元聖女お家に帰る
第一話 聖女、辞めました
その朝。
ビクトリア・レムコ・モルガンは、聖女ではなくなった。
何か大きな音がしたわけではない。
世界樹が枯れたわけでもない。
神殿に神託が降りたわけでもない。
ただ、二十五歳になった。
それだけだった。
◇
レムコ聖王国で聖女となるには、三つの条件がある。
一つ。
王家の血を引いていること。
二つ。
十歳までに王城後宮にある世界樹の庭へ入り、そこに棲む聖獣の加護を受けること。
そして三つ。
十三歳の立身の儀において、聖女の力を発現すること。
すべてを満たした少女は二年間の準備期間を与えられ、十五歳で神殿へ上がる。
そこで初めて、正式な聖女となる。
ビクトリアもそうだった。
母はレムコ聖王国の王女にして元聖女。
父は隣国マチュー王国の大商人。
ビクトリア自身も幼い頃に世界樹の庭を訪れ、聖獣の加護を受けた。
十三歳。
立身の儀。
聖女の力は発現した。
そして十五歳で神殿へ上がった。
以来、十年。
治癒。
祈り。
鍛錬。
来訪者。
儀式。
そして、ときどき死ぬほど退屈な式典。
すべて務めた。
そして二十五歳になった朝。
力は消えた。
◇
ビクトリアは自分の右手を見る。
昨日までなら。
ほんの少し意識するだけで、掌に暖かな光が宿った。
傷を塞ぎ。
失われた肉体さえ再生する。
聖女の力。
だが今は。
「……出ない」
何も起きない。
もう一度。
「んー……」
何も起きない。
「お嬢様」
後ろから声がした。
「無理をなさいませぬよう」
「分かってるわ、ロッテ」
振り返る。
そこにいるのは、十年以上ビクトリアの身の回りを世話してきた侍女だった。
姿勢。
言葉遣い。
礼法。
服装。
髪。
何一つ乱れがない。
完璧な侍女。
ロッテ。
「本当に消えるのね」
「そのようでございます」
「昨日まで使えたのに」
「それが聖女というものでございましょう」
「不思議」
ビクトリアはもう一度手を見る。
寂しくない、と言えば嘘になる。
十年間。
当たり前のようにあった力だ。
だが。
これで終わった。
聖女は、その力を失った時に引退する。
ビクトリアの場合、それが今日だった。
「じゃあ」
立ち上がる。
「帰りましょうか」
「はい」
ロッテは、それが当然であるかのように頭を下げた。
「お嬢様」
◇
荷造りはほぼ終わっていた。
神殿の裏手には二台の馬車が並んでいる。
箱馬車。
荷馬車。
「お嬢様」
御者台から二人の男が降りた。
顔がそっくりだった。
双子と言われれば、誰でも納得するだろう。
違うのは髪型くらい。
短く切り揃えたボブカットがアダム。
後ろで束ねたポニーテールがサイモン。
「積み込みは完了しております」
アダムが言う。
「馬の状態も良好です」
サイモンが続けた。
「ありがとう」
ビクトリアは荷馬車を覗く。
「忘れ物は?」
「ございません」
「本当に?」
「ロッテ殿が三度確認しております」
「じゃあ大丈夫ね」
ビクトリアは笑った。
この三人とは長い。
聖女になってからの十年間。
ほとんど毎日、一緒にいた。
正確には。
出会ったのは、それより少し前。
十三歳で聖女の力を発現した後だった。
◇
父方の祖母。
マリア・ポガチャル・モルガン。
ビクトリアに商売を教えた人だった。
物の値段を知ること。
それが商売。
祖母について魔法学者の蔵出し鑑定へ出向いたとき、ビクトリアは三体の古い人形を見つけた。
四百年前の廃城から発掘されたもの。
由来不明。
製作者不明。
ただ古い。
それだけの品。
だが。
ビクトリアが触れた時。
三体は目を覚ました。
聖女の力に反応したのだ。
それから二年。
十五歳になり、神殿へ上がる日。
三体は人の姿ではなかった。
荷物だった。
