二の酉
この間の降臨イベも結局やり込めなかったけど、ガチャでちょうど欲しかったSSRが出たから現在育成中。
本当は相田が持っているSSRを狙っていたのだが、これも育てればアビリティが独特で使えるとネットで評判なので、満足している。ちょっと手持ちが火属性に偏りすぎなのは気になるけど。
仲間内で複数のソシャゲをやっていると、無課金でもスタミナはなかなか減らずに辞め時がわからなくなりがちだけど、陽が落ちて暗くなるのがわかりやすい季節になってきたから、最近は暗くなったらそろそろ帰るか、とお互いなんとなく声を掛けている。
いつも通り靴を履き替えて、最後のランニングをする野球部を横目に校門をくぐって駅に向かう。
「あ、なぁ。この間のお酉様、実は今日もあるけど、行く?」
「え、そんな何回もあんの?」
祭りって普通一回か、三日間くらい連続でやって終わりじゃないの?
「そうそう、お酉様って十二日ごとだから毎年二回か三回あるんだよね。今年は三回。だから今日が二の酉」
そう言われてみれば、前回が十一月一日。今日が十三日だからなるほどとちょっと面白い。
「んー…この間は森川が迷子になったからなぁ」
にやにやと横目の浜口にカバンでわき腹をぐりぐり押される。
「いやちょっ、俺からしたら二人が勝手にはぐれた挙句、俺を放ってソースせんべい食べてた話しなんだけど!」
結局時間が無くなって、合流できてからはたこ焼きを三人で分けて慌ただしく帰ってしまった。しかもたこ焼きは八個入りで、はぐれたことにいちゃもんを付けられて俺だけ二個しか食べられなかった。理不尽な。
「…でもさ、俺、あーゆー雰囲気も面白かったよ。冬の祭りも悪くないのな!浴衣美少女はいなかったけど」
俺だけでなく、浜口も祭りイコール浴衣という発想をしていたようで安心する。
「法被のおばちゃんならいたじゃん」
ちげーし、と言いながら相田と浜口が笑いながらカバンで応酬をする。
前回、浴衣じゃないけど着物の女の子に会ったことは、なんとなくタイミングを逃して二人には言えていない。
話題に出ないところを見ると、二人ともあの子を見かけもしなかったのだろう。混んでたし。
(……なんだっけ、まつもとさん?)
もう顔も思い出せないけど確かそんな名前だったと思う。
「じゃさ、今日こそリベンジするか!…電車でゲームで勝負して、負けた奴はかき氷一人で食うのは?」
相田の発言に、もう寒いのに祭りだからなのかかき氷の屋台が出ていたことを思い出す。
「…いーぜ。お前を負かせてやるよ、浜口!」
三人の中では一番背の低い浜口を挑発するように、わざとつま先立ちをして見下ろしてみる。
「せんせー、迷子の森川くんがチョーシ乗ってまぁす」
普段の教室では見せないほどの姿勢の良さで挙手をするのがウケて、みんなで笑う。
かき氷はレインボー禁止、ブルーハワイ一色で、舌が青くなった写真を撮影必須ということを決めて、三人で笑いながら電車に乗り込む。
相田の地元駅に着く直前、電車の窓に雨滴が付くのに気がついた。
「あれ…雨降ってきた?」
確かに外の雲はさっきよりもグレーになっていた。
「急に?…なんか止まなさそうじゃね?これ」
どうせわかりもしないのに、ちょっと腰をかがめて遠くの雲を見ても同じグレーだ。
とりあえず駅に着いたから電車を降りて改札前まで行ってみると、急に大雨に変わった。人間のざわめきがボリュームを絞られたみたいに、雨が駅舎を叩く音が重ねて響く。
三人とも思わず駅の高い天井の明り取りの窓を見上げても、雨の流れが見えるだけだった。
「んー…折角ここまで来てもらったけど、今日はやめとくか?」
お酉様は駅から少し歩くし、その間にアーケードも地下街もなくて、たどり着くまでに濡れそうなことがわかるから、相田の言葉に誰も返事をしないけど、空気が同意を示す。
「あっ、じゃあ俺もう行く!快速来てるみたい!森川どうする?」
電車の発車時刻を伝える電光掲示板を見て、浜口が跳ねるようにホームに身体を向ける。
「俺は各駅停車でいいし、トイレ寄ってから行くから、先行っていーよ」
浜口が急いでいるのがわかるからすぐに答えると、じゃ、また明日!と言って浜口は駆け出した。大丈夫だとは思うけど、一番遠い一番線に向かう浜口の背中を途中まで目で見送って、相田にはトイレの方向だけ教えてもらってその場で解散する。
