マリーゴールド
これはもう雨音ではない。
激しく窓を叩きつける音は、僕を強制的に起こさせる。
これで、何日目だろうか。
僕が夜、眠れなくなったのは。
これで、何日目だろうか。
あなたが、遠い、遠いところに行ってしまってから。
これで、何日目だろうか。
マリーゴールドの花が咲いてから。
僕の一日は、まず妻を起こすところから始まる。といっても、寝起きボサボサで会いに行くのも嫌なので、少し髪型を整えてから。彼女は寝付きも寝相も寝起きも悪いので、僕たちは完全に別の部屋で寝ている。
「おはよう。朝だよ。」
返事は、いつものようにない。ただムクリと起き上がって、フラフラと朝ご飯の準備をしに行く。僕はその間に自分の用意を済ませ、洗濯機のスイッチを押す。男の人の準備ってすぐ済むんだからええよなあ、と彼女が羨ましそうに、それでいて少し妬ましそうに言うもんだから、僕は「じゃあ、料理以外の朝の家事はやるよ」と思わず口に出していた。それから洗濯と食器洗いとゴミ出しに関してはプロ並みだと自画自賛している。だってそう思っていた方が心が楽だし、こんなことを彼女に言うと「それはないわ」って言っていつも笑ってくれる。
「いただきます。」
彼女のご飯はいつも美味しい。それでいて栄養バランスもしっかりしている。彼女は以前、
「朝と昼はしっかり食べなあかんけど、夜はご褒美みたいなもんやから、なんでもええねん。めんどくさいしな!」
えへへと笑う君の顔がかわいくて僕は「うん」とうなづくことしかできなかった。だから今日の食卓には、ごはんと具だくさん味噌汁に、卵焼きとお漬物。デザートにヨーグルトと、日替わりのフルーツが並んでいる。今日は柿だ。そうかあ、もう柿の季節かあなんて考えながら、みずみずしい柿を口に運ぶ。
「今日も美味しかったよ。ありがとう。ごちそうさま。」
「ほんまに?うれしい!」
慌ただしくメイクをしていても、ちゃんと僕の顔を見て返してくれる。こんな笑顔を見せられたら、皿洗いだってゴミ出しだってやってやる。あなたの笑顔に彩られた日々は、毎日が幸せの連続で、これ以上ないくらい幸せだったと、僕は心から言える。こんな日々がずっと続けばいいなんて、ありがちなことを考えてしまうくらい、僕は幸せだったんだ。
その日は、一日中雨だった。パラパラと窓を打ち付ける音が少し耳障りに感じるくらい。僕はいつものように彼女を起こしに行き、いつものように声をかけた。返答がないのはいつものことだが、今日は様子がおかしかった。息は乱れ、顔は青白く、口元からーーー血が。
ザーザーザー・・・
僕は急いで救急車を呼んだ。もう外は台風でも来ているかのように大荒れだった。僕もただただどうしていいか分からずに、彼女の無事を祈るばかりだった。
とりあえず、彼女の会社と僕の会社には事情を説明し、何日か休ませてもらえることになった。彼女の意識は、まだ戻らない。看護師さんから入院が必要になるとの説明を受け、僕は一旦二人の家に戻った。傘も財布も忘れていたことにやっと気づき、土砂降りのなか一人で走って帰った。
「雨やなあ」
「そうだねえ」
「わたし、雨は嫌いやねん。髪の毛決まらんし、ジトジトするやろ?それよりピカーッと晴れててほしいわあ」
「確かにそうだね。僕も晴れてる方が好きかな。」
彼女はーーーーーガンだった。それも、かなり進行しているらしく、一年以上の生存率はかなり低いようだった。淡々と話すお医者さんを目の前に、彼女はわんわん泣き始めてしまって、僕も彼女も落ち着いて話を聞くことなんてできなかった。僕も正直泣いて泣いて泣き叫びたかったが、彼女が居る手前、僕にそんなことはできなかった。小さな身体で震える彼女を、優しく慰めることしかできなかった。
僕の一日は、まず神社に行くところから始まる。それもただ行くんじゃなくて、ランニングを兼ねて。僕は軟弱だから、もし彼女がまた倒れたり、車椅子で困るようなことがあれば、僕が彼女も車椅子も持ち上げられるようにならなくちゃと思ったからだ。彼女からは、「なんや、ボディビルダーでも目指すんかいな。」と笑われてしまったけれど、僕はこんなちっぽけなことでも、彼女のためになるのなら全部やろうと誓った。朝ご飯と昼ご飯は彼女のようには作れないし、彼女もまたもう料理をすることはできない。右半身が麻痺してしまっているからだった。それを知ったとき、彼女は本当にこの家に戻ってくることはないのかもしれないと思えて、初めて涙を流した。いや、大きな声を出してわんわん泣いてしまった。泣いて泣いて、泣き叫んだ。