箱に収められた三体の人形として、ビクトリアの私物と一緒に神殿へ運び込まれた。
そして私室に入った後。
三体は人の姿を取った。
侍女ロッテ。
護衛アダム。
護衛サイモン。
神殿側は、三人をモルガン家から連れてきた使用人だと思った。
モルガン家では、神殿がビクトリアにつけた使用人だと思った。
誰も疑わなかった。
だから十年間。
三人はずっと、ビクトリアのそばにいた。
◇
「お嬢様?」
ロッテの声で、ビクトリアは我に返った。
「なに?」
「出発の前に、何かなさることがあったように記憶しておりますが」
「……何かあった?」
「国王陛下へのご挨拶」
沈黙。
「あ」
アダムとサイモンが同時に目を逸らした。
「忘れてた」
「左様でございますね」
「どうしよう」
「王城へお戻りになりますか?」
ビクトリアは王城の方向を見る。
ここから行って。
謁見を申し込んで。
待って。
叔父である国王と話をして。
たぶん今後についていろいろ聞かれて。
「…………」
故郷は反対方向だった。
「手紙にしましょう」
「お嬢様」
「ちゃんと書くから」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
「左様でございますか」
「帰りたいの」
十年。
十分働いた。
もう聖女の力もない。
「お父様と、お母様と、お祖母様に会いたい」
ロッテはしばらく主人を見る。
そして。
「承知いたしました」
いつものように頭を下げた。
◇
二台の馬車が動き始める。
神殿の門を出る。
ビクトリアは箱馬車の窓から振り返った。
十五歳から二十五歳まで暮らした場所。
十年間。
長かった。
「お嬢様」
「なに?」
「窓から身を乗り出すのはおやめくださいませ」
「これくらいいいでしょう」
「お嬢様」
「はいはい」
「『はい』は一度でございます」
「はい」
向かいに座ったロッテが満足そうに頷く。
ビクトリアは笑った。
「ねえ、ロッテ」
「はい」
「これからは私、ただのお嬢様よ」
「元聖女でございます」
「それは終わったの」
「レムコ王家の血もお持ちでございます」
「それは忘れましょう」
「モルガン家のご令嬢でもございます」
「それでいいの」
ビクトリアは胸を張った。
「普通のお金持ちのお嬢様」
「…………」
「何よ、その顔」
「何も」
「絶対何か思ったでしょう」
「滅相もございません」
御者台から笑い声がした。
「アダム!」
「私は何も」
「サイモン!」
「私も何も」
「二人とも笑ってるじゃない!」
二台の馬車は進む。
マチュー王国まで。
およそ二月。
元聖女ビクトリア・レムコ・モルガンの帰郷の旅は。
こうして始まった。
第二話 元聖女、市場へ行く
最初の町に着くなり。
「市場!」
ビクトリアは箱馬車の窓に張りついた。
「先に宿でございます」
「市場が閉まる」
「お部屋がなくなります」
「市場」
「宿」
「…………」
「…………」
「分かったわ」
最初の攻防はロッテが勝った。
◇
宿を取り。
馬に水を飲ませ。
蹄と車輪を確認し。
ようやく市場へ出る。
ビクトリアの機嫌は、一瞬で良くなった。
野菜。
肉。
布。
革。
陶器。
金物。
「いいわね」
「大変嬉しそうでございます」
「十年ぶりなのよ」
神殿にいる間にも商品を見る機会はあった。
だが、自分の足で市場を歩くのとは違う。
「これ、いくら?」
「五本で銅貨四枚だよ」
「高い」
野菜売りの顔が引きつった。
「お、お嬢さん?」
「王都なら三枚だったわ」
「今年は雨が――」
「でもここは産地に近いでしょう? 王都までの運送費がないのに?」
店主が黙る。
ビクトリアは根菜を見る。
太さ。
泥。
葉の切り口。
「今年物よね?」
