表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

いっしょに鍛錬しよう

タシギはゆっくりと目を覚ました。岩の扉の縁から差しこむ陽が鋭い白の筋となって流れ込み、まぶたに触れると、小さく叩かれたようにちくりと痛む。何度か瞬きをすると、背中から、ぴんと張られていた紐がそっと外されたような感覚が降りてきた。雨の夜の震えも、追われる者の浅い息も、いまはない。あるのは柔らかな温みだけ。ラングリスの森に足を踏み入れてから稀にしか得られなかった、心の底がやっと沈むような安らぎがそこにあった。


身を起こすと、葉で編んだ筵が肩の下で小さく鳴る。木枠の扉は陽を受けてまだ温かい。太陽は天頂に近い。夏なら、もう十時は過ぎているだろう。ぐっすり眠れた、と彼は思う。長く、途中で跳ね起きることもなく。この世界に来てから、自分にここまで警戒を下げることを許した夜はなかった。少しの気恥ずかしさと、確かな感謝が胸に並ぶ。そして、その間にひと筋の冷静な声が混じる。次はほどほどに。警戒を手から落とし過ぎないこと。たったひとときの緩みが、眠りの隙を突く不意打ちを招く。


向こう側の木の寝台はもう空だ。羽毛の匂いが薄く残っている。ボルティアはきっと早起きだろう。タシギは左手の包帯を整え、革の上衣の裾を軽く引いてそろえる。かすかな煙と乾いた葉の匂いが床石に残り、胸の鼓動はいつもより落ち着いて、ゆるやかだった。


廊下へ出る。遠くで、爪が石を小さく打つ音が句点のように続く。夜の火守りを終えた松明は炭だけを抱き、彼は洞の前の広場へと出た。朝の光は薄い水のように流れ落ちるのに、眩しさは強い。洞の足下に森が帯のように広がり、手前の緑は濃く、遠いほど淡い。葉の縁は細かな刃のように光を返す。谷の風が裾を揺らし、土の湿りと樹液の甘さを運んだ。


群れの集まる場所へ向かう。灰と白の体が波のようにゆるやかに動く。通りすがる狼は皆、頭を垂れた。いくつかは一瞬足を緩め、耳を伏せて礼をする。タシギはほんの少し固まる。二つの生を通して、これほどきちんと頭を下げられることは稀だった。子どもの頃、古いあだ名で呼ばれていた時間を除けば、会社の廊下で交わすぎこちない会釈や、忙しさに塗られた笑顔くらいのものだ。ここでは、打算の音がしない。ただ、まっすぐな会釈。


ひらけた風の当たりのいい場所に、ボルティアがいた。小さな焚き火のそばにしゃがみ、三、四羽の兎を串であぶっている。脂が炭に落ちると、雨粒が乾いた葉に染み込むような、かすかな音を立てる。薄い煙。焼ける匂いに、黄金の目が輪を作って集まった。彼らは境目を守りながらも近く、長い舌を垂らし、涎で口元を濡らし、褐色に変わっていく腿肉から目を離さない。どこかの家の温い朝に似ている。台所に立つのは狼の耳を持つ娘で、周りの子どもたちは百斤近い体重だということを除けば。


タシギが歩をゆるめると、群れは自然に道を空けた。彼はボルティアの向かいに腰を下ろし、日と煙の肌触りを受けながら、肉の匂いを胸いっぱいに吸い込む。


「彼らの朝ごはんを作っているのか。」


「はい。」ボルティアは慣れた手つきで串を返す。「狼は火を使いませんから。それに、火を通した方が長く生きられます。少なくとも何年かは違います。」


「君は食べないのか。」


「食べますよ。」彼女は笑って、髪が風に傾く。「でも焼き上がってからです。」


タシギの腹が長く鳴いた。空の木桶の底で弦が震えたように、はっきり聞こえる。丸二日、何も食べていない。身体は正直に請求書を突き出す。ボルティアは彼を見て吹き出し、手は止めずに言う。「お腹、空きましたね。あとで殿方の分も焼きます。」


頬が少し熱くなるが、断る理由もない。「頼む。」彼はうなずく。「外で風に当たっている。」


洞の縁に出て、森を見下ろす。風が髪を持ち上げ、襟元を抜けて、生きた涼しさを通す。ここからのラングリスは、夜のように牙を剥かない。木々の頂は陽を浴びて肩を休めているようだ。遠くで白い蒸気の柱が細く立つ。どこかで水が岩を流れているのだろう。


