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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

元聖女お家に帰る

掲載日:2026/08/30

第一話 聖女、辞めました


 その朝。


 ビクトリア・レムコ・モルガンは、聖女ではなくなった。


 何か大きな音がしたわけではない。


 世界樹が枯れたわけでもない。


 神殿に神託が降りたわけでもない。


 ただ、二十五歳になった。


 それだけだった。


     ◇


 レムコ聖王国で聖女となるには、三つの条件がある。


 一つ。


 王家の血を引いていること。


 二つ。


 十歳までに王城後宮にある世界樹の庭へ入り、そこに棲む聖獣の加護を受けること。


 そして三つ。


 十三歳の立身の儀において、聖女の力を発現すること。


 すべてを満たした少女は二年間の準備期間を与えられ、十五歳で神殿へ上がる。


 そこで初めて、正式な聖女となる。


 ビクトリアもそうだった。


 母はレムコ聖王国の王女にして元聖女。


 父は隣国マチュー王国の大商人。


 ビクトリア自身も幼い頃に世界樹の庭を訪れ、聖獣の加護を受けた。


 十三歳。


 立身の儀。


 聖女の力は発現した。


 そして十五歳で神殿へ上がった。


 以来、十年。


 治癒。


 祈り。


 鍛錬。


 来訪者。


 儀式。


 そして、ときどき死ぬほど退屈な式典。


 すべて務めた。


 そして二十五歳になった朝。


 力は消えた。


     ◇


 ビクトリアは自分の右手を見る。


 昨日までなら。


 ほんの少し意識するだけで、掌に暖かな光が宿った。


 傷を塞ぎ。


 失われた肉体さえ再生する。


 聖女の力。


 だが今は。


「……出ない」


 何も起きない。


 もう一度。


「んー……」


 何も起きない。


「お嬢様」


 後ろから声がした。


「無理をなさいませぬよう」


「分かってるわ、ロッテ」


 振り返る。


 そこにいるのは、十年以上ビクトリアの身の回りを世話してきた侍女だった。


 姿勢。


 言葉遣い。


 礼法。


 服装。


 髪。


 何一つ乱れがない。


 完璧な侍女。


 ロッテ。


「本当に消えるのね」


「そのようでございます」


「昨日まで使えたのに」


「それが聖女というものでございましょう」


「不思議」


 ビクトリアはもう一度手を見る。


 寂しくない、と言えば嘘になる。


 十年間。


 当たり前のようにあった力だ。


 だが。


 これで終わった。


 聖女は、その力を失った時に引退する。


 ビクトリアの場合、それが今日だった。


「じゃあ」


 立ち上がる。


「帰りましょうか」


「はい」


 ロッテは、それが当然であるかのように頭を下げた。


「お嬢様」


     ◇


 荷造りはほぼ終わっていた。


 神殿の裏手には二台の馬車が並んでいる。


 箱馬車。


 荷馬車。


「お嬢様」


 御者台から二人の男が降りた。


 顔がそっくりだった。


 双子と言われれば、誰でも納得するだろう。


 違うのは髪型くらい。


 短く切り揃えたボブカットがアダム。


 後ろで束ねたポニーテールがサイモン。


「積み込みは完了しております」


 アダムが言う。


「馬の状態も良好です」


 サイモンが続けた。


「ありがとう」


 ビクトリアは荷馬車を覗く。


「忘れ物は?」


「ございません」


「本当に?」


「ロッテ殿が三度確認しております」


「じゃあ大丈夫ね」


 ビクトリアは笑った。


 この三人とは長い。


 聖女になってからの十年間。


 ほとんど毎日、一緒にいた。


 正確には。


 出会ったのは、それより少し前。


 十三歳で聖女の力を発現した後だった。


     ◇


 父方の祖母。


 マリア・ポガチャル・モルガン。


 ビクトリアに商売を教えた人だった。


 物の値段を知ること。


 それが商売。


 祖母について魔法学者の蔵出し鑑定へ出向いたとき、ビクトリアは三体の古い人形を見つけた。


 四百年前の廃城から発掘されたもの。


 由来不明。


 製作者不明。


 ただ古い。


 それだけの品。


 だが。