「……そうだよ」
「やっぱり高い」
「お嬢様」
ロッテが袖を引く。
「お買いになるのでございますか?」
「買わない」
「でしたら、なぜ値切っておられるので?」
「値切ってないわ。値段を確認してるの」
店主が困惑した。
◇
革製品。
ビクトリアは手袋を曲げる。
裏を見る。
縫い目を見る。
「丈夫。でも硬い」
「作業用だからな」
「いくら?」
聞く。
「安い」
「今度は安いのかい」
「これなら鉱山で売れるでしょう。木こりでもいい」
店主がビクトリアを見る。
「商人なのか?」
「娘」
「商人の?」
「そう」
ビクトリアは少し得意になる。
「穀物商」
「どこの商会だ?」
「モルガ――」
「お嬢様」
ロッテが咳払いした。
「あ」
危ない。
「……遠いところ」
「そりゃ見れば分かるよ」
◇
陶器店では、丈夫な壺を見つけた。
「十個ください」
「お嬢様」
「なに?」
「荷馬車に入りません」
「五個」
「二個」
「四個」
「二個」
「三個」
「二個でございます」
「三個」
ロッテと見つめ合う。
「……三個まででございます」
「よし」
「何が『よし』なのでございますか」
後ろでアダムとサイモンが笑っていた。
「二人とも。荷物を詰め直せば、もう一個――」
「入りません」
アダム。
「私も同意見です」
サイモン。
「裏切り者」
二人が同時に頭を下げた。
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてない」
◇
宿へ戻る途中。
街道の掲示板に注意書きがあった。
この先の森に盗賊。
「迂回すると?」
「二日ほど余計にかかります」
「二日……」
飼葉。
水。
食料。
宿代。
時間。
「もったいないわね」
「では?」
「普通に行きましょう」
「承知しました」
近くを通った商人たちが話している。
「森の手前で斥候を出すぞ」
「ああ。駄目なら通行料を払えばいい」
ビクトリアにも聞こえた。
だが。
「お嬢様。夕食でございます」
「あ、そうだった」
忘れた。
アダムも。
サイモンも。
ロッテも。
何も言わなかった。
第三話 元聖女、盗賊に襲われる
翌日。
街道を丸太が塞いだ。
森から出てきた男は十人。
剣。
槍。
弓。
「盗賊ね」
「左様でございます」
「じゃあ、お願い」
アダムが御者台から降りる。
「私一人でよろしいかと」
サイモンは馬を守る。
ロッテはビクトリアの横に立つ。
「命が惜しかったら――!」
盗賊の頭目が叫んだ。
「聞いてるわ」
「荷物を――」
一人の盗賊が先走った。
剣を抜いて走る。
アダムへ振り下ろす。
次の瞬間。
男が地面に倒れていた。
「……え?」
盗賊たちが止まる。
アダムは穏やかに微笑んでいる。
「次の方は?」
◇
あとは早かった。
十人。
アダム一人。
勝負というほどでもない。
剣を避け。
腕を折り。
武器を奪い。
必要なら斬る。
逃げる者は深追いしない。
数分後。
戦闘は終わった。
「待て!」
頭目が武器を捨てた。
「降参だ!」
ビクトリアが瞬いた。
「降参?」
「するに決まってるだろ!」
「盗賊が?」
「盗賊だって死にたくねえよ!」
話を聞けば。
彼らは最初から皆殺しにするつもりではなかった。
街道を通る商人から、少額の通行料を取る。
それで終わり。
「いくら?」
金額を聞いた。
ビクトリアの顔色が変わった。
「安いじゃない!」
「だから話を聞けって言ってんだ!」
「払ったのに!」
「じゃあ最後まで聞けよ!」
ビクトリアは本気で悔しがった。
「もったいない……」
ロッテが小さくため息をついた。
第四話 元聖女、村を値踏みする
森を抜けた先。
煙の出ていない煙突が並んでいた。
かつてガラスで栄えた村だった。
