アイデンティティの欠損
夜空のような世界で星野蜜はアイデンティティという言葉が分からなくなっていた。
いくたにも連なる単語の羅列に意味を求めるのはあまりにも文系らしいと言えばいいのだろうが、ふわっとした言葉に納得できるほど正確な意味はあまりにも哲学的だ。
いや、それを求めるのが文系なのだからいいのか。
机の上で結露した水滴でびちょびちょなプラスチック容器の中に入っている残り少ないぬるくなったアイスコーヒーを飲み干した。
よく飲み干せたと讃頌を送りたくなるのは苦いのが苦手なのにトールサイズを購入した悪手への皮肉だ。
だが明日になればまたこの席でトールサイズの苦いアイスコーヒーにミルクも砂糖もいれず、慣れた表情をしながら内心後悔しているだろう。
なんでそんな馬鹿な事をしているのか?
同じ講座にいる佐奈子ちゃんっていう美人な女の子が言っていたから。
「今の彼氏との出会いはいつも通っている喫茶店だったんだよね!」
って。
彼氏が欲しかった蜜はその言葉を水鳥のように鵜呑みにして、バイト代を削るように使っているのだ。
アイスコーヒーなのはそっちの方がよさそうだからだ。
成果としては彼氏が出来るどころか、イケメンの男性すら見ていない。そのせいでついでにやっていた勉強の成績がうなぎ上りだ。喫茶店のマスターにも勉強をやる子と覚えられている事だろう。
マスターに百害なくとも一利なしだ。
それもこれも、一気に飲めないアイスコーヒーが悪い。
だからといって、彼氏を諦めるかと言われたらそうはいかない。彼氏がいれば埃まみれの大学生活は真っ赤なバラ色になるはずなのだから。
高校では青春の青の字も無かった星野蜜にとって諦めることが出来ない。
まばたきをしたら終わったJKブランドはJDになった今になって傷をつくっている。高校生は恋愛をするもので女の子ともなればより取り見取りのバーゲンセールだと確信していた。現実はそう甘くなかった。
「はぁ」
軽くため息を吐くのもしょうがないだろう。
このままではアイスコーヒー代は無駄の一言でかたずけられてしまう。
毎日手入れをしているくせに幼少期からずっとあるみっともない癖が抜けない髪を指に巻くように弄っていたら、電球が光ったように頭に電波が走った。
佐奈子ちゃんのような髪型にすれば良いんじゃないか?
安着で平坦で薄っぺらい発想だがなしではない。
そもそもだ、佐奈子ちゃんでもない私が喫茶店にいても彼氏は出来ないだろう。なら佐奈子ちゃんになれば彼氏が出来るのではないか?
髪型だけではなく服装や性格も佐奈子ちゃんと同じになれば同じ状況を再現できる。
思い立ったら吉。
佐奈子ちゃんになるためにやるべきことをまとめるためノートを開くが、ペンを取り出そうとした時手が時計の短針のように止まった。しかし秒針のように動き出し、A罫の左上にさながらドラマの探偵のように一単語を濃くデカく書いた。さらに強調するように丸で囲うまでする。
「アイデンティティか」
その言葉は全人類が意味が分からくともしょうがない程曖昧であり、星野蜜が発狂しながらオーギュスト・ロダンが作成した『考える人』の様なポーズをして思考に明け暮れていた単語だ。
神と言うべきGoogle様で検索すれば『それが、他とは異なる、まさにそのものであること。自己同一性。』と小学生であれば親に聞き、親は意味が分からないと壁に頭を打ち付けるほど、ふわっとした説明。
だからこそ星野蜜は哲学的に考えていたのだが、なんで今その単語が出てきたのかって話なのだ。
見せびらかしたいとか、ドラマのように意味深な行動をしたいとか、カッコつけたいとかそう言う訳では無い。
星野蜜が個人的にアイデンティティの説明として適切だと仮定した言葉を思い出したからだ。
アイデンティティとは、それが自己として必要な要素。主観的に自分に必要だと思う行動。
例えば、この飲み干したアイスコーヒーを苦いと思わずに飲み干したならば、それは星野蜜ではない。星野蜜が佐奈子ちゃんと同じ行動をしてしまえば、それは私ではないのではないかなって。
だからアイデンティティを思い出したんだ。
しかし一つ違和感があった。
マインドマップのようにアイデンティティとかかれている下にペンを動かし『主観』と一言付け足す。
星野蜜が佐奈子ちゃんになればアイデンティティが損なわれるといったが、それは主観的な事であって客観的には星野蜜は星野蜜ではないのか?
新しい疑問が浮かんできた。
星野蜜が佐奈子ちゃんになったとしても、星野蜜と初めて知り合った人は星野蜜は星野蜜だ。つまりアイデンティティが損なわれていない。
なら佐奈子ちゃんになっても良いんじゃない?
っと、たった一単語かいただけなのに手から溢れ出た手汗でグチャグチャになってきたノートを見て一旦深呼吸をした。
答えを出すのに焦りすぎていたことに気付いたんだ。
落ち着くために、アイスコーヒーが入っていたプラスチックカップを持つ。中には氷が解けて極限まで薄まったコーヒーのような液体が入っているのでそれを吸いだす。
ため息のように軽く息を吐き、改めてペンを持った。
そもそもだ、星野蜜は主観的なアイデンティティを損ないたくはない。
荒々しく箇条書きで結論を書き殴る。答えは簡単だったんだ。
かき切った達成感に酔いしれ、ノートを閉じペンをしまった。
マスターにカフェインで荒れた胃を気遣うために白湯を注文し、もう来る事は無い喫茶店から出るのであった。
「私の事が好きな人はどこにいるかな」
・私というアイデンティティを欠損せず、私自身を好いてくれる人に出会いたい。