Episode10. 風拓く者
落ち葉が音を吸収し、足を踏み出した部分がほんの僅かに沈む。そうして出来上がった足跡がアステールの前方にずっと並んでいる。振り返ると、幾つにも重なった足跡が森の奥の方から続いていた。
森の中であるというのに、他の生物の呼吸すらも聞こえてきそうなほど静かだ。アステールは生い茂った枝葉を見上げ、頭を抱えた。
「迷子だ!!!」
「今更だろ」
嘆くアステールの前方で、ユージンが肩を竦める。
星の欠片の行方を追って大鳥に教わった磁場が変化した場所を散策しているが、もうかれこれ半刻は同じ場所をぐるぐると回っているのだ。その証拠に、前方にも足跡が続いているというわけである。
「でも道を変えたら流石に違う場所に出るはずでしょ!?」
そう、途中で何度も道は変えたのだ。道なき道も、ユージンの蔦で葉を避けながら進み、目で見える範囲の分かれ道は全て制覇した。それでも必ず同じ道へと戻ってくるのだから気味が悪い。
最早、自身の方向感覚が狂っているが故とは言えないだろう。空間が歪んでいるのか、無意識に元の道へと戻っているのか。
もしや何か恐ろしいものの力なのではないかとアステールは首を縮めた。心なしか背筋に悪寒が走っているような気がしてならない。アステールが腕を擦る様を見て、ユージンが溜息を吐き、周囲に視線を向けた。
「普通なら、な。だが今は平時ではない……星の力が作用しているんだ、理の中にある者が幾らその目で探そうとも見つからないぞ」
「……今回の星の欠片ってどういう力を秘めてるの」
ここまで散々な目に遭っているのだから凡そ予想も着くものだが、アステールは項垂れた状態でユージンを見上げた。ユージンの様子を見るに本当におばけの類ではないようだが、精神安定上聞いておきたい。
「“航海し、定めを告げる【羅針】”だ。本来であれば道筋を示すものだが……」
「道を示すどころか捻じ曲がってるよね? 本当にそれで合ってる?」
「恐らく……暴走状態にある」
【運び手】のときも暴走状態にあった。本来であれば流れを作り、運ぶ役割を持っていたはずの欠片によって周囲の者の普段心の内に秘めていた感情が溢れ出したのだ。それ故に、里の子どもも度を越した行動を起こした上、アステールも苦い思いを再認してしまった。
星の欠片は周囲の環境や人の在り方すらも変化させるほどの力もあるのだ。だからこそ、ソラビトというその膨大な力を制御できる者がいないといけないのかもしれない。
それにしては自身の中に取り込まれてしまった【呼び声】は何も反応を示さないが。
「この状態で探すのは無理だよ……というか元の場所にすら帰れないんじゃ……」
「いくら星の欠片とはいえ、使い手もいない今、影響範囲はそう広くはないだろう」
「……使い手がいたら?」
「使い手次第だが……少なくとも移動する分、厄介だ」
眉を顰めたユージンに、アステールもそれは勘弁願いたいと遠い目をする。
「何にせよ、今は【羅針】の影響範囲にいるんだ。見当はずれな場所を探しているわけじゃない」
「見つかんないんじゃ一緒だよ。せめてもう少しヒントがあればなぁ」
愚痴をこぼしたところで、探さないことには見つからない。他にも道がないか確認しようと木々の間を見て回っていると、ユージンが心底不審そうに尋ねてきた。
「……いくら探そうともこの狂った磁場の中にいる以上、俺たちの感覚も何もかも狂っているんだ。先程から何を躊躇してるのか知らんが、早く【呼び声】の力を使え」
ユージンの言わんとしていることはわかっている。ユージンと契約したときに言われたように、【呼び声】の力を使うことができれば、【羅針】の場所がわかるのだろう。【運び手】のときに何となく感じたことだが、この力は他の欠片の場所を伝え、他の欠片と所有者を繋ぐ能力がある。