しばらくして、しゃくしゃくと噛む音と舌のぺろりという音がやみ、ボルティアが戻ってきた。手には二串。匂いは濃く、はっきり。彼女は一本をタシギに差し出す。出来た仕事を静かに誇る者の、やわらかな笑み。


「お待たせしました。」


タシギは受け取る。脂が閉じて光る皮は、ところどころぱりりと鳴り、色は深い褐へと落ちている。唾が反射のように溜まる。だが彼はゆっくりと口に運ぶ。舌に一層ずつ味を覚えさせ、急な脂に胃を驚かせないように。ひと口ごとに、胸骨に沿って温い線が降りる。隣ではボルティアが腿を齧っている。彼女は、飢えているのに律した調子で食べる彼を見て笑った。


「殿方、まるでお年寄りみたい。」


「お年寄り、か。」タシギは口元を拭い、微笑む。からかいではない。食べ方、座り方、息の置き方に滲む癖への素直な感想だ。「そうかもしれない。」彼は言う。「いらないものを起こさないための習い性、というだけかも。」


「ええ。」ボルティアは争わない。「殿方は不思議なくらい繊細で落ち着いている。同年代には見えません。」


タシギは答えない。陽が眼鏡の面で滑って、彼女の瞳が一段明るく見えた。彼はふいに、この体が十四歳だということを思い出す。かつて、走りたくて、叫びたくて、転んでも翌日を気にしない夕方が欲しかった時分があった。いま、その思いは薄い紙片みたいに過ぎる。最後の一片を噛み、静かに飲み込む。


「ボルティア。」串を置き、彼は向き直る。「変音術以外の術も知っているだろう。見せてくれるか。」


「はい、もちろんです。」彼女はうなずき、手にした腿を軽く持ち直す。唇がわずかに動く。冗長な呪文とは違う、丸く短い音の連なり。誰かが風の本当の名を呼ぶように。足元の地面に、薄い輪が浮かぶ。炭でも墨でもない。空気に立った水の気配。曲線の印は、小川が合流する場所の線に似ている。派手さはないが、背後に揺らぐ鏡面があるみたいに光る。


輪の中心に風が集まり、沸き立つ直前の水のようにふくらんで、ふっと押し上がる。強くない。荒くもない。地にぺたりと座り込んだ子どもを、柔らかな座布団でそっと持ち上げるみたいに、体をすくい上げる。タシギの足が地面を離れ、体が軽くなる。彼とボルティアは地上から数尺、宙に浮いた。下の森が少し遠のき、ものの輪郭が細かく分かれ、光がいくつにも砕ける。


「風の座です。」ボルティアは笑う。何度やっても嬉しい、日常の小さな出番のように。彼女はもうひと息、見知らぬ音節を継ぐ。もう一つの輪が現れ、今度は中央に小さな渦の印が回る。渦は水滴同士が寄り添うように、水の輪へ近づき、触れるとそのまま合わさり、一つになる。輪は大きく複雑になり、核で小さな旋回が続く。


足元の風が向きを変え、地表から糸のような竜巻が立ち上がる。タシギが目を見開く間もなく、ボルティアは深く息を吸い、はっきりと叫んだ。


「Fly。」


体は一気に押し上げられる。樹海の緑が、巻き取られる絨毯みたいに遠ざかる。冷たい空気が頬を打ち、目が少し熱を持つ。低く垂れていた薄い雲を突き抜けると、ひっくり返した湖のような空が開いた。下には、幾重にも連なる丘の背骨、巨大な根のような濃い筋、ぽっかり空いた場所に溜まる光の斑。タシギは風の輪の中で立ち尽くし、手にした串の兎を食べるのも忘れる。胸は力強く、けれど静かに打つ。生まれてはじめて海を見たときのように。


「きれいでしょう。」ボルティアは詠唱を終え、空気にそっと触れるような声で言う。彼女の笑みは穏やかだ。


背後の渦は疲れない櫂のように働き、魔法陣の輪をゆっくりと進める。いくつかの梢を越え、きらきら光る谷の水の上を滑り、獣影が走って消える密い一角を過ぎる。風が髪と襟をくぐり、冷たくはないのに、腕に細かな鳥肌が立つ。


