続けた。

「服や手の血は洗えば落ちます。落ちなければその時です。別に私自身が汚れるわけじゃないです」

 ミゼリアは男に笑みを向けた。白百合のようにたおやかで楚々とした微笑は、少女というより完成された淑女のそれである。

「だから、そんなこと言わないでください。それじゃ、貴方が怖がってるみたいです」

「……私が、怖がっている? 馬鹿な」

 男は弱々しく首を振った。違う、と口にしつつも、黒い瞳は揺らいでいる。

「違うんですか?」

「違う。私は、何も恐れていない。何も」

 ミゼリアの肩に触れた手が離れていく。あとには紅い手形が残っていた。

 あ、と小さく声を上げる男。黒い瞳に浮かぶのは深い後悔である。どうしてそこまでミゼリアが血に汚れることを厭うのが、ミゼリア自身には解らない。ミゼリアにとっては血の汚れなど特別気にするものではないのに。

「別に私自身が汚れるわけじゃないですのに」

 思わず同じことが口からこぼれた、不満げな声。自分の声だと気付いたミゼリアだが、訂正する気はなかった。本心であったし、隠すようなものでもないと思ったからである。

 対し、男は。

「…………」

 ふと口を閉ざして、まじまじとミゼリアを見ていた。漆黒と白銀の視線が絡み合う。数秒の間が生まれた。

「……ああ、そうだな」

 ややあって、男はぽつりと呟いた。何かを確かめるように、ゆっくり、吐き出すように。

 黒い瞳は依然、ミゼリアの白い姿を見下ろしている。点々と紅く染め上げられながら、なお失われぬ白銀の瞳を見つめている。そこに先ほどまではなかった温かみを見付けて、ミゼリアは不思議な気分になった。

 胸の奥にその熱が染み込んでいくような、それが血液を伝って全身に巡っていくような感覚。種類は違えど、ミゼリアはこの熱を知っている。これは、確か――

「っ……⁉」

 ふたりの身体が強張ったのは同時だった。

 背筋に駆け上ったのは、悪寒。神経を逆撫でして脳髄まで行き届いた時には、ふたりの思考からプラスの感情を奪っていった。

 代わりに埋め尽くしていくのはマイナスの感情。どうしようもないほど冷たい緊張が、ふたりを内側から撫でていく。

 あまりに唐突。正しく不意打ち。なにより驚きなのは、何も起こっていない(、、、、、、、、、)という事実(、、、、、)である。

 ただの予感が、ふたり同時に襲いかかっただけの話だ。この場には何も無い。風に揺れる枝の音ばかりで、あとは沈黙しかないのだ。

 なのに、ふたりは過ぎ去った衝撃から抜け出せないでいた。

 ミゼリアは男の服をぎゅっと握りしめて硬直していたし、男は言葉も無く周囲を見渡している。

 森は静寂を保ったまま、穏やかに存在していた。先ほどと変わらない、平和な風景である。

 だが、それでもふたりは安堵しない。緊張の糸を緩めない。固まったまま、しばらく身を寄せ合っていた。

 先に動いたのはミゼリアの方だった。もぞもぞと、男の身体に負担をかけぬようゆっくり膝から降りて、立ち上がる。

 その顔は未だ強張っていたが、先ほどまでの淑やかさを取り戻していた。

「私、行きます」

「え?」

「行かないと――帰らないと――手遅れになる気がします」

 何が、と問われれば、ミゼリアは返答に窮しただろう。何が手遅れになるのか、どうして急いで帰らなければならないのか、その答えをミゼリアは持ち合わせていなかったのだから。

