異界堂奇譚~あなたの失くした物語~
あの日、怪しい都市伝説に惹かれたのは、うまくいかないことが多すぎて、現実逃避したい気分だったからだ。
年齢的に友達はそれぞれにパートナーを見つけ、幸せそうに暮らしている。
遊びに誘っても、なかなか応じてくれなくなった。
仕事に追われる私は、恋愛をする余裕もなく、自分だけ居場所がないような気がして、空しさばかりが募る。
ある日、勢いに任せてブラック企業を辞めてしまったが、すぐに出会いがあるわけでもなく、次の就職先も見つからず、後悔ばかりしていた。
今流行りの異世界にでも転生して、もっとわくわくする人生を送れたら──なんていう願望もあった。
『迷路みたいに入り組んだシャッター街の一角に、夜中だけ開く古本屋があるらしい』
子どもの頃に聞いたそんな噂をふと思い出したのは、友人との飲みの帰り、商店街のアーケードを通っている時だった。
かつて昭和の時代に賑わったというこの商店街で、活気があるのは、東西に延びる太い通りだけになっていた。
そこから、数ブロックごとに北へ延びる通りと、その通りを東西に結ぶ細い通りには、第一商店街、第二商店街といった名前だけが残り、今も営業している店はほとんどなかった。
ましてや、夜中だけ開いている古本屋など、あるはずがない。
昼間に営業している本屋さえ、ネットや電子書籍の普及で殆ど見かけなくなった。
なのに、元来本好きなものだから、酒が入っていたこともあって、ちょっと探してみようか、なんて軽い気持ちでシャッター街の迷路に足を踏み入れた。
左右をシャッターに挟まれた、細い道を歩く。
薄暗い照明をぶら下げたアーケードも残っていて、まるで異界のトンネルのように閉鎖された空間を進みながら、不気味に感じ始めた頃。
明かりの灯った小さな店が、前方に見えた。
まさかと思いながら近づくと、黒ずんだ看板に『古本』という手書き文字があり、その下に続く店名は掠れていて、『いかり堂』とも『いかい堂』とも読める。
入るのを躊躇わなかったのは、やはり酔っていたからだろう。
擦り硝子の嵌まった、ガタつく木の扉を開けて足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのを感じた。
古本の匂いだ、と思った。
懐かしい、紙の匂い。
電子書籍ばかりを買っている昨今、すっかりこの匂いを忘れてしまっていた。
店内には、棚が四つあった。
左の壁際に一つ、中央に背中合わせで二つ、右の壁際に一つ。
中央の棚両側には、車、音楽、映画、文学、SF、パソコンといった、様々なジャンルの雑誌が並んでいた。
右の棚にあるのは新書版。
左の棚にあるのは文庫本だ。
縦長の古い形のものから、最近のラノベまで、完璧ではないが、レーベルごとにきちんと並べられている。
「あ、このシリーズ、全部持ってる」
「この著者の本は、だいたい読んだ」
「ああ、これ、売っちゃったな」
旧友に会ったような気持ちで、思わず背表紙を撫でながら、奥へと進む。
「このシリーズ、最終巻だけ欠けてた。誰かに貸したまま……」
ふと、手に取った文庫の背表紙は、年月に焼けて茶色くくすんでいた。
「絶版になって、二度と読めなかった」
誰に貸したかなと、記憶を辿る。
病室のベッドに起き上がって、本に向かって差し出された、痩せ細った手を思い出した。
『ありがとう。最終巻が出るまで、生きていられて良かった』
その言葉と笑顔に、どう反応して良いのかわからなかった。
肯定すれば近づく死を認めることになる。
そんなに元気そうなのに何言ってる、なんて見え透いた嘘を言うのも、ためらわれた。
『この本の世界に生まれ変わって、待ってるね』
夢見るように言われ、ただ頷いた。
慰めの言葉一つかけられない自分の不甲斐なさに、項垂れるしかなかった。
だから、記憶の底に封じ込めたのか。
制服を着て葬儀に参列した時、本は棺桶の中に入れられていた。
おそらく、読むことはできずに逝ったのだろう。
