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人生に疲れた俺の異世界サバイバル記  作者: Khanhtran
第1巻:月光の下の狼の遠吠え
8/10

新たな王

たしぎは最後の戦いにすべてを賭けている。狼たちの群れの中で生き残るのか、それとも引き裂かれるのか?さあ、見てみよう!

震えは短く均一な呼吸へと沈んでいった。タシギは根の影に身をひそめ、やんでいく雨を太鼓皮を指で叩くような微かな音として聞き、まだ消えきらない炭火のように脈打つ自分の心拍を聞いた。ふだんなら薄ぼんやりしたステータス板に視線を流すだけだが、今回は本当に確かめる。HPは二割に届いた。生を保証する数値ではない。けれど行動を選ぶには足りる。


やがて、根の穹の周りに噛み砕く音が生まれた。最初は断続的な擦れ、次いで小さな鋸が交代で木を食うように密度を増す。青い樹液の匂い、湿った土の匂い、濡れた毛の匂いが混ざり、胸の奥の原始的な感覚を呼び起こす。タシギは群れが来たと知った。自分が編まれた根の巣に潜み、あと一押しで全てが崩れると、奴らも理解している。


退路はない。


右手は短剣の柄を握り込む。鋼の冷たさが手首へ逆流して、合図のように骨へ沁みる。左腕は鉛のように重いが、指はまだ命令を聞く。タシギは身を沈め、泥に濡れた闇を這い、もっとも近い一頭の噛む間隔を太鼓の拍のように数えた。四、五、六。泥にまみれた刃が跳ね上がり、頭の中で引いた斜めの線に沿って落ちる。


ほんの刹那、灰の頭が右へはねた。空気が裂ける音。かわされた。タシギは二の太刀、三の太刀、四の太刀で応える。刃は狂った刺繍針のように空へ銀の糸を縫い込む。筋肉がねじれるたび、肩の関節、背骨、太腿へと火が散った。胸を焼いた鉄の棒で押されるような痛み。それでも痛みは輪郭をくっきりさせるだけだ。


戦え。


頭の底で、紙の上の文字のように冷たく乾いた声がする。別の言葉に出番を与えれば死ぬ。ならば出さない。残すのは一行だけ。戦え。


刃が根に当たり、雨が薄い膜になってはじけた。狼が一歩退く。別の一頭がにじり寄り、牙で根を裂いて水と泥を跳ね上げる。タシギは腰を切り、斜めに叩く。刃が肩甲の縁に白い線を刻み、熱い血が噴き、鉄臭が濃くなる。短い遠吠え。すぐに二匹の灰色が入れ替わり、狭い入り口を舳先のように滑って塞ぐ。


噛みちぎられた根はぼろぼろだ。頭上の木が酔ったように揺れる。タシギが裂けた光に顔を上げた瞬間、黒い影が真正面から弾け飛んできた。


衝突で泥の上から弾き飛ばされる。背が根に押し潰され、肺が空を掴む。熱い牙が右肩を噛み、細かな電流が走った。声は出さない。左手を楔のように顎の縁へ差し込み、右手で腹へ突き入れる。短く、深く、手首をひねって裂きを増やす。狼は唸って肩を放し、赤い線を引きながら下がる。息を継ぐ間もない。脇からもう一頭が、低い矢のように滑り込んでくる。


刃を返し、峰で鼻骨を打つ。鈍い音。動きは止まらない。タシギは膝で首を弾き、進路をずらしながら右へ転がり、さきほど刺した個体の体を盾に引き寄せる。牙が同類の毛皮に噛み合い、ほんの一拍ためらう。その一拍で彼は根の穹の狭い包囲から身を抜いた。


木が倒れた。張り詰めた弦がまとめて切れたような音。根の穹が落ち、枝葉が雨を引いて緑の幕のように裂ける。群れが雪崩れ込む。交差する流れの中、深い金の眼が射抜く。タシギは雨の中で跳ね起き、半歩滑り、足を立て直し、そのまま踏み込む。


巧緻の余地はない。突進の内側へ差し込む短い斬り、浅い突きを入れて引き、踏み止める蹴り。手にまとわる血は誰のものか分からない。湿った毛、土、刃の錆の匂いが感覚を霞で包む。ステータスの数値はまた減る。だがもう数字は信じない。女神の加護は、電池切れの警告灯のように一度灯って消えた。今、指先で触れられるものに賭けるしかない。握る刃、呼吸、歩幅の角度、そして意志の強情さ。


