序章:私を雇ってください
「何でついて無いんだろ…」
井戸辻 綾は悩んでいる事を思わず口にした。一人言で済ますには声が大きく、誰かに聞かせるには小さい声。と言っても、誰に聞かせる訳でもない。
誰かに自分の悩みを打ち明けてしまいたいのが、本音ではある。
此処はとあるコーヒーチェーン店で、店舗の道路に面したカウンター席。平日の午前中という客の少ない時間に綾は居た。
いつもの綾だったら通常通りに出社して、溜まっている伝票処理を鬼の様な形相でパソコンと睨み合う時間だ。それなのに今日は駅前のこの店で、呆けた顔をしながら甘いクリームの乗ったフラペチーノを飲んでいる。
別にサボって居る訳ではない。
ちゃんとスーツを着込んで、メークもビシッと決め込んで意気揚々と家を出たのだ。
それなのに…綾が勤める会社が入っているオフィスビルに入ると、何処と無く嫌な予感がした。直感めいたモノだが、重苦しい空気が漂っている感じがする。
エレベータに乗り込み、オフィスがある階までの釦を押すと、何時もなら二人三人は同じ会社の人間が居るものだが…今朝は綾だけだった。
珍しい事が有るものだ、と思いながらエレベータを降りると、何やらフロアの一角が騒がしい。
突き当たり迄来ると、うちの社員がオフィスに入らず、入り口前で携帯やひそひそ話で騒然としていたのだ。
「…おはようございます。」
恐る恐るだが、綾は騒がしい中で話せそうな人に声を掛けた。電話の電源を切り、ふぅと溜め息をつく営業部の課長、船田にだ。
「おお!井戸ちゃん。今日は未だオフィスに入れないんだよ…」
「一体どうしたんです?何で中に入れないんですか?総務が鍵を開け忘れたとか?」
船田は渋い顔をして、チラリとオフィスの扉に視線を寄越す。そこには一枚のA4の用紙が貼られていた。
「いやさ、それ処じゃないんだよね…」
綾の中の危険信号は一気に最高レベルに達し、脳内でアラームが鳴り響く。それだけ悪い予感はした。
“本日を持ちまして当社は倒産となります”
社長の署名、捺印が押された紙がオフィスのドアに丁寧に貼られていたのだ。
社員の間を縫ってオフィスの扉まで来たが、思わず綾はこの用紙を二度見してしまう。自分の仕事が無くなったんだ…と理解するには時間が掛かったのである。
「俺らの仕事…無くなっちゃったね。」
で、ここに居る社員は取引先に御詫びの電話を掛けまくる営業部の者達と、社長の行方を探す総務の者達で、狭い廊下に犇めきながら騒いでいたと言うことになる。
何とか船田の元に戻った綾の顔は引き吊っていたに違いない。と言うか、船田の顔も老け込むほど疲れていた。
「話は判りましたけど…入れないんですか?」
「どうやら鍵を社長が持って逃げちまったらしい。スペアもないから大騒動なのさ。」
船田の話では、最後まで事務所に残って仕事をしていたのは船田自身だった。書類に追われ、粗方の整理が終わったので帰ろうか、と思った矢先に事務所に現れたのは社長だった。
一人事務所に居た船田に労いの言葉を掛けると、本題を切り出したのだと言う。
「君はこのオフィスの鍵を持ってないかね?」
一瞬だが、船田の脳裏には疑問符が浮かんだと話した。社長が夜遅くに現れる事も異例だが、施錠の確認をする事など聞いたこともない。
そう疑問を思いながらも、鍵は総務部長の机上に有る事を伝えたのだ。
「君は仕事の目処がついたのかね?ここは私が施錠をしていくから、君はもう上がりたまえ。」
「いやしかしですよ、社長を置いて帰宅するなどとは…」
しかし当人はにこやかに首を振るだけで、
「良いんだよ。明日の銀行への融資を依頼する際に必要な書類を忘れたのを思い出してな…部屋で片付けるから君は早く上がりなさい。」
船田は、社長から追い出されるように会社を出た訳だが、どうも腑に落ちなかった。