あのときは意識も朦朧としていてどうやったのか全く覚えていないのだが、とりあえずやってみる他ないとアステールは自身の手を空に向かって突き出した。
「むむむ……【呼び声】よ~、【羅針】の場所を僕に教えておくれ~~」
目を瞑って集中する。応答までにどれだけ時間が掛かるのかは知らないが、きっと何かしら反応はあるはず。だが、耳を澄ましても葉が風に揺れる音しか聴こえない。
徐々に顔に熱が集まるのを感じ、伸ばした手も重くなる。肘が曲がって完全に正気に戻ったアステールの耳に、何度目かの溜息が聞こえてきた。
「……お前、ふざけてるのか」
「どう見たって真剣でしたけど!?」
第一、やり方もわからずにどうやって星の欠片を使えというのだろうか。今更かと怒られるかもしれないが、致し方ない。
指で頬を掻いてへらりと笑ったアステールの耳に、ユージンの呟きが入ってきた。
「……どうしてお前が【呼び声】を持っているんだろうな」
「何それ、僕じゃなきゃよかったって意味?」
「そうじゃない。だが、使いこなせないだろ。……他の力であればまだよかったというだけだ」
どれも事実、そうだ。【呼び声】を使えないアステールがそれを持っていたところで何の役にも立たない。ユージンにとっては災難でしかないのだ。
それでも、ユージンにまで不要と思われたくなかった。からからと何かが崩れる音が僅かに聞こえてくるようだ。アステールは痛みを訴える胸を掴んだ。
「……じゃあ、さっさと取り返せばいいじゃん」
「アステール」
「他の欠片だってそうだ。全部集めてるんでしょ!? なら【呼び声】だってさっさと取り返したらいい!」
そうすれば、ユージンがアステールに構うこともない。初めからわかっていたことだ。ユージンがアステールに構うのは、共にいるのは、アステールだからではない。星の欠片を持っている者なら他の誰でもよかったのだ。それが偶々アステールであっただけ。
もしかするとずっと返せと言いたかったのに、言い出せなかったのかもしれない。それもそうだろう、情報源として使えるかと思った人間がこれほどまでに足手纏いだったのだから。こうしてアステールから言い出したのだ、安堵の表情を浮かべているに違いない。
(……いやだな。そんな顔、見たくない)
口に出す言葉とは裏腹に、震えた脚はユージンから遠ざかるように一歩、また一歩と後退する。先程よりも靴が深く埋まる感覚があったが、今は地面の泥濘にまで気を向けていられない。
「アステール、待て」
逃げ出そうとするアステールを止めようと、ユージンが近付いてくる。表情は見られないが、声にはどこか焦りの色が見える。
焦る割に無理やり捕まえようとはしないユージンに、アステールはぐっと唇を噛み締めた。どこまでお人好しなのだろうか。それと同時に、意気地なしで矛盾だらけの自身の姿の浅ましさに、アステールは自嘲した。
(【呼び声】のない僕に価値はない……それでも、元々僕のものじゃないんだ)
ここで逃げ出せば、それこそアステールは自分が許せないほど最低な人間に成り下がってしまう。価値がないなんて今更だ。
それならせめて、ユージンの中でいい思い出として記憶されていた方が何倍もいい。
「そこを動くなよ、アステール」
「……心配しなくても、返すよ。ごめんね」
今度こそ笑って。眉も下がって不格好な笑みかもしれないが、ないよりマシだ。そして、アステールはユージンに向かって一歩踏み出した。
刹那。
泥濘が沈み込み、足を掬われる。バランスを崩した身体は空を向き、後ろへと引っ張られるようにして傾いた。ドッと跳ねた心臓がアステールを置き去りにし、何が起きたのかも理解できない硬直した身体だけが流れに逆らわずに落ちていく。
ユージンが声もなく手を伸ばし、アステールを掴もうとする。
