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人生に疲れた俺の異世界サバイバル記  作者: Khanhtran
第1巻:月光の下の狼の遠吠え
6/10

雨の中のボーラス

雨上がりの洞で、タシギは奪った狼皮から即席のボーラスを作り上げる。だが風向きが変わり、Indexの警告とともに群れが迫る。強化薬で身体を酷使し、雨中でボーラスと短剣を併用して必死の応戦──一体を仕留めるも、やがて十近い狼に包囲される。隊列を崩して泥斜面へ逃れた彼は、転落の末に視界が暗転する。夜は、まだ終わらない。

タシギは、仮に吊っておいたオオカミの皮を岩の枝からゆっくり外した。指先がまだらに水玉のついた表面に触れ、離れきらない湿りと冷たさをはっきりと感じる。

「まだ濡れてるな」彼は心の中でつぶやく。「けど、もう使えるだろう」

身には骸骨から拝借した革鎧。肩と左脇腹をぎゅっと締めつけ、重い代わりに原始的な安心を与えてくれる。もしこれがなければ、寒さでとうにどこかでへたり込んでいたに違いない。


彼は皮を洞の床に広げ、短剣の切っ先で昨日縫った縫い目を一本一本なぞって確かめる。残っていた毛の塊を払い、白く脂でぬめった地肌を露わにする。

「十分に強い。編める」そう見立てた。


頭に浮かんだのはぼんやりした記憶の欠片──南米の先住民を映した映像。三つの重りがついた投げ縄、ひと振りで獣の脚に絡む。ボーラス。簡素にして賢い武器。腕の短い自分でも、群れに対して距離を掴める、そんな道具。


彼は皮を細長い帯に切り分ける。主となる長い紐を三本(両腕を広げた長さの一・五倍)、短い補助紐を三本、中央で束ねるための片を一本。昨日樹皮で綯った縫い糸は今度は芯に。濡れた皮を芯に巻きつけ、歯と手でぐいと引き延ばして平たい帯にする。縁の皺には脂をすり込み、薄い石板で押しつけ、滑らかで腰のある紐に仕上げる。各紐の先端には端切れで小さな「袋」を急造──拳大の石がひとつ入る程度の大きさだ。


石ならいくらでもある。彼は洞の口へ出て、やや丸く、握り拳ほどの重さの石を探す。外側二本の紐にほぼ同じ重さを三つ、中央の紐には少しだけ重い一つ。いつものようにIndexがぬっと現れた。


Index:「ヒビの無い石を選択──衝突時の破砕を回避」


「わかってる」彼はぼやき、横に白い筋の入った石を別のものと取り替える。洞に戻り、石を革袋に押し込み、短い補助紐で口を締め、三重に結んで止める。残りの樹脂は掌で温めてから結び目に塗り、ついでに紐の一部にも薄く塗って撥水代わりにする。


口の中が脂っぽく塩味を帯びた。彼は唾を吐く。中央の紐は外の二本より指半分だけ短く調整。中央結びで三本を不揃いの「Y」に束ねる。

「回転が揃ってればきれいに飛ぶ。揃ってなきゃ自分の顔面に帰ってくる。自分で死刑宣告は賢くないよな」彼は独りごちた。


「さて、試運転といこうか」

彼は洞の縁へ出る。雨は幾分弱まり、樹冠で濾過されて細い糸幕になっている。右手で中央結びを、左手で外側二つの重りを持ち上げ、そっと落とす。紐が張っていく。回し始める。遅く──速く──また遅く。三周、五周。空気を裂く紐のシュルリという音は頼りないが、先の重りはサソリが尾を振り上げる前のように震えている。


放つ。


三つの石は同一平面上を流れ、絡み合う星のように斜めへ走り、小さな幹に当たった。ドスン。紐が幹に巻きつき、瞬時に縛り上げる。彼は引いて、解く。もう一回。今度はズレる。ひとつは地面に突き立ち、二つは互いにぶつかって跳ね返り、タシギの手首を痛打した。小さく悪態をつき、手を振って痺れを散らす。