いつもと違う、計画性のない放課後遊びがつぶれてしまって残念に思いつつも、こんな雨なら仕方ない。トイレに寄って帰ろうとしたら、ふいに頭に浮かんだ。
(着物の時の傘って、どんなんだろう…)
普段着のような着物。三つ編みの髪。 思いついたら気になった。
たぶんそんなのスマホで検索すればいくらでも出てくるんだろうけど、『あの子』がどうするのかが気になって、浜口も相田もいないけど、なんとなくもう一度お酉様に行ってみようかと思った。
相田なら多分電話すれば戻ってきてくれると思うけど、雨の中それも悪いからひとりで行ってみる。今朝、出発前に言われて通学カバンに突っ込んだ折り畳み傘が役に立つ。
改札からコンコースを抜けて、駅の屋根が途切れるところでは待ち合わせや迎えの車を待つ人で混んでいたけど、折り畳み傘を開きながら避けるように進んでいく。
雨は強いけど、駅の中で見たさっきよりは雨粒が小さくなっているように感じた。もう水たまりもたくさんあるけど、街灯が反射して光るから歩幅を調整して避けながら歩いていく。
相田に連れて行ってもらった一度だけを思い出しながら、なんとなくためらわずに進んでいく。
だって。 雨の中きょろきょろ歩くなんて、なんかかっこ悪いし。
高一の春辺りから背がまた伸びだして、足も大きくなったから高二になるタイミングでローファーを買い替えてもらった。前のローファーは中学から履いて古くなっていたから、買い替えていなければきっと今頃もう靴下の先が濡れていただろう。
それでも雨飛沫が跳ねてズボンのすそが濡れる感じがしてきたころに、またあの神社に着いた。
(大鳥神社…)
石造りの鳥居を見上げる。
雨でも屋台は前回と同じくらい出ていて、それでも客足は少ない。屋台の中の人たちが立ち話なんかをしているのも見えるから、暇なんだろう。
鳥居の端からは雨水が筋になってこぼれていて、提灯の灯りは雨に滲んで前よりもぼんやり見えるのが、雰囲気があって悪くない。人が少ないから、前回は気づかなかった参道の石畳の端っこだけ違う石なのも見えた。
傘のまま一人でゆっくり歩いていくと周囲を見る余裕もあって、結ばれたおみくじや絵馬がライトも当てられずにしっとり濡れそぼっているのも見えてくる。
空いているから賽銭箱の前までスムーズに進めて、ちらりと左手の大きな木を見てみても根元には誰もいなかった。
(……まぁ、この雨だもんな)
何が何でも見たかったわけでもないけど、勝手に肩透かしを食らったような気持になって、ため息にもならない息が漏れる。
そのままスピードは緩めず進んで、五円玉を放り投げてからまた気づく。
(なんだっけ…鶏カラの神様……)
神様に頭の中を覗かれてたら怒られそうだけど、やっぱり何にご利益のある神様かがわからなくて、とりあえずまた無難なことを心の中で願う。
(『ご縁がありますように』)
小さい時から親がいつもそうしているから、財布にある時は必ずお賽銭は五円玉にしている。ない時は十円。色が似てるから。
そのまま一旦砂利に抜けて、歩きにくいから空いている参道の石畳の上に戻ろうとしたところで、視界に何かがかすった。
神社の社殿の脇、人気のない奥の軒下で足をぶらぶらさせている。奥行きがあるから正面の賑やかさは届かずに、離れた灯篭の明かりが少ししか届いていないけど、影だけで洋服とは違うことがなんとなくわかる。
傘越しに見えるひとり分。
別に、会ってどうすることも考えてなくって、遠くからどんな傘を使うのかを見たいくらいに思ってただけだから、実際に見つけてしまうと戸惑う。 でも。
(……電車賃かかってるし)
バイトもしていない高校生にとって、往復四百円は小さくはない金額だ。
恥ずかしさと、ちょっとの勇気と、勿体なさと傘に当たる雨の音と何かをぐるぐる考えて、とりあえず近づいていく。
「…ねぇ、何やってんの?」
社殿は一段高くなっていて、神社の一段は結構な高さだから、玉砂利からは軽く見上げるようになる。
急に話しかけたから、彼女はびくりとしてきょろきょろ横を見てから、斜め下の俺に気づく。
「…さとる、さん?こんばんは、またお会いしましたね」
同年代に下の名前で呼ばれるのは、リア充グループではない俺にとってはやっぱり気恥ずかしい。