原料となる鉱石を掘り尽くし。
産業を失い。
人口は最盛期の半分以下。
若者は去り。
工房も倉庫も閉じている。
「何もねえ村だよ」
村の老人が言った。
「そう?」
ビクトリアは村を見る。
空き工房。
高温炉。
工具。
倉庫。
街道。
使われなくなった宿。
「ちょっと見せて」
◇
ビクトリアは一日歩いた。
見た。
触った。
聞いた。
値段を尋ねた。
材料を尋ねた。
製作時間を尋ねた。
誰が作れるのか尋ねた。
そして。
ガラスを作るために百年以上蓄積された技術を見つけた。
研磨用の砥石。
耐熱手袋。
丈夫な革作業着。
細かな金属加工。
高温炉の補修。
「ガラスはもう無理」
村人たちの顔が沈む。
「でも」
ビクトリアは砥石を置いた。
「あなたたちが持っているのは、ガラスだけじゃないわ」
◇
砥石を鍛冶職人へ。
手袋と作業着を鉱山へ。
まず少量を持ち込み、試させる。
売れる。
注文を取る。
前金を取る。
その前金で材料を仕入れる。
「お嬢さんの金を使うんじゃないのか?」
「どうして?」
ビクトリアは不思議そうに答えた。
「お客のお金があるでしょう?」
前金で革を買う。
村人が縫う。
鍛冶屋が工具を直す。
倉庫が開く。
御者に仕事ができる。
賃金を受け取った者がパンを買う。
酒を買う。
靴を買う。
止まっていた金が動き始める。
「村を救った上に利益まで出しております」
ロッテが帳簿を見て言った。
「救ってないわよ」
ビクトリアは答えた。
「安く売っていたものを買って、高く売っただけ」
「左様でございますか」
「商売でしょう?」
◇
最後に村の商会を作らせた。
「私がいなくなったら終わるもの」
売り先。
仕入れ。
帳簿。
契約。
すべて村へ渡す。
出発の日。
村長が小さな青いガラス玉をくれた。
「昔、この村で作った最後の残りだ」
「そんな大事なもの」
「あんた、何にでも値段をつけるんだろ?」
「だいたいは」
「じゃあ、それの値段を考えてくれ」
ビクトリアは困った。
材料としてなら安い。
美術品としても大したものではない。
なのに。
「……分からない」
初めてだった。
「いただくわ」
「ああ」
「大切にする」
ビクトリアは青い玉をしまった。
第五話 元聖女、五十人に囲まれる
数日後。
二台の馬車は森の中で完全に包囲された。
前を倒木。
後ろも倒木。
斜面には武装した男たち。
「五十一名」
ロッテが数えた。
「今度は話を最後まで聞く」
「成長なさいましたね」
「でしょう?」
◇
話は聞いた。
要求も聞いた。
馬車と荷物を全部置いていけ。
「嫌です」
交渉決裂。
「今度は最後まで聞いたわよね?」
「はい」
「じゃあお願い」
アダムとサイモンが降りる。
だが五十一人。
弓もある。
馬を守らなければならない。
「十体出しましょう」
荷馬車が開く。
小さな人形が十体。
地面へ飛ぶ。
「展開」
人間ほどの大きさになる。
身長百七十センチ。
手には一メートル半の棒。
「馬車防衛」
十体が一斉に動いた。
◇
戦闘は十分ほどだった。
衛兵人形は棒で戦闘能力を奪う。
腕。
膝。
武器。
必要な殺傷はアダムとサイモンが担当する。
五十一人。
壊滅。
最後に残った頭目がビクトリアを見る。
「一つ教えろ」
「なに?」
「なんで斥候を出さねえ?」
「斥候?」
頭目が怒鳴った。
「普通は戦わねえんだよ!」
ビクトリアが黙る。
「五十人待ってるところへ、馬車二台で突っ込んでくる馬鹿がいるか!」
「でも勝ったでしょう?」
「そういう話じゃねえ!」
斥候を出す。
見つける。
引き返す。
迂回する。
待つ。
交渉する。
「戦える奴がいるから、危険がねえと思ってる」
頭目が言った。
「違うぞ」
ビクトリアは黙って聞く。