今までも社長が夜遅くにふらりとやって来て、会社の戸締まりを率先してやるようなタイプの人間とは思えなかったからだ。
社長が捕まらない、鍵もない、有るのは廃業宣言を告げる張り紙だけ…
「…これで私達、無職ですか?」
綾の何気無い一言が、フロアでざわついていた社員を黙らせた。瞬間的にシーンと静まり返り、一斉に綾の方を見た。
なんとも言えない空気の重さ。
「そうだ!ハローワーク行かないと!」
一人がハッと我に反ったのか、「そうだそうだ」とフロアで騒いでいた連中が我先にとエレベータ急ぐ。
残されたのは綾と船田だけだ。
「何やってんだか…」
「課長は…良いんですか?」
冷静に見送る船田は、慌てるでもなく何処かノンビリとしている。ただそれは諦めの境地に達しただけにも見えた。
「ほらさ、今回の件は俺も社長に会った最後の人間だしさ、上役を待ってみるよ。」
「確かに…常務や部長、次長の姿が見えませんものね。」
「だろ?何か知ってるんじゃないかな。まぁ、俺がここで出来るのは…上役への連絡と待機、お客から来る電話の対応かな?
井戸ちゃんは喫茶店でも行ってなよ、何かあれば携帯に連絡を入れるからさ。」
そう言って船田はジャケットの内ポケットから携帯を取り出すと、綾の目の前で振って見せた。
本音を言えば、綾も自分のデスクには私物があるし、船田と一緒に待っていても良かったのだが…自分もこれからの事を考えると、居残っても…という気になる。
そんな経緯でコーヒーショップで愚痴を言っていた次第だった訳だ。
だが、こんな日はついていない事が重なる事が多い。
綾は手短に会社のフロアで起きた事を、付き合っている彼氏にメールを送ったのだが…返信が一切無い。
いつもなら、彼はどんなに忙しくても10分以内に返してくるのに、一通も帰ってこないのだ。
それどころか返ってくるのは“メール先がございません!”と意味する英文が表示されるのだ。
あれ?あいつアドレス変えたっけなぁ?昨日までは普通にメール出来たのに…
綾に黙ってメールアドレスを変える意味など…いや、変な架空請求のメールが届くから変えたとか?それなら何故、綾にその連絡を入れない!
頭の中は様々な疑問と悪い予感で、一気にパニックに陥っていた。
(そ、そうだ!お店!)
彼氏はオーナーになるんだ!と夢見て、店舗経営のシミュレーションを繰返し、銀行の融資を受けられると言っていた。
なんとかテナントも見つけ、オープン間近まで漕ぎ着けたのだ。
そんな頑張る彼の助けになろうと同棲し、貯金をしていた内の200万を貸した上に、連帯保証人のサインまでした。
そこなら彼は居るかもしれない。
彼は綾と同じ大学の先輩で、学業そっちのけで飲食店のバイトに明け暮れ、副店長の地位まで上り詰めた逸材だ。
卒業後は厨房機器のメーカーに就職すると、店の出店計画を立てながら着実に店舗経営を目指していたのである。
当然、綾は彼と結婚しオーナーの夫人の座を射止める為に先行投資として同棲も、開業資金も、連帯保証人にもなったのだ。
「…現在、この電話は使われておりません。」
感情も抑揚もない無機質なアナウンスが現実だった。綾の頭は真っ白になる。
番号の掛け間違い?いや、それはない。あいつはこの番号で店から電話を掛けてきたこともある。
家を出るとき“今日はゆっくりできるから”と、布団に潜る彼を見た。
まさか、と思って自宅に電話するも、流れるのは留守を知らせる応答メッセージだけだ。
電話を切ると、自分を落ち着かせる為にコーヒーを啜る。もう味なんて解らない。度重なるアクシデントのせいで喉が渇いていた。
「今日の運勢…一位だったんだけどな」
出社前の儀式として、朝の報道番組の星占いコーナを見るのが日課。その結果と反する現実を呪うかのように呟いた。