「勇者…なのか?」
この章はかなり短い
タシギは、またしても自分が死の底へとゆっくり押し沈められていくように感じた。その感覚は垂直に落ちる一撃ではない。厚く冷たい板が少しずつ少しずつ上から降りてきて、顔を出そうとするたびに半分の指先分だけ押し戻される——爆発しないまま、じわじわ膨らむ絶望。さっきまで雑踏のように騒がしかった雨音は、年季の入ったエアコンの唸りのような微かなノイズに絞られていく。血の匂い——自分の、そして奴らの——は、別種の冷たく透明な匂いに薄められ、空洞のように感じられた。
彼は夢を見た——
最初、夢には形がなかった。新しいメモ帳から破った一枚の紙みたいに、つるりとした空白だけ。やがて、誰かが筆先をそっと浸したみたいに、細い線が現れる。小さなテレビ、黒い樹脂の枠、ゆがんだV字アンテナ。その中で赤いマントの男がビル群の上を飛び、ぎこちなく繋がれたフィルムのカットに青い光が揺れた。タイル張りの床に体育座りした少年は、のび切ったインスタント麺のどんぶりを手に、目を乾くほど見開いている。画面のヒーローが肩で列車を受け止めるたび、少年の心臓はテーマ曲に合わせて震えた。
幼いころのタシギはヒーロー映画に夢中で、いつか自分も偉大になるのだと密かに誓っていた。たとえ犠牲になるとしても、それは意味ある犠牲でなければならない、と。子どもの誓いはたいてい机の下に落ちた飴玉みたいに忘れられる。けれど、その誓いだけは——なぜか——彼のどこかに強く貼りつき、いつかふさわしい出来事に呼び起こされるのを待っていた。
タシギは成長するにつれ、その夢を火にかけ直し続けた。誰かがいじめられるのを目にすると、胸が沸き立ち、鞄の取っ手を剣のつもりで握りしめた。クラスメイトが泣けば、すぐにポケットティッシュを差し出し、拙く短い言葉でどうにか笑わせようとした。「助けられた」という感覚は、そのころ——砂糖菓子みたいに——舌の上で素直に甘かった。
やがて「良いこと」は落とし物を拾うことでも、駄菓子代を立て替えることでもなくなる。もっと長丁場の雑用へ変わった——遅刻した同僚の報告書を仕上げ、メールを読まない友のスライドを直し、客の怒りが爆ぜたときにはチームの盾として前に立つ。社会人になってからの彼は、誰かを手助けするのが好きで、間違いは直し、いつでも全力で取り組んだ。まれに、自分が赤いマントの影に近づいたような瞬間もあった——巨大な機械「会社」を黙々と回すオイルのように。
だが、長い時間が過ぎ、三十になったころ、タシギはついにひとつの事実に気づく。凡庸さの弱点だ。彼が穴を埋めれば埋めるほど、誰の目にも彼は「ヒーロー」ではなく「仕事を背負える人」になっていく。親切を重ねれば重ねるほど、仕事は彼の手押し車に載せられていく。大人の世界は——なんと苛烈なことか——映画のように善悪の境界がくっきりしていない。無数の良い糸と悪い糸が織り込まれ、どれを掴んでいるのか判然としない厚手の布のようだった。
タシギの善意に応える人もいれば、それを迎合とみなし、自分を王座に近づけた気になる人もいる。肩を温かく叩く手、寸分違わぬタイミングで口にされる「ありがとう」。そして、金属のように冷たい肩すくめ、見下ろす無表情の視線。胸の内に髪の毛ほどの微細な亀裂が走り——それは日ごとに、ほんの少しずつ、長くなっていった。
破断点はもっと遅く訪れる。数年後、よく気を配ってくれる同僚の女性と縁ができる。だが——社会から飛んできた往復ビンタのように——長く付き合ってこそ人の本性が出るのだと知る。彼女はただの金目当てで、道徳の仮面をかぶっていただけだった。はじめのうち、彼は自分をごまかした。「誰だって疲れるときはある。レールから外れるときもある」 彼は下手な職人のように、滲み出る壁のシミに養生テープを貼ってしのいだ。
そして、臆病な男らしく、彼女が複数の男と家で乱れているのを目の当たりにして、ついに関係は崩壊した。玄関先に立ち尽くす。見慣れたはずの部屋なのに、別世界へ迷い込んだようだ。安物の香水とタバコの匂い、途切れた笑い声。彼女が何度もそうしているのを知っていたのに、人は変われると信じて見過ごしてきた。——まったく、なんという間抜けだろう?