「これが…術か。」タシギは目を離さずに問う。


「もちろん。」ボルティアは小さく笑う。「ふふ。これがわたしの自慢の術です。」


「壮観だ。」彼は簡潔に言う。その目に、窓が一つ開いたときの静かな光が宿る。


しばらく上空を漂い、輪はごくわずかに傾き、ゆっくり降りはじめた。地面に近づくと風は温みを含み、下の渦は置かれるべき場所を知る寝具のように柔らかく沈む。最初の場所に、ぴたりと帰り着いた。焚き火の煙はまだ細く残り、頭上の枝では青い鳥が一度だけ羽を打って、また静かになる。


胸の奥に灯がともる。叫びたくなる高ぶりでも、熱い野心でもない。ただ、揺るがない確信。これを学ぶ、とタシギは知る。世界の次の次元を見せるもの。学びたい。だが、その前に。裏切らない身体、空虚ではない気の器を育てなければ。


「鍛える。」彼は自分への小さな誓いのように言う。「いまからだ。」


ボルティアは一拍、彼を見つめる。その目を理解している。彼女は手短に炭を崩して火を埋め、熱だけ残す。


「では、いっしょに鍛錬しよう。」彼女はあたりまえのように言った。「外輪はわたしが見ます。あとは、殿方のすべきことを。」


タシギはうなずく。術に触れる前に、手の内のものを確かめる。影狼闘法。狼気。細い斬線と呼吸の置き方。古いメニューはもう合わない。新しい力には新しい拍が要る。


ひらけた場所の真ん中に立ち、目を閉じる。右手首に髪の毛ほどの細い気が巻きつくのを感じる。頭の内でインデックスを呼ぶ。画面も数字もない。ただ、回復の原理を乾いて明快な言葉で繰り返す。重い鍛錬で筋繊維は引き延ばされ、微細な裂け目ができる。炎症。痛み。そして回復。栄養と時間があれば、繊維は太くなる。自分には利がある。内の力とインデックスの補助で、常人を超える回復が見込める。ならば賭ける。身体を赤い領域に押し込み、引き戻す。繰り返す。そのあいだに、筋だけでなく、骨も、腱も、靭帯も、細い血管も適応し、繕われ、厚みを増す。


始める前に、ボルティアへひとこと。「もし倒れても、そのままに。呼ばなくていい。自分で戻る。」


「分かりました。」彼女は理由を聞かない。「見張っています。」


初日は、単純な動きだけ。重心を落とし、八の字に歩き、腹から肩へ、そして拳へと力を送る。短い突き。強さの快感を追わず、呼吸の拍に合わせる。打つたびに、臍から手首へ一本の糸が伸びているのを思い描く。張りは十分に。切れも、緩みもなく。


次は掻き。手を開き、空を引っかく。狼の掌の残像がちらりと現れる。影が見えたら、手首の角度を微調整し、自分の手と影が重なるように。肩、肘、手首を順に一線へ。


合間に座らない。場の周りを歩き、短い周期の呼吸で頭を温め直す。群れは黙って見守る。近づいて汗の匂いを嗅ぎ、離れる者。腹ばいになって、目を大きく開き、長い遊びを見物する子もいる。


同じ型を何日も続ける。できるようになったら変える。持久の時間を伸ばし、反復を増やし、足運びの抜け道を足す。三日目には坂を駆け上がる。五日目には低い跳躍で腰を弾く。七日目には、鍛えながら狼気を呼んでは収める。気まぐれに応じず、一拍遅れで上がっても怒らない。待つ。呼べば出て、指示で収まるという、別の規則を教える。


食事はちょうどよい時に来る。ボルティアは必ず分ける。多すぎず、少なすぎず。前より早く食べるようになったが、拍は崩さない。水は小さく飲む。夜が来れば、六時間を深く眠る。悪夢はこない。起きると、誰かが関節を正しい位置に戻してくれたみたいに体が整い、痛みの線は温かさに換わっている。筋の微小な裂け目は戻って、ひと層厚くなる。裏地を重ねた布のように。


半月は騒がずに過ぎる。日々は回転の繰り返し。食べ、息を整え、打ち、掻き、走り、眠る。ときおりボルティアが通り、立ち止まり、また去る。木の棒を渡す日もあれば、足の角度を指摘する日もある。言葉は多くない。繰り返しが働き切るまで流れに任せる。群れは、彼が腕が震えるまで空を殴り続ける様子に慣れた。仔狼の一頭が前脚をひょいと上げて真似をし、他の数頭が鼻を鳴らして笑うこともあった。