 ビクトリアが触れた時。


 三体は目を覚ました。


 聖女の力に反応したのだ。


 それから二年。


 十五歳になり、神殿へ上がる日。


 三体は人の姿ではなかった。


 荷物だった。


 箱に収められた三体の人形として、ビクトリアの私物と一緒に神殿へ運び込まれた。


 そして私室に入った後。


 三体は人の姿を取った。


 侍女ロッテ。


 護衛アダム。


 護衛サイモン。


 神殿側は、三人をモルガン家から連れてきた使用人だと思った。


 モルガン家では、神殿がビクトリアにつけた使用人だと思った。


 誰も疑わなかった。


 だから十年間。


 三人はずっと、ビクトリアのそばにいた。


     ◇


「お嬢様?」


 ロッテの声で、ビクトリアは我に返った。


「なに?」


「出発の前に、何かなさることがあったように記憶しておりますが」


「……何かあった?」


「国王陛下へのご挨拶」


 沈黙。


「あ」


 アダムとサイモンが同時に目を逸らした。


「忘れてた」


「左様でございますね」


「どうしよう」


「王城へお戻りになりますか?」


 ビクトリアは王城の方向を見る。


 ここから行って。


 謁見を申し込んで。


 待って。


 叔父である国王と話をして。


 たぶん今後についていろいろ聞かれて。


「…………」


 故郷は反対方向だった。


「手紙にしましょう」


「お嬢様」


「ちゃんと書くから」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔に書いてある」


「左様でございますか」


「帰りたいの」


 十年。


 十分働いた。


 もう聖女の力もない。


「お父様と、お母様と、お祖母様に会いたい」


 ロッテはしばらく主人を見る。


 そして。


「承知いたしました」


 いつものように頭を下げた。


     ◇


 二台の馬車が動き始める。


 神殿の門を出る。


 ビクトリアは箱馬車の窓から振り返った。


 十五歳から二十五歳まで暮らした場所。


 十年間。


 長かった。


「お嬢様」


「なに?」


「窓から身を乗り出すのはおやめくださいませ」


「これくらいいいでしょう」


「お嬢様」


「はいはい」


「『はい』は一度でございます」


「はい」


 向かいに座ったロッテが満足そうに頷く。


 ビクトリアは笑った。


「ねえ、ロッテ」


「はい」


「これからは私、ただのお嬢様よ」


「元聖女でございます」


「それは終わったの」


「レムコ王家の血もお持ちでございます」


「それは忘れましょう」


「モルガン家のご令嬢でもございます」


「それでいいの」


 ビクトリアは胸を張った。


「普通のお金持ちのお嬢様」


「…………」


「何よ、その顔」


「何も」


「絶対何か思ったでしょう」


「滅相もございません」


 御者台から笑い声がした。


「アダム!」


「私は何も」


「サイモン!」


「私も何も」


「二人とも笑ってるじゃない!」


 二台の馬車は進む。


 マチュー王国まで。


 およそ二月。


 元聖女ビクトリア・レムコ・モルガンの帰郷の旅は。


 こうして始まった。


第二話 元聖女、市場へ行く


 最初の町に着くなり。


「市場!」


 ビクトリアは箱馬車の窓に張りついた。


「先に宿でございます」


「市場が閉まる」


「お部屋がなくなります」


「市場」


「宿」


「…………」


「…………」


「分かったわ」


 最初の攻防はロッテが勝った。


     ◇


 宿を取り。


 馬に水を飲ませ。


 蹄と車輪を確認し。


 ようやく市場へ出る。


 ビクトリアの機嫌は、一瞬で良くなった。


 野菜。


 肉。


 布。


 革。


 陶器。


 金物。


「いいわね」


「大変嬉しそうでございます」


「十年ぶりなのよ」


 神殿にいる間にも商品を見る機会はあった。


 だが、自分の足で市場を歩くのとは違う。


「これ、いくら?」


「五本で銅貨四枚だよ」


「高い」


 野菜売りの顔が引きつった。


「お、お嬢さん?」


「王都なら三枚だったわ」


「今年は雨が――」


「でもここは産地に近いでしょう? 王都までの運送費がないのに?」


 店主が黙る。


