【094】閣下、意に沿うことの難しさを知る
惨劇の場からクローヴィスを連れ出したリリエンタールは、白く凍えている庭へと連れ出した。
クローヴィスは深く息を吐き出す。そんなクローヴィスを見つめているリリエンタールの視界の端に、リドホルム男爵が入り込んできた。
一目で後継のイェルハルドと分かる姿で、読んでくれと口を大きく動かす。
”浴室を整えました。お着替えは、もうじき届きます”
リリエンタールは返事を返すわけでもなければ、何らかの仕草を送ることもなく――
「そうだな。では根本から解消しよう。戻るぞ、中尉」
「はい」
クローヴィスを伴い浴室へと向かった。
――モーデュソンならばこの程度か……
脱衣所と浴室に一通り目を通したリリエンタールにとって、壁や天井を飾るフレスコ画、蛇口の彫刻、浴槽、脱衣所の狭さ、置かれている寝長椅子の質――どれも納得できるような代物ではなかったが、後から浴室を覗いているクローヴィスは、不満がなさそうなので、良しとした。
――慎ましやかな娘だな
その慎ましやかさに関して、クローヴィスは一生理解することはないだろう。
バスソルトと石鹸はノーセロート帝国からの輸入品で高級品、どちらもおろしたて――だが最高級品ではない。
――イェルハルドも手持ちはなかったか
高級品にも最高級品にも、興味がなさそうなリリエンタールが、なぜ詳しく知っているのか?
それはクローヴィスを妃として迎え入れるに当たって、執事がノーセロート帝国へ向かうフリオに、布やレースの他に、これらも買ってくるよう命じていた。
フリオも「それは大事だな」と買いそろえてきたので、リリエンタールの城には、女性向けの品が取りそろえられていた。
最愛の娘に使わせるものに、なにかあってはいけないと――業者がかさ増しや、儲けのために、危険なものを混ぜることを、為政者であるリリエンタールは知っているので、お抱えの科学者たちに成分を全て調べさせている。
幸いなことに最高級品を扱う業者は、おかしなものを混ぜてはいなかったので、リリエンタールに潰されることはなかった。
「軍服はこちらで処分する。ああ、おかしなことなど起きぬよう、マルムグレーンに処分させるので安心せよ。わたしは廊下にいる、なにかあったら声を掛けるがいい」
「あ……はい」
「ゆっくりと入ってくるがいい」
クローヴィスの肩を軽く叩き、リリエンタールは廊下へと出た。
「…………」
顔色を失ったクローヴィスが側にいた時は、なにも浮かんでこなかったが、離れた瞬間に、覚えのある感情がわき上がってきた。
クローヴィスの額に傷を付けた相手に対する感情――すなわち憎悪。
脳内がかき混ぜられるような憎悪に、さてどうしたものか? とリリエンタールは廊下の天井を見つめる。
――殺すのは簡単だ。殺すのは……娘が安心できるのであれば、今すぐ殺してしまえばいい。イグナーツ・シュテルンとかいう人間が、この世から消え去ったところで、誰も困らぬであろうし、困る人間も一緒にいなくなれば……だが、娘は意志が強く、正道を尊ぶ…………そのようなところも、好ましい
そんなことを考えていると、廊下に見覚えのある紋章が描かれている箱を持った、メッツァスタヤが現れた。
「スパーダ殿から預かって参りました」
もっとも小さな箱を持ち、先頭でやってきたリドホルム男爵が告げる。
「開けろ」
リドホルム男爵はナイフを取りだし、自分が持ってきた箱――絹のストッキングとガーターが収められていた箱を開け、差し出す。
そして次々と箱を開け、リリエンタールの検分が済んだあと、全員が膝をつき箱を掲げた。
リリエンタールは洋服を一枚ずつ手に取り重ね、脱衣所に繋がる扉に手を乗せ、気配がないことを確認してから入室し、寝長椅子に置くとともに、いかにも軍人らしいきちっと畳まれた軍服を手に取り、すぐ部屋から出ると、そこには箱を掲げた姿勢のままのメッツァスタヤと、サーシャを伴ったキースの姿。
リリエンタールが口を開く前に、
「異端審問官が大挙して訪れた……という報告が届いたもので」
キースが「わたしが来る案件だと、分かりますよね」と言外に、やや呆れたように告げる。
よほどのバカでも無い限り、これは即座に総司令官に指示を仰ぐ案件――ということで、すぐにキースの耳に入り、クローヴィスに関することだと想像がついたが事情を聞かないわけにはいかない。
だが自身の副官を立ち会わせることもできないので、その場にいて唯一事情を知っているサーシャを連れてやってきた。
「娘の服を届けさせた。サーシャ、スパーダたちにアフタヌーンティー一式運んでくるよう指示を。電話で先に連絡を入れておけ」