 あえて答えるなら直感。ミゼリアの脳の奥底で、延々と鳴り響いている警鐘が告げているのだ、早く戻れと。

 それはもはや、予言とも呼べるほどの強制力を持ってミゼリアを動かした。

「無理に動かないでくださいね。まだ休んで――森の奥に湖がありますから、血を落とすならそこで。それから、それから……」

 ミゼリアは更に言葉を続けようとしたが、それ以上の時間の浪費を厭い、踵を返した。

 愛馬にまたがり、ミゼリアは一瞬男を見る。眼差しは心底、彼をいたわる色をしていた。

 だが、言葉はもう無い。そのまま馬を走らせ、何の未練も無くその場を去った。

 男は呆然とその後ろ姿を見つめていたが、ややあって我に返った。ミゼリアを止めることはおろか、そのあとを追いかけることもできなかった。

 自分の『役割』を考えれば追いかけるべきだったろうし、自分の心情のままに動くなら彼女を止めるべきだったろう。

 しかしそのどちらもしなかったのは、身体が動かないからだ。失血の気だるさはまだ男の手足に残っており、せいぜいが立ち上がるぐらいだろう。ましてや追いかけることなど困難以外の何物でもない。

 男は自分の手を見下ろした。おもりを付けたように重い手は、先ほどまで少女の華奢で脆い身体に触れていた。

 その手で少女の細い首を折ることも、心臓を抉り取ることも、小さな頭を握り潰すこともできた。男の手は、そうするためのものだったし、そうすることが簡単なほど少女はもろかった。

 だが、男はそうしなかった。触れ合うほど傍にいたのに、男は『役割』を果たさなかった。

「…………」

 男は目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、少女の白い姿だ。

 血に濡れてなお白い、白百合に似た姿。穢れない白銀は、男にとって犯しがたい輝きを放っていた。

 初めて見た時、遠くから彼女の姿を認めた時から、男は悟っていた。この少女は穢しがたいものだと。自分が触れるべきものではないと。

 だから、逃げた。少女に近付くことを避けた。理性的な考えではない。本能的な忌避感からだ。

 なのに、少女は男の前に現れて、やすやすと近付き、血に濡れることも構わず触れ、それでもなお自分は穢れないと言い放った。

 近付いてきた時点で男にとっては驚愕ものだったのだが、それからは混乱の連続だった。顔にも態度にもそれほど出ていなかったが、男にとっては正常な思考を保てないほど困惑していたのである。まともに受け答えできたのは、ほとんど条件反射だった。

 時間にすればほんの数分。その数分は、衝撃の嵐だった。

「……私は……」

 男は口を開いた。だが、それ以降は続けられない。そのまま口を閉ざし、眉をひそめる。

「……はい。もうしわけありません……いえ、そのようなことは」

 次に開いた口からは、誰かに向けられた内容だった。だが、この空間には男以外いない。少女が戻ってきたわけではなく、真実彼ひとりである。

 だが男はその誰かに向けた言葉を続けていたし、その誰かの話に耳を傾けているかのごとく相槌を打っていた。まるで目の前に会話の相手がいるかのごとく、あるいは――遠く離れた何者かと言葉を交わしているかのような。

 そうするごとに、男の瞳から熱が消えていく。少女に向けていた温かみが凍りついた時、男はようやく立ち上がった。その立ち姿は力強さからはほど遠いが、周囲のものを引き裂く獣の威圧と、何もかもを飲み込まんとする闇の底知れなさが混在していた。

 それでも、誰かに向けていた相槌を辞め、誰かに向けていた言葉を止めた声は、ただ少女に向けたぬくもりを保っていた。

「……私は、殺せない。…………殺させない」


    ―――


 走る。走る。走る。馬は主の意思を受け、その健脚を遺憾無く発揮する。しかし、主たるミゼリアの表情は、晴れやかからはほど遠かった。

 駆けるごとに不安は募る。

 進むごとに恐怖は広がる。

 馬を駆るミゼリアの顔は、心に巣食う負の感情によって彩られていた。むしろ馬が前進するごとにますます表面化していっている。

 ミゼリアの胸に宿るのは、無形の予感である。

 明確になっていない、色も輪郭も無い、漠然としたもの。解ることは、それがとてつもない不吉な意味を孕んでいるということだけ。

 ミゼリアは押し潰そうとしてくるそれに、必死で抵抗した。それが伝わったのだろうか、愛馬も脚を速めていく。

 どれほど走ったのか。普段なら忘れることのない時間や距離の経過も解らなくなった頃、ようやく見慣れた城が見えてきた。

 白い壁が美しい繊細な外観の城である。周囲を深く広い堀と高い壁で囲われており、その水面に日の光が反射してなお一層城を輝かせている。平原の中にぽつんと存在するその姿は幻想的ですらある。

