置かれた言葉
第14話 置かれた言葉
ミラに会うことになったのは、三日後だった。
その三日のあいだ、俺は村へ下りなかった。
魔法の訓練もなかった。
書室には入れた。
本も読めた。
食事も出た。
エルナは俺の髪を撫で、ダレンはいつも通り仕事へ出ていった。
屋敷の生活は続いていた。
それが嫌だった。
俺が失敗しても、朝は来る。
俺が誰かを怖がらせても、パンは焼かれ、床は磨かれ、青灯は夕方になれば灯される。
世界は俺の反省を待ってくれない。
それは当然だった。
当然なのに、俺はどこかで、自分が苦しんでいることにもっと意味があってほしかったのだと思う。
反省している自分。
苦しんでいる自分。
ちゃんと分かっている自分。
そんなものに、また少し酔いそうになる。
ローウェンの声が頭の中で響いた。
――嬉しくなりすぎたら止める。
あれは魔法だけの話ではなかった。
悲しくなりすぎても、たぶん止めなければならない。
悲しみすら、自分を特別に見せる道具になるからだ。
三日目の昼、ダレンが俺を呼んだ。
「ミラの家から返事があった」
俺は持っていた本を閉じた。
手が少し汗ばんでいた。
「会ってくれるそうだ。ただし、家ではない」
「どこですか」
「井戸のそばだ。母親も来る」
母親。
その言葉で、喉が少し詰まった。
「俺は何を言えばいいですか」
聞いた瞬間、間違えたと思った。
ダレンは俺を見た。
「それを俺に聞くのか」
「……すみません」
「整った言葉はいらない」
彼は言った。
「だが、言い訳もいらない」
俺は頷いた。
「謝って、すぐ楽になろうとするな」
「はい」
「許されようとするな」
胸が痛んだ。
「はい」
「相手が黙っても、急かすな」
「はい」
ダレンは少しだけ息を吐いた。
「そして、ミラをよく見ろ」
その言葉が一番重かった。
俺はずっと、ミラを見ていなかった。
いじめられている子。
助けるべき子。
俺が謝る相手。
俺の失敗の象徴。
そんなものとしてばかり見ていた。
ミラという一人の子供を、まだちゃんと見ていない。
「分かりました」
そう言ったあとで、少し怖くなった。
分かったと言えるほど、分かっているのか。
でも、何も言わないのも逃げに思えた。
ダレンはそれ以上何も言わなかった。
村へ下りる道は、前より長く感じた。
空は晴れていた。
雨の匂いはもうない。
坂の脇の草は少し伸び、遠くでは畑仕事をする人たちの声がしていた。
ロヴェルはいつもの村に見えた。
けれど、俺を見る目は少し変わっていた。
誰かが俺に気づく。
小声で何かを言う。
視線がすぐ逸れる。
悪意ではない。
でも、前のような単純な好奇心でもない。
オーウェンの坊ちゃん。
魔法を使った子。
水路で騒ぎを起こした子。
俺は名前の前に、また新しいものをくっつけた。
井戸のそばに、ミラはいた。
隣に女の人が立っている。
母親だろう。
痩せた人だった。
顔立ちはミラに少し似ている。髪を後ろで固く結び、粗い布の服を着ていた。疲れた目をしているが、弱い人には見えなかった。
ミラはその横で、両手を前で握っていた。
この前と同じような服だった。
袖の擦り切れ。
泥の落ちきっていない裾。
けれど今日は、桶を持っていない。
俺はそれに少し安心しそうになった。
馬鹿だ。
桶を持っていないからといって、あの日のことが消えるわけではない。
ダレンが先に頭を下げた。
「時間を取らせた」
ミラの母親は、少し硬い顔で頭を下げ返した。
「こちらこそ、旦那様に何度も足を運ばせてしまって」
「その言い方はやめてくれ。今回は、こちらにも非がある」
ミラの母親は黙った。
その沈黙には、言いたいことが残っていた。
当然だと思った。
ダレンは俺を見た。
逃げるな。
そう言われた気がした。
俺は一歩前に出た。
ミラの前に立つ。
彼女は俺を見た。
前より落ち着いていた。
でも、怖さはまだ残っている。
俺が少し動くと、肩がほんのわずかに強張った。
それを見た瞬間、胸の奥が沈んだ。
俺は頭を下げた。
「ごめんなさい」
言葉は出た。
でも、それだけでは足りない。
足りないからといって、余計な言葉で埋めればいいわけでもない。
俺は息を吸った。
「水を動かして、怖がらせました」
ミラは黙っていた。