「所詮は投げ紐。何度か投げれば慣れる」


五回目で、およその軌道が描ける。八回目で、放ち際の「手応え」が掴める。十回目、茂みを狙って投げると、若木に絡み、紐の張力でぺこりと頭を下げさせた。見栄えは悪いが、脚を掬うには十分──少なくとも四足のリズムを乱すには足りる。


雨の匂いが重くなる。森が交代の前にひと息止めたようだ。彼がボーラスを拾い、外側二つの重りを走りやすいよう革鎧のポケットにしまい、余った皮をまた吊るそうと洞へ戻ろうとした、その瞬間。予告なしに薄いガラス板が視界に飛び込む。


Index:「危険。北東寄り北──個体三。距離二十メートル。加速接近中」


タシギは半拍固まり、鼓動が二拍ほどずれた。「オオカミか?」心の中で問う。


Index:「オオカミ。逡巡なし。風向き変化──人の匂い、北へ拡散」


舌打ち。速い。とても速い。さっき仕留めたのは孤立個体じゃなかった。群れ。少なくとも斥候班。雨が匂いを隠してくれていたのに、今度は風が裏切る。堂々と旗を掲げるかのように。


逡巡の暇はない。水袋代わりの革袋を掴み、軽く振る。「まだ湿ってる」すぐに洞の奥へ押し込み、潰した葉で口を覆う。右手の短剣はすでに柄を握り締め、左手はボーラスの中央結びをつかむ。準備完了。洞を出る前に、腰へ目を落とす。草葉の袋に、残る一本の小瓶──下級強化薬。


「使うしかない」迷いを切る。蝋栓を歯で弾き、液を喉に流す。無味無臭、雨水のよう。それなのに、全身に赤い陽が一枚、ぱしんと打ち込まれたみたいだった。視界の縁が淡く光り、眩しくはないが、関節の周りに獰猛な縁取りを描く。皮膚の下で筋が盛り上がる。冬眠中の獣が叩き起こされたかのように。


Index:「心拍上昇。持続推定十五分以内」


「十分だ」彼はぶっきらぼうに返す。「死ななきゃいい」


彼は雨へ飛び出した。


最初の一歩は、生きたマットレスを踏んだように泥へ沈む。水飛沫が高く上がらないよう重心を落とし、飛沫の軌跡で進路を読まれないようにする。左の視界の端を灰色の影が掠める。もう一つ、低く地面を押し潰す影。三つ目は外側へ回り込み、輪を閉じにかかる。


Index:「左──七メートル」簡潔な指示。


彼は身を返す。すでにボーラスは回っている。右腕で環を描き、左手を放す。恐怖に油を差されたような滑らかさで、三つの石が紐を引き、ヒュンと飛ぶ。ドス。詰まった悲鳴。左の個体の前脚に紐が絡み、鼻先から突っ込み、身体ごと地面に叩きつけられる。タシギは突っ込む。短剣の切っ先──耳の下の柔らかな喉へ。口の中に金臭い塩が広がる。


「早く」身体に命令する。「早く──」


命令を打ち砕く重さ。二体目が襲いかかる。選ばれた獲物のような速さ。タシギは咄嗟に左腕で喉を庇う。歯が革にギリと噛みつき、滑り、上腕骨を探る。白い閃光のような痛みが視界を焼く。反射で短剣を横薙ぎ──歯列を外れ、口角から頬に深い裂け目を刻む。オオカミは悲鳴を噛み、半歩退き、黄色い眼光が凶悪に閃く。


「間合いを保て」残っていた理性が囁く。「『遠──近──遠』のリズムに縛れ」


だが三体目が来る。跳ばない。曲線を描いてカットイン、方向選択を強いる。左──倒れた死体が邪魔。右──濡れた幹。前──牙。タシギは下がる。踵が滑る。守りは破れた網のように崩れる。


ボーラス!