 ビクトリアは根菜を見る。


 太さ。


 泥。


 葉の切り口。


「今年物よね?」


「……そうだよ」


「やっぱり高い」


「お嬢様」


 ロッテが袖を引く。


「お買いになるのでございますか?」


「買わない」


「でしたら、なぜ値切っておられるので?」


「値切ってないわ。値段を確認してるの」


 店主が困惑した。


     ◇


 革製品。


 ビクトリアは手袋を曲げる。


 裏を見る。


 縫い目を見る。


「丈夫。でも硬い」


「作業用だからな」


「いくら?」


 聞く。


「安い」


「今度は安いのかい」


「これなら鉱山で売れるでしょう。木こりでもいい」


 店主がビクトリアを見る。


「商人なのか?」


「娘」


「商人の?」


「そう」


 ビクトリアは少し得意になる。


「穀物商」


「どこの商会だ?」


「モルガ――」


「お嬢様」


 ロッテが咳払いした。


「あ」


 危ない。


「……遠いところ」


「そりゃ見れば分かるよ」


     ◇


 陶器店では、丈夫な壺を見つけた。


「十個ください」


「お嬢様」


「なに?」


「荷馬車に入りません」


「五個」


「二個」


「四個」


「二個」


「三個」


「二個でございます」


「三個」


 ロッテと見つめ合う。


「……三個まででございます」


「よし」


「何が『よし』なのでございますか」


 後ろでアダムとサイモンが笑っていた。


「二人とも。荷物を詰め直せば、もう一個――」


「入りません」


 アダム。


「私も同意見です」


 サイモン。


「裏切り者」


 二人が同時に頭を下げた。


「お褒めにあずかり光栄です」


「褒めてない」


     ◇


 宿へ戻る途中。


 街道の掲示板に注意書きがあった。


 この先の森に盗賊。


「迂回すると?」


「二日ほど余計にかかります」


「二日……」


 飼葉。


 水。


 食料。


 宿代。


 時間。


「もったいないわね」


「では?」


「普通に行きましょう」


「承知しました」


 近くを通った商人たちが話している。


「森の手前で斥候を出すぞ」


「ああ。駄目なら通行料を払えばいい」


 ビクトリアにも聞こえた。


 だが。


「お嬢様。夕食でございます」


「あ、そうだった」


 忘れた。


 アダムも。


 サイモンも。


 ロッテも。


 何も言わなかった。


第三話 元聖女、盗賊に襲われる


 翌日。


 街道を丸太が塞いだ。


 森から出てきた男は十人。


 剣。


 槍。


 弓。


「盗賊ね」


「左様でございます」


「じゃあ、お願い」


 アダムが御者台から降りる。


「私一人でよろしいかと」


 サイモンは馬を守る。


 ロッテはビクトリアの横に立つ。


「命が惜しかったら――!」


 盗賊の頭目が叫んだ。


「聞いてるわ」


「荷物を――」


 一人の盗賊が先走った。


 剣を抜いて走る。


 アダムへ振り下ろす。


 次の瞬間。


 男が地面に倒れていた。


「……え?」


 盗賊たちが止まる。


 アダムは穏やかに微笑んでいる。


「次の方は?」


     ◇


 あとは早かった。


 十人。


 アダム一人。


 勝負というほどでもない。


 剣を避け。


 腕を折り。


 武器を奪い。


 必要なら斬る。


 逃げる者は深追いしない。


 数分後。


 戦闘は終わった。


「待て!」


 頭目が武器を捨てた。


「降参だ!」


 ビクトリアが瞬いた。


「降参?」


「するに決まってるだろ!」


「盗賊が?」


「盗賊だって死にたくねえよ!」


 話を聞けば。


 彼らは最初から皆殺しにするつもりではなかった。


 街道を通る商人から、少額の通行料を取る。


 それで終わり。


「いくら?」


 金額を聞いた。


 ビクトリアの顔色が変わった。


「安いじゃない!」


「だから話を聞けって言ってんだ!」


「払ったのに!」


「じゃあ最後まで聞けよ!」


 ビクトリアは本気で悔しがった。


「もったいない……」


 ロッテが小さくため息をついた。


第四話 元聖女、村を値踏みする


 森を抜けた先。


 煙の出ていない煙突が並んでいた。


 かつてガラスで栄えた村だった。