「一緒に居ると、泣き方まで似てくるんやなあ」
そんな風に笑う彼女の声が聞こえた気がして、僕はまた泣いてしまった。
あの日から、彼女は良くも悪くも今までと何ら変わらなかった。いつものように常に笑顔で、優しい関西弁で人々の心を掴むのが得意な彼女のままで、病室の元気印になっていた。
「晴ちゃんは良い子ねえ」
「晴ちゃんが居てくれて良かったよ」
「晴ちゃんはきっとすぐに良くなるよ」
人懐っこい彼女ー晴は皆のアイドルになっていた。それは喜ばしいことでもあったが、晴は嫌なことに対して「嫌だ」と言えないところがあるので、この状況はあんまり良くないと僕は思っていた。だって今でも、声をかけられるたびに晴の笑顔は引きつっていく。本当は入院なんてしたくなかった、この病気はもう治らないんですよ、と晴の心が叫んでいるようだった。
「晴。」
「草太・・・。」
僕が現れると、病室のおばさん集団はそそくさと解散していった。
「草太、ありがとう・・・。」
「ん?いや僕は何もしてないよ。」
おどけた調子で言ってみると、僕の意図が伝わったのか、晴はフフッと笑ってくれた。晴の笑顔は、周りの人を元気にしてくれる。でも、いつでも笑ってるなんて、そんなこと難しいに決まっている。何も面白いこともないのに笑うのはかなりパワーの要ることだし、ましてや晴は重病を患っている。自分のパワーを周りに振りまくようなことばかりしていたら、疲れてしまうのも当然だ。僕は無理を言って、晴を個室に移してもらった。晴は嬉しそうに、「草太、ありがとう。」と口にするけれども、もう、笑おうとする体力は残っていなかった。
次の日、僕は会社を辞めた。元々晴の医療費をまかなうために、会社に勤めながら晴のところに通っていたが、晴とうちの両親から「お金のことはいいから、晴の近くに居てあげてください」と頼まれたからだった。もちろんそうしたいのは山々だったので、ありがたくご厚意に甘えることにした。
「晴とずっと一緒に居られるよ」
僕がそう言うと、彼女は笑顔の代わりに涙を流した。晴はもう、しゃべることができなくなっていた。
僕はそれから病室に通い詰めた。家に帰っては泣いてしまう日々が続いたけれど、晴の前ではいつも笑っていたくて、何度も「目の下 クマ 取り方」で検索をかけた。なかなか晴は笑ってくれなかったけど、思い切ってこの話を面白おかしくしてみたら、少しだけ口角を上げて笑ってくれた。前みたいなクシャッとした笑顔ではないけれど、今の僕にとっては十分すぎるくらいだった。思わず、晴の前で泣いてしまった。わんわん泣いて、落ち着いたころに晴の顔を見たら、まだ笑っていた。僕が泣いているのがおかしかったらしい。そうだった。僕は生まれて初めて、晴に泣いているところを見せたんだ。晴は、泣いている僕が珍しかったようで、「ええもんみさしてもろたでー!」とでも言うようにクスクス笑っていた。気づけば僕も笑顔になっていた。
次の日僕は、マリーゴールドの種と鉢植えを病室に持って行った。マリーゴールドは、晴が大好きな花だ。入院中ずっとこの花が見たいと言い続けていた。
「一緒にこの花が咲くところを見ようね」
晴は、涙を流しながら頷いてくれた。
僕と晴が初めて会ったのは、高校二年生のときだった。僕は園芸部で、色とりどりの花が咲くのを楽しみに毎日水やりをしているような、冴えない地味な少年だった。
花壇の花が綺麗に咲いて他の園芸部員たちと喜んでいたところに、物凄い勢いでサッカーボールが飛んできた。ボールは花壇を飛び越え、レンガの壁にぶつかって、また花壇へと戻ってきた。
「あっ、すんませーん。」
大して謝る気もなさそうなその声にまず腹が立ったが、本当に腹が立ったのはその後だった。そのサッカー部員と思しき男子が、花壇の花を踏みにじりながらボールを取ったのだ。これはさすがに許せなかった。
「あの・・・!」
「それはいけないと思うよ。」
僕が勇気を振り絞って声を上げた瞬間、サッカー部員の後方から声がした。
「あんたがさー、ダメにしたこの花、花言葉って知ってる?」
「は?いや、知らねえけど・・・。」
いいからさっさとしてくれ、とでも言いたげなサッカー部員に、僕の怒りは爆発した。
「「悲しみ」、「絶望」・・・お前にも与えてやろうか!!」