彼は倒れた個体の足元から紐の塊を引き寄せ、短く一回転、狙いは「絡める」ではなく「目くらまし」。中央の重りが三体目の鼻梁をかすめ、絡まないまでもコツンと固い音。痛みでほんの一拍、瞼が閉じる──それで十分。タシギは二本の幹の隙間へ身体を滑り込ませ、濡れた影のように抜けた。


口を裂かれた個体が血の味を舐め、唸る。頭を低く、突進。

Index:「低く刺せ」二語。彼は考える暇もなく従う。短剣の穂先は胸と前脚の間の腱の柔らかい溝へ。体重が乗る──さらに刺さる──鉄の骨がきしみ、抜けない。彼は手を放す。膝で肩を打ち、柄を捻って引き抜く。


「HPは?」心の中で跳ねる。


Index:「急減──詳細後述」


パーセンテージを数える余裕はない。あるのは雨と呼吸だけ。右手が震えていることに気づく──寒さ半分、アドレナリンと薬半分。上腕が痙攣する。だが、そのおかげで今の刺突は深く入った。


最初の個体が起き上がりかけている。炎の揺らめきのように影が震える。足にはまだボーラスが絡み、引きずっている。タシギは躍りかかり、目元から額へ斜めに一線──血が溢れ、視界を奪う。もう一度首へ刃を入れる間はない。別の個体が横から飛びかかる。彼は背を幹に預け、両腕で頭を挟み、膝で胸板をはね上げる。牙は喉に届かない。世界は赤と黒と灰の帯に溶けた。


空白。雨音が消えたかのような一瞬。音が戻ると膝が痺れていた。左腕は噛み損ねの衝撃で痺れ、彼は立っている──なぜかはわからない──二頭は退いている──それもわからない。三呼吸。白い煙のような息。


「終わらせる」震える内声で命じる。絡まった方の首を下へ引き落とし、横に刃を流す。血が噴き、ばかみたいに温かい。もう一頭が唸って跳ぶが、仲間の死骸に足を取られて躓く。その隙に肩と首の接ぎ目へ深く突き入れる──今度は動脈を穿つ。崩れる。残り一頭。


「もう十分だ」呟くが、三体目は同意しない。五歩下がり、鼻を下げ、円を描く。風が背から顔へ回り込む。吸い、吐く。薄い黄色の眼が揺るがず刺す。──こいつはさっきの二頭のように闇雲に突っ込まない。彼の「気」を読む。痺れた腕の弱みも。


「来い」彼は細い笑みを作る。「さあ──」


しかしそれは正面からではない。右へ流れ、振り向かせ、突然の切り返し。身体ごと回りきれず、肩の革を鼻先にぶつける──ゴツ!肩に痛み。下がりざま、低く突く──血脈を断てたか?いや、肋の上を掠めただけ。獣は弾かれ、実験機械のスイッチのように戻る。再度突進。今度は首に深く入る──が、彼の手が滑った。歯を食いしばる。眼底で星が爆ぜる。


「HP?」絞り出す。


Index:「残り五十七%」


数字に半拍固まる。薬が体内で痙攣するように走っていても、もう縁に来ている。左肩は痺れ、右前腕は鉛のように重い。彼は三歩退き、死骸を飛び越え、木々の間の細い道へ飛び込んだ。


獣は追わない。大きく回る。死角を知っている。彼もわかっている。そこで進路を変える。胸まで埋まるような濃い藪へ。濡れ葉と泥が腹を冷やす──が、葉と泥の匂いが新たな皮膜になって彼を包む。沈黙。しゃがむ。一分だけ。祭り太鼓の心拍を小太鼓の行進へ落とすための一分。


Index:「二個体──索敵中。三十→二十五メートル。風が乱れ──匂い減衰」


身を折り、余りの狼皮を湿った毛布のように背へ被せる。下で手首が影を作る。短剣は右腿のすぐ横。ボーラス──回収済み──は左手に巻き、三つの石が骨の関節のように触れ合う。


弦を張り詰めたように長い刹那。雨のザァからポタへ。濃い雨幕の下で、獣の足音は細かい破片に砕け、判じにくい。彼は一瞬だけ目を閉じる。眠るためではない。耳を目から切り離すために。


「……さて」自問する。「今立つか、待つか」

薬が切れるまで、遠吠えが遠のくまで、夜明けまで待ちたい自分がいる。だが、金属味の唾液が耐えがたくなり、立ち上がれと身体を押す自分もいる。命令は反射より早く脚へ伝わった。


跳ね起きる。狼皮が背から滑り落ちる。葉が尻にピシと当たる。クッという小さな音。すぐさま、二つの灰影が矢のように飛び出す。時間が圧縮される。雨粒が糸になって視界をゆっくり横切る。