「はい。外せないメニューなどは、ありますでしょうか?」
「ない……というよりも、料理であれば、わたしよりもサーシャの判断のほうがいいだろう。それとサーシャ、娘の軍服の処分を」
サーシャがちらりとキースをうかがい――
「さっさと行け」
単独で動こうとすると、事情を知らないのがついてくる――それを防ぐために伴っただけなので、別の任務についても構いはしなかった。
「処分方法は?」
「任せる」
軍服一式を受け取り、遠ざかるサーシャの足音。
「ところで、イェルハルド。あのように服を汚したことに関し、罰を与える法、ロスカネフにあるか?」
リリエンタールに問われたイェルハルドは、
――ご存じでしょう……わたしより、熟知していらっしゃるのに……
「ありません」
内心を知りつつも「ない」と答えるしかできなかった。
「この蛮行に対する刑罰が制定なされていないとは……おのれ、イグナーツ・シュテルンめ……」
「法がない以上、これに関しては罪には問えません……腹立たしい限りですが」
キースは法を熟知しているわけではないので、ここに至るまで明言はできなかったが、専門家が断言したのだから、諦めるしかないし「諦めさせなくてはならない」
「専制君主であれば、簡単に法を制定できるのだが」
「やめろ、ツェサレーヴィチ」
「分かっている、キース。怖ろしい思いをした娘自身、そこまで望まぬことは分かっている…………だが腹立たしい」
「そこが分かっているのなら、構いません……ところで――――」
キースはこのタイミングで、クローヴィスの入浴を覗こうとした男を病院送りにしたことを伝えた。
「…………」
「わたしもやった以上、片側股関節の脱臼と、肋骨二本のヒビまでなら目を瞑ります」
総司令官が許す、私刑の限界を提示されたものの、
「それに対しては、妥当な処分であろうな。イグナーツ・シュテルンに関してだが、手は出さぬ」
「そうですか」
「一発でも殴ったら、止まらなくなりそうだ……イグナーツ・シュテルンに関しては、収監するまでは手を出さぬよ」
そのくらいで、終わらせることができなさそうなので、私刑は諦めた。
「収監してからも、手出しして欲しくはないのですが」
「…………」
「まあ、当面は手を出さないというお言葉をもらえたので、それだけで今回は満足いたします。刑が確定してから、また。それでは。ロヴネル、マルムグレーンに成りすまして付いて来い」
二人が話をしている間も、ずっと跪いて箱を掲げていたリドホルム男爵は立ち上がり、箱を後の者に預け、
「御前、失礼いたします」
マルムグレーン大佐になり、キースとともに押収品が並べられているダンスホールへと付き従った。
「お前たちは、部屋を用意しろ。分かったな、フランシス」
最後尾にいた、二十代の軍人に見える男が立ち上がり、
「気付いてたなら、もっと早く、姿勢を解く指示出してよ」
テサジーク侯爵に戻った。
「遊んでいるのだろうと思ったので、遊ばせてやっただけだ」
「うわー。分かった、部屋の手配ね」
「それと、娘をしばらくこの城に拘束することになる筈だ。部屋、警備は任せたぞ。食事はわたしが用意する」
全員が下がり、それからしばらくして、髪が濡れたままのクローヴィスが、おずおずと脱衣所の扉を開けた。
「お待たせいたしました」
「もっとゆっくり入っていて良かったのだぞ」
「充分です。閣下のお体が冷えてしまいま……」
怖ろしい目に遭って、気持ちに余裕などないはずのクローヴィスが、自分を気遣ってくれたことに、リリエンタールは彼の乏しい情緒が決壊し――急くように手袋を脱ぎ、湯上がりの頬に手を伸ばした。
「閣下」
触れてから、自分の性急さに戸惑ったが、クローヴィスは拒否せず、その手に手を重ね――その仕草が自分の手を温めているのだと気付き、先ほど同様、感情を持て余す。
「やはり中尉の頬は、美しい薔薇色に限るな。顔色が悪いのは、わたしだけでよい」
「ぷっ!……」
クローヴィスは微笑んだが、やはり少しばかり陰りがあった。
――この原因を殺害してはいけない。陰りをもたらした理由で裁くこともできない……だが、私刑も望まない……先ほどまでの娘に戻すためには、どうしたらいいのだろうか
全ての憂いを拭い去るためになんでもするし、出来るのだが――どれを選ぶべきか? リリエンタールは随分と悩み、許してもらえるのならば、抱きしめることにした。
リリエンタール自身、なぜ抱きしめようと思ったのかは分からなかったが、思考とは別のところで、それが最適解だと。