「桶の水も、こぼしました」
それだけではない。
俺は手を握った。
「助けたかったのは本当です。でも、俺が助けるところを見せたかったのも、本当です」
言いながら、顔が熱くなった。
ミラの母親の視線が鋭くなるのを感じた。
ダレンは何も言わない。
「ミラをちゃんと見ていませんでした」
俺は続けた。
「困っている子として見て、助ける相手として見て、自分が何かできる場面として見ました。でも、ミラがどうなるかを考えませんでした」
ミラの指が少し動いた。
「ごめんなさい」
もう一度、頭を下げた。
今度は、そのまま待った。
何か言ってほしかった。
許す、とか。
もういい、とか。
ありがとう、とか。
そんな都合のいい言葉を、心のどこかで待っていた。
でも、ミラはなかなか言わなかった。
沈黙が伸びた。
背中に汗が滲む。
頭を下げ続けるのは、思ったよりつらい。
五歳の体には首が重い。
でも、上げなかった。
これは俺が置く言葉だ。
相手に拾わせるために押しつけるものではない。
エルナの言葉を思い出す。
――押しつけるのではなく、置くの。
やがて、ミラの声がした。
「……こわかった」
小さな声だった。
俺は頭を上げた。
ミラは俺を見ていなかった。
井戸の石の縁を見ていた。
「男の子たちも、こわかった。でも、ルカ様も、こわかった」
様。
その呼び方が、痛かった。
「水が、急に来て」
彼女は言葉を探すように、ゆっくり話した。
「落ちると思った」
俺は頷いた。
頷くしかなかった。
「助けようとしたって、聞いた」
ミラの母親が何か言いかけたが、ミラは自分で続けた。
「でも、助けられた感じじゃなかった」
胸の奥がきしんだ。
ミラはようやく俺を見た。
「びっくりして、何も分からなかった」
「うん」
俺は言った。
「ごめん」
また謝った。
今度は、許してもらうためではなく、ただそれしか言えなかった。
ミラは少しだけ眉を寄せた。
怒っているようにも、困っているようにも見えた。
「お母さんに、怒られた」
「桶のことで?」
彼女は頷いた。
「水、遅くなったから。あと、騒ぎになったから」
俺はミラの母親を見た。
彼女は俺を見返した。
そこには、はっきりした怒りがあった。
けれど、それを俺にぶつけていいのか迷っているようでもあった。
オーウェン家の子供。
ダレンの息子。
五歳。
魔法を使った。
その全部が、彼女の怒りの前に立っていた。
俺はまた、ミラだけでなく、ミラの母親からも言葉を奪っているのかもしれないと思った。
「すみませんでした」
俺はミラの母親にも頭を下げた。
「俺が騒ぎを大きくしました」
女はすぐには答えなかった。
ダレンも黙っていた。
やがて彼女は、硬い声で言った。
「子供の喧嘩に、魔法は怖すぎます」
その通りだった。
「はい」
「ミラを助けようとしたことは、聞きました」
「はい」
「でも、あの子が村で何を言われるかまで、考えてください」
俺は顔を上げた。
ミラの母親の目は、ダレンへではなく俺へ向いていた。
「あなたは丘の上へ帰れます」
言葉が刺さった。
「ミラはここに残ります」
俺は何も言えなかった。
そうだ。
俺は帰れる。
騒ぎのあと、屋敷に戻り、温かい食事を食べ、清潔な布団で眠れる。
ミラは村に残る。
少年たちも、井戸の女たちも、粉屋の人たちもいる場所に。
俺の魔法の話が残る場所に。
「覚えておきます」
俺は言った。
それだけでは足りない。
でも、今ここで大きな約束をするのはもっと違う気がした。
「忘れないようにします」
女は俺をしばらく見ていた。
それから、小さく頷いた。
許されたわけではない。
話を受け取られただけだ。
ミラは足元を見たまま、ぽつりと言った。
「桶、重いです」
俺は一瞬、何の話か分からなかった。
「水、いっぱい入れると、重いです」
「うん」
「ルカ様は、魔法で水を動かせるから、知らないと思った」
俺は井戸の縄を引いたときの手の痛みを思い出した。
「少しだけ、知りました」
言ってから、まずいと思った。
少しだけ知った、なんて、軽すぎる。
ミラもそう思ったのかもしれない。
彼女は俺を見た。
「少しだけ?」
その声には、初めて少し棘があった。
俺は頷いた。
「少しだけです。まだ、たぶん全然知りません」
ミラは黙った。
