【095】閣下、微睡みと至福と葛藤する
――………………
抱きしめているクローヴィスが、腕の中で眠ってしまったという事実に、リリエンタールは告白されたときと同じく、思考が停止してしまった。
――イヴが内心を吐露してくれたのは、とても嬉しかったが、もう少し気の利いたことを言えたのならば。だがここでこうして、眠ったのだから、わたしに気を許しているはずだ
アディフィン王国へ向かう途中、迂闊に負傷した娘こと手負いのクローヴィスに近づき、肋骨にヒビが入ったリリエンタールは、自分に抱きついたまま眠ってしまったクローヴィスの重みと体温を感じながら、色々と考える。
――イヴに信頼されている……いや、驕るな、神の僕たるカール。僅かな驕りが破滅へと繋がる
胸の下あたり――クローヴィスの見事な蹴りにより、ヒビがはいった肋骨近辺に押しつけられている顔。
布越しに微かに届くクローヴィスの吐息。
他人の吐息や重み、体温など――いままで鬱陶しい、としか思えなかったリリエンタールは、初めてそれらに心を躍らせるも、同時に自らを戒める。
ちなみにヒビの入った肋骨だが「多分、完治したと思います。確認のために、レントゲンを撮りますか?」と医師に言われ、リリエンタール自身、痛みが引いているので、レントゲンは撮らずに完治したと判断した。
――イヴによってもたらされた痛みがなくなったのは、少しばかり寂しいものだが……痛みがなくなったのが、寂しいというのは、感情としては間違っているのだろうか? いや……だがわたしの痛みはいいが、イヴが泣くのは許せぬな……下手に触ってはいけない。だが全く触れないのも、素っ気ないであろうし……イヴはイヤであれば、攻撃してくるであろう。肋骨は快復しているのだ。また折られても構わぬ。イヴを軽く抱きしめようではないか
間違っていたら、クローヴィスが嫌がるだろうから、それを全て受け止める――という思いで、そっと背中に手を回し、軽く腕を乗せるようにして抱きしめる。
クローヴィスは暴れることはなく、押しつけていた顔を少し動かしただけ。
――息が苦しかったのか
顔を少しばかり横にし――静かで規則正しい寝息が微かに聞こえる。
――抱きしめても嫌がられないのは、こんなにも嬉しいことなのか……
体温を感じながらクローヴィスと心が近づいたことに感動していると、リリエンタールは意識が遠のきそうになった。
「?」
今まで感じたことのない、不思議な感覚に辺りを見回す。
そうしていると目蓋が落ちはじめ、
――もしかして、眠気……というものか?
愛した女性の体温と寝息、甘やかな香りの前に、リリエンタールは初めて「眠気」というものを感じた。
頑なな感情……ではなく、存在しなかったものが形作られ、ふわりふわりと満たされてゆく。その柔らかさがリリエンタールをリラックスさせ、体から力が抜けてゆく――もちろん、生きているのだから、眠気はあったが、それはただの疲労の延長線上であって、今リリエンタールが感じているような、幸せな気持ちに満たされながら、目に見えない柔らかさに、包まれるものではなかった。
――イヴを抱きしめたまま、眠るという至福に身を任せるのも……ああ、駄目だ
リリエンタールは閉じかけた目を開ける。
――イヴはわたしを信頼して、眠っているのだ。わたしは謂わば、イヴの番犬。安心して寝ていられるよう、周囲に注意を払わねば。イヴが起きたとき、眠っていたら、イヴが不安になるやもしれぬ
この幸せに満ちたシチュエーションに至った、薄汚い惨状を思い出し――クローヴィスが目覚めたときの安心感のためにも、起きていなくてはと自らを奮い立たせる。
――眠気を我慢するのは、意外と大変なものなのだな。あ、イヴの項が見え…………美しい。首筋の美しいことよ。普段は軍服の詰め襟で隠れているが、ボートネックのせいで
気付いてしまえば触れたくなるのは当然だが、
――この先、百年ほどの戦争計画を立てて………………終わってしまった。異教徒帝国のインフラ整備の手段でも考えてみるか……終わった
リリエンタールはもちろん耐えた。
おそらく不用意に触れていたならば、また骨格に全治に1~2ヶ月ほど掛かる怪我を負うところだったが、耐えた。
無論、クローヴィスに怪我を負わされるのは、問題ないのだが――感情は分からなくても、状況を読み間違うことはない。