 ミゼリアは正面の重厚な城門の前まで来て馬を止めた。止めざるをえなかった。

 勿論、門を開けてもらうには一度止まらなければならない。城の状況を一刻も早く確かめるために、自力で入れる抜け道ではなく、門番のいる正門に来たのだ。話を聞くにしても城に入るにしても、馬は止めなければ始まらないだろう。

 だがミゼリアが馬を止めたのは、そんな打算からではない。


 互いを槍で貫き合った、門番の姿があったからだ。


 ミゼリアは愕然とする。馬上から、ふたつの肉と金属の塊を呆然と見下ろす。

 門番はそれぞれ喉を正確に貫かれていた。互いに示し合わせて、相互容認した上で行ったと言わんばかりに誤り無く。

 ミゼリアは戦に従事する騎士の娘であり、幼いながらも戦の一要素を担う女神の徒のひとりである。血や死体で動じるほどか細い神経をしていないし、それを目の当たりにする覚悟は幼いながらしっかりできていた。

 しかしこの死体の異様さには、言葉を失うしかなかった。

 ミゼリアは門を見る。鉄の大扉は閉ざされたままだ。開いている様子も、開いていた名残も無い。

 ミゼリアはしばし迷った後、結局城の抜け道に向かった。正門は内側からしか開けられない仕組みになっているし、よしんば外から侵入する方法があるとしても、年端もいかぬ少女にできることではないだろう。



 抜け道から入った城の中もまた、異常な惨状だった。

 互いを斬り合った騎士達、ナイフで割腹した侍女、高所から飛び降りたらしい小間使い――

 皆が皆、何らかの形で死んでいた。それも、相討ちか自決のどちらかである。

 白い城は、紅黒く染め上げられていた。美しい純白は見る影も無い。

 おそるおそる歩いていた足は、いつしか早足になっていた。間を置かずに走る動作へと移行する。

 足や裾が汚れることを気にかける暇は無い。気にする神経はもとより持ち合わせていない。恐怖はすでにないが、その分焦燥が上乗せされている。足をせかすのはただそれだけである。

 進むごとに身体にまとわりつくのは、不快なほど淀んだ空気だ。血臭ではない、もっと古い、腐りきった肉の臭いにも似た、気分の悪くなるような空気だった。それが一層焦燥に拍車をかけている。

 向かうのは父がいるだろう執務室だ。父の無事な姿を確認することだけが、今のミゼリアにとって唯一心を鎮める方法だった。けれど、すでに予想はしていた。内心では諦めていた。

 はたして――立ち止まった扉の奥は、血の海だった。

 床も壁も天井も紅に染まった広い部屋。上等な机や本棚、毛足の長い絨毯も、変色していない場所など無い。そんな紅い部屋に倒れているのは、物言わぬ肉塊達だ。人の形をした、人でないもの。

 生きた時と同じ姿のものはない。この部屋には物体しかない。

「……お父様……?」

 否、違う。

 一つだけあった。ひとりだけ、いた。

 部屋の奥、騎士服を真っ赤に染め上げた男。

 ミゼリアの父――ズウェルだけが生きていた。

 自分の腹を剣で突き刺し、うずくまりながら、それでもズウェルは息をしていた。確かな心臓の鼓動を刻んでいた。

 何より、光の消えぬ瞳で、娘を見つめていた。

「ミゼリア……あぁ、おまえは無事か」

 よかった、と吐息と共に呟く父に、ミゼリアは駆け寄った。

 ズウェルの傷は腹部の自傷だけではなかった。全身の数多くの傷は、おそらくこの部屋に転がる者達によって斬り刻まれたものだろう。服は色も形も原型を留めていない。足元に落ちている剣が誰によって使われたかは、推測するまでもなかった。