左側に影が走る。本能で手首が回り、刃先が弧を描く。空気が鳴った。刹那、刃の先から銀の羽が一枚、濡れた蜻蛉の羽のように離れて、目の高さを横切る。その弧は狼の額を渡り、水面を魚が跳ねるみたいに走って消えた。狼は三拍止まり、タシギの足元に崩れた。額を横切る切断は平滑で、清潔な線だった。


タシギは半拍だけ息を止める。幻ではない。剣気だ。長く固着していた扉が開く音を、筋肉がきしみで告げた。


彼の眼は色ではなく温度を変える。刃の冷気が瞳孔に潜り込み、世界は明度を増して線が立つ。腕と脚の傷は白い霧のように噴かず、縮み、薄皮のようにふちどられる。臍の下に糸のようなものが集まり、背骨を伝って満ち上がる。熱くも冷たくもない。乾いた土の鉢に水滴が等間隔で落ち続けるみたいだった。


気。


肩の革鎧の裂け目が微かに震える。前腕に、狼の手の影が一瞬だけ重なる。それだけで横から圧していた三頭が風に叩かれたように退く。呼吸は短い拍で整える。吸って、止めて、吐いて、止める。濡れた髪は重いが、こめかみ近くに数本だけ青灰の糸が光の刃のように紛れた。


考える必要はない。膝を折り、腰を切る。拳は腹から生まれ、肩を斜めに貫いて狼の顎に止まる。歯が砕ける音。体が砂袋のように浮き、落ちた。もう一頭が背中を越えて首筋を狙う。タシギはさらに低く潜り、左手の指を鉤にして腹を掠め取る。雨滴と血が混ざり、眩しさが跳ねる。右手の刃は回り、前方から来る個体の四肢の間へ不意の一閃を入れ、腱を断って転ばせた。


足取りが変わる。よろめく段差が消え、突き出た根や泥溜まりの上に踏むべき一点が見える。重心が倒れる寸前に次の支点が置かれ、爪先で向きを修正し、腰を一分だけずらし、刃は半拍遅れて最も柔らかい場所へ入る。剣気の細い弧は現れ続ける。長くも派手でもない。ただふいごの余熱が刃の縁を撫でるように。弧の数だけ、綺麗な切り口が増える。


群れが一度、輪を止める。本能で相手の格付けをやり直すのだ。タシギは倒れる獲物ではない。追い詰められた獣でもない。弱い血の匂いのする体でもない。彼は、ただ別種の狼として、輪の中央を踏んでいる。


背後から小さな個体が突っ込む。水跳ねの音。タシギは顔を少し傾け、左手で後頭を掴む。骨の潰れる音。首が乾いた枝のように折れる。落とした体は湿って軽い音。残りは半歩退き、目を伏せ、耳を畳む。


死体に怯えたのではない。彼らは燃え盛る決心の匂いを嗅いだ。


地が鳴る。幹の間の暗がりから、何かが近づいてくる。速くはないが、一歩ごとに土が重く沈む。樹冠を稲光が横切り、濡れた背中に紫の線が走るとき、それは姿を見せた。高さは二メートル近い。栗の幹のように厚く、毛色は灰青と銀の間。首には獅子のような鬣が垂れ、柔毛ではなく乾いた蔓のような硬い繊維が段を成す。目は下の群れのような金の光ではなく、夜の水溜まりのように静かに沈む。鼻梁には斜めの古傷。吐息は白い。


頭狼。


タシギは何も言わない。言葉は要らない。短剣を腰の高さに下げ、左手を広げて体勢を支えながら、ゆっくりと歩を進める。臍下の細い気が、鼓動に合わせてまた動き、肋を満たし、腕を巡る。髪の青灰の糸が、ふっと低く光る。


頭狼は三拍だけ立ち止まり、それから同じように静かに進み出す。後ろの群れはさらに退く。雨の輪が二者の間で広がる。遠吠えも、唸りもない。あるのは雨と呼吸の音だけ。


先に動いたのはあちらだ。


最初の手は噛みではなく肩だ。左肩が胸郭をすくい上げるように押し、斜面を滑る丸太の衝撃。タシギは踵を食い込ませ、腰を斜に置き、力を殺しながらいなす。左掌で脇腹を叩いて回転を借り、右手で鬣の下、首元へ斜めに落とす。刃は硬いものに触れる。悲鳴も火花もない。ゴムのスイッチを斬ったような詰まり。鬣が盾の役目を果たした。


