Episode7. 手折れぬ花
アステールが辿り着くよりも先に、幼き女王の頭上に影が掛かる。訳も知らない無垢な瞳が影を見上げると同時に、その小さな身体が侵入者によって蹴り上げられた。
ぽん、ぽんと軽い珠のように転がり、アステールの脚に当たって止まる。幼き女王は目をぱちぱちと瞬いているが、幸いにして何処か痛みがあるわけではなさそうだ。アステールは転がってきた幼き女王をそっと抱き留めると、後ろに庇うようにして立ち塞がった。
「俺たちの遊び場に変な生き物がいると思ったら、アステールも一緒かよ。異形と仲良くするなんて流石魔女の息子だな。……ま、おかげで探す手間が省けたぜ」
「……僕に何の用」
アステールが侵入者を睨み付ける。侵入者——もとい、里の子どもたちはいつものように甚振るのを心から楽しむかのように笑みを浮かべてこちらを見ている。いつもと異なるのは、彼らがリーダーとして慕う人物の手に、鈍く光る得物が握られていることくらいだろうか。
思わず歯向かったはいいものの、記憶に刻まれた恐怖は簡単にアステールの心を折ろうとする。手が勝手に震え、己が問い掛けた言葉すらも耳の奥で響く鼓動に掻き消される。そんな情けない姿を、見知った相手は鼻で笑った。
「里のはみ出し者が調子に乗ってるようだから、ついでに釘を刺しといてやるよ」
親玉の言葉に、後ろに控えていた子どもがざまあみろと言いたげに頷く。メリサと出会う前にここにいた子どもだ。いつの間にかいなくなっていたが、仲間を呼びに戻っていたのかもしれない。
「……君たちは里の掟で森には入らないんじゃなかったの」
「ハッ、里の掟? そんなもん大人が異形種にビビって言ってるだけだろ。第一、そこの弱っちい餓鬼みたいなのにビビるなんてどうかしてるだろ」
「この野郎……!」
弱っちい餓鬼と言った里の子どもに、メリサが怒りの矛先を向ける。だが、見るからに力のある男が殺気立っているにもかかわらず、里の子どもは誰も怯えを見せない。それどころか、どこか余裕があるようにさえ見える。
「おっと、良いのかなぁ? 邪魔するなら此奴らが怪我するかもしれないぜ」
親玉はメリサたちにも見えるようにナイフを掲げ、アステールと幼き女王にその切っ先を向けた。
「アコニト、黒の少年、離せ……! 俺は彼奴らを……!」
「……落ち着け。たとえ今飛び出したところで、相手の思うつぼだ」
「相手は武器を持っているのよ! 闇雲に突っ込んだところで余計な被害を生むだけだわ」
背後から聞こえる会話に、メリサは二人に押さえつけられて飛び出してくることもできないだろうと、どこか冷静な考えが頭の片隅に過る。それでなくとも唯一頼りになり得そうなメリサの目が使えない今、誰の助けも期待できない。
(……僕が、切り抜けなくちゃいけないのか)
小さいとはいえ、武器を持つ相手に何ができると言うのか。そもそもアステールには抵抗するという選択肢はない。否、したくともできないと言った方が正しいだろうか。今までどれだけ試みたところで、決して敵うことはなかったのだ。
身体が委縮し、逃げたいという気持ちに足が後退しそうになる。
「…………?」
ふと、服の裾に僅かに引かれるような重みを感じた。視線だけを動かすと、幼き女王が弱々しい力で裾を握っている。自身よりもさらに小さな手が、守られるには頼りない自身に、それでも縋ろうとしている。
不憫なことに、幼き女王が頼れるのはアステールしかいないのだ。ここでアステールが逃げてしまえば、今まで自身が受けてきた痛みをこの小さな身で一身に浴びることになる。
(そんなの、あんまりだ)
アステールは、己を見つめるつぶらな瞳にかつての自身を重ねた。どれだけ願っても、自身の母親にすら助けを求めることができなかった、誰にも助けられなかった幼き自分を。
誰でもいいから助けてと願った日々を。
