Episode4. 花に集う者たち
「『お母様、おはようございます』……むず痒いな」
「ちょっと、僕の真似しないでよ」
わいわいと騒ぎながら階下へと降りる足音が二つ。すっかり日は真上に昇っている。随分とお寝坊さんなことだとアステールの母親——エルミスはくすくすと笑い声を上げた。
今日はすこぶる体調がいい。猫人族の主治医に目配せをすると、肩を竦めて扉が開かれる。どうやら主治医も認めるくらいには調子がいいらしい。
エルミスは部屋を出て、アステールの元へと足を運んだ。
「お母様!? 体調は大丈夫なのですか……?」
エルミスの姿が見えるや否や、アステールが目を丸くして問い掛けてきた。その頬にほんのりと赤みが差している。
「ええ。今日はなんだか身体が軽いのよ」
「小僧め、挨拶はないってのかい?」
「あ、ごめんなさい……おはようございます、お母様、おばば」
「おはよう。……あら、お友達?」
バツの悪そうな表情の我が子に答え、その斜め後ろに控えている人物に視線を移す。丁度顔が影で隠れているが、背格好はアステールと同じくらいだろうか。
友人を連れて来るなんて初めてではないかしらと浮かれていると、妙に目立つ銀の瞳が真っ直ぐにエルミスを見据えた。
「何を言っているんですか、アステールのはとこのユージンですよ」
はて、そうであっただろうか。一瞬疑問が頭を過るも、銀の瞳に見つめ続けられているとそうであったような気もしてくる。家系図を思い出そうにも思考に靄が掛かり、思い出せない。父方であればそんなものだろうとエルミスは納得した。
「そういや彼奴の親類にちまっこいのがいたね。大きくなったもんだ」
「……丁度アステールと同じくらいだったかしら。本当にそっくりね」
まるで兄弟のようだと笑うと、アステールがぎょっとした表情を見せた。そっくりだと言われることを嫌がる年頃なのかもしれない。
対するユージンは得意げな表情をしている。対照的な反応に、エルミスとおばばはくすりと笑みを溢した。
「それにしてもどうしてここに?」
「えーと……偶々、夕食の後に泊めて欲しいって来て……」
「そうなんです。元々アステールに用事があったんですけど、道に迷っている内にすっかり暗くなってしまって」
それは災難なことだ。エルミスが無事に辿り着けてよかったと胸を撫で下ろす。すると、おばばが爪で髭を伸ばしながら尋ねた。
「それで、用事とやらは済んだのかい?」
「いえ、これからなんですけど……実は、アステールと旅に出ようと思って」
輝かしい笑みが返ってくる。エルミスとおばばは目を丸くさせた後、食い入るようにアステールを見つめた。
二人分の強い眼差しにアステールが小さく呻き声を上げる。今にも逃げ出したいと顔に出ていたが、腹に力を入れて踏み止まったようだ。
「……ぼ、僕ずっと冒険に出るのが夢だったんだ。その……本とかで読んで」
「それで手紙でやり取りしてたんですよ、いつか旅に出られたらって。俺もつい先日許可が下りたので、誘いに来たんです」
まさかアステールが冒険に出たがるだなんて。エルミスは震える手で口元を押さえた。ほんの少し丸まった背がおばばの手で擦られる。
「……覚悟は、あるのかい? 冒険は本の世界よりもずっと輝かしくなどない。きっと長い旅路になる。途中で帰りたくなってもすぐには帰ってこられないし、問題が起きても二人で解決しないといけないよ」
故郷の街を追われ、この森に辿り着くまでずっと旅をしてきたおばばだからこその重みのある問いに、アステールが唾を飲み込む。彷徨うように空色の瞳が揺れた。
「……覚悟があるのかと言われると、まだないです」