体は鏡がなくても分かるほどに変わる。肩は細く締まり、確かになる。腕は太くはならないが、編み綱のように線が重なる。胸は少し広がり、深い呼吸が楽になる。腹は鋭い割れ目ではないが、受けに備える厚い層が収縮で浮き上がる。脚は大きくはないが、密だ。背丈はこの日数ではほとんど伸びないのに、立ち方ひとつで周囲のものが定まって見える。


狼気は倍になった。まだ薄い。手首と脛に、青い霧がうっすらと纏う程度。だが圧は前より強い。呼べば応じ、止まれば待つ。もう一つ気づく。骨が力に耐える。枯れ木を打っても、拳の頭に走るのは軽い震えだけで、以前のように骨の芯へ刺す痛みはない。限界に近づくと、身体のどこかで小さな音がする。春の終わり、薄氷に走る日差しのひびのような。数時間後、そこは元よりも強くなる。腱も靭帯も同じ。引き切ると太鼓の面のように張り、もし越えれば痛むが、すぐに戻り、新しい弾性を得る。


夜、葉の寝床で心音を聞く。等間。急かない。ひと歩きが同じ長さで続く、まっすぐな道を歩く人の歩調みたいだ。境を越えたのだ、と彼は知る。ただ生き延びる者ではない。手元の材料を組み直し、いくつか新しい道具を加えて、身体を作り替えている。


「少し痩せましたね。」ある朝、ボルティアが水を手渡しながら言う。「でも、締まって見える。この強度をまだ続けますか。」


「そうだな。」タシギは水筒を返す。「強度は、常人の十年近い鍛錬に等しいだろう。回復の過程は筋だけに留まらず、骨が限界まで行って微細に割れても数時間でつながり、以前より厚く、強くなる。腱も靭帯も、伸び切って断たれてもつながり、堅くなる。毛細血管も破れれば縫われ、補うように増える。受動の回復能力と狼気が合わさって、俺の身体はすでに常人の境を越えた。」


ボルティアは反駁しない。選んだものへ誠実に向き合う人間の顔に、そっと頷くだけ。そして、小石を手のひらに置くみたいな軽さで言う。「でも、休むことも忘れずに。気は使うだけではなく、生まれなければ。」


「分かっている。」タシギは答える。「聞くさ。」


ある朝、洞の縁からの陽がいつもより深く差し込む時刻、手首の皮紐を締め直していたタシギは、体の奥に細い波動を感じた。熱でも眩暈でもない。ただ、試せ、と誘う揺らぎ。彼はひらけた向こうを見る。古木が一本、黒ずんだ幹に古い筋を浮かせて立っている。枝で小鳥が一羽、別の叉へ跳ぶ。近くではボルティアが子たちへの肉を分けている。狼の数頭は口元を舐め、舌を出し、尾をゆらす。


タシギは立ち上がり、低く息を引く。狼気が上がり、薄い青の縁が日差しに呼び起こされた霧みたいに体を包む。右手に涼しさ。左腕はバランスに畳む。段差を二つ、流れる水が階を降りるみたいに踏み出す。腰を切る。背を拍に合わせて折る。全身が一本の糸に通ったみたいに張る。拳はきっちり閉じられる。


タシギはボルティアと群れの前を風のように駆け抜けた。ボルティアが顔を上げ、目に一瞬の驚き。狼たちは耳を跳ねさせ、灰の影が左右にすっと割れて道を開く。


ドン。


音は短く、深い。拳が幹に入る。若枝を折るばきりではない。年輪を抱いた木の沈む音。樹皮の粉がふわりと舞い、薄い雲のように広がる。幹の面に拳の跡がくっきりと出る。樹皮は蜘蛛の足のような細いひびを広げ、中心は型で押したように丸く凹む。手首のまわりに粉がぱらぱらと落ちる。血はない。皮も裂けていない。拳の頭が感じるのは、固いものと固いものが触れて、そして離れる感触。


周囲の空気が一瞬、弛む。音が一度に解けたように。森の風が抜け、露わになった樹液の匂いを運ぶ。群れは半拍、息を止め、それから何頭かが鼻を鳴らす。不快ではない。起きたことを理解した時の音。ボルティアはすぐには言葉にしない。拳の跡を見て、それから彼の手を見る。目ははしゃがない。ただ、いつもより一色、明るい。


「千斤くらい、だろうな。」タシギは言う。手にまだ熱が残っている。傷一つない拳を見下ろす。


枝の粉はまだ落ちている。幹の凹みは、新しく開いた眼のように見えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