頭が返り、横から牙が迫る。半寸だけ首を引き、刃の峰を上下の顎の間に立てる。鉄が軋む。刃先が柄元へ押し戻される。半拍遅れていたら手は失われていた。狼は首を捻り、刃を折りにかかる。タシギは膝を相手の膝へ打ち込む。痛みは与えられない。だが脚の軸はわずかにずれる。そのわずかで刃を引き抜き、露わになった下顎の柔い部分へ返し斬り。今度は皮に触れ、切れる。真っ直ぐな噴き上がり。だが浅い。厚い脂が刃を鈍らせる。狼は一歩退き、長く白い息を吐いた。


二人の動きは緩い八の字を描く。タシギが攻めるときは速度と角度。頭狼が攻めるときは重量と面。鬣は壁で、首は柱。正面の衝突は避けねばならない。噛み込みは移動が少ないのに、閉じるたび鍵がかかるような音がする。


痛みが背中の向こう側で靄へと伸びる。肩と脇腹の裂け目は温いが溢れない。呼吸は集中の調子へ、思考は針の先へ。大きくは退かない。退くときは斜めに下がって押し返す角度を残す。出るときは半歩だけ。腰を弾く。刃は腕ではなく腰が運ぶ。


一巡、二巡、三巡。頭狼は彼を太い根のほうへ押し付けはじめる。タシギの足拍を読んだのだ。狭所へ追い込み、肩の圧迫を幹との挟撃に変えれば、刃が動く隙はない。タシギは理解する。拍を変える。右へ一気に加速し、泥の筋でバランスを崩したふりをする。右足は根へ滑り、左脚は鉤のように畳む。狼はそこへ突っ込む。頭を低くして突き上げる角度。


避けない。刃を下げる。


風線のような横薙ぎ。鬣の薄い層が一枚、削がれる。骨までは届かない。だが耳の後ろ、毛が短くなる一点で、刃が切るべきものを切っている感触。狼は激しく頭を振り、タシギを跳ね飛ばす。背が根に当たり、星が走る。息が切れる。


間は与えられない。落とし戸のような噛み付き。タシギは左腕を上げて受ける。牙が革と肉を貫く。手首に骨の擦れる音。新しい血の匂い。彼は声を堪える。叫べば拍を失うからだ。右手は先ほどの裂けを狙って突き入れ、さらに深く、手首を捻り、裂きを広げる。狼が咆哮し、頭を引く。その反動で左前腕から肉片が引き千切れる。タシギは腹へ強く蹴りを入れて距離を取り、横へ転がって左腕を抱え込む。視界は一拍ぶれて、すぐに澄む。雨に掃かれたガラス越しに見るように。


気が臍下にもう一度集まる。さっきほど大きくはない。細く、鋭い。真っ直ぐに縦へ押し上げ、溢れさせない。臍下から胸骨の中央へ、鎖骨を越え、右腕の内側を滑って手首へ達する細い導管があるかのようだ。握りが軽くなり、絡んだ紐がほどけていく。


影狼闘法。骨が思い出したみたいに、その文字が浮かぶ。インデックスで呼び出したのではない。以前は、岩に彫られた標語のように冷たい目標と口訣だった。今は肉がついている。まだ初層にすぎないのだろう。それでも重さは驚くほどだ。名を確かめる暇はない。やることは一つ。使う。


頭狼は首を振り、肩に血を滴らせながらも目は静かだ。押し潰さない。一歩下がってから、四肢のばねをまとめた低い矢で飛び込む。タシギが跳べば背で薙ぎ払い、鬣を鎚に変える。後ろへ逃げれば途中で向きを変えて圧を重ねる。タシギは左の角を選び、さらに腹を地に近づける。刃を下からすくい上げ、胸骨の隙間を狙う。刃先の前で細い剣気が弾け、顔から一本の髪を払うみたいに軽やかに走る。


細い音。白い線が顎の後ろの縁に刺さる。致命までは届かないが、筋肉を強く収縮させる。狼は半拍硬直。その間にタシギは息を吸い、想像上の細管を気が駆け上がるのを掴み、手首で凝らし、刃先に押し込む。


