Episode2. 黒き物体との戯れ
「何、これ……」
暗闇の中で、不思議な球体が自ら淡く発光している。アステールは靴を履くのも忘れ、恐る恐るその球体に近付いた。羊の枕を抱えたままであるのは御愛嬌だ。
傍から見れば情けない状態で近付けども、球体が反応を見せる様子はない。それどころか、ふよふよと浮かんでアステールを待ち続けているようにも見える。
(……そんなわけないか)
及び腰で漸く球体の前まで来ると、その中に何かが入っていることがわかった。よくは見えないが、じっくりと覗き込んでいると、表面が僅かに上下しているのが見て取れる。その動きは、人間や動物などの生物が呼吸した際の腹の動きに酷似している。
「ってことは、生き物なのかな……?」
何となくではあるが、生物が丸まって寝ているようにも見える。そう考えると可愛らしくも感じるのだが、それでも生物と言うには何かが可笑しい。目も耳も鼻も、脚や頭、胴体すらも。どれがどこにあるのかさっぱりわからないのだ。
得体の知れないものをこのまま部屋に置いておく気はないが、アステールは謎の物体に触れることに戸惑った。誰でもいいから確認して欲しい。しかし、家には母親以外誰もいないため、自分がどうにかするしかなかった。
(どうにかってどうすれば……これを開けば良いのかな?)
見たところ接合部分もないため、開くかどうかも微妙なところだ。しかし、中に何かが入っているのだから開けられないものでもないのだろう。アステールは開けたくないと思う一方で、突如降って湧いた非日常に心を躍らせていた。
僅かに逡巡した後、結局好奇心には敵わず、アステールは球体を開けることにした。誰に言うでもなく、このまま部屋にあったとて邪魔であろうと言い訳をして。
とはいえ、やはり素手で触るという勇気は爪の先程も持ち合わせていなかった。生憎、この部屋には上手い具合に外から突けるものはない。かといって部屋を出ている間にこの物体の状態が変化するやもと思うと、それも恐ろしい。
「……これしかないか」
アステールは泣く泣く、手に掴んだ枕を犠牲にする選択肢を取った。必ず洗濯はすると心に誓う。傍目から見ると実に滑稽な光景なのだが、アステールにとって暫定唯一の友である枕を犠牲にすることは大罪に等しかった。
しかし、そんなアステールの懺悔も枕である羊には関係のないこと。羊は何の躊躇いもなく、その柔らかな頭でちょこんと球体を押した。すると、今までふよふよと浮くばかりでアステールを静観していた球体が、突然白い蒸気を噴出した。
「うぁ……っぷ」
勢いのある風がアステールの顔面に直撃する。瞼を開くことは叶わないが、アステールはどうにか羊を抱き寄せた。アステールのふわふわと柔らかい髪が風に煽られ、形のよい眉が姿を現す。
耐えようと必死に足に力を入れて敷物を踏みしめるも、少年の軽い身体では突然の強風に耐え切れない。アステールの足がふわりと地面から浮いた。声を出す間もなく、バランスを崩して後ろ向きに倒れる。羊の枕を両腕で抱きしめていたアステールには、咄嗟の転倒に備えることができなかった。
来たる痛みを想定して顔を顰める。しかし、どれだけ待っても痛みがアステールを襲うことはなかった。それどころか、変な体勢のままで止まっているような気がする。
「…………?」
アステールは奇妙な感覚に薄らと片目を開いた。瞼の間から、自身の足が地面からほんの少し浮いているのが見える。さらに顔を上げると、先程まであったはずの場所に球体が存在していないことも確認できた。風もすっかりと収まっている。
酷く緊張していたのだろう、静かな部屋にいつもより速い心臓の音がどくどくと響いているように聴こえる。硬直したままであったアステールの背が、落ち着くようにとゆっくりと撫でられた。その優しい手付きに肺に溜まった空気を吐き出す。
(いや、待って。今なんか撫でられた……撫でられた? 誰に!?)
