「ああ、それは生まれ変わりですか?」
会社員としてただ生きていただけの俺。
夢もなく、希望もなく、ただ惰性で日々を過ごしていた。
それでも——死ぬのはごめんだ。
ある雨の日、通勤電車で突然の爆発。
意識を失い、気がつけば——血と死体と壊れた馬車の中。
俺は14歳の少年の身体になって、見知らぬ森の真ん中にいた。
次の瞬間、視線が刺さる。
牙をむいた狼が、俺を狩ろうとしていた。
武器も、仲間も、知識もない。
あるのは、よくわからない「ステータス画面」と唯一のスキル——【Index】だけ。
飢え、寒さ、傷、野生の獣。
そしてこの世界の奥底に潜む“何か”が、静かに人類を反地上楽園へと追いやっていく——。
俺は生き延びられるのか?
…いや、俺は、生き延びなければならない。死なないために。
これは、生きる意味を持たない男が、生存そのものを意味に変える物語。
地下鉄は、疲れ切った獣が暗闇の中で規則的に息をしているかのように揺れていた。
白い照明がぼんやりと広がり、乗客一人ひとりの顔を蒼白に照らし出す。
タシギは左手で手すりを握り、右手には大して重要でもない月次報告書が数枚入ったカバンを抱えて立っていた。
金属の匂い、汗の匂い、プラスチックの匂い、そして安っぽい香水の匂い――。
それらは彼にとって日常の一部であり、自分の中を空洞にする倦怠感と同じくらい慣れきったものだった。
境界のない薄い靄のように、全てを覆う感覚。
次の駅で、一人の男が乗り込んできた。
キャップを目深にかぶり、長いコートは雨でびしょ濡れ。
その瞳は、見えない炎に貫かれているかのように鋭く光っていた。
彼は誰とも視線を合わせない。しかし、周囲の全員が彼を見ていた。
タシギの喉がわずかに鳴る。鈍い刃物で木をこするような、ざらついた直感が走った。
男は口を開き、つながりのない単語をつぎはぎし、大きすぎて個人には届かない何か――「政府」――への抗議のスローガンを叫んだ。
周囲では眉をひそめる者、スマホを取り出す者がいる。
タシギは相変わらずの古びた倦怠感の中にいたが、後頭部の奥で小さな黒い染みがじわりと広がっていくのを感じていた。
――やめろ、と彼は心の中で呟いた。誰に向けた言葉なのかも分からないまま。
ドンッ。
映画のように派手ではない爆発音。
重く、短く、濁った音が、閉ざされた扉を叩き壊すように響く。
光が砕け、破片になって宙を舞い、そのすべてが暗い穴へ吸い込まれていった。
タシギの体は宙に放り出され、真っ逆さまに落ちていく。
五感が、一枚の皮を剥がすように奪われていった。
匂いも、音も、身体もない。
ただ、古びた一つの願望が意識の底から浮かび上がる。
――生きる。
生きてどうする?答えはない。昔からそうだった。
だが、こんな汚れた車両の中で、何の意味もなく死ぬのは――安すぎる。
・・・
顔に冷たい平手打ちのような雨が叩きつけられる。
雨水が瞼を流れ、耳へ、首筋へと入り込む。
冷たい。冷たさが声を持っているかのようだ。
泥の匂い、湿った木の匂い、錆びた鉄の匂い、そして甘く生臭い血の匂い――本能には馴染み深いが、オフィスで過ごした脳にはあまりに遠い感覚。
タシギは目を開けた。
空は重い灰色の布のようで、そこに無数の水筋が裂け目を刻んでいる。
頭上の木々の葉は黒い影となって揺れ、今にも落ちてきそうだった。
彼は仰向けに倒れていた。
身体は軽く、小さくなっており、所々に釘を打ち込まれたような痛みが走る。
呼吸は硬く、息を吸うたびに肋骨の下のどこかが刺すように痛んだ。