 原料となる鉱石を掘り尽くし。


 産業を失い。


 人口は最盛期の半分以下。


 若者は去り。


 工房も倉庫も閉じている。


「何もねえ村だよ」


 村の老人が言った。


「そう?」


 ビクトリアは村を見る。


 空き工房。


 高温炉。


 工具。


 倉庫。


 街道。


 使われなくなった宿。


「ちょっと見せて」


     ◇


 ビクトリアは一日歩いた。


 見た。


 触った。


 聞いた。


 値段を尋ねた。


 材料を尋ねた。


 製作時間を尋ねた。


 誰が作れるのか尋ねた。


 そして。


 ガラスを作るために百年以上蓄積された技術を見つけた。


 研磨用の砥石。


 耐熱手袋。


 丈夫な革作業着。


 細かな金属加工。


 高温炉の補修。


「ガラスはもう無理」


 村人たちの顔が沈む。


「でも」


 ビクトリアは砥石を置いた。


「あなたたちが持っているのは、ガラスだけじゃないわ」


     ◇


 砥石を鍛冶職人へ。


 手袋と作業着を鉱山へ。


 まず少量を持ち込み、試させる。


 売れる。


 注文を取る。


 前金を取る。


 その前金で材料を仕入れる。


「お嬢さんの金を使うんじゃないのか?」


「どうして?」


 ビクトリアは不思議そうに答えた。


「お客のお金があるでしょう?」


 前金で革を買う。


 村人が縫う。


 鍛冶屋が工具を直す。


 倉庫が開く。


 御者に仕事ができる。


 賃金を受け取った者がパンを買う。


 酒を買う。


 靴を買う。


 止まっていた金が動き始める。


「村を救った上に利益まで出しております」


 ロッテが帳簿を見て言った。


「救ってないわよ」


 ビクトリアは答えた。


「安く売っていたものを買って、高く売っただけ」


「左様でございますか」


「商売でしょう?」


     ◇


 最後に村の商会を作らせた。


「私がいなくなったら終わるもの」


 売り先。


 仕入れ。


 帳簿。


 契約。


 すべて村へ渡す。


 出発の日。


 村長が小さな青いガラス玉をくれた。


「昔、この村で作った最後の残りだ」


「そんな大事なもの」


「あんた、何にでも値段をつけるんだろ?」


「だいたいは」


「じゃあ、それの値段を考えてくれ」


 ビクトリアは困った。


 材料としてなら安い。


 美術品としても大したものではない。


 なのに。


「……分からない」


 初めてだった。


「いただくわ」


「ああ」


「大切にする」


 ビクトリアは青い玉をしまった。


第五話 元聖女、五十人に囲まれる


 数日後。


 二台の馬車は森の中で完全に包囲された。


 前を倒木。


 後ろも倒木。


 斜面には武装した男たち。


「五十一名」


 ロッテが数えた。


「今度は話を最後まで聞く」


「成長なさいましたね」


「でしょう?」


     ◇


 話は聞いた。


 要求も聞いた。


 馬車と荷物を全部置いていけ。


「嫌です」


 交渉決裂。


「今度は最後まで聞いたわよね?」


「はい」


「じゃあお願い」


 アダムとサイモンが降りる。


 だが五十一人。


 弓もある。


 馬を守らなければならない。


「十体出しましょう」


 荷馬車が開く。


 小さな人形が十体。


 地面へ飛ぶ。


「展開」


 人間ほどの大きさになる。


 身長百七十センチ。


 手には一メートル半の棒。


「馬車防衛」


 十体が一斉に動いた。


     ◇


 戦闘は十分ほどだった。


 衛兵人形は棒で戦闘能力を奪う。


 腕。


 膝。


 武器。


 必要な殺傷はアダムとサイモンが担当する。


 五十一人。


 壊滅。


 最後に残った頭目がビクトリアを見る。


「一つ教えろ」


「なに?」


「なんで斥候を出さねえ?」


「斥候?」


 頭目が怒鳴った。


「普通は戦わねえんだよ!」


 ビクトリアが黙る。


「五十人待ってるところへ、馬車二台で突っ込んでくる馬鹿がいるか!」


「でも勝ったでしょう?」


「そういう話じゃねえ!」


 斥候を出す。


 見つける。


 引き返す。


 迂回する。


 待つ。


 交渉する。


「戦える奴がいるから、危険がねえと思ってる」