「わ、分かったよ、悪かったって。じゃあな。」
サッカー部員は居心地が悪そうに、グラウンドへと走って戻っていった。
「あーあ、逃がしてもーた。もうちょっとしばいたろかと思っとったんになー。」
この辺りでは珍しい、関西弁。そういえば今日、関西から転入生が来たって話題だったっけ。確か名前は・・・。
「麻木 晴。」
「あー、そうそうって、え?」
「私の名前!君、さっき花言葉言ってくれた君の名前は?」
「あ・・・荒川 草太。」
「そうた!ってもしかして草に太郎の太ってかくん?」
「まあ、そうだけど・・・。」
「ほんまに!ぴったりな名前やん!花言葉知っとるくらいやし、この花壇の花もだいぶ大事にしとったんやろ?あんな怒っとったしなあ!」
「それだったら麻木さんのほうがぴったりじゃない?」
「え?」
「麻木さんは僕らのイライラを晴らしてくれたから。ありがとう。」
「えー、でも一番良いとこは草太に持ってかれたしなあー。」
「あ、ごめん・・・。つい、我慢できなくて。」
「ほんまに花壇が大事なんやなあ。ちなみに私が言おうとしてた花言葉はそれじゃなかってんけどなー。」
「え?そうなの?」
「そうやで!私が言おうとしたのはな、「悪を挫く」や!なんか戦隊モノみたいでかっこええやろ!」
「たしかにね。」
ふたりで、顔を見合わせてアハハハハとお腹がよじれるくらい笑った。すでに他の部員たちは帰っていたので、ふたりでその後も気が済むまで話し続けた。晴は花の中でもマリーゴールドが一番好きで、たまたま花言葉を知っていたことや、自分の大好きな花が踏まれて頭にきたとか、そんなたわいもない話だった。僕は彼女がクラスの中心で咲くマリーゴールドみたいだなと思った。活発で明るくて、太陽みたいなマリーゴールドがよく似合う。きっと僕はこの頃から彼女にもう恋していたんだと思う。
その後、晴は園芸部に入り、一緒に色んな花を咲かせた。いつしか温かく笑う彼女に僕は惹かれていたし、それは僕だけではなかったようで、付き合うまでにそんなに時間はかからなかった。
それから、晴とは本当に色々な話をした。そのどれもがたわいもないものだったけれど、僕にとっては、僕たちにとっては、かけがえのない大切な時間だった。本当に、本当に幸せだったと、ベッドに横たわる彼女を見て思う。この人は僕の大切な人で、マリーゴールドがよく似合う人で、今みたいにただ目を閉じて寝ているのなんて似合わない人だった。笑顔がよく似合って・・・、「晴」という名前がよく似合って・・・、
もう、涙を止めることはできなかった。泣いて泣いて泣いて、泣き叫んだ。もう戻らない人の名前を、何度も何度も呼び続けた。返事なんてなかった。それでも良かった。遠くにいってしまう君が、自分にピッタリな名前を忘れないように。何度も何度も呼び続けた。
「晴!!!!」
マリーゴールドは、まだ芽が出たばかりだった。
僕の一日は、まず線香をあげるところから始まる。といっても、寝起きボサボサで仏壇の前に座るのも嫌なので、少し髪型を整えてから。
「おはよう、朝だよ。」
返事は、いつものようにない。きっと彼女のことだから、まだ寝ているんだろう。僕はあれからなかなか眠ることができない。晴は元気でやっているだろうか、またたくさん友達を作っているんだろう。僕がそっちに行くまでに、僕のことを忘れちゃったりしないだろうか。それならばもういっそのことー。
マリーゴールドの花はもう咲き終わってしまった。仕方がないので、鉢植えを片付けようと枯れたマリーゴールドの裏を見ると、「マリーゴールド」と書かれたピンの裏に何やら言葉が書いてあった。
「実はまだあります。」
こんな小さなところにいつ書いたんだろう。しかもこの字は、僕たちがお世話になった看護師さんの字だ。晴が頼んで書いてもらったんだろうか。それにしても、「まだある」、って何が・・・・。
そこで僕はあることに気が付いて、すぐさまネットを開いた。そして、なぜ彼女があんなに「マリーゴールドが好き」と言い続けていたのか、どうしてこの花が見たいと言ったのか。彼女はこの花を通して伝えようとしていたんだと思う。僕は泣いた。わんわん泣いて、泣いて泣き叫んだ。
マリーゴールドの花言葉は、「悲しみ」、「絶望」、「悪を挫く」、そして「変わらぬ愛」、「生命の輝き」だ。
僕は、晴のことを永遠に好きでいようと、そして晴の分まで生きていこうと決めた。「変わらぬ愛」。晴も、そうだったらいいな。