顔をわずかに横に向けると、折れた木製の車輪、横転した馬車の車体、割れた板、そして少し離れた場所には、人間とは思えない不自然な姿勢で転がる死体が二つ、三つ、四つ。
雨は全てを叩き、血の跡を深紅の薄い水溜まりへと変えていた。
彼は腕を持ち上げた。
細い腕――まだ成長期の少年のもの。
皮膚には青あざが広がり、小さな切り傷は不自然に塞がっている。
つい先日負ったはずの傷口が雨の中でも血を流さず、今は暗い線となって残っているだけだった。
粗末な布の服の下、腹部には乾いた血と湿った血がまだらにこびりついている。
まるで画家が筆を入れたまま放置したように。
痛みはある。だが、それは開いた痛みではなく、石で削られたような鈍い痛みと凝り固まった感覚だった。
「……転生、か」
吐息のように小さく呟く。
感動も、華やかさも、音楽もない。
ただ、埋めても埋めなくてもいいような一言が、ぽつりと落ちた。
期待がないのか、まだ実感が湧かないのか。
冷たさが、ただやるべきことを縮めていく。
右手側で音がした。
小枝が折れる音、葉が擦れる音。
樹の陰で光る二つの目。
琥珀色に近い緑、樹液に火を閉じ込めたような色。
狼だった。
喉が締まる。
反射的に身体を起こすが、目眩が押し寄せる。
それでも倒れず、手探りで何かを探す。
手に収まったのは半分ほどの拳大の石――表面はざらついている。
「馬鹿じゃない」
誰に向けたのかも分からない独り言が漏れる。
オフィスでは石を投げる必要などなかった。今は、それしかない。
目を合わせすぎない。挑発はしない。
一歩後ずさりし、腰を低く構える。
狼は無音で一歩踏み出す。足が泥に沈んでも、その動きは柔らかい。
雨が匂いを薄めても、風は彼から狼へと吹いていた。
生きていると、わかっているはずだ。
――今だ。
石を投げる。
空気を描く不格好な弧を描き、狼の頭の近くの枝葉に当たり、水滴を散らす。
狼は頭を振る。痛みではなく、驚きから。
心臓一拍分の隙ができた。
タシギは背を向け、走り出す。
走る――何年も使わなかった動作。
オフィスで彼が走るのは締め切りに追われる時だけだった。
今は呼吸と地面と死の方程式。
一歩目はつまずき、二歩目で立て直し、三歩目でリズムを掴む。
重心を低く、膝を曲げ、足裏全体で着地し、泥で滑らないようにする。
低い枝、露出した根、尖った石。
茂みをかき分け、粗布の服が裂け、皮膚に鋭い痛みが走る。
背後から、軽く、均等で、そして速まる足音。
狼は影のように加速する。
直線ではなく、角を切り、最短を突く。
振り返らない。
左目で地面を確認し、右目で逃げ道を探す。
低い木が密集する一帯を見つける――長く敏捷な体には不利な場所だ。
木々の間を抜けるたび、服が裂ける音、枝が腕を打つ痛み。
そのたびに彼と狼の間に障害物ができる。
狼は足を止め、回り込み、また迫る。
雨で柔らかくなった地面に足を取られ、一度大きく前のめりになる。
肘が石にぶつかり、目に閃光が走る。
即座に反対の手で支え、左へ逸れる。
右手側に倒木が横たわり、その先に下り坂。
――下れば速くなる。だが、転げ落ちれば終わりだ。
背中が冷たく、呼吸がばらけ、空気が棘を含んで肺に入る。
低い唸り声。
跳躍。
振り向かなくても分かる。
右に身を傾け、二本の樹の間を滑り込み、背を低くする。
直後、背後の樹皮に何かがぶつかり、滑る。爪か、牙か。
振り返らない。絶対に。
いつか読んだアウトドア記事の断片が蘇る――走るときは決して振り返るな。
前方、坂は緩やかから急へ。