「……せめて、君だけでも」
「あ? まさか弱虫アステールちゃんが俺らに反抗するっての? 面白過ぎんでしょ」
守らなくては。そう思った途端、腹部に重たい衝撃が来た。いきなり肺が押された影響で酷く咳き込む。その丸くなった背中を押すように襟が引っ張られ、顔面から地面に突っ込んだ。
「……ッ、ぐ」
痛みに呻き声が漏れる。何とか肘をついて起き上がろうとも、脇腹に容赦なく蹴りが入り、転がされる。
「よっわ、これでどうするつもりだったんだっけ?」
いつもよりも容赦のない暴力に、アステールは抵抗もできず頭を覆った。守るなど、どの口が言うのだろうか。耳障りな笑い声がアステールを嘲り、その度に絶望と後悔が押し寄せてくる。
「ひとのこ……」
それでも小さな存在を守らなくてはと、アステールは軋む身体を引き摺り、幼き女王を庇うようにして立ち上がった。何度殴られ、地面に倒れ込んでも、這いずってでも女王を守ろうと立ち向かう。
「は……ッ、はぁ…………ぅ」
膝が震え、脚に力が入らない。口の中が切れたのか、鉄の味が広がる。最早意識すらも朦朧としているが、身体は己の意志を守るようにその身を盾にする。
「ひとのこ、もういい……もういいの……」
「大丈夫、大丈夫だよ……必ず僕が、守るから」
だが、もうとっくに限界を迎えているのかもしれない。思うように動かない身体で、幼き女王が僅かでも被害を受けないようにしっかりと腹へ抱えた。
背中の踏まれた部分が熱を帯びる。アステールの身体越しに伝わる衝撃のせいか、幼き女王の身体が震えている。
「なんで屈しねえんだよ! なんでお前は……! くそ、こんな奴が英雄の息子だなんて……!」
「俺たちの父ちゃんだって故郷を取り戻すって言ったっきり戻ってこねぇのに、なんでお前の父ちゃんだけ……特別で……」
「森にだってなんでお前だけ……お前の母親なんかが森に異形種を引き入れたせいで俺たちが我慢しなくちゃならないなんて可笑しいだろ!?」
「それが、君たちが僕を嫌う理由……?」
ずっと不思議であった。どうして自身はこんなにも嫌われているのかと。それが、何て身勝手で小さい理由なのか。今までほんの僅かでも自身にも問題があるのかもしれないと思っていた。だというのに、実際にはあまりにも理不尽な理由でしかない。
気付けば、アステールは笑みを浮かべていた。
「……何が可笑しい」
「だって、あまりにもくだらな、」
里の子どもの言い分も、今まで理不尽な暴力に曝されていた自身の人生すらも。
言い終えるより先に、側頭部に靴の先が当たる。一瞬視界が真っ白に染まる。痺れた腕では身体を支える気力もなく、ほとんど地面に押し付けるように腕が投げ出された。
辛うじて幼き女王を潰さないようにと片手と膝で支えるが、それでも苦しいのだろう。時折、呻く声が身体に響く。
「ひとのこ、そのけが……!」
アステールの投げ出された腕は、地面に擦れたせいか服の裾が捲られ、包帯だらけの姿が露わになっていた。
***
「……なに、あれ。どうしてあの子はあんなに傷だらけなの……!?」
露わになった腕に、アコニトが思わず口元を押さえた。
傷が開いたのか、僅かに赤い色が滲んでいる。決してソラビトではあり得ない色ではあるものの、それが人族の体液であることは想像に難くない。
アステールの腕に巻かれた包帯は、アコニトの目には異様に映ったことだろう。悔し気な表情で黙り込んでいたメリサも、苦虫を潰したように眉根を寄せている。
「あれは、ずっと前から彼奴らにやられてできた傷だ」
「まさか、金色の少年と因縁のある相手か」
じっと里の子どもらを観察していたユージンが告げた言葉に、メリサが食い付く。まるでアステールが問題を持ち込んだとも聞き取れるような言葉に、ユージンは不躾な男を流し見た。メリサの考えも別段嘘というわけでもないのに、身体の芯がぞっとするほど冷たくなる。