それでも認識されたことに安心して、わざと音を立てるように濡れた砂利を踏みしめながら同じ軒下に近づいていく。
歩きながらも、声を掛けてしまったことにまだちょっと後悔しつつドキドキしてるから、悟られないように傘で目線を隠して、余裕があるように動作をゆっくり振舞う。近づいてみてもやっぱり灯篭の明かりは遠くて薄暗いけど、それでも目が一瞬合うとにこっと笑ってくれた。
「二の酉にもいらしたんですね。…あいにくの雨ですけど」
「うん、…ちょっと肌寒いよね」
折り畳み傘を軽く畳んで軒下に置いて、許可をとるのもどうかと思ったので、勝手に少し離れた隣に座る。
「今はね、あやとりをしていたんですよ」
ほら、と言うようにまつもとさんは少し長めの紐の輪を持ち上げる。
「前も」
腰かけた縁はやっぱりちょっと濡れて湿っていたけど、もう座ってしまったし諦める。
「…前も、ひとりでいたけど、誰か待ってんの?」
一瞬だけ彼女に視線を向けて、目は合わせずに軒下で跳ねる雨の滴をなんとなく見る。
まつもとさんは遠くから見かけた時には足をぶらぶらさせていたのに、今はおとなしく両足をそろえている。
「家の者が戻ってくるのを待ってるんですけど…この雨じゃあ境内をお散歩もできないし、さすがに退屈なので、ひとりあやとりです」
ふぅんと言いつつ、正直あやとりにはそんなに興味がなくて。
今日もまつもとさんは着物を着ていて、雨も降って寒いからか前よりもモコモコした上着を羽織っている。名前は知らないけど、昔おばあちゃんが着ているのを見たことがある気がする。
あやとりの紐を掲げる指先が少し赤いから、前に見た素足のつま先を思い出して足元を見ると、靴下に革靴を履いていた。
(…着物でも靴って履くんだ)
「さとるさんは、またお友達といらしたんですか?」
「ん…今日は雨だから、一人で来た」
一人で来るなんて友達がいないみたいでかっこ悪くて、言ってからちょっと後悔する。
「…俺の名前、よく覚えてたね」
ぽつりと言うと、まつもとさんはすぐに口の端を持ち上げる。よく笑う彼女は愛想がいいと思う。
「うちの兄が、実は同じ『さとる』と言うんです。聡明の『そう』という字なんですけど…あなたはどんな字を書くんですか?」
家族に同じ名前がいたらそりゃあ覚えやすいよな。
「えっと…悟空の『ご』」
「ごくう…?」
「えーっと…りっしんべんに漢数字の五に…」
「あぁ、お釈迦様の『悟る』ですね!」
漢字の説明をしてお釈迦様が出てくるのは初めてだった。面白くもないはずなのに、言葉の選び方が面白くて口だけでちょっと笑ってしまう。
「ねぇ、今日って雨じゃん?傘ってどんなのさすの?」
彼女の手前に傘が見えないから、奥を少し覗き込むようにすると、奥から手前に出して見せてくれた。
「ちょうど、その兄のコウモリ傘を借りてきました。家を出る時に降り始めたので、持ち出せてよかったです」
普通の黒い男物の傘が出てきたから、これで今日の目的は果たせた。
(着物でも、やっぱり傘は普通の傘なんだな…)
まさか笠地蔵みたいなのは出てこないと思ってはいたけど、答えが分かってしまえば失礼すぎる想像にちょっと心の中で申し訳なく思う。
「悟さんは、お仕事帰りですか?」
「えっ…俺、学生だけど…」
そんなに老けているかと、普通のテンションで聞かれたことに逆に少しショック。
「あっ、その、ごめんなさい。この間も今日も、立派なお仕立ての背広を着ているから…」
「ただの制服だよ。…この辺の学校だとブレザーって珍しいんだ?」
コウモリ傘とか仕立てとか背広とか、意味はわかるけど、自分では口にしたこともない単語がすらすら出てくるのが面白い。
「その…学生服といえば詰襟としか思わなくて…」
恥ずかしそうに言うけれど、『ツメエリ』って単語がまたツボに入る。あれ?ツメエリは普通か?よくわかんないけど、彼女が言うと雰囲気があるように思えてしまう。
「…たぶん、まつもとさんと俺、同年代だよ。まつもとさんはいくつ?」
俺は来月で十七、と言うとちょっと口ごもるような仕草をするから、まだ気にするような歳じゃないはずだけど、やっぱり女子に年齢を聞くなんて失礼なのかと内心ちょっと焦る。
「あ、別に。言いたくなければ…」
「私も、十七です…丙午、なんですよ」