ボーラスが唸る。


回る──回る──放つ。


傾いた平面上を三つの石が走り、二つの影に切り込む。ひとつは額にボスという奇妙な音──絡まない。それでも膝が一拍沈む。もうひとつは耳をかすめて枝に当たり、バネのように跳ね返り、道化じみた角度で戻る。三つ目は先頭の後脚に絡まる──半拍遅れ。彼は追い打ちに地面を二回転して紐を引き、保険のため拾っておいた四つ目の石を二頭目の脇腹へズブと叩き込む。手応えは確か。


手が震える。恐怖だけじゃない。薬で筋肉が「燃えて」いる。目は……開きたくない。最後の一撃の前に目を閉じてしまう──学生時代、ボールが飛んでくるとつい目をつぶった悪癖のままに。石が落ちる。どこに当たったかもわからない。すべてが雨音の中に沈む。


目を開けた瞬間、彼は自分の失策を理解した。


もう二頭ではない。前──後──左──右──灰の点が形を成す。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ──十に近い。網のように横広がり、厚くなく、薄く広い。先頭の二頭──額と脇腹に腫れ──は「盾」。後ろの遅い一頭のために身を張る。群れに計画がある。さっきみたいな散発はもうない。彼らは考え、狩る。


「走れ」声が告げる。走る。三歩──前は狼!右を向けば狼!左にも狼!下がれば狼!息を呑む壁が四方を囲う。


罵りが口に溢れる。彼はボーラスを金槌のように振り回す──滅茶苦茶に。ひとつは目を狙って滑り、ひとつは枝に絡んで跳ね返り、ひとつは幹に絡んで足止め。右手の短剣は自分から飛び出したそうにピクピクと跳ねる。彼は歯を食いしばり、森にも空にも、かつて匂いを隠し今は去った「女神」にも悪態を投げる。


「群れの猫に弄ばれる鼠みたいに死ぬな」別の声が乾いた石のように言う。「死ぬな」


輪がさらに狭まる。うなじの後ろに冷気──突っ込まず、彼が背を見せるのを待つ一頭の存在を感じる。彼はボーラスの円を正面に保ち、背面を偽の壁にする。紐の円は焦れた軌跡を描き、飛沫を散弾のように撒く。


Index:「西南。単独個体──六→五メートル」


群れの中の「凹み」。離れた一頭、追い出された一頭、囮として切り離された一頭。いずれにせよ、読み取れる唯一の弱点。彼はボーラスの軌道をわずかに東へずらし、隙間を広げる。東側の群れが本能的に半拍引く。背中──西南側──が露出。


その唯一がドリルのように突進──愚か?いや、誘い。だが喉が刃先に寄れば、誘いでも死ぬ。


彼は身を翻す。ここからは時間の外側で起きた出来事だ。脛を泥に深く沈めて踏ん張り、左肩を落として撞木を受け、右手は真っ直ぐに──美しくも複雑でもない、ただの貫通。眉間からまっすぐ脳へ。


ミシ。

聞こえはしないが、きっとそんな音。血は少し──首みたいに噴き出さず、どろりと熱い。スイッチを押したように硬直し、体重がのしかかる。彼は身を捻り、そのまま相手の死体を盾にして東からの次の突進を受け止める。二つの獣体がぶつかり、灰と茶と赤の塊になる。悲鳴が重なり、人か鉄かわからない音が響く。


彼は死骸をどけ、短剣を取り返す。待たない。走る。


群れは許さない。一直線には追わない。分散する。両側に並走し、二本の運河の堤のように距離を保つ一対。背後を押さえる一頭。正面から首を獲りに回り込む一頭。十面埋伏の字がふたたび描かれ始める。


閉じるかもしれない。昨日までの彼なら。だが彼はもう昨日の彼ではない。薬は筋肉を炭火のように焚きつけている。肩は痛い。腕は痺れている。だが足裏はもう違う。背中が一椎分長く、腕が一手長く感じられる。そしてボーラスは再び、雨の中の小さな王笏になる。