「戦いになった時点で、もう何か失敗してんだ」
馬が死ぬ。
車輪が壊れる。
荷物が燃える。
矢が一本。
ビクトリア自身に当たるかもしれない。
今のビクトリアには。
もう傷を治す聖女の力はない。
「強いから戦えばいいってのは」
頭目が目を閉じる。
「馬鹿の考えだ」
◇
「ロッテ」
「はい」
「私、馬鹿だった?」
「旅については」
「はっきり言うわね」
「お尋ねになりましたので」
「アダム。サイモン」
「はい」
「これから斥候を出しましょう」
「承知しました」
一つ。
旅を覚えた。
第六話 元聖女、国境を越える
そして。
マチュー王国との国境。
「帰ってきた……」
まだ門の手前なのに。
ビクトリアは少し泣きそうになった。
十年。
長かった。
◇
国境審査。
「名前は?」
「ビクトリア・レムコ・モルガン」
兵士の顔が変わった。
「レムコ?」
「はい」
「身分証を」
「これが一番確実ね」
ビクトリアは鞄から徽章を出した。
白金色。
世界樹。
聖獣。
王冠。
神殿。
「聖女の証です」
ロッテが目を閉じた。
「お嬢様」
「なに?」
「それは、お出しにならないほうが」
「え?」
遅かった。
「門を閉めろ!」
「え?」
鐘が鳴った。
「通行を止めろ!」
「ええ?」
◇
国境砦。
ビクトリアは怒られていた。
「なぜ聖女の証をお持ちなのです!」
「返すのを忘れました」
「忘れた!?」
「はい」
「国王陛下への退任挨拶は?」
「それも」
「忘れた!?」
「……はい」
官吏が頭を抱えた。
◇
だが。
確認すればするほど、ビクトリアを止める理由はなかった。
二十五歳。
聖女の力は完全に喪失。
したがって聖女を引退。
神殿からも正式に退任している。
犯罪なし。
処罰なし。
国外退去でもない。
国王から出国を禁じる命令もない。
十年間の奉仕も終えている。
「なぜ国外へ?」
官吏が尋ねる。
「家に帰るからです」
「…………」
「十年働きました」
「存じています」
「聖女の力も、もうありません」
「はい」
「だから」
ビクトリアは少し身を乗り出した。
「お家に帰るのを止めないでください」
あまりにも単純だった。
◇
聖女の証は手紙とともに神殿へ返す。
国王にも帰郷を報告する。
身元については問題ない。
父ヨナス・モルガン。
マチュー王国の大商人。
母エリザベス・レムコ・モルガン。
レムコ聖王国王の妹。
元聖女。
帰宅先まで明確。
「入国を拒む理由はありません」
マチュー側の役人が言った。
「帰れます?」
「はい」
「よかった!」
大声。
全員が見る。
「あ」
ビクトリアは姿勢を正す。
「……よかったですわ」
ロッテが満足そうに頷いた。
◇
最後に。
レムコ側の官吏が言った。
「ビクトリア殿」
「はい」
「ご自分の身分を、もう少し自覚なさったほうがよろしい」
「しています」
「本当に?」
「元聖女です」
「はい」
「国王陛下の姪です」
「はい」
「モルガン家の娘です」
「はい」
「だから普通のお金持ちのお嬢様です」
官吏が黙った。
「……前半と後半が繋がっておりません」
◇
門が開く。
二台の馬車が進む。
国境を越える。
「お嬢様」
ロッテが言った。
「マチュー王国でございます」
ビクトリアは窓を開けた。
景色は何も変わらない。
空も。
道も。
木々も。
なのに。
「帰ってきた!」
アダムとサイモンが振り返る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ロッテも頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
◇
同じ日の夕刻。
一人の男の前に、一枚の報告書が置かれた。
「名前が判明しました」