そして四十代。成功も、キャリアも、幸福も持たない平凡な中年。毎日十時間働き、同じ道を往復するループ。そんな人間に、生きる値打ちはあるのか? その問いは黒い怪物のように吠えはしない。ガラス水槽の中をぐるぐる回る盲目の魚のように、ときどき水槽の壁を擦って透明なヌメリを残す——「やめてもいいんじゃない?」という、ささやかな提案だけを残して。彼はそのたび、静かに「まだだ」と言った。古いシャッターを一段下ろす用務員のように。
夢の中で、白い床はやがて水晶の芝に変わり、ひんやりと体温を吸った。心地よさに誘われるまま、彼は横たわる。正面は真っ白な空間——光の音が聞こえるほどの白。そこへ、ひとりの少年が駆けてきて、履きかけのサンダルをけんけんで履き直す。濡れた髪。少年は立ち止まり、首を傾げ、タシギを見る。
「おじさん、かなしいの?」
水面に石を落としたみたいに、静かに広がる問い。タシギは瞬きをした。喉は渇いているのに、声は驚くほど素直に出た。心から口へ、誰かが細い管を通してくれたみたいに。
「君は誰だ?」
少年は空間を明るくするほどの笑顔を見せる。
「ぼくのことはユウシャって呼んでください。将来、ぼくはヒーローになるんだ!」
「だから……おじさんを助けたい!」
タシギは乾いた笑いを浮かべる。大人が子どもに話すときの、半ば自分に向けられた口調で。
「ヒーロー? それはね、夢物語だよ。ヒーローっていうのは、まず誰よりも卓越していないといけない。鋭く判断して、悪人に利用されないようにもしないと。それに……誰も彼もが救われる価値があるわけじゃない。この世は、そんなに単純じゃない」
少年は走るのをやめ、隣に腰を落とす。視線は逸らさない。大人の言葉が大きくて中身のない袋のように見えていて、袋の底の結び目をとうに見抜いている——そんな目。
「じゃあ、自分を助けるだけでいいんじゃないかな?」
その一言が、風と光になってタシギに吹き込む。窓の立て付けが悪いせいで、ふっとカーテンが持ち上がり、曇りガラスの向こうが見える——そんな風。
「おお……思い出した」
記憶のボタンが押される。幼いころ、ヒーローになりたかったタシギは、友だちみんなに「タシギ」ではなく「ユウシャ」と呼ぶよう言っていた。だから彼はいつも本名ではなく、そのあだ名で返事をしていた。休み時間、焼けたコンクリートの校庭。「ユウシャ!」と呼ばれると、彼は折れた定規を剣に見立てて駆け、顎を上げた。滑稽ではなかった。その名は勇気のマントであり、遊びに入る鍵だった。
けれど、年を重ねるにつれて、その名札は引き出しの奥にしまい込まれ、開かれることはなくなった。彼は本名で、やがては「自分」「私」と言い、舌の上でその言葉がすり減っていった。幹の年輪みたいに、呼称の層が重なり、小さな芯「ユウシャ」は深く深く埋もれていった。
「つまり、この子は俺自身か……?」
少年は肩をすくめる。小さな仕草に、確かな肯定が宿る。
「自分を助ける、か……。ああ、そうだ。自分を救えない者が、誰を救える。『優しく、偉大なヒーロー』なんてものは、結局は他人が貼るラベルにすぎない。本当のヒーローってのは……きっと、自分の望みを叶えるために全力を尽くし、誰も傷つけずに自分を救い上げる人間——だよな?」
だから——生きなきゃ。
タシギは、白い地面がもう平らではないことに気づく。細い亀裂が走り、網目を描く。そこから、骨の髄を刺す冷気が這い上がってきて、薄い煙のように空間を満たした。水晶の芝は粉々に砕け、その破片が肌に触れて痺れを残す。首筋の奥で鈍い痛みが立ち上がり、誰かが古いテープの「再生」を押したみたいに、現実の音が戻ってくる。
少年は慌てない。笑って、音の薄い光を残す。
——行こう。
言葉ではなく、視線がそう告げる。
白は音を立てずに崩れ、重力のない雨のように落ちていく。一枚の布が乱暴に剥がされるみたいに、押し込められていた感覚が一斉に噴き出した。肋骨の間を針のような冷たさが貫き、焼けた刃が上腕を掠め、胸には砂の詰まった袋が載せられ、舌の根には釣り針のような痛み。遠くで、森の壁に砕かれた遠吠えが、いくつもの欠片になって散る。