次の斬撃は、柔らかな裂音ではない。乾いた石板を割るような硬い音。鬣が弾け、皮が裂け、血が扇形に飛ぶ。狼が初めて明確に重心を崩し、前脚が折れる。すぐに立ち直るが、首の軸がわずかに傾いた。


群れは外輪を狭めるが、誰も割って入らない。雨は弱まり、葉先から大きな滴が落ち、連なる音が続く。タシギの喉には微かな笛鳴り。吸うたび、左前腕の痛みが黒い花のように開く。右手の柄は白くなるほど握り締められている。


頭狼はまた策略を変える。左へ誘い、頭を下げ、後脚で腰を回して尾で薙ぐ。狙いは打撃ではない。足を掬うこと。タシギは重心を右の爪先に載せ、左膝を上げて尾を踵の下へ通す。腰が開いた瞬間、腋の下の柔い帯が露わになる。刃は短い一文字。だが正確。詰まった息。反射で狼が頭を戻し、噛み付く。歯が耳の縁を掠め、熱い線が首筋を走る。反撃の突きは頬に浅い傷を置いたのみ。


臍下の気のゆらぎは薄れていく。長くは持たない。痛みも精度を奪い始める。タシギは残りを全部、たった一撃に換えると決めた。


刃を落とし、あえて守りに見せる。上体は大きく左へ傾け、右の脇を少しだけ晒す。頭狼にとって最も得意だった方向だ。狼は罠に乗る。顎が刃の間合いを横切る刹那、タシギは刃を跳ね上げ、腰を畳み、鬣の縁と下顎の付け根の隙間へ斜めに突きを通す。同時に、握力を失った左手でも首に押し当て、軌道をまっすぐ保つ。


袋を壁に叩きつけたような重い音。周囲の音が二歩ぶん遠のく。雨音は消え、金属が硬くて弾力のあるものを滑って、濃い塊に触れる音だけが残る。刃は半分まで沈んだ。


狼が首を反らし、咆哮。湯から上げた布のように熱い血が弧を描く。前脚で跳ねて肩をぶつけてくる。タシギは地から剥がされ、再び根へ打ちつけられた。体内の配線が一斉に明滅する。右手は柄に吸い付いた蛭のようにしがみつき、残った気のすべてを前腕に絡め取って離さない。


頭狼はただ一つのことをする。首を振る。一度、二度。振るたび、手首の関節がねじ切られるような圧。もう一度で離れる。投げ込むものはもうない。だが足は残っている。


右足を上げ、右眼へ蹴りを入れる。強くない。ただ一拍、目を閉じさせるために。その瞬間、刃は引かない。さらに押し込む。右腕ごと首へ潜り込み、刃先は夜の淵へともう一寸切り割りを広げる。金属の擦れる音は消え、低い濁音が喉の奥で泡立つ。息が途切れる。体は木のように音を立てて倒れた。


タシギも崩れた。後頭に土の鳴る音がぼんやり響く。雨の匂いは薄れ、鉄の匂いが濃い。泥の上に仰向けになり、葉先の最後の滴が跳ねるたび、空が小さく痙攣するのを見た。誰も飛びかからない。肘で地を押し、体を起こす。頭狼はすぐそばに斜めに倒れ、鬣はべっとり張り付き、胸は短い波を数度刻んで止まった。水鏡のように静かだった目は、今は空の井戸だ。


群れは大きな輪を作る。目は伏せられ、数頭が前脚を折って首を下げた。遠吠えはない。白い息が地表で小さく広がって消える。


タシギは誇りも恐れも感じない。頭に残ったのは、泥を貫いて標を打つ一本の矢のような思いだけ。まだ生きている。そして誰かが決めた規則を一つ破った。HPは人が単純化のために使うプラ板にすぎない。この地面では、呼吸と刃の角度こそが本物だ。


ゆっくり立ち上がる。右手は柄を離しても刃は掌に残す。左手は不均等に揺れ、血が滴る。滴が落ちるたび、呼吸が一拍減る。それでも輪の向こうの目は見えた。もう獲物を見る目ではない。柱を見る目だ。


思いが影のように掠める。おそらく自分を頭と見なしたのだ。タシギは地に伏す頭狼を最後に見て、深く頭を下げる。狼から学んだ所作ではないが、とても近い。顔を上げ、右手を開いて示す。落ち着け。