「読め」
「ビクトリア・レムコ・モルガン。二十五歳」
男の指が止まる。
「レムコ?」
「母親はエリザベス・レムコ・モルガン。現国王の妹。元聖女です」
「父親は?」
「ヨナス・モルガン。マチュー王国の大商人」
「……モルガン」
男は笑った。
「ポガチャル家の末裔か」
四百年前。
タデイ帝国の金融に巨大な影響力を持ち。
当時の皇帝の怒りを買い。
帝国から追放された商家。
ポガチャル家。
その血が、巡り巡ってこの女へ続いている。
◇
報告は続く。
元聖女。
十五歳から二十五歳まで十年間神殿に奉仕。
二十五歳で聖女の力を喪失し引退。
王家の血。
聖女を生む可能性。
大商人の娘。
最高位まで修めた身体強化。
人形遣い。
盗賊を撃破。
衰退した村では、既存の技術を商品へ転換。
販路を作り。
先に契約を結び。
前金で生産を回した。
「戦争には金が要る」
男が呟く。
「はい」
「戦争の後には、もっと要る」
剣で領土は取れる。
だが。
剣では市場を作れない。
税制を作れない。
物流を立て直せない。
荒廃した土地を再生できない。
「本人は自分の価値を?」
「理解していないようです」
「根拠は?」
「国境で自らを『普通のお金持ちのお嬢様』と説明しております」
男は笑った。
「なるほど」
◇
「殿下」
部下が尋ねた。
「どうなさいますか?」
男。
ログリッチ・G・タデイ。
タデイ帝国皇太子。
四百年戦争のない帝国を。
再び戦争へ向かわせようとしている男。
ログリッチは報告書を机に置いた。
「欲しいな」
「人形遣いとして?」
「それだけならいらん」
王家の血。
元聖女。
聖女となり得る子を産む可能性。
マチュー王国有数の商家。
ポガチャル家の血。
商才。
軍事力。
「これだけ揃った女を、敵側に置いておく理由がない」
「では?」
「妃にする」
部下が僅かに息を呑む。
「帝国皇太子妃に?」
「ああ」
「拒絶された場合は?」
「説得する」
「それでも?」
「条件を変える」
「それでも?」
ログリッチは少し考えた。
「殺すしかない」
怒りはない。
憎しみもない。
ただ計算だった。
「価値がありすぎる」
味方なら。
これほど便利な女はいない。
敵なら。
これほど面倒な女もいない。
◇
ただし。
ログリッチ・G・タデイの報告書には。
一つだけ。
決定的な間違いがあった。
侍女ロッテ。
護衛アダム。
護衛サイモン。
報告書には三人とも、
ビクトリア・レムコ・モルガンが絶大な信頼を寄せる、長年の使用人。
そう記録されていた。
◇
その頃。
箱馬車の中。
「くしゅん!」
「お嬢様」
ロッテが布を差し出す。
「窓を開けすぎでございます」
「だって故郷よ?」
「故郷と風邪には何の関係もございません」
「細かいわね」
御者台から笑い声。
「アダム、サイモン!」
「何も申し上げておりません」
「同じく」
「笑ってるでしょう!」
ビクトリアは頬を膨らませた。
「もう大変なことはないと思ったのに」
「ご実家までは、まだございます」
「でも自分の国よ」
窓の外を見る。
「ここからは安心でしょう?」
「左様でございますね」
ロッテが答える。
アダムも。
サイモンも。
何の疑いもなく、主人とともに故郷への道を進んでいく。
十年以上。
いつもそうしてきた。
これからも。
きっとそうする。
ビクトリアは知らない。
遠いところで。
自分を値踏みした男がいることを。
血統。
軍事力。
商才。
人脈。
将来生まれるかもしれない子供まで。
ほとんどすべてを正確に評価した男がいることを。
物の値段を知ること。
それが商売。
祖母からそう教えられたビクトリア自身が。
自分につけられた値段だけは、まだ知らなかった。
完