この部屋にはアステール以外には誰もいないはずだ。凍り付いたことが相手にも伝わったのか、再び撫でる手が動き出す。アステールはぎぎぎと音がしそうなほどにぎこちない動きで背後を振り向いた。
「¶Й164ξ‰?」
「……何、え……?」
振り向いた先には、黒い靄を身に纏い、幾つもの艶やかな細い蔦を持つ謎の物体が蔦を持ち上げて佇んでいた。
「¶Й164ξ‰?」
謎の物体は黒い蔦を不気味に揺らし、先端をアステールへと向ける。物体が動く度に何とも形容しがたい音が部屋に響き渡った。その不気味な音がアステールの恐怖心を余計に煽る。
「ぅぇ……」
喉が引き攣り、声すらもまともに出せない。眼前に伸ばされた蔦に、一体何をされるのかと先の見えない不安が押し寄せ、身体が固まる。それでも、得体の知れないものに触れるには十分なほどの身の危険を感じ、僅かながらも後退った。普段あれだけ里の子どもたちから逃げ出しているというのにいざという時にはほんの少しも役に立たないらしいとどうでも良いことを考え、口の端が引き攣る。
しかし、黒い物体はアステールには触れず、伸ばした蔦の先端を持ち上げてふるふると左右に振り始めた。まるでアステールの恐怖心に気付き、安心させようとしているようにも見える。
「何……? 何もしないよってこと……?」
アステールが恐る恐る尋ねると、肯定を示すように蔦が上下に振られる。その動きがどうにも意思疎通のできる生物らしく、アステールは強張っていた全身から力が抜けるのを感じた。
ふ、と緊張が緩んだのを感じ取ったのか、黒い蔦が緩慢な動きでアステールに向かって伸ばされる。あまりに恐々とした動きはどちらが怯えていたのかもわからないほどだ。存外悪い存在ではないのかもしれないと、アステールは今度こそその場から動かずに蔦を受け入れた。
そっと、柔らかな頬の表面に触れるだけの感覚があった。蔓は、まるで見たこともない物体に触れるかのように、ちょんと触れてはすぐに離れていく。奇妙な見た目の割りに、もちもちと触れる手は優しい。
「ふ、ふふ! くすぐったいって……!」
謎の物体は、つるりと滑らかな質感ながらもしっとりとした潤いもあり、もち肌の赤子のような、あるいは幼い猫人族の肉球のような柔らかさと弾力を兼ね備えている。ひんやりとした冷たさがありながらも、ほんのりと温かみを感じる。
(すごい……やっぱり生きてるんだ……)
何となく、この世のものとは思えない外見から同じ生物として見ることができずにいた。だが、実際に体温を感じると生きているのだということが伝わる。
謎の生物もアステールと同じであったのだろう。アステールが恐ろしい存在ではないと理解すると、次第にその肌に蔦を滑らせ、質感を確かめるように伸ばしたり押し込んだりと好き勝手に触り出した。
「ふ……もう、こら……! やめてよ……ふふ、あはは!」
ただただ撫でまわされている状況に面映ゆい気持ちになり、どうにか止めさせようと頬に押し付けられていた蔦を両手で握り締める。突然アステールが抵抗を見せたことに驚いたのか、謎の生物はぶわりと靄を膨らませて飛び上がった。その様は、驚いたときの猫人族によく似ていた。
「君は何? 見たことないけど……僕の知らない異種族なのかな。まさかこの世界に適合した生物の成れの果てなんて言わないよね……?」
「∽Ъ43!」
成れの果てかと聞いた瞬間、謎の生物が何かを叫んだ。相変わらず、謎の生物の言葉はアステールには聞き馴染みがなく、言語であるのかすらも判別がつかない。それでも、黒い靄に包まれた身体を必死で動かす様は、先の言葉を否定しているように思われた。それどころか、激しく揺れ動く様子からは少し怒っているようにすら感じられる。