ちょっと視線を逸らすように言うけど、やっぱり同い年だった。
同い年と思えば思う程、彼女の言葉のチョイスがじわじわくる。
「やっぱタメだね。…ってかヒノエウマって何?あ、午年のことか。じゃあ、早生まれなんだ」
干支って正月くらいしか意識しないけど、これも和っぽくて好き。中国とかにもあるらしいけど。
「丙午は…あんまり好きじゃないです…同級の子たちもみんな、そう言ってます」
「え、干支なんて自分で選べないんだし、気にすることないじゃん」
「でも、丙午ですよ…?」
「え、馬がダメなの?十二支の中だったら悪くないと思うけど」
まぁ女の子ならウサギとかの方が人気はありそうだけど。
まつもとさんが食い下がってくるから、こだわる程嫌なのが伝わってくるけど何が嫌なのかいまいちピンとこない。
たぶん俺がぽかんとしていたから、人当たりの良い印象があるのに、まつもとさんに少し不満げにムスっとさせてしまった。でもわからないものはわからん。
「……丙午の女は、火の気が強すぎて、気性が荒くて夫を食い殺す、と言われてるんですよ。だからご縁も遠いって…私と同年の女の子たちはみんな言ってます」
さっきまでなんとなくお互いの顔の方向を見て話してたのに、急に目を逸らして口を尖らせるのが、ベタすぎる『拗ねてます』みたいでまた面白い。
「え、そんなこと気にしてんの?…女子ってホント占いとか好きだよなぁ。あれだよ、そーゆーのは良いことだけ信じて悪いことは無視すればいいんだよ」
言いながら、自分で選んだわけでもない血液型で昔ガタガタ言われたことを思い出す。
「……でも、私が気にするよりも周りが気にするんですよ。…ご縁が遠いことだって、周りもみんな、昔から親や親類に嫌って程言われています」
うんざりするようなため息のまつもとさんを視界に入れながら、小学生の頃に血液型占いの本を持ってきて、俺に粘着してきたクラスの女子グループを思い出してムカムカしてきた。
「それはさぁ、気にする方が悪いんじゃん?ってかそんなんで友達じゃなくなるとか…好きじゃなくなる程度なら、最初から気持ちなんかないってことだろ。そんなのこっちから付き合いを断ってやればいいんだよ。そんな小っちゃいこと気にするヤツ以外にもいいヤツはたくさんいる!」
それでも不愉快は不愉快だし、中学でメンデルの法則を習った時はちょっとスッとしたから、なんだかんだで気にしていた自分も嫌だった。 それ以来、血液型占いは一切見ないようにしている。
灯篭の周りだけ雨が降っているのが見えるから、ぼんやり見ながら吐き出してちょっとすっきりする。
小学校時代のイライラを今更吐き出してしまった自分をちょっと執念深いと思わないでもないけど、思う以上にすっきりしてしまったから、きっとずっと根に持っていたのだろう。
「そう、ですかね」
そっぽを向いていたまつもとさんが気づけば俺を見上げていた。 なんだ、これは。
「ずっと…生まれは変えられないし、丙午が嫌がられるのも仕方がないと思っていたんですけど…気にする方が悪いんですかね」
まつもとさんが俺に向けてくる視線が、なんというか『尊敬のまなざし』っぽくキラキラ感じて、照れくさくて、ちょっと気分がいい。
「そりゃそうだよ。占いとか別に根拠ないじゃん。たまたまだし、そーゆーの気にするヤツはカラスが鳴いて転んでもカラスの所為にするって。 カラス悪くなくね?」
スラスラと言葉が出てきてうっかり語ってしまったが相槌もなくて、我に返ると語っている自分がちょっと恥ずい。
ちらりとまつもとさんを見ると、口を両手で覆ってプルプルしているけど、瞳は決して俺に否定的ではなくて。
「……悟さん、面白いっ…確かにそれ、カラスは悪くないですっ…カラスっ…!」
だんだん顔全体を手のひらで覆って膝に突っ伏すように肩を震わせて笑うから、そんなに面白いことを言ったつもりはなくて照れるけど、自分の言ったことで好意的に笑ってくれるのは悪い気がしない。
「っ、あはっ、だめ、私、あんまり笑うと止まらなくて、はしたないって怒られるんだけどっ…くくくっ」
女の子にツボに入る程笑ってもらうなんて、普段男子としかつるまない俺には無縁だから、ちょっと恥ずかしくて新鮮で嬉しくて、たまにちらりと見える涙目で笑う顔が可愛く見える。