回す。放つ。今度は絡め狙いではなく、隊形破壊。中央で左の肋骨にコツンと打ち、外側で右の膝にバチンと叩き、三つ目は藪に絡み、その反動の紐が後方の個体の顔を掠めまぶたを閉じさせる。列が半歩だけ乱れる──大きくはない、だがリズムが一拍崩れた。


二拍目を待たない。走る。踵の後ろで泥が弾け、葉が足首を鞭打つ。濡れた革は老いた手のように肩を掴む──それでも胸郭を守る対価だ。呼吸は4-2-4-2、短く、切れ味良く。ふいごは火のためではなく、生存のために。


前に小さな斜面。高くはない。だが濡れ葉が滑り台に変えるには十分。考える暇はない。丸太のような根を踏み外す。踵が跳ね、目が……自動で閉じる。


真黒な刹那。森が一拍、息を止めた。群れは突っ込んでくるだろう。牙を研いで。手のボーラスは──ゆるい。短剣は──まだ手に?わからない。信号は砕け、細かい硝子片になった。


身体が落ちる。


長い斜滑降は自由落下とは違う。誰かに襟首を掴まれ、目の粗い布の上を引きずられる感じ。膝が葉を掻き、顔が苔を擦り、背が岩を擦る。衝突のひとつひとつが脳裏に白い星を散らす。鋭い痛みではなく、削られる痛み。雨を切る遠吠えが追う。近づき、離れ、また近づく、波のように。


目を開けようとする──まぶたは鉛。手をつこうとする──指はバターに刺すみたいに泥へ沈む。頭を上げようとする──コツン。今度は十分強く、視界に白い火花が走る。


パキ。何かが折れた──紐か、枝か、わからない。


斜面の底は罵声のように突然。編み根に打ちつけられ、停止。顔を泥に埋める。土の匂いが鼻を満たす。耳はこもる。雨はまだ降っているが、今は頭上ではなく隣家から聞こえるみたいだ。ここは樹冠が厚いのだろう。あるいは──耳が詰まったか。


「立て」内なる声が言う。が、命令は脚へ届かない。「……立て……」

下半身の一部がやっと従い始める。古い電気製品みたいにジジと震えながら。右手が短剣を探り──柄に触れる。「いる」呟く。左手が紐を求め──虚しい空洞。「ボーラス……落とした……」


斜面の上、雨煙の向こうに灰の影がちらつく。十ではない──五か六。濡れ葉の斜面を嫌い、飛び込まない個体もいる。根を辿って回り込むもの。気の荒い一頭が飛び損ね、半身滑り落ち、爪で掻いて跳ね戻る。鼻先から白い湯気が伸びる。聞き、嗅ぎ、配置する。


「立って……くれ……」自分の筋肉に懇願する。馬鹿みたいに。頭はわずかに上がる。喉元には横縦十数本の爪痕。古いのも新しいのも。背はヒリつく。岩に革が裂かれたところ。左腰の痛みがまた目を覚ます。悪友みたいに馴れ馴れしく。


Index……?呼ぼうとする。文字は出ない。薄いガラスは現れない。もしくは現れても、彼の目がもう拾えない。苦笑がこみ上げる。薬が切れてきたのか。視界の赤い縁は写真の縁取りみたいに褪せ、色自体が洗い流されていく。


「今夜はまだ終わってない」彼は思う。「でも俺は……かもしれない」


上の群れがまた動く。三頭が扇状に、二頭が中列、一頭が後衛──斜面の出口で密集しないよう心得ている。焦らない。冷たい。雨はまた強さを増す。


踵に力を込める──泥が沈む。前腕に力を込める──一本一本の筋が釣り糸みたいに悲鳴を上げる。馬鹿げて正しい決断が閃く。「立てないなら──転がれ」


身体を傾け、根を踏んで横転。まっすぐの落下線を外れる。もう一回り短い滑りで、腐葉土が詰まった窪みに転がり込む。頭を抱え、肩にかけていた狼皮を半身に引き上げる。短剣……まだ手の中。


窪みの縁に着地する足音。暖かい、湿った、制御された呼吸。葉の縁を試す爪。息を殺す。歯を噛み締め、ギリと自分の顎の音が耳に響く。時間が進まない。背に落ちる雨粒ひとつひとつが、終わらない目覚まし紐だ。