落ち葉、泥、苔の滑る絨毯。
雨が糸のように降り注ぐ。
斜めに降りろ、真っ直ぐは駄目だ――自分に言い聞かせる。
踵を踏み込み、体を傾け、根を掴む。
背中が樹皮に擦れ、紙やすりのような痛み。
狼は複雑な地形を嫌うが、それでも追う。
速さは必要ないと分かっている。獲物は疲れ果てている。
一歩、二歩、三歩――
右足が苔に覆われた石を踏み、石が転がる。
身体が宙に浮く感覚、誰かに突き飛ばされたように道から外れる。
世界が回転し、樹々が流れる線になる。
左肩が硬い何かにぶつかり、鈍い折れる音。
骨が折れたのか、脱臼か――痛みが頭蓋まで這い上がる。
背中を砂利が削り、腰にさらに衝撃。
そして脇腹に尖った岩が突き刺さり、白い光が脳を噛み、声も出ない。
肺から空気が押し出され、短い落下の後、顔から泥に突っ込み、雨が首筋を打つ。
動くな。いや、動け。
長く止まれば死ぬ。
体を転がし、泥と血を吐く。
吐き気が込み上げ、頭が鳴る。
口の中に鉄の味。
耳を澄ます。足音はすぐ近くにはない。
狼は上に留まり、滑る斜面を避けている。
回り道をするだろう。その間に――。
隠れろ。石のように。
斜面は短い岩の割れ目に分かれている。
左に五歩、シダの茂みに覆われた低い岩穴。
這う。背中の筋肉が鋸で引かれるように痛む。
腰には太い棘を刺したような鈍痛。
血が温かく流れ出し、雨に混じる。
右手で体を引き、肘で泥を掻く。
左手は腹を押さえ、声が漏れぬようにする。
岩穴は一人分ほどの高さで、体を丸めれば入れる程度。
岩の庇に守られ、地面は比較的乾いているが、口から風が吹き込み、笛のような音を立てる。
中へ滑り込み、脚を引き込み、シダで入口を覆う。
枝は柔らかく濡れているが、ないよりはましだ。
背中を岩に押し付ける。冷たく、苔の匂い。
息は短く切れる。整えるのは落ち着くためではない。
音を立てれば、それは死の招待状になる。
上から水滴が落ちる音。
草が押しつぶされ、葉が擦れる音。
爪が岩肌を掻き、滑る。立ち止まる。
匂いを嗅ぐ、ゆっくりと、粘り強く。
タシギはさらに背中を岩に押し付け、口を少し開く。
舌に鉄の味が広がる。
雨が匂いを洗い流しても、血の匂いは消えない。
風は横へ――わずかに有利。
狼は別の割れ目に鼻を突っ込み、動きを止める。
姿は見えず、葉影が揺れるだけ。
耳を澄まし、そして彼は息を殺す。
心臓の鼓動が肋骨を叩き、その音が森中に響いている気がする。
雨脚が強まる。
頭上の大きな葉が水を溜め、一気に落とす。
ざばりとした音が呼吸を隠し、狼の警戒心を煽る。
匂いが消され、音が歪むのを嫌っているのだ。
一歩引き、また近づく。別の割れ目を嗅ぐ。
遠くで雷が腹の底で唸るように鳴る。
やがて、滑らぬ道を探すために左手へ回り込む。
諦めたわけではない。ただ、安全策を取っただけ。
賢い捕食者らしい判断だ。
どれほど時間が経ったか分からない。
一秒一秒が弦を引き絞るように長い。
右手が冷えで震え、痙攣し始めた頃、ようやく小さく息を吐く。
全身の痛みが四方から蟻の群れのように這い寄り、固い鎧になる。
左肩は焼けるように熱く、硬直し、腫れが岩に押し付けられる。
腰は重く、息を深く吸うたび鋭い痛みが走る。
額は氷のように冷え、唇は紫に染まる。
震えが止まらず、やがて一定のリズムを刻む。
頭の中でリストが浮かぶ――出血、外傷、低体温症。
ニュースや映画の中の言葉が、現実の感覚として迫ってくるのは初めてだった。
初めまして、この作品に目を止めていただきありがとうございます。