「だったら、今じゃなくてもいいじゃないか。いいかい、あんたらは二人ともまだ幼いんだ。もっとものの道理を知って、対処できるようになってからでも遅くない。……それとも、今じゃなきゃいけない理由があるのかい?」
「理由は言えない。でも、星の欠片を探さなきゃ……僕は、行かなくちゃならないんだ」
「星の欠片……」
エルミスははっと息を呑んだ。
存外、強い意志が返ってきたのだ。いつまでも子どものままだと思っていたが、いつの間にかすっかりと成長していたらしい。
凛々しい息子の姿が揺らぐ。エルミスは目頭の熱さをやり過ごすようにぐっと力を入れた。
「星が何だって……」
尚も止めようとするおばばを手で制し、首を振る。そして、エルミスはアステールとユージンを見据えた。
「アステール、貴方の気持ちはわかりました。お好きになさい」
アステールが感情を堪えるように唇を噛み締める。その瞳は徐々に潤みを増し、瞬き一つで零れ落ちてしまいそうだ。
思わず拭おうと手を伸ばすよりも早く、固く握り締められたアステールの手を、ユージンの手が握った。驚いて隣を見たアステールの目から涙が零れる前に、そっと階段へと誘導する。
その優しい手付きに、やはり許可を出したことに間違いはなかったと頷く。
並び立つ姿が、いつかを見ているようで眩かった。
「ユージンさん、少しお話が。アステールは先に旅の支度をして来なさい」
アステールの肩が揺れ、そのまま振り返ることもなく階段を駆け上がる。残されたユージンが感情の見えない顔で頷いた。
「ご飯がいるでしょう。旅の途中はどうしても自分たちで用意しなくてはいけないかもしれないけれど、せめて一食だけは持っていきなさい」
「ありがとうございます」
「それから、あの子は私たちにとって希望の星なの。きっと……守ってちょうだいね」
「……必ず」
予想外のことを言われたとでも言いたげな、妙な間。身体のせいで自身の子にも時間を割けずにいたのだ、彼から見てもエルミスは酷い母親に見えているのかもしれない。随分と寂しい思いもさせていたことだろう。
そのことが心苦しくはあるが、だからこそいつまでも息子を自分に縛り付けていたくはなかった。
支度をすると言ってその場を後にした息子の友人を、エルミスが目を細めて見つめる。その横顔を見ていたおばばが静かに声を掛けた。
「……よかったのかい」
「ええ。きっとあの子たちなら……私たちとは違う未来を選ぶわ」
そうでしょう? と、エルミスは空を見上げて呟いた。
***
意外にもあっさりと旅立ちを許され、アステールはほっとしたような、あるいは拍子抜けしたような妙な気持ちになりながら森を歩いていた。詰め込んだ荷物には、エルミスが持たせてくれたご飯も入っている。
ユージンが母親と何を話したのか。決して弁当を持たせようと声を掛けたわけではないだろう。それも態々、アステールを遠ざけてまで。
気になって尋ねてみたものの、ユージンは何も答えてはくれなかった。こんなにも簡単に送り出すとは、やはりエルミスは自身のことをお荷物だと思っていたのではと思い、首を振る。考えたところで無意味なことだ。
森を歩いて暫く。当てもなくただ足を動かしているだけだが、これでいいのだろうかと隣を歩くユージンを見遣った。
彼の表情は変わりなく、ただ真っ直ぐに正面を見ている。この道で合っているのだろう。だが、そこでアステールはユージンとの会話を思い出して愕然とした。
(そう言えば今、ユージンは【呼び声】がないから他の欠片の位置がわからない……。つまり、僕が行く先を決めなければならない……?)