余程怖い空気を醸していたのか、恐らく表情は見えていないだろうにメリサがたじろぐ。それを一瞥し、すぐに星色の瞳はアステールへと向けられた。
「一方的な執着に過ぎない。彼奴は何も悪くない」
アコニトが大きな目を落としそうなほどに見開いた。
「待って……それじゃあ、あの子にとってはトラウマにも等しいんじゃ……立ち向かって、恐ろしくはないと言うの……?」
「恐ろしいさ。日常の些細な出来事にさえ怯えてしまうくらいに」
初日の邂逅で垣間見た記憶を手繰る。アステールはいつも――夜にも、自分に向けられる思いにも怯えていた。過ぎたる暴力が記憶や認知を変えるほどに。
独りを恐れる反面、人と関わることにも怖がっている。だからこそ、今だって助けを呼ぶこともできない。
結局、希望よりも現実を知ってしまっているのだ。諦めた方が楽だと。
「……それでも、自分じゃない誰かを守ろうとしてしまうのね。助けも呼べないなんて、不器用な子……」
ユージンの視線の先では、アステールが痛みに耐えながら何度も幼き王女を励ます姿があった。たった一人を相手にしたときでさえ、あれほど怯え、心を閉ざしていたのだ。今も本当は逃げ出したいだろうに。
「……ああ、本当に」
「メリサ、彼の面倒事に巻き込まれたなんて思うのは間違ってるわ。あの耳障りな声、わたくしも聞き覚えがある……むしろ、わたくしたちの面倒事に彼が巻き込まれたようなものよ」
「まさか、棲み処を襲ったのって」
沈黙が肯定に変わる。メリサがバツの悪そうな表情を浮かべた。
「『時には、たとえ死んだとしても抗わなければならないこともある』だったか。……生憎と、俺はそうは思わない」
「……俺はあの少年に悪いこと言っちまったようだな。ずっと、抗ってたってのによ」
そうでなければ、足がすくむような恐怖を前にして、立ち上がることなどできない。少なくとも、目を灼く光を前に逃げ出したメリサが言う筋合いはない。
とはいえ、それはメリサが知らないからこそ言えたこと。ユージンもわかっているが故に、責めるつもりはなかった。
「いや、俺が言いたかったのは……」
「わたくし、何をやっているのかしら」
今度は、アコニトが痛ましげに眉を顰める。人族のことを快く思っていないわりに、傷付いた表情を浮かべる。ユージンにはその感情の起伏がさっぱりわからなかった。
アコニトの髪に咲く花々が瑞々しさを増し、腕に生える緑がその蔓をさらに広げていく。何をしようというのか、その華奢な両腕を前に突き出した。
「おい、アコニト……何を」
「わたくしよりも小さな子が自身のトラウマと向き合っているというのよ? わたくしには力があると言うのに……逃げているのは可笑しなことでしょ」
「お前まさか……やめるんだ! あの悲劇を再来させるつもりか……!?」
メリサが血相を変えるくらいだ、余程碌なことにならないのだろう。一体何をするつもりだと怪訝な目で見ていたことに気付いたのか、アコニトは逡巡した後に恐る恐る口を開いた。
「……わたくしには、毒があるのよ。触れただけで効く毒が」
「それは随分と難儀な体質だな」
触れただけで効くのであれば、誰かと一瞬ぶつかっただけでも相手に被害が及んだのだろうか。どれだけ強い毒であるかは知らないが、相手もアコニト自身も災難なことだ。
予想外の反応が返ってきたのか、アコニトが思わずといったように振り返る。瞬きを繰り返す姿に、何か可笑しなことを言っただろうかとユージンも瞬きの回数を増やした。
「……恐ろしく、ないの?」
「あんたの毒はどういったものなんだ」
「神経毒よ。……全身が麻痺して、やがて死に至るものなの」
「それは、彼奴にも悪影響を及ぼすのか」
「そうね……少し、聞いてくれるかしら」
アコニトの腕がほんの少し下を向く。俯き、影で見えなくなってしまった表情を、ユージンは黙って見つめた。アコニトは数回深呼吸した後、明るい声で笑った。その声が妙に震えている。