私は、もう一冊手に入れようとしたが、どこも売り切れだった。電子書籍化はされず、そのまま絶版になった。
「大好きな冒険小説で、最終巻以外は何度も繰り返し読んだな」
もう一度読みたいと思って、指で背表紙を辿りながら本棚を探したけれど、肝心の最終巻だけがなかった。
「確か作者は出版社と揉めて、最終巻だけ重版せずに、契約を打ち切ったんだっけ」
そんな独り言を漏らしながら、棚と棚の間を歩く。
写真集、全集、歴史書など、古いものから新しいものまで、あらゆるジャンルの本がぎっしりと並んでいる。
「あったなぁ、この雑誌。休刊しちゃったけれど」
そっと手に取って、しばらく懐かしんだ後、痛めないように注意深く同じ場所に返す。
「これは、幻の短編が収録されている記念号!」
ほんの数分足を止めて、単行本に収録されることのなかった一遍を、夢中で読む。
そうして見て回るうちに、入ってきた方向がわからなくなった。
本の棚の列も、増えている。
おかしい。
入り口の間口は、数メートルもなかったはずだ。
中がこんなに広いわけがない。
迷宮のように本棚が並び、どれだけ歩いても端に行き着かないような錯覚に囚われた。
古い床が時折軋んで、静かな店内に響く。
やがて、店の奥に行き当たり、レジらしき台を見つける。
古びた木製のカウンター。
塗装の剥げたベル。
そのカウンターの向こうに、一人の人物がいた。
白髪まじりの長い髪を後ろでひとつに纏めた、八十は超えていそうなお年寄りだ。
青い縦縞のシャツ姿で、痩せた身体を真っ直ぐに伸ばして椅子に座り、本を一冊、手の間に広げている。
見覚えのある挿絵が、そのページに見えた。
「あ」
……それはさっき、もう手に入らないと呟いた絶版本だった。
私の声に、老人が顔を上げる。
そして、面白がるような表情を浮かべて尋ねた。
「お探しの本は、見つかりましたか?」
私は、すぐに答えることができなかった。
最終巻を見つめたまま、これはどういう偶然なのかと考えるが、わからない。
「なぜその本が、ここに……?」
その質問に、店主は柔らかく微笑んで、持っていた本を差し出す。
「どうぞ」
受け取って、私はページをめくる。
覚えている通りの文体。情景。
間違いない。
もう二度と読めないと思っていた、主人公と、ずっと一緒に旅をしてきた小さな相棒との、最後の物語。
「これ、買います。いくらですか?」
そう尋ねたが、返事はない。
不審に思って、私は顔を上げる。
店主がいない。
彼が立ち上がり、どこかへ去るところを見逃した?
本の中身を確かめたのは、ほんの一瞬だったのに。
目の前のカウンターには、さっきはなかった栞が残されていた。
黄ばんだ和紙の上に、震える文字が読める。
『あとをお願いします』
あれから何日、いや、何ヶ月が経っただろうか。
店の中をくまなく調べたが、入ってきたはずの扉は消えていた。
あるのは、レジの奥にある扉の向こうの部屋だけ。
キッチンと風呂の付いた、旅館の一室のような温かな空間。押し入れには、清潔な布団がいくつも収められていた。備え付けの小さな冷蔵庫は、いくら食材を取り出しても空になることはない。
最奥の大きな擦り硝子の窓は、日は射すのに開けることはできず、まるで時間に合わせて色を変える絵画のようだ。
一人だけれど、大量の本に囲まれていたから寂しくはなかった。
今日も深夜になると私は、カウンターの内側にある椅子に座って本を読みながら、この古書店に迷い込んでくる人を待つ。
本は、恋愛、SF、ファンタジー、幻想、怪奇、ミステリー、歴史もの、ありとあらゆるジャンルから、何となく目に付いた一冊を選んだ。
それはかつて、誰かの本棚に収まっていた、大切な物語だ。
その誰かが迷い込んできて、レジの前に立ち、
「なぜその本がここに……?」
と尋ねてきたら。
店主の座を明け渡すのか。
それとも、本を持たせて、外の世界に送り返すのか。
それは、その時になってみないと、わからないことだった。