責任が重すぎる。今更道がわからないとも言えない。どうしようと内心頭を抱えていると、後ろからとたとたと軽い足音が聞こえてきた。
「お~~い、お前さんら」
「おばば……!」
声を掛けられ、振り返る。すると、走る動きに合わせて尾を揺らしながら、おばばが駆けてきた。その手には何やら便箋らしきものが握られている。
おばばはアステールたちに追い付くと、肩で息をしながら便箋を突き出した。
「どうせあんたらのことだから行先も決まってないだろうと思ってね……此奴を爺の元に届けてくれないか」
「手紙?」
「物知りの爺だからね、何かと教えてくれるだろうさ」
もしかしたら星の欠片のこともその人物に聞けばわかるかもしれない。おばばはアステールたちの目的のことなど知らないだろうに、まるで見透かしているのではないだろうかという錯覚を抱く。何にせよ、いいことを教えてもらった。
アステールがお礼を言っておばばに抱き着くと、背後から低い声が聞こえてきた。
「……まさかお前、行先がわからないとか言うんじゃないだろうな」
「そ、そんなことないよ? でもほら、情報収集は基本って言うだろ……?」
ふうん、と細められた銀色の双眸がアステールを凝視する。答えに窮して、アステールはユージンの手を引っ張った。こうなればもう有耶無耶にするしかない。
背後から「喧嘩はするでないぞ~~」と声が掛かるが、二人は知らないふりをして森の中を進んでいった。
「で? 連れて行くのは良いけど、何処に向かってるわけ?」
「……確かこの先に、異形族の暮らしている場所があるはずなんだ。おばばから聞いた話だけど」
「異形族?」
「そう、人族とは違う見た目をしている人たちのことなんだけど……」
話ながら歩いていると、一面緑に覆われていた景色に、白い小さな花がぽつぽつと点在するのが見えた。小さな花々は小道を示すように連なっている。
「これは……道か?」
「道っぽいよね! この花を辿ると沢山花が咲いている場所があって……」
ユージンに説明していると、開けた場所に出た。アステールが言った通り、色とりどりの花々が咲いている。どうしてか、この場所だけは年中花が咲き誇っていた。アステールもよくここでエルミスに渡す花を摘んでおり、数日前にも足を運んだばかりだ。
だが、何故か今日に限っては花がほとんど萎れている。
「何これ……どうして花が全部元気を失ってるの……」
「あ、おい……!」
この間来た時にはどの花も綺麗に咲いていたというのに。アステールはユージンの制止も聞かず、大きな花の元に飛び出した。ぐったりとした様子からは、水か栄養が不足していることが窺える。そっと幾重にも重なった豊かな花弁を持ち上げると、不思議なことに、茎に何かがぶつかった痕があった。
他の花々も、何かに踏みしめられたようにひしゃげていたり、不自然に曲がっていたりと痕跡が残っている。もしや外的な要因で手折られたのだろうか。
「おい、危ない……!」
突然、ユージンが声を荒げた。それに振り返るよりも早く、こめかみに強い衝撃が走る。訳も分からないまま揺れる視界に、身体を支え切れずに手を着いた。ぐっと瞼を閉じ、世界が回るのをやり過ごす。
その背後で聞き覚えのある声とユージンが争い始め、アステールは恐る恐る目を開いた。
「やっぱり、弱虫アステールじゃん! こんなところで会うなんて奇遇だな」
「……お前、今自分が何をしたかわかってるのか?」
里の子どもに逆らおうとするなんて命知らずだ。アステールが止めようとするも、少し距離があるせいか、か細い声では届いていないようだ。
「は? ……何だっけお前。ああ、そうだ! アステールにべったりの、引っ付き虫ユージンか」
(何それ。そんな格好悪い仇名付けられてるけど良いの?)
エルミスやおばばのときもそうであったが、どうやら彼の瞳に見つめられると最初からユージンという存在を知っていたかのように記憶が改竄されるらしい。恐らく、親族のふりができるくらいにはある程度自由に記憶を植え付けられるのだろう。
にも拘らず、思いの他可笑しな捉えられ方をしていることに、アステールは痛みも忘れて吹き出しそうになった。
「虫同士仲良しで何よりだな」
「『引っ付き虫』は植物のようだが……ふむ」
ユージン自身はあまり気にしていないようだ。里の子どもの挑発にも飄々とつまらなさそうに受け答えをする。その上、里の子どもがいる方向とは別の、木の影へと視線を向けてさえいるのだ。
全く興味がないと言いたげな様子に、里の子どもは苛立ちを隠そうともせずに地面を蹴った。
「煩いな……! お前らなんか里にも入れてもらえないくせに!」
「どうでもいいな。里に入れることが偉いわけでもないだろうに……おい、立てるか」