それから、ほんの少しだけ表情を変えた。
笑ったわけではない。
許した顔でもない。
でも、さっきよりは俺を見ていた。
「変なの」
小さくそう言った。
俺は返事に困った。
変なのは事実だった。
五歳の子供が、妙に理屈っぽく、謝罪の言葉を並べている。
変じゃないわけがない。
「はい」
俺がそう答えると、ミラは少しだけ目を丸くした。
その反応で、俺は自分がまた大人びた返しをしすぎたことに気づいた。
けれどもう遅かった。
ミラの母親が、静かに息を吐いた。
「話は聞きました」
彼女はダレンを見た。
「うちからは、それだけです」
ダレンが頭を下げる。
「感謝する」
「ただ」
女は続けた。
「しばらくは、ミラに近づけないでください」
俺の胸が冷えた。
言われると分かっていた。
それでも痛かった。
「分かった」
ダレンは即答した。
俺を見なかった。
俺に確認もしなかった。
当然だ。
これは俺が決めることではない。
ミラの母親が決めることだ。
ミラも何も言わなかった。
それが彼女の答えなのか、母親の後ろに隠れただけなのかは分からない。
でも、分からないなら、都合よく解釈してはいけない。
俺は頭を下げた。
「分かりました」
ミラは最後に、俺をちらりと見た。
「桶」
「え?」
「今度、勝手に触らないで」
俺は息を呑んだ。
それは、とても小さな要求だった。
でも、初めて彼女が俺に直接置いた線だった。
「うん」
俺は頷いた。
「触らない」
ミラはそれ以上何も言わなかった。
ミラの母親と一緒に、井戸のそばから離れていく。
俺はその背中を見送った。
追いかけたいとは思わなかった。
思ってはいけない、ではなく。
今追いかけたら、また自分の都合になると、少し分かったからだ。
帰り道、ダレンはしばらく何も言わなかった。
坂を上る途中で、ようやく口を開いた。
「どうだった」
「許されませんでした」
「そうだな」
「でも、聞いてもらえました」
「そうだ」
俺は足元の道を見た。
「それだけで、終わらせたくなりました」
ダレンは俺を見た。
「謝れたから、もういいと思いそうになりました」
「思ったのか」
「少し」
「なら、覚えておけ」
ダレンは言った。
「人は、自分が少しましな行動をしただけで、すぐ借りを返した気になる」
俺は頷いた。
それも、俺のことだった。
「謝罪は返済ではない」
「はい」
「入口だ」
入口。
扉。
また、その言葉へ戻る。
俺は坂の途中で振り返った。
井戸のそばはもう遠い。
ミラの姿も、母親の姿も見えない。
ただ、村だけがあった。
彼女が残る場所。
俺がまた帰ってしまう場所。
屋敷へ戻ると、エルナが玄関で待っていた。
俺の顔を見ると、すぐに全部を聞こうとはしなかった。
ただ、膝をついて目の高さを合わせた。
「言えた?」
「はい」
「聞いてもらえた?」
「はい」
「許してもらえた?」
俺は首を横に振った。
「いいえ」
エルナは少しだけ寂しそうに笑った。
「そう」
優しい声だった。
でも、甘くはなかった。
「それでも、言えたのね」
俺は頷いた。
その瞬間、泣きそうになった。
褒められたいわけではない。
いや、嘘だ。
褒められたかった。
頑張ったねと言われたかった。
偉かったねと言われたかった。
でも、それを受け取るのが怖かった。
エルナは俺を抱きしめなかった。
たぶん、あえて。
ただ、俺の肩に手を置いた。
「今日は、休みなさい」
「はい」
その夜、俺は手を開かなかった。
魔力を探さなかった。
代わりに、ミラの言葉を思い出した。
こわかった。
助けられた感じじゃなかった。
桶、重いです。
今度、勝手に触らないで。
どれも小さな言葉だった。
世界を変えるような言葉ではない。
でも、俺の中には残った。
謝罪は置いた。
許しは返ってこなかった。
それでよかった。
よくはない。
でも、それが正しかった。
俺は布団の中で目を閉じた。
明日になれば、また朝が来る。
ミラは村で水を汲む。
俺は丘の上の屋敷で目を覚ます。
その差は、謝っても消えない。
だからこそ、忘れてはいけない。
俺はそう思った。
思っただけで終わらせない方法は、まだ分からなかった。
でも少なくとも、その夜の俺は、許されないまま眠ることから逃げなかった。