痛みの最中に、細い暗がりが開く——意思が一本だけ通れるほどの狭い通路。彼は指を曲げる。冷たい泥。刃はそこにあった。半身はまだ痺れている。けれど、指先は小さな言葉で話す。「まだ、ある」。
目を開く。上まぶたと下まぶたは、乾いた泥で薄い鱗のようにくっついている。はがす。ひりつき、涙がにじみ、一部の視界が洗われる——捻れた太い根、遠くの朽ち木に灯る燐光、吐いた息が糸のように白くほどけるのが見えた。
視界の端で、インデックスは点滅する白熱球のように一度だけ明滅して消えた。構わない。読む必要はない。立つ必要がある。——が、命令が動作に変わるよりも先に、半歩だけ夢が引き返し、別の記憶の流れに道を空けた。蛍光灯の明るすぎる洗面所で赤く充血した目。雨に濡れたホームに列車が滑り込む夕方。心の奥に小石ほどの思いつきが落ちる——「もう一歩踏み出せば……」
その「もし」は、あの日、彼が「しない」に捻じ曲げた。背を向け、手の中でスマホの重みを感じて、物理的な何かが自分を引き止めていると確かめた。彼は一日生き延びた。さらにもう一日。十時間労働と決まった帰路の摩耗が意志を階段の縁みたいに擦り減らしたけれど、あの「しない」は、小石として彼のポケットに溜まり、手を入れれば裂け目がないと確かめられた。
今、暗い森で——十四歳の体に雨と血を纏い、指揮者のいない合奏のように入り乱れる遠吠えの中で——彼は気づく。あの小石は一本の綱の端、「生きる」という名の綱の端だった、と。彼はそれを握っていた。不器用に、震えながら、反対側を誰かが持っているかも分からないまま——それでも。
痙攣のような震えが体を走る。昨夜のエンスト前のそれとは違う。冷水から上がった人間が、自分の呼吸を探し当てるときの震えだ。半乾きの狼皮の生臭さ、手に移った脂の匂い、慣れきったはずの生臭さが、別種の守りに変わる。小さな道具——皮の水袋、失くしたはずの縄、ここに残る短剣、裂けた革鎧——それらは、もし明日があるなら積める脆いレンガだ。
『影狼』の文句が浮かぶ。「静かに進み、不意に至れ。手は揺らすな。引き際に絡むな。」あのときは乾いた標語だった。いまは肉づきが増し、薄い氷のように意志に貼り付く。狼になるためじゃない。人でいるために。
タシギは長い呼吸を試みる——が、胸郭は中程度の一息しか許してはくれない。いい。短く刻む。吸う——止める——吐く——止める。筋肉が解読できるコードのように。臍下に爪先ほどの温もりが灯る。誰かを温められるほどではない。だが、この闇の中で、脂でも皮でも鉄でもないものが、まだ燃える覚悟を持っていると知るには十分だ。
夢の少年——ユウシャ——は消えない。視界の敷居に立ち、両手を腰に当て、根拠のない自信に満ちた子どもの立ち方で立っている。彼はタシギに、自分と同じになれとは言わない。たったひとつ、小さいが唯一教えられる語を要求する。「やってみて」。
遠くで、風が岩間を抜けるみたいに遠吠えが寄せては返す。タシギは指関節が軋むまで短剣の柄を握りしめた。頭の中に、小さな計画が浮かぶ——洞窟の壁に書いた箇条書きのように。もし見つかれば縄を拾う。なければ編み直す。雨が許すなら新しい火床。小石がなければ樹皮で道標。『影狼』は少しだけ——まずは「置く」。どれもきらめきはない。ただ「続ける」と約束してくれる。
そしてその「続ける」は、奇妙なことに、この闇で、かつて幼い日の赤いマントよりも美しかった。
時間は肩に顎をのせた猫みたいに彼にもたれかかる。冷たさは噛み、痛みは免除されず、疲労は引かない。けれど、体の内に新しい軸が一本——細いが、真っ直ぐ——立つ。はっきり見えるのだ。自分を助けてくれる誰かは現れない。けれど、誰かに助けられなければ「誰か」になれないわけでもない。立て。もう一度。さらにもう一度。
世界はぱきんと砕け、冷気が隙間という隙間へ染み込む。タシギは痛みと疲労を全面で受け取る——それでもいい。
「俺は生きる!」