輪がほぐれる。最も近い一頭が肩を落として近づき、段を作るように身を沈める。タシギはゆっくり理解する。疲れすぎているのだ。手を背へ置く。下の筋肉は束ねた綱のように揺れて力強い。片脚をかける。反対側にもう一頭が寄り、支点を作る。タシギは体を移し、先の一頭の背に跨がる。脚で軽くはさみ、濡れた毛の匂いを吸う。塩と鉄。


戦場を振り返る。白い骨のように砕けた根。斜めに横たわる数頭。そして岩のように大きい頭狼の体。そこに美はない。ただ森の中に開いた一本の筋がある。その筋がどこへ続くのかは分からない。だが少なくとも今は、死地の外へ続いている。


狼が歩き出すと、タシギは体の中を点検する。気はほとんど尽きている。右手首に釣り針のような細い一筋が残り、葉のように震える手を辛うじて押し留めるだけ。今の力は強壮薬を飲んだときと同じ、いや、痛みが一気に押し寄せているぶんそれ以下だ。幻想は持たない。もう一頭の頭狼が今現れたら耐えられない。だが群れは受け入れた。少なくとも今は。動物は人のように嘘をつかない、と彼は思い、こんな時にこそ彼らへ答えを返さねばならないのにと苦笑した。


雨は糸のように疎らになった。夜の森は雨上がりの葉の匂いで清い。群れは隊列を組み直す。二頭の大きいのが先導し、小さめが両脇を固める。後ろに八、九頭が続き、背面を守る。吐息は低く揃い、足音はほとんど音にならない。


斜めに傾いた扉のような岩の裂け目をくぐる。先は緩い下り坂で、三頭が並べる幅。壁の岩には無数の擦り傷。下からは煙の匂い、古い脂の焦げた匂いが上がってくる。タシギは、かつて読んだ古人の洞の記述を思い出す。火と影が壁を踊る場所。


次の曲がり角の先は広い空洞だった。天井は低く、石の根が束ねて垂れたように見える。両側の割れ目に荒く削った受けを作り、束の松明が立てられている。黄の火が狼の背を跳ね、壁に長い影を押し出す。床には平らな石板が段差として重ねられ、小石のブロックには一本、斜め、十字といった単純な刻みが並ぶ。別の壁にはより深い刻線で、長い尾と四本脚と尖った頭をした図が彫られている。狼か、人の手かは分からない。


背筋に寒気が走る。群れは松明を持ち、道を刻み、粗いながら記号を持つ。これは彼ら自身のものではない。もしそうだとしても、別の手が導いている。


低い石のアーチの前で止まる。一頭が身を伏せ、タシギは背から滑り降りて地に足をつけた。靴の泥が石に黒い筋を引く。背を伸ばし、呼吸を整え、刃先を低く構える。周囲の目はまた伏せられた。牙を剥く者はいない。歓喜も威嚇もない。沈黙が洞を広げる。


奥から、とても小さな足音が返ってくる。蹄ではない。重い踵でもない。布が石に触れる音、柔らかな踵が弾く軽い音。タシギは顔を上げる。近い松明が揺れ、壁の影が扁平になってまた膨らむ。


闇から色がはがれるように、ひとりが現れた。背は低い。痩せてはいないが、余分はない。よく巻かれた鞭のように締まっている。髪は長く垂れ、頭頂に近い部分は青味を帯び、下るほどに色が沈み、先の糸はほとんど黒い。細いフレームの眼鏡。飾りはない。ガラスの奥の瞳は冷たく、目尻に微かな切り込みがあるように見える。身に纏う衣は一見舞踏会の装いめいているが、素材はよく鞣した灰狼の毛皮。斜めに重なる裁ち、縁の毛を少し残して、柔らかさと鋭さを同居させていた。


誰も喋らない。松明がぱちぱちとはぜる。群れは動かない。彼女はタシギの手前で止まり、彼の呼吸が届く距離に立つ。視線は裂けた左腕、耳の乾いた血、赤のついた刃へすっと走る。嫌悪も慢心もない。二点を結ぶ直線だけ。


タシギは柄をわずかに締める。喉に小石がある。群れに落ち着けの合図を送り、背に乗せられてここまで来た。だが今、目の前にいるのは狼ではない。あの車内の落下の感覚が戻る。誰かが風を引いてきたみたいに軽く。


彼は言った。雨と煙でかすれた声。それでも一語ずつ明瞭に。


「あなたは……裏切り者なのか?」



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