なにより自らの欲望を優先した結果、隠せない場所を負傷したり、クローヴィスが負傷してしまっては、後悔してもしきれない。
――項に触れてしまったら、真っ先に動くのは頭。額による頭突きで、イヴの額の傷が再び開いてしまっては……それにしても、心地良い。好きな相手の体温が、これほどまでに、安らかな眠りに誘うものだとは……
その後、部屋を覗いたテサジーク侯爵に、クローヴィスに掛けるものを命じ――腕の中にいたクローヴィスが、もぞもぞと動きだし、
「……ん?」
寝息を立てていた口元から、疑問を含んだ声が上がった。
ゆっくりと顔を上げたクローヴィスは、
「目が覚めたか、中尉」
「あ、あれ……もしかして、寝て……」
「気配に気付かなかったのは、わたしが許可したからであろう。わたしが敵と見なせば、中尉は即座に反応したはずだ」
「あの、その、済みません。すっかりと寝てしまって」
「胸の上で泣いて、安心して眠ってくれたのだ。それは至福の時であったが」
顔を薄紅色に染め「寝てしまって恥ずかしい」と――その後、届いた食事を取る。
途中で呼んだ給仕は、
「二人分、注げ」
見るからにテサジーク侯爵だったが、クローヴィスが気付いていないので、リリエンタールは触れなかった。
給仕がシャンパンを注いだグラスを手に取り、軽くグラスを合わせ乾杯をして、クローヴィスが食べる姿を眺める。
「何処がどうだ」と言うわけでもないのだが、一口食べるたびにリリエンタールへ、美しく澄んだ緑色の瞳を向け、クローヴィスが微笑む。
自分のことなど気にせず、食べることに集中していいのだと言うべきかと思うが、満面の笑みで「美味しいです」と伝えてくる、クローヴィスの表情を見たいという気持ちも――リリエンタールはクローヴィスの好きなようにさせた。
楽しく会話をしていると、ドアがノックされ――キースとサーシャが現れた。
なぜクローヴィスとの楽しい会話を邪魔するのだ……とリリエンタールは思ったが、そもそもリリエンタールとクローヴィスの仲は、ほとんどの人に知られていなければ、現時点で知られては困るもの。
よって「あまり」二人きりでいるわけにはいかない。
そういうこともあり、交代要員としてキースがやってきた。
リリエンタールは不満しかなかったが、クローヴィスの安全のためには仕方ないと立ち上がる。
「閣下」
サーシャがワインレッドのジュエリーケースを差し出す。
”なんだ?”というリリエンタールの疑問に対し、サーシャは声を出さず、小さく口を動かし<殿下からです>と告げた。
リリエンタールはジュエリーケースを開け、
――そう言えば、シンプルなペンダントを作らせていたな
自分が命じた品の一つだったなと思いながら、軍服を着ていないため、無防備になっている首元を、そのペンダントで飾った。
――屑石ではなかった……はずなのだが
最高品質のダイヤモンドで作らせた筈なのに、思っていたほどクローヴィスを飾ることができず。
「それなりの石を吟味し作らせたが、中尉を飾るには、この程度のダイヤモンドでは足りぬな」
心からの気持ちを告げて、指にキスをし、サーシャを連れて部屋をあとにした。
部屋を出て、重い足取りで廊下を進み、曲がり角のところで、
「ばかー!」
執事のへにゃへにゃとしたパンチが、リリエンタールの右胸に当たった。
本気ではないことは分かっており、本気でも大したことがないのは知っているので、リリエンタールは避けずに当たり、
「まだ出歩くなと言ったはずだが?」
執事ことシャルルに、何をしにきたのだ? と尋ねる。
「これが出歩かずにいられますか! バカなの? ねえ?」
「何がだ?」
「最愛の女性に、必要最低限の洋服と飯だけ用意って、バカか! 庶民なら分かるけど、あんたは違うのよ! こういう時こそ、宝石や花を贈るもんでしょ! そうなんだよ! 分かったか!」
食事の用意という連絡をもらった執事は「それだけ」に呆れ――シンプルなペンダントを持って、アフタヌーンティーセットと、異端審問官と共にやってきた。
執事に言われたリリエンタールは、先ほどのクローヴィスの表情を思い出し、
「…………花束も用意してきて欲しかったものだ」
最高の機会を逃したことに気付き――
「何時でも贈れるよう、一応用意はしておくけど……贈れるタイミング、早くに訪れるといいね。それにしても、あんたが薔薇の花束を持って歩く姿を、見られる日がくるとは思わなかった」
執事は異端審問官と共に帰っていった。