「アコニト……」
「同族には、毒は効かなかったの。だからわたくし、自分がこんな体質だったなんて知らなくて……人族の子に触れてしまったことがあるのよ」
触れた途端、人族の子は身体中を痙攣させ、息苦しそうに自身の爪で喉を掻いた後、泡を吹いて倒れた。その場に共にいたメリサが慌てて花人族の大人を呼んで処置が施されたが、それでも自身も知らない力が恐ろしくて堪らなかった。
当時はそれがどんな毒なのかもわからず、同族にも煙たがられていた。ただ、メリサと幼き女王だけがアコニトの傍に居続けた。そのおかげで毒が同族には効かないこともわかったのだから、二人には頭が上がらないのだろう。
「それ以来、花人族以外の種族にはなるべく近寄らないようにしているわ。特に脆弱な人族には。……だから答えとしては、触れてしまえば死に至る、かしらね」
「なるほどな。その割には、このおじさんはあんたを怖がってないようだけど」
普通であれば、その現場を見たメリサも怖がりそうなものだ。アコニトがメリサを止めようとしたときも普通に手を掴んでいたし、とても恐れているようには見えない。
「不思議と……メリサには触れても大丈夫なのよ」
「特定の相手には効かない毒なのか?」
そんな摩訶不思議な毒があるだろうか。物質が変化しているのか、種族特有の毒を無効化する何かがあるのかもしれない。
ユージンは無言でメリサの手を掴んだ。
「うお、急に何するんだよ」
「ちょっと黙って」
手の形を模倣した蔦の表面からメリサを解析する。隈なく調べるには足りないが、それでも無毒化できる因子は見つからない。となれば、答えは一つだろう。
だが、その前にとユージンはメリサの手を放してアコニトに向き合った。今度はアコニトに向かって手を差し伸べると、アコニトが怯えたように肩を竦ませる。
「星の欠片、あんたが持ってるんだろ。彼奴らを助けるためにはそれが必要なんだ」
「星の欠片……? もしかして光の珠のこと……?」
アコニトが迷ったようにメリサを見た後、恐る恐ると言った様子で後ろ髪に手を入れる。纏められた髪が解かれ、その中から蒼く輝く珠が現れた。
「メリサ、これを彼に……」
「直接で構わない」
メリサに星の欠片を渡そうと伸ばされた手に、ユージンが手を重ねる。咄嗟に逃げようとした手を反対の手で掴み、星の欠片を取った。
アコニトがどうして、と声にならない言葉を口にする。
「おい、少年! お前、さっきの話聞いてただろ……! 何で手を掴んだ!?」
「言っただろう、構わないと。俺には毒は効かないんだ」
それに、とユージンがアコニトをまっすぐに見据えた。
「あんたはその毒をコントロールできるはずだ」
「え……?」
「同族に効かないのも、おじさんに効かないのも理屈は同じだ。ただ、あんたが毒の強さを調節していただけに過ぎない」
ユージンの言葉に、アコニトが自身の手を見つめる。怪訝な様からは疑惑や戸惑いが読み取れるが、それに付き合う時間は最早無いに等しい。
直にアステールにも限界が訪れる。何より、ユージン自身も腹が立っていた。多少手荒なことをしても良いと思うくらいには。
「信じなくても良い。あんたはまだ意識して扱うには難しいだろうから、ほんの僅かだけおじさんや同族を想うように毒を用意してくれ。それなら、あんたはその毒で誰も殺すことはない」
「誰も……?」
「そうだ。そして、それを使っておじさんが奴らの動きを封じるんだ」
「だが……俺はまだ目が使えないぞ。気配を辿ってどうにかできたとして、辿り着く前にナイフの小僧が宣言通り動いたらどうする」
両者の瞳が不安そうに揺れる。だが、両者ともに子どもの戯言だとあしらう様子はない。助けたいのだと訴えかける二人に、ユージンは気負うことなく頷いた。
「問題ない、俺が道を拓く」