ひとつが鼻先を突っ込む──葉のすぐそこ。ひげが震えるのが見える距離。刃が上がる。突きたい衝動が身体を刺す。が、もう一方が言う。「今刺せば群れに張り付かれる」。いくつもの筋書きが走る──速く。どれも悪い結末。どれも「痛い」。


刺さない。


遠くで短く吠える声。上の群れが一斉に顔を上げる。別の呼び声?別の獲物?もっと大きい雨?知らない。どれが良いとも思えない。


「行ってくれ」彼は願う。「別のところに……」


行かない。そんな都合よくはいかない。


分かれる。二頭が左へ、二頭が右へ、それぞれ中央に一頭。ここは水が溜まりやすい窪み──「人」の匂いは葉を塗って誤魔化していても、他より溜まる。一頭がさらに鼻を差し込む。狼皮の裾へ歯が触れる。耐える。少し引けば剥がれる。ひとかじりで腿が露わになる。想像したくない。


「Index……」彼はもう一度、寝坊した友に呼びかけるみたいに。文字は来ない。


牙が皮の縁を掴む。引く。半掌分、皮が剥ける。自分の膝が「夜」の下に現れる。刺す。


短く、極めて低く、鼠径へ──大腿動脈。完璧じゃない。浅い。だが十分。悲鳴が弾かれ、下がる。血が葉の上に綺麗な筋を描く。残りが突っ込む。


もう手はない。彼は跳ね起き──愚直で、しかし勇敢に──残った最後の石を素投げで前の顔面にぶつける。頬骨にゴン。死にはしないが、目が泳ぐ。身体を傾ける。刃が走る。開いた喉──開いたのは自分の。左の個体の牙が革を噛み破り、露出した素肌をざっくり裂く。自分の血が温かい。顔が冷たい。


そこから先、思考はない。赤と黒を繋ぐ反射の連鎖だけ。突く──退く──蹴る──転がる──噛む──吐く──突く──退く──……


一度、柄で受けて前腕が痺れ。一度、頭部を蹴って鼻先を逸らし、歯が泥を噛み。一度、躓いて倒れ、その場所へ別の一頭が着地。


それでも小さな隙間が開く──水に抉られた葉の滑り──細い水路。彼はそこへ身を滑らせる。そこが「道」だからではない。そこが群れではないから。奇妙なことに、群れは水路を嫌う。回り込む。彼は潜り込む。水路を刃のように抱き、避ける。


雨がさらに一段、ザバっと増す。泥は流れ、葉は筏になり、遠吠えは……遠く。次いで近く。次いで遠く。天は彼の耳で「ドラッグ&ドロップ」をしている。


「気絶するな」彼は命じ、同時にそれが最も愚かな命令で、今にも破られることを悟る。視界はぼやけた写真みたいに大きな塊しか映さず、細部も案内も数値もない。短剣は……まだ手に。だがその手がまだ自分の身体に繋がっているのか、蟹の脚みたいに千切れていないのか、確信はない。


足が空を踏む。


再び、足裏の下に空洞。空気を掴む。空気は掴み返さない。背が泥に擦れ──滑り──頭が柔らかいものにコト──次いで硬いものにゴン──視界の縁の光が──消える。


暗転。


森の別の場所で、タシギとは無関係に、木は雨を飲み、土は息をし、群れは狩りを続ける。ここ、根のアーチの下で、十四歳の少年──中身は疲れた大人──が身を丸め、短剣を握り締めている。視界の赤い縁取りは──もしまだあったなら──もう完全に消えた。斜面の向こうでは、黄色い点の目がまだ灯っている。だが彼の周囲は、泥と狼皮、血──彼自身と彼らの──そして古い雨の匂いが重なり、目に見えない毛布のように厚く垂れ込めていた。


まだ死んでいない。


だが生と死の扉は、落とし戸で一気にではなく、ゆっくりと引き戸の音を立てながら閉じつつある。


本物の闇に沈む直前、彼の頭に小さな炭火の欠片のような思考が転がり落ちた。

「ボーラス……また作り直しだな」

そして、闇。



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主人公が死んで物語は終わりです、ハハハ
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