 確認するまでもなく、ズウェルはもう死に体だ。命を失うことはあっても、それを取り戻すことはできない。

「っ、すぐ傷をっ」

 それでもミゼリアは、父の命を諦めようとはしなかった。

 つい先ほど黒衣の男になしたように、傷を治せば父は助かるものと短絡的に考えた結果である。彼女にはそれを行うだけの力があった。

 だが。

「やめろ」

 父は向けられた両手を押しとどめた。黒衣の男の拒絶をものともしなかったミゼリアは、父の拒絶に身をすくませる。

「私はもう、助からんよ。傷を治したところで、もう手遅れだ」

「そんなっ」

 ミゼリアが上げたのは悲鳴に近かった。娘の声に、ズウェルは顔を哀しげに歪めるしかない。

「すまない……だが、もはや死ぬほか無い私のために、おまえまで(、、、、、)死ぬことになる(、、、、、、、)だろうことを考えると……無駄なことをさせるわけには……」

 奇妙なことを囁いた後、ズウェルは血の塊を吐き出した。飛沫が頬にかかるが、ミゼリアに気にする余裕は無い。それどころか父にすがりつき、白い服を血に濡らした。

「どういうことですか、お父様、一体何があったのですか?」

「ミゼリア、聞け」

 ぜいぜいと荒い息を吐きながら、父は娘の肩を掴んだ。厳しい眼差しに反して、その手は弱々しく、ほとんど添えているのと変わりない。

あれ(、、)の狙いはおまえだった。我らが神の加護を受けたおまえを殺そうと……」

「何……何を言っているのですか? あれとは何ですか? どうして私は殺されなくてはならないのですか? どうして私、私が狙われたのに――皆が死んでいるのですか?」

 ミゼリアは父の言葉が何一つ理解できない。受け入れられない、認知できない。

 どうして自分が狙われているのか、どうして父や城の者が死ななければならないのか。

 どうしてこんなことになっているのか、全く解らない。

「狙われたのはおまえだが、私達の死とて、奴にとっては意味の無いことではなかったのだ……いや、奴ではなく、奴の手を借りたあの方が……」

「それは、どういう」

「詳細を語る時間は無い。何より、無知であることが、とりあえず今はおまえを守ってくれるだろう……おまえなら、おのずと答えに、たどり着け、る……それから」

 ズウェルは、ミゼリアに大振りな飾りの付いたペンダントを押し付けた。複雑な細工の銀のペンダントは、血に濡れてなお輝き、白い繊手の中に落ちる。

「これ、お父様の……」

 ミゼリアの手の中に納まったのは、父が肌身離さず身に着けているものだ。この地を治める者に代々伝わる、神秘の力を持った品である。

 それがこの手に渡ったことが、ミゼリアは信じられない。

 なぜなら、もっと先のことになるだろうと思っていたから。

 自分が真に一人前になってからだろうと考えていたから。

 喜びは無い。感慨も湧かない。あるのは、どうしようもなくなってしまったのだという確信。

 そこに込められた意味など解らない。

 そこに秘められた意思など読み取れない。

 脳に染みわたったのは、これが最期だということだけ。

 父の最期であり、父娘の最後なのだと――

「ミゼリア」

 父は娘の頬を撫でた。ぬるりとした感触が、ミゼリアの頬を伝う。

「どうか、生きてくれ」

「お父様」

「生きて、生きてくれ、生き、て、くれ……」

 ずるり、と父の腕が落ちる。父の瞳がどろりと混濁する。父の大柄な身体が傾ぐ。

 父の、父の、父の――

「……お父様?」

 水音を上げて紅い池に沈む肉の塊。そこにはもう、命のひとかけらも無い。

 この部屋の生命は、ミゼリアただひとり。否、部屋どころかこの城の全ての生命は、少女以外に無い。

 鮮やかな深紅の中、白銀の少女は呆然と、いつまでもそこにいた。


 初めましての人もそうでない人も、こんにちは、沙伊です。

 『白銀の剣』、いかがでしたでしょうか。っと言ってもまだプロローグなんですけど。

 プロローグにはかけらも見当たりませんが、この話はタグにもある通りいわゆる架空戦記ものです。次回からそれらしい部分が出てくると思います。

 作者は二次創作やちゃちなファンタジーしか書いたことのない人間ですが、精いっぱい書いていくつもりですので、温かい目で見守ってください。

 読んでいただきありがとうございます。次の話も読んでいただければ幸いです。

 では。

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