(ぁ…………)
見開かれたユージンの瞳いっぱいに、あどけない表情をしたアステールが映った。永遠のようでいて、ほんの一瞬。
アステールの手は僅かにユージンの指先に触れて離れていった。どんどんと遠ざかるユージンと、先程まで自身がいた足場を見てアステールは漸く理解した。
自身は崖の淵にいたのだと。
木々が途絶えた崖からは青々とした空が露わになっていた。空には星のひと欠片も見えない。そのあまりの眩さに目を細める。
呆気ない、最期だ。
「——アステール!!!!」
閉じかけた瞳は、銀の星を捉えた。
***
「んぅ……ここは……、ぅ」
意識が浮上した途端、奥から響くような痛みに頭を抑える。手の隙間から見上げると、枝葉が木陰を作っているのが見えた。だが、先程散々迷って見上げた景色とは異なり、その遠くに崖が聳えているのがわかる。そこから落ちて来たことは想像に難くない。
アステールは頭に当てていた手を外し、両手を空へと伸ばした。そのままぐっと握り締め、再び力を抜く。幸いにして崖の途中に生えた木や頭上の枝葉がクッションの役割を果たしたのか、怪我一つないようだ。
(ん……? クッション材があったからってあの高さから落ちて傷が一つもないのは可笑しくない?)
枝葉で打ち付けた打撲痕すらないのは妙だ。もしや他に怪我をしたところがあるのかもしれない。
アステールは上体を起こすと、自身の身体が黒い蔦に巻き付かれているのに気付いた。
「これ、まさか……」
見覚えのある蔦の一つを恐る恐る持ち上げる。滑らかな表面をユージンに倣って薄すらとなぞってみても、少しも動かない。力なくアステールの掌の上でぐったりとした様子の蔦に、アステールは徐に落ちた瞬間の記憶を思い出した。
足場が崩れ、宙に放り出された後。ユージンの手を掴み損ね、遠退いていく際の表情。銀の瞳を目いっぱいに見開くその表情を見て、アステールは酷く安心した。
呆気ない最期だったが、悪くもない。そんな感情で人生を閉めようとしたアステールを追いかけ、ユージンが身を投げ出したのだ。必死なのか、腕を模っていた蔦は解け、全てがバラバラにアステールへと伸ばされる。
『【運び手】! 俺をアステールの元へ……!』
間に合わないはずの距離だった。
だが、ユージンが詠唱もへったくれもない命令を下した一寸後。彼の解かれた蔦がアステールの身体を引き寄せ、瞬く間もなくユージンの靄に包まれたのだ。
「……君だって、僕のことふざけてるだなんて言えないじゃないか」
身体に巻き付いた蔦を丁寧に外し、立ち退く。そして、ユージンの方を振り返り、アステールは空色の瞳を見開いた。
「ユージン……? 嘘でしょ、ユージン……!」
ぐったりと横たわるユージンの双眸は閉じられており、投げ出された蔦は所々折れ曲がっている。靄の様に境界が曖昧になった身体の下からは夜空色の液体が流れ出していた。
アステールが無傷だったのは、ユージンがアステールを庇ったからに他ならない。アステールはユージンの心音を確認しようと、その腹に手を置き、愕然とした。当然押し返されるものと思っていたのに、何の抵抗もなく手が沈んでいく。まるで水を掴むような感覚に思わず手を引いた。
「……うそだ」
アステールは自身の手を見つめ、膝を突いた。このときになって漸く、ユージンが自身とは異なる存在であることをまざまざと実感する。姿かたちが違うだけではない。その在り方も、考え方も。
アステールには、ユージンの心臓がどこにあるのかもわからない。生きているのか、助かる見込みがあるのかもわからない。
「僕、……僕は……!」
何も知らないのだ。
喉がひりつき、嗚咽が漏れる。溢れ出した涙が手を滑り落ち、ユージンの身体を濡らした。無様だとわかっているのに、涙が止まらない。泣いていたって、ユージンが助かるわけじゃないのに。