(……笑うと、釣り目とか関係ないかも)
気持ちがそわそわした。
「あー…ごめんなさい、こんな、大笑いしちゃって…」
ひとしきり笑って落ち着いたのか、まつもとさんは目尻に滲んだ涙をぬぐいながら、澄まし直すように急に背筋を伸ばして足を揃える。
「でも、本当に…悟さんのお話し、面白いし勇気が出ます。今度私のお友達にもお話ししてもいいですか?」
「そんな友達に話すような大したことじゃないと思うけど…別に、まつもとさんが話したいんだったら…その、どうぞ…」
照れくさくて語尾が小さくなる自分がかっこ悪いけど、こんな俺の話でもお世辞じゃなく楽しく聞いてくれることがちょっと嬉しい。
「ふみこ、です。文章の『ぶん』に子供の『こ』。…まつもと、は兄がよくご学友に呼ばれているので、よろしければ『文子』とお呼びください」
にっこりはにかむように言われて、断れる雰囲気でもなくて唇がう段の口になっても恥ずかしすぎて声が出ない。いきなり同い年女子を名前呼びは俺にはハードルが高い。 顔が赤くなっている自覚があるけど、かっこ悪いからこの暗さで彼女が気づかなければいいのに。
急に気づいた。
陽が落ちるのが早くなったとはいえ、雨とはいえ、この暗さはもうかなり遅い。ひとりで少しだけ寄るつもりだったから、家に連絡も入れていない。
「あっ、ごめん、俺、もう帰らなきゃ…その、文子、さんは、まだ帰らなくていいの?」
精一杯普通を装って呼ぶつもりだったけど、どもってしまった。心拍数も上がっている気がするけど、でもこれが俺の精一杯だ。
「私もそろそろ迎えが来ると思いますから、大丈夫です」
でも、ただでさえ雨で暗いのに。こんな境内の端っこの寂しい所に女の子ひとりは良くないのではなかろうか。
もう少しなら一緒に残った方がいいのかとか考えてしまって、手に持った折り畳み傘を広げられずに固まってしまう。
「…本当に、きっともう少しで来ますから」
「でも…」
悩ましくて動けずにいると、文子さんが首を傾げながらふんわり笑う。
「悟さんは、やさしいですね」
口の横に手を当てて、内緒話しをするような仕草をするから、座る文子さんの口元に耳を少し近づける。
「…家の者が、私と酉の市に出かけるのを口実に、こっそり恋人に会いに行ってるんですよ」
だから、私は待つことでちょっとだけお手伝いしてるんです、と口元に人差し指を立てて笑う。
そんな事情があったのかと納得して、そういうことなら、ここで家族と俺が鉢合わせるのも気まずいだろう。
先に帰って大丈夫だよ、と言うように文子さんは俺の腕を軽く押す。
「悟さんが居て下さったので、時間が早く過ぎました、ありがとうございます。…でもこんなに遅くまで話し込んでしまってごめんなさい。つい楽しくて…」
折り畳みをバサバサ広げながらも、文子さんの笑ってくれる顔が可愛く見えて、考えるより先に声が出た。
「あのさっ、今年って、もう一回お酉様あるんでしょ?…文子さん、来る?」
目を逸らしたりしたら変に思われそうだから、ぐっとこらえて目を合わせたままにする。
「……本当は、三の酉は私には縁起が良くないから二の酉まで、と言われてたんですけど…悟さんは、いらっしゃいますか?」
「うん、俺、来るから。文子さんも来なよ。…またここで会えたら、少し話そうよ」
本当は心臓がバクバクいってる。
「……悟さんが、いらっしゃるなら…私も来ます」
「じゃあ…次って何日だっけ?」
「三の酉は、二十五日です…」
「じゃ、その日に。またね、文子さん、気を付けて帰ってね」
誰かを、女の子を誘ったり約束したりすることなんてないからすごくドキドキする。
きっと顔は赤いし鼓動の音が聞こえる気がするから、暗くて雨の音がしていることに安心して、挙げた手を別れのあいさつ代わりにすぐに背を向ける。
ダッシュしないといけない程じゃないけど、早くこの場を立ち去りたくて、飛沫をあげつつも砂利の上を小走りで駆けていく。
鳥居の手前、文子さんのいる辺りが見えなくなるギリギリのところで、ちらっと振り返って傘越しに覗くと文子さんはまた両手で頬を押さえていたから、まだカラスの話で笑っているのかもしれない。
自分と話して誰かが笑ってくれることがなんだか嬉しくてくすぐったくて、そのまま前を見て早足で駅に向かっていく。