 頭目が言った。


「違うぞ」


 ビクトリアは黙って聞く。


「戦いになった時点で、もう何か失敗してんだ」


 馬が死ぬ。


 車輪が壊れる。


 荷物が燃える。


 矢が一本。


 ビクトリア自身に当たるかもしれない。


 今のビクトリアには。


 もう傷を治す聖女の力はない。


「強いから戦えばいいってのは」


 頭目が目を閉じる。


「馬鹿の考えだ」


     ◇


「ロッテ」


「はい」


「私、馬鹿だった?」


「旅については」


「はっきり言うわね」


「お尋ねになりましたので」


「アダム。サイモン」


「はい」


「これから斥候を出しましょう」


「承知しました」


 一つ。


 旅を覚えた。


第六話 元聖女、国境を越える


 そして。


 マチュー王国との国境。


「帰ってきた……」


 まだ門の手前なのに。


 ビクトリアは少し泣きそうになった。


 十年。


 長かった。


     ◇


 国境審査。


「名前は?」


「ビクトリア・レムコ・モルガン」


 兵士の顔が変わった。


「レムコ?」


「はい」


「身分証を」


「これが一番確実ね」


 ビクトリアは鞄から徽章を出した。


 白金色。


 世界樹。


 聖獣。


 王冠。


 神殿。


「聖女の証です」


 ロッテが目を閉じた。


「お嬢様」


「なに?」


「それは、お出しにならないほうが」


「え?」


 遅かった。


「門を閉めろ!」


「え?」


 鐘が鳴った。


「通行を止めろ!」


「ええ?」


     ◇


 国境砦。


 ビクトリアは怒られていた。


「なぜ聖女の証をお持ちなのです!」


「返すのを忘れました」


「忘れた!?」


「はい」


「国王陛下への退任挨拶は?」


「それも」


「忘れた!?」


「……はい」


 官吏が頭を抱えた。


     ◇


 だが。


 確認すればするほど、ビクトリアを止める理由はなかった。


 二十五歳。


 聖女の力は完全に喪失。


 したがって聖女を引退。


 神殿からも正式に退任している。


 犯罪なし。


 処罰なし。


 国外退去でもない。


 国王から出国を禁じる命令もない。


 十年間の奉仕も終えている。


「なぜ国外へ?」


 官吏が尋ねる。


「家に帰るからです」


「…………」


「十年働きました」


「存じています」


「聖女の力も、もうありません」


「はい」


「だから」


 ビクトリアは少し身を乗り出した。


「お家に帰るのを止めないでください」


 あまりにも単純だった。


     ◇


 聖女の証は手紙とともに神殿へ返す。


 国王にも帰郷を報告する。


 身元については問題ない。


 父ヨナス・モルガン。


 マチュー王国の大商人。


 母エリザベス・レムコ・モルガン。


 レムコ聖王国王の妹。


 元聖女。


 帰宅先まで明確。


「入国を拒む理由はありません」


 マチュー側の役人が言った。


「帰れます?」


「はい」


「よかった!」


 大声。


 全員が見る。


「あ」


 ビクトリアは姿勢を正す。


「……よかったですわ」


 ロッテが満足そうに頷いた。


     ◇


 最後に。


 レムコ側の官吏が言った。


「ビクトリア殿」


「はい」


「ご自分の身分を、もう少し自覚なさったほうがよろしい」


「しています」


「本当に?」


「元聖女です」


「はい」


「国王陛下の姪です」


「はい」


「モルガン家の娘です」


「はい」


「だから普通のお金持ちのお嬢様です」


 官吏が黙った。


「……前半と後半が繋がっておりません」


     ◇


 門が開く。


 二台の馬車が進む。


 国境を越える。


「お嬢様」


 ロッテが言った。


「マチュー王国でございます」


 ビクトリアは窓を開けた。


 景色は何も変わらない。


 空も。


 道も。


 木々も。


 なのに。


「帰ってきた!」


 アダムとサイモンが振り返る。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 ロッテも頭を下げる。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