さく、さくと足音が近付き、すぐ頭上でユージンの声がした。
掛けられた声に顔を上げると、差し伸べられた手が視界に映った。その手がアステールの腕を掴み、立ち上がらせる。
一瞬ふらりと身体が傾くも、ユージンに支えられてどうにか体勢を立て直した。
「ありが……」
御礼を言おうとした時、ユージンの背の向こう側で腕を振り上げる子どもの姿が目に飛び込んできた。
振り下ろされた手から、石が飛んでくるのがやけにスローモーションで見える。ユージンに危険を知らせようにも、染みついた恐怖心が身体を硬直させて声が出ない。
(あ、当たる)
幸い、石の軌道上にいるのはアステールのみ。眼前に迫った石に、無感動な感想を抱いた。せめて頭に当たる前に腕で防ぎたいが、身体が言うことを聞かないので仕方がない。
目を瞑ろうとする直前。気付けば石は草に弾かれ、転がっていた。額に痛みはない。
「……まったく理解できないな」
ユージンがじっと石を見下ろして呟いた。
背後から迫る石など見ていなかっただろうに、腕に擬態していた蔦がアステールの前に滑り込み、その石を叩き落としたのだ。
「……良かったの?」
安堵するよりも先に、人前で姿の一部を晒してよかったのかという不安がぼんやりと浮かぶ。
「ああ、どうせわかりはしないさ」
ユージンは淡々と告げると、里の子どもの方へと向き直った。子どもは顔を真っ赤にして歯を剥き出している。怯えた様子がないあたり、彼の言う通り、正体に気づかなかったようだ。
子どもは目を吊り上げ、大声で喚いた。
「守られっぱなしでダッサ! そんなんだから弱虫のままなんだろ!」
ユージンには敵わないと見たのか、標的がアステールに絞られる。言っていることは的を射ているのだ、アステールは耐えるように俯いた。
「何もできない泣き虫め、だからお前は誰にも必要とされてないんだよ……どうせお前の親父だって魔女とお前が嫌で出てっただけなんだろ!」
「お前、いい加減にしろよ」
ユージンが何か酷く怒っているようだが、耳が幕を張ったように遠退いて聴こえない。はっ、と呼吸が浅くなり、心臓を抉られるような痛みにアステールは胸を押さえた。
アステール自身、ずっと心の奥底で感じていたことだ。考えないように、目を背けていた現実だ。
「なんでお前の親父は出てったんだよ」
(どうして父さんは帰ってこないの)
心に蓋をしていた言葉が溢れる。今よりも更に幼き日のアステールが、羊の枕を抱き締めて問い掛けてくる。
どうして父は出て行ったのか——故郷を取り戻すだなんて体の良い言い訳で、本当はアステールを嫌って出て行ったのかもしれない。
「お前の母親だってそうだ、本当はすぐに泣くお前の顔なんか見たくないんだろ!」
(お母様はなんで僕とずっと居てくれないの)
誰にも聞けなかった疑問が突き刺さる。母は何故あまり顔を合わせてもくれないのか——アステールを一人で育てることなど、身体の弱い母親には負担が大きかったのだ。それもこんな何もできない子どもなど、見るだけでも嫌だったに違いない。
容易く、旅に出してしまえるほどに。
「今にそいつだって愛想を尽くすだろうぜ」
(そうだ、ユージンだっていつかは……)
そもそも、アステールが星の欠片を呑み込まなければ、ユージンがアステールと共に旅に出ることもなかったのだ。今でさえ十分迷惑を掛けているのに、欠片の場所さえもわからない。そんな自身がお荷物ではなくて、何になるだろうか。
「僕は、ずっと独りなんだよ」
幼い頃の自身が、にっこりと笑みを浮かべた。
どんどんと呼吸が荒くなり、膝の力が抜ける。アステールは成すすべもなくその場に座り込んだ。
「……い、……おい。落ち着け」
(……みんな、いなくなるのかもしれない)
沈み込む思考を邪魔するように、肩が揺さぶられる。顔を上げると、ユージンの瞳と目が合った。
「……あれ、あいつは…………?」
「彼奴ならもうとっくに逃げた。……それより、様子が可笑しかったがどうした」
「いや、うん……」
心配するユージンに生返事を返す。周りを見渡しても、どこにも里の子どもの姿はない。いつの間にいなくなったのだろうとぼんやりしていると、ユージンが少し怒ったように問い掛けた。
「お前は……あんなことを言われて、どうして何も言い返さないんだ」
「ぇ……だって、事実だから……」
仕方がない、と眉尻を下げると、ユージンの肌が暗さを増す。そして、小さく諭すように言葉を溢した。
「……事実など、ただの一面に過ぎない」
その声は囁きよりも小さく、この距離でさえも聞き逃してしまいそうなほどであった。ともすれば独り言とも思える言葉に、アステールは何も返せなかった。