「僕が悪かった、だからそう怒らないでよ……君が何なのかなんて僕にはわからないんだから……」
「жζ26……VZ Ceti Щ㍵」
アステールが足元に視線を落とすと、今度は靄が揺らめき出す。その動きがどうにもおろおろと戸惑っているように見えるのは、アステールの思い違いだろうか。感情がいまいち読み取れないとアステールが悩んでいると、掴んでいたはずの蔓がいつの間にかアステールの手首に巻き付いていた。手を取り合った状態で、何かを伝えようとしているようだ。
「ん~~……? なんだろ……」
顔を顰め、面前の生物が伝えようとしていることを理解できやしないかと頭を捻る。だが、どれだけ考え込んだところで通じるわけでもなく。眉を八の字にしたアステールに対し、謎の生物はふよふよと小刻みに震えはじめた。次第に揺れが大きくなっていく。
「えっ、は……? 今後は何……?」
今までにない動きにアステールは困惑を極めた。謎の生物は激しい動きの合間に、聴き取れない言葉で何かを呟いている。あまりの通じなさに堪忍袋の緒が切れたのかもしれない。
得体の知れない存在を怒らせてしまうなんて。アステールはこの後に起きる想像もできない事象に指先が震えるのを感じた。先程までは和やかな雰囲気であったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
(大丈夫、怖くない……怖く、ない)
もしかすると、この生物はあまりにも恐ろしく危険な存在であり、油断した途端食べられてしまうのかもしれない。そうなれば、同じ年頃の子どもの中でも小さいアステールなど一口で呑み込めてしまうだろう。そんな恐ろしい妄想がアステールの脳を占める。
(泣くな、泣くな……)
足元に転がる羊の枕がつぶらな瞳でアステールを見上げる。だが、それが見えたのは一瞬で、すぐに揺らぐ波に吞まれていく。こうも何度も泣いてしまってはまた馬鹿にされるに違いないというのに、瞳は意思に反して熱を帯びる。
(それでも、ここで食べられたら馬鹿にされることもないのか……)
そう思えば、ほんの少しだけ可笑しくなる。どうせここには自分一人しかいないのだ。何があっても一人。誰にも助けてもらえず、抵抗することもできず。弱い自分はたった一人で耐えるしかないのだ。いつものように。
しかし、笑おうと顔を歪めると、視界に溜まった水が頬を伝って蔦を濡らした。
「……ひぅ」
涙を止めようと目に力を入れ、唇を噛み締めるも、喉の奥が引き攣る。再び瞳に張られた水の膜が決壊しそうになったとき、アステールの手を掴んでいた蔦が気を落ち着かせるようにゆっくりと手の甲を撫で始めた。
驚いて顔を上げると、聞き取り難いものの覚えのある言語が耳に飛び込んでくる。
「……ゅ、geン」
「ユ……ジン? ユージン……もしかしてそれ、君の名前!?」
アステールの喜びが滲み出た声に反応し、黒い靄が緩々と震える。その姿は不満げであったが、アステールは初めて言葉が理解できたことに気を取られ、気付くことはなかった。
嬉しさのままに黒い蔦を持ち上げ、上下に振り回す。蔦はアステールの動きに合わせて波立ち、みょんみょんとその長さを伸ばした。あまりのはしゃぎように、謎の生物が呆れたように靄を噴出する。
「ユージン! 素敵な名前だね!」
「na……ま、エ」
「僕の名前? アステールだよ」
ふふ、と笑みが零れると同時に、眦いっぱいに堪えていた涙が流れ落ちる。水滴が足の甲を濡らすよりも先に、謎の生物——もといユージンが蔦で拭い去った。
「うん? ユージン、どうしたの?」
零れ落ちた涙にはまるで気付いていないアステールは、再び頬を撫でたユージンに擽ったそうに問い掛けた。すると、ユージンが増々呆れたように靄を噴き出す。靄は見る見るうちに嵩を増し、アステールに纏わり付いていく。