     ◇


 同じ日の夕刻。


 一人の男の前に、一枚の報告書が置かれた。


「名前が判明しました」


「読め」


「ビクトリア・レムコ・モルガン。二十五歳」


 男の指が止まる。


「レムコ?」


「母親はエリザベス・レムコ・モルガン。現国王の妹。元聖女です」


「父親は?」


「ヨナス・モルガン。マチュー王国の大商人」


「……モルガン」


 男は笑った。


「ポガチャル家の末裔か」


 四百年前。


 タデイ帝国の金融に巨大な影響力を持ち。


 当時の皇帝の怒りを買い。


 帝国から追放された商家。


 ポガチャル家。


 その血が、巡り巡ってこの女へ続いている。


     ◇


 報告は続く。


 元聖女。


 十五歳から二十五歳まで十年間神殿に奉仕。


 二十五歳で聖女の力を喪失し引退。


 王家の血。


 聖女を生む可能性。


 大商人の娘。


 最高位まで修めた身体強化。


 人形遣い。


 盗賊を撃破。


 衰退した村では、既存の技術を商品へ転換。


 販路を作り。


 先に契約を結び。


 前金で生産を回した。


「戦争には金が要る」


 男が呟く。


「はい」


「戦争の後には、もっと要る」


 剣で領土は取れる。


 だが。


 剣では市場を作れない。


 税制を作れない。


 物流を立て直せない。


 荒廃した土地を再生できない。


「本人は自分の価値を?」


「理解していないようです」


「根拠は?」


「国境で自らを『普通のお金持ちのお嬢様』と説明しております」


 男は笑った。


「なるほど」


     ◇


「殿下」


 部下が尋ねた。


「どうなさいますか?」


 男。


 ログリッチ・G・タデイ。


 タデイ帝国皇太子。


 四百年戦争のない帝国を。


 再び戦争へ向かわせようとしている男。


 ログリッチは報告書を机に置いた。


「欲しいな」


「人形遣いとして?」


「それだけならいらん」


 王家の血。


 元聖女。


 聖女となり得る子を産む可能性。


 マチュー王国有数の商家。


 ポガチャル家の血。


 商才。


 軍事力。


「これだけ揃った女を、敵側に置いておく理由がない」


「では?」


「妃にする」


 部下が僅かに息を呑む。


「帝国皇太子妃に?」


「ああ」


「拒絶された場合は?」


「説得する」


「それでも?」


「条件を変える」


「それでも?」


 ログリッチは少し考えた。


「殺すしかない」


 怒りはない。


 憎しみもない。


 ただ計算だった。


「価値がありすぎる」


 味方なら。


 これほど便利な女はいない。


 敵なら。


 これほど面倒な女もいない。


     ◇


 ただし。


 ログリッチ・G・タデイの報告書には。


 一つだけ。


 決定的な間違いがあった。


 侍女ロッテ。


 護衛アダム。


 護衛サイモン。


 報告書には三人とも、


 ビクトリア・レムコ・モルガンが絶大な信頼を寄せる、長年の使用人。


 そう記録されていた。


     ◇


 その頃。


 箱馬車の中。


「くしゅん!」


「お嬢様」


 ロッテが布を差し出す。


「窓を開けすぎでございます」


「だって故郷よ?」


「故郷と風邪には何の関係もございません」


「細かいわね」


 御者台から笑い声。


「アダム、サイモン!」


「何も申し上げておりません」


「同じく」


「笑ってるでしょう!」


 ビクトリアは頬を膨らませた。


「もう大変なことはないと思ったのに」


「ご実家までは、まだございます」


「でも自分の国よ」


 窓の外を見る。


「ここからは安心でしょう?」


「左様でございますね」


 ロッテが答える。


 アダムも。


 サイモンも。


 何の疑いもなく、主人とともに故郷への道を進んでいく。


 十年以上。


 いつもそうしてきた。


 これからも。


 きっとそうする。


 ビクトリアは知らない。


 遠いところで。


 自分を値踏みした男がいることを。


 血統。


 軍事力。


 商才。


 人脈。


 将来生まれるかもしれない子供まで。


 ほとんどすべてを正確に評価した男がいることを。


 物の値段を知ること。


 それが商売。


 祖母からそう教えられたビクトリア自身が。


 自分につけられた値段だけは、まだ知らなかった。


   完

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