アステールは鞄に入った治療薬を取り出した。カタカタと震える指先ではなかなか蓋が開かず、何度も瓶を落とす。それを繰り返し、漸く開いた瓶から蜂蜜色の薬を掬った。
折れ曲がった蔦や、液体が流れ出る靄に薬を付ける。靄は抵抗感もないものの、掌に着いた薬は不思議と消える。恐らく吸収しているのだろうが、どこまで効き目があるのだろうか。
(このまま、ユージンが目を覚まさなかったら……)
助からなかったら。そんな考えが頭を支配する。そんなの、嫌だ。
アステールは震える声で、喉が張り裂けそうなほどの声で叫んだ。
「【呼び声】……! 本当に呼ぶ力があるのなら、応えてよ……! ユージンを助けてよ……!!」
ドクン。心臓が一際大きく鼓動し、カッと熱を発する。胸の中心から琥珀色の光が溢れ出す。アステールは光を掴み、空に吠えた。
「誰か——ッ!!」
突風が吹き荒れ、声が掻き消される。砂塵を巻き散らす風に思わず目を閉じると、アステールの耳に知らない声が聞こえてきた。
「おや……何やら声が聴こえたと思いましたら、これはまた小さなお客さんだ」
「へ……?」
「それは……怪我をしているようですね。おいでなさい」
物腰の柔らかな声にそっと目を開ける。そして捉えた姿にアステールはぱちりと瞬きをした。
「……大鳥のおじいさん? いや、違う……?」
似た姿だが、大鳥よりも更に大きい。その上、大鳥の柔らかい雰囲気とは反対に、鋭く張り詰めたような圧を感じる。
「おやおや、父をご存知……ということは父が探していた方々でしたか。私は森の賢者の三番目の息子にございます」
「おじいさんが……?」
「ええ、先程薬を届けに行ったところだったんですがね。探索に行ったきり、中々帰ってこないから探すのを手伝え、と」
大鳥の息子は器用に片目だけを閉じて頭を下げると、アステールのすぐ横に寝そべった。まるで早く乗せろと言うようにユージンを見つめる大きな瞳に従う。
蔦を自身の身体に巻きつけ、そっと身体の下に腕を差し込む。ユージンの身体は不思議と質量を感じさせないため、アステールでも容易に持ち上げることができた。
背に腰を落ち着けると、ふわり、と大鳥よりも艶のある羽に身体が沈み込んでいく。アステールとユージンが乗ったことがわかったのか、背が揺れ、景色が高くなった。
「体勢、低くしていてくださいね」
声を掛けるや否や、大鳥の息子は体勢を低くし、羽を大きく広げる。そして何度か地面を蹴ると、空に向かって羽ばたいた。
空気の抵抗もなく、風を切って大空へと飛び上がる。ユージンを気遣ってくれているのか、揺れも少ない。
「すごい……」
「急ぎますよ……!」
宣言通り、アステールたちが散々迷っていた森の頭上を大鳥の息子は難なく飛び去った。磁場が歪んでいる割に、大鳥の息子は気にもせず飛ぶ。これが風を読むということなのだろうか。
だが、上空に辿り着いた途端、四方から風が叩きつけるように吹き荒れた。顔を上げた途端、身体が持っていかれそうだ。
「風強……っ!」
「すみません、私は風読みができませんので……無理やり風を拓いているので少々荒い航行となります」
「風読みができないって割と致命的なんじゃ……!?」
「……そうですね! まあでも読めないだけで飛ぶことはできますので!」
どの道、【羅針】が暴走している中では方向感覚や風読みの能力があったところで意味はない。それならば、強靭な肉体で風を拓くことができる方が余程有能だ。
「お、お願いします……!」
アステールは震える手でユージンの顔を撫でた。冷たくも、ほんのりと生物の温かみを感じる。まだ、生きている。
(……今度は、僕が君を助ける)
空を睨むようにして見据えたアステールの表情は、決意を示していた。