やがて完全に包まれたのか、視界は苦手な暗闇に支配された。だが、不思議と恐怖は感じない。それどころか、高揚さえしていた。
暗闇であるはずなのに、ちかちかと瞬く銀の光が散りばめられた、夜空のような光景に。
「綺麗だ……」
その美しさに見惚れていると、靄の中から無数の蔦がすり寄って来た。手に、脚にと絡みつき、全身を隅々まで調べ尽くさんとばかりに動き回る。アステールはそれすらも気にならないほどに、光に見惚れていた。蔦も抵抗がないことをわかっているのか、遠慮というものがない。
流石に異物が耳の中にまで入り込もうとしたのには意識が引き戻され、アステールは慌てて声を荒げた。
「うわ!? そんなとこ入ろうとしないで!」
あまりの剣幕に、耳の縁に触れていた蔦が怯えたように引き下がる。その鎌首は反省を示すように下を向いている。
耳の縁にあった蔦が引き下がったのを合図に、他の蔦も撤収される。瞬きのうちに蔦も靄もアステールから完全に分離していた。
「あ……」
通常であればほっと胸を撫で下ろすところなのだろうが、絶景が見られなくなってしまったことがただただ残念で、溜息が口を衝いて零れる。
そんなアステールの気持ちを知ってか知らずか、ユージンは再び激しく痙攣し始めた。先程はユージンが激しい動きをした後で言葉が理解できるようになったのだ、今度は何が起こるのだろうかという期待が胸中に渦巻く。
「わぁ……!」
ユージンは霧散した黒い靄を纏い、蔦を何本か纏めて捩り始めた。黒い靄が圧縮され、その濃度を高める。纏まった身体が練り上げられ、二本の蔦で地を踏みしめる。先を五つほどに分けられた蔦が器用に靄を掻き分けると、全身を覆っていた靄は薄れ、全貌が見える。
変形が終わったのか、ユージンがアステールの目の前に立った。決して人族とは言えないが、人型に見える形で収まったユージンに、アステールは目をしぱしぱと瞬かせた。
「……もしかして、僕の真似?」
アステールが問い掛けると、同じ目線にある頭部に一等輝く星が二つ現れた。まるで瞳のように存在する星が、先程のアステールと同じように瞬きを繰り返す。もしかしなくとも、アステールの真似をしているのだろう。
だが、どう頑張っても人型なだけであって人ではないのだ。アステールが苦笑いをすると、ユージンは不服そうな目でアステールを見つめ、その腕を掴んだ。同じくらいの体格だというのに全く力が敵わず、引き摺られる。アステールはあっという間に鏡の前に連れてこられた。
「鏡見たって変わんないよ、ほら……え?」
ほら見ろとばかりに鏡を指差すユージンに笑い掛ける。だが、掛ける言葉は途中で途絶えた。
「嘘……僕……?」
鏡には、不遜な笑みを浮かべたアステールの姿があった。その横には唖然とした表情でユージンを見つめるアステールの姿もある。これだとまるで隣の人間が人族ではなかったのに気付いたようだな、などと関係のない考えが頭に過るが、真実は真逆。
アステールが何も言葉を紡げずにいると、代わりにとユージンが喉を抑えて口を開いた。
「ぁ……あー……よし」
「……待って、え? どういうこと……?」
隣に立っているのは異形であるのに、鏡の中にはアステールが二人映っている。正確には、アステールと、黒髪に銀の瞳を持つ褐色肌のアステール擬きだ。アステール擬きは口の端を持ち上げると、流暢な言葉で語り掛けてきた。
「よう。俺は広大な宙からやってきた星の一片……ソラビトだ」
「ソラビト……」
「そ。この星を侵略しに来たってわけ」
どうやら大きな星が降ってきたようだと、アステールは混乱で回る世界の中、妙に